1.6
それから何年も過ぎ――。
蔡蘭は少女時代を脱却し、美の匂い立つ天女のごとき容姿に変貌を遂げていた。背丈は公蘭よりも高くたおやかで、艶のある髪も肌も、何もかもすべてが、完璧なまでに見事な造りで構成された最上の天女に――。大げさではなく、蔡蘭を知るわずかな人物の誰もがそう信じてしまうほどに、見えない何か大きな力に抱かれているかのような美しさだった。親である公蘭ですら、蔡蘭をとおして信じてもいない神の力を想像してしまうほどに。
だが蔡蘭はいつも家に閉じこもっているだけで、通いの数人の家人ともほとんど口を聞かず、何もせず、ただいたずらに日々を過ごすだけだった。途方もない美は官舎の一室で自らを封印してしまっていたのである。
この頃の公蘭は娘のために何をすべきかが分からなくなってしまっていた。自分にできることはやり尽くしたと思っていた。
いや、そんな単純な結末ともいえない。あれだけの行動を起こした後では慎重にならざるを得なかったというのもあったかもしれないし、その実、行動を起こすための勇気が枯渇してしまったせいかもしれない。
とにかく、官吏としてできることはもう何もなかった。
どう見方を変えようがそれは確かだった。
他にできることといえば、もう大したことは残されていなかった。可愛らしい絵の描かれた本を取り寄せ、幼少のころから好んで弾いていた琵琶を与え、娘らしい装飾品を目の前に並べ……。気に入りそうな物はなんでも与えた。だがそのどれにも蔡蘭は手を付けなかった。
(せめて玄徳がいれば……)
その想いはふいに湧いてくる。
それはあの夜から、ずっとだ。
だがすぐに振り払った。
それもいつものことだ。
(……いいや。玄徳に頼ってはいけない)
皇帝との約定どおりに公蘭は出世街道をばく進していたが、それは何も公蘭だけのことではなかった。玄徳もその若さですでに緋袍を纏う中級官吏に名を連ねていた。
自分も同じ立場にいるからこそ分かる。異例の速さで出世するということは、同位にある者よりもよくできて当たり前とみなされてしまうのだ。どこに行っても何をしても、人より数段上のことができて当然と見られるのだ。
そしてそこからさらなる高位を得ようと画策するならば、人が想像する以上の成果を上げるしかない。であれば、今は自分のことだけで精一杯に決まっている。それは公蘭も例外ではない。第一、玄徳は自分たち親子とは無関係、赤の他人だ。
『……私が君たち親子の心配をするのはお門違いかい?』
あの夜の玄徳の言葉が蘇る。
あの夜、窓の向こうには月星の瞬く闇空と淡く光る一面の雪景色が見えた。空の半ばに浮かぶ青白い月を、玄徳は泣きそうな顔で背負っていた。震えていた唇は寒さのせいだけではない。紡がれた言葉もまた同じように震えていた。あの夜の玄徳が、まるで今見た姿のようにたびたび目の前に映し出される。それもいつものことだった。
(……思い出してはいけない)
公蘭は決意をもって蔡蘭と二人きりの長い年月を過ごしてきた。やはり玄徳に迷惑をかけてはいけない。これ以上傷つけてもいけない。……傷つけない方法も知らない。どうやったら親子二人、玄徳に迷惑をかけずに接することができるのかが分からない。
そんな母に思うところがあったのか、あれほど玄徳を慕っていた蔡蘭も、一度も玄徳を乞うことはなかった。
二人は似ていない。
産みの母親ゆずりの美しい蔡蘭。
それにひきかえ、男勝りできつい顔の公蘭。
だがこの頃の二人はよく似た表情をしていた。
苦しみを抱え、だけどそれを吐き出す手段もなく、そして同じことを想っていた。
*
突然の予期せぬ再会は宴の席でのことだった。
この頃には科挙の試験は三年に一度に減じられていた。その久方ぶりの科挙の合格者を祝うための宴が宮城内にて開かれ、緋袍を纏うようになっていた公蘭は官吏側として初めて参加したのだった。そこに同じく緋袍の玄徳がいたのである。
当然といえば当然の再会、しかし公蘭はそのことを失念していた。普段から計算高い公蘭にしては珍しいことだった。その理由は――ここでは語らない。
すでに二十代半ば、成人の域に達した玄徳を見かけた瞬間、公蘭が感じたのは心の距離だった。離れていた時間の長さに比例した距離の遠さを感じたのだった。
だが玄徳は公蘭に気がつくとふわりとほほ笑んだ。それはまったくいつもどおりの、あの夜以前の玄徳の表情だった。その表情一つ、笑み一つで、会わずにいた悠久にも思える時間の壁は一瞬にしてかき消えた。
その瞬間、衝撃と反動で公蘭は動けなくなった。
嬉しいとか驚いたとか、そういった感情を認める以前に、身も心も動かなくなってしまったのである。
そんな公蘭に玄徳はゆっくりと近づいてきた。
