1.5
公蘭と二人で暮らし始めてからも、蔡蘭は出生の呪縛から逃れることができずにいた。公蘭と共に暮らしていなかった短い期間、ただ客の前で琵琶を弾いていただけのこと――。そう片付けられれば楽なのだと、蔡蘭自身も分かっているようであった。
だが、それは発作のように起こった。突如体が動かなくなり、涙が溢れて止まらなくなるのだ。公蘭と玄徳と、二人で時間のゆるす限り蔡蘭のそばにいたが、なかなか症状は改善しなかった。
原因は分かっている。
公蘭と玄徳が極彩色の袍衣をまとっているからだ。
住んでいたのは官舎だから、当然周囲にも極彩色が溢れていた。それはもう、これまで生活していた妓楼以上に鮮やかな色をそこらじゅうで見かけてしまう環境だった。
泣くたびにぎゅっと唇を噛んでしまうのはもう癖だ。いつも噛んでいるから、しまいには唇を舌でなめる癖までついてしまった。流れる血をなめながら、潤んだ瞳がどこを見ているかは分からない。気づけば、ただ虚ろに日々を過ごしているだけとなっていた。
そしてある日、玄徳は公蘭にまた驚かされることとなった。
この日玄徳は公蘭に頼まれていた。帰宅が遅くなるから自分の代わりに蔡蘭のそばにいてやってほしい、と。その読みは正しく、公蘭は月が一回真上に昇り、やがて半分下がった頃にようやく帰宅した。
蔡蘭はもう寝ついており、玄徳は月明かりの下、読まずに積んでいた本の一冊に没頭していた。前日まで降っていた雪はやみ、音は一切なく、雑音も何もかも一面の雪に吸収されたかのようだった。積雪は月光を反射し、明るく澄んだ空気は冴え冴えとしていた。それは心地よい夜だった。だから玄徳はかじかむ指にも頓着せず、全開にした窓枠にじかに座り、久方ぶりに心ゆくまで読書に打ち込んでいた。
音もなく帰宅し突如あらわれた公蘭――。
まったく気配を察知していなかった玄徳は、気づいた瞬間、あわや腰かけていた窓枠から外へと落下する寸前で何とか踏みとどまった。
「な、なんだい! 黙って部屋に入ってくるなんてびっくりするじゃないか!」
言いながら、公蘭の様子がおかしいことに玄徳は気づいた。
「……どうしたんだい?」
部屋の奥、戸の前で、月光にさらされていない公蘭の顔は暗かった。だがそれは影に染まっていることだけが理由ではなかった。薄い唇が開かれていく様子は幻影のようだった。
「……皇帝陛下に直訴してきた。民に色を解放してほしいと」
その案は二人で深く蔡蘭を、社会を――この世を語り合ううちに見つけた、湖国の抱える課題の一つだった。色で階級や権威をあらわそうとするからよくないのではないか。そう言い出したのはどちらだったか。
「……それはまたすごいね」
突然の告白にもかかわらず、玄徳はまず公蘭の勇気と才気を褒めた。
低位である緑袍の官吏が皇帝に訴えるなど、普通は絶対にしないし考えもしない。紫袍の上級官吏ですら、皇帝の許可がなければ言葉を発することはできないのだ。だがそれ以前に、公蘭の職位で皇帝のいる場に入っていく機会などありはしない。
その直訴の内容も簡単に口にしていいものではなかった。色に権威付けをしないでほしいということは、すなわち、皇帝しか用いることのできない赤味がかった黄色――禁色と言われる――までをも批判することになるからだ。
皇帝はこの国において絶対的な至高の存在である。天上に住まう神の声を唯一聞くことができるため、神の代行者として認知されている。遠い祖先には神の血が混じっているともいう。人間であって人間ではない――それが一般的な民の考える皇帝というものだ。
公蘭と玄徳、二人は議論を重ね「民に色を解放するべき」という意見で一致していた。蔡蘭のことだけではなく、政治や経済面から見ても利点が多いことが整理できたからだ。だが玄徳はその話をこう言って締めくくっていた。
「とはいえこんな突拍子もない提案、今の時代では誰も聞いてはくれないだろうね」
それでもこの夜、公蘭が単独で決死の訴えを敢行したということは、この考えこそがもっとも正しく、かつ蔡蘭のためになると公蘭が信じきっていたということだ。
「それで結果は?」
批判することも興味本位な質問もしない玄徳に、いまだ暗闇の中に佇む公蘭が静かに笑う気配がした。公蘭は、心を定めるまでの過程や、皇帝に声を掛ける機会を得るまでの苦労を語りたいとは思わない人だ。そのような方向へは自尊心を有してはいない。だから玄徳の対応を心地よく感じているようであった。
「めでたく採用されたよ」
なんてことのないように答えた公蘭には、やはり己を誇る気持ちは見当たらない。「おめでとう」と玄徳は言い、だがその眉をややひそめた。
「で、それと引き換えに君は何をしたんだ?」
それに公蘭はわずかに顔を下げた。視線をやや下に動かしたようだった。
「おや。楊玄徳ともあろう者がそのような無粋なことを訊くとはね」
ややほつれた前髪を無意識に触ろうとした公蘭に、玄徳は近づくや、とっさにその手をとっていた。
こうして二人が直に触れ合ったのはこの時が初めてだった。
「何をするっ……!」
驚きに目を見開く公蘭の、その目が今も自分を見ようとしないことで玄徳は確信した。
「君はっ……! なんでそんなことを!」
「そうする必要があったからに決まっているだろう!?」
振り払われようとした手を、玄徳はそうさせまいときつく握った。
*
窓辺に立ち、公蘭は外を眺めている。
窓を全開にしているので室内の空気はだいぶ冷えてきた。吐く息ははっきりと白い。だが公蘭は窓を閉めようとはしなかった。
いつまで見ても見飽きないのは、雪が降っているからか。
それともそこに過去が映し出されているからか。
公蘭は窓枠に手をやり、次いでその手にそっと触った。
皺の増えた手の甲、骨の浮かんできた手首。
だがあの日の自分の手はきっと美しかったはずだ。
まだ若く、その身を政治に利用できるくらいには美しかったのだからーー。
*
まだ齢二十にもならない玄徳の手は、公蘭が思うよりも強く、氷のように冷たかった。
そして玄徳はこれまで見たことがないほどに険しい顔をして公蘭を見つめてきた。
その瞳の強さに公蘭の心と体は震えた。
今になってようやく――ようやく怯えることを思い出したかのように震えた。
「私は蔡蘭の母親なんだ、娘を救うためにはなりふりなんてかまっていられないさ……!」
そんな公蘭を見る玄徳の瞳は、やがて、ゆっくりと、痛ましいものを見るときの色に染まっていった。
「だけど君が苦しむ必要はなかったんじゃないか。自分が苦しむことで、引き換えに蔡蘭に笑顔を取り戻せると……君は本気でそう思っているのか?」
強く手を握り、強く自分を見つめてくる玄徳。
『そんな目で見ないで』
そう言って顔を背けたかった。
美しいはずの自分……なのにそんな自分を玄徳には見られたくなかった。
きっと今、自分は醜い。
してはいけないことをして、旧知の玄徳に心をさらけ出すことができなくなって……。
だが自分は母親なのだ。母親とは、何をしてでも子を護る存在ではないか。いや、そう定められているからではなくて、どうしても子を護りたくて、だから自発的に行動したのだ。それが親というものではないか。娘のためならばなんだってしたい、それが親心というものではないか。
だが