まばたき一つできず顔をこわばらせる公蘭は、自分でもひどい顔をしている自覚があった。官吏として生きる時間が長くなればなるほど、公蘭の中にわずかばかりに残されていた女としての柔和さは消え、今も男以上にきつく玄徳を睨んでいるように見えている自覚があった。
やがて玄徳は公蘭の正面まで来るとぴたりと足を止めた。
出会った当初、二人の目線はほとんど同じだった。なのに今、玄徳は公蘭を見下ろしていた。遅い成長期を過ぎ、玄徳の背はだいぶ伸びていた。夜分のことで顎にはうっすらと髭が生えている。目の下がやや黒いのは多忙な日々を送っている証拠だ。
玄徳は公蘭の瞳を見つめながらあらためてほほ笑んでみせた。
その笑みが公蘭の心を刺した。
まるで柔らかな陽光が鋭い光線に、鋭い光線が一振りの刃に変化したかのような突然の貫き――。
杯を握る手に汗が吹き出し反射的に指に力がこもった。と同時に公蘭はその双眸を一層鋭くさせた。そうやって耐えなくては、この旧友、そしてこれまでで唯一の友に平常心で対することができなかったのである。
「……元気だった?」
久方ぶりに聞く玄徳の声はやや低くなっていた。低くはなっているが、声に含まれる感情は昔のままだった。自分を思いやってくれる玄徳の気持ち。損得なしで自分を思いやってくれるその心の温かさ……。それだけで泣きそうになり、公蘭はこれ以上はないほどに目を細めて玄徳を睨むように見やった。
「ああ、もちろんだ。……お前は?」
もう気軽に名前を呼ぶこともできない。
呼べば幾多の思いで胸がつぶれてしまいそうだった。
「ええ……私も元気でしたよ」
答える玄徳の眉は少し下がっていた。
それから二人の間に沈黙が降りた。
公蘭は何を言えばいいのか分からず、玄徳の眉間をじっと睨み続けた。
その目を見ることはできない。
見ればあの夜のように何もかもを見透かされてしまう。
だが顔を下げることはできない。
一度でも下を向けば、喉の奥から感情がこぼれ落ちてしまいそうだった。
(会いたかったんだ)
そのことに公蘭は気づかされていた。
気づけば、もう自分を偽ることはできなかった。
ずっと玄徳に会いたかったのだ。
なぜ会いたかったのか、理由はいくらでもある。推測もいくらでもできる。だがそこまで追及する余裕は公蘭にはなかった。公蘭は玄徳とこうして会いまみえ、自分はずっとこの年下の男に会いたかったのだと、それだけを痛切に感じていた。
だが「会いたかった」というただ一言を述べることすら公蘭にはできなかった。それもまたいくつでも理由は挙げられる。だが言えないという事実、それだけは公蘭にも分かっていた。だから苦しくて辛くていたたまれなかった。……なのにこの場を去ることもできずにいる。
ずっと会いたかったのだ。
ずっとずっと会いたかったのだ。
どうしてこの場を去ることなどできようか。
今去れば、次はいつ会えるか分からない。
それは何年も先のことになるかもしれない。
二度と会えない可能性だってある。
だがいつまでもこうしていれば、この気持ちが玄徳に通じてしまうのも時間の問題だった。
あの夜のように――。
(……それだけは嫌だ)
相反する感情に、公蘭はただ耐えるしかなかった。ぎっと玄徳の眉間を睨みつけ、唇をかみしめ、まるで怒りに身を震わせるかのようにその肩を時折小さく揺らした。そのたびに手に持つ杯の中身がゆらめいた。
その目が、ふいに玄徳の視線とぶつかった。
あっと思った。
すると玄徳は緋色の袖を広げ、腕を広げ――次の瞬間には公蘭は玄徳に抱きしめられていた。
あれほど騒がしかった世界から一切の音が消えた。
一拍おいて自分が陥った状況を理解した公蘭が身じろぎしたところ、思いもよらないほどきつく玄徳に抱きしめ直された。ぎゅっと抱きしめられ、公蘭は急いで抵抗した。杯は完全に傾き、酒は床と玄徳の袍衣を濡らした。周囲のざわめきが急に耳にうるさく聞こえ出し、それが余計に公蘭を焦らせた。
「や、やめろ玄徳」
「いいや。やめない」
「他の者が見る……!」
「大丈夫。こんな隅の方にいる私たちのことなんて見ている人なんかいないよ」
「そんなわけがあるか! 離せ!」
「いやだ」
「ど、どうして」
「だって公蘭は泣きそうだ。寂しかったんじゃないのかい?」
ひゅっと息を飲んだ公蘭は、その指摘が事実であると語ってしまっていた。
羞恥に一気に顔が赤くなるのが分かった。
「公蘭が寂しそうだと私も哀しくなる。ごめんね、今まで気づかなくて……」
「お、お前は何も悪くなんかないっ!」
こらえきれない涙が玄徳の衣の肩の部分を濡らし、それは玄徳にも伝わった。
玄徳は公蘭の背をゆっくりとなでた。
「本当にごめん。私は君たち親子に関わらない方がいいんだと、そう思ってたんだ。ごめんね、公蘭……」
「だからっ! お前は何も悪くなんかないっ!」
玄徳の言葉も、体も、どれもが温もりに満ち溢れていて……温かすぎて、公蘭は涙を止めることができなくなった。そんな公蘭のことを玄徳はずっと抱きしめ続けた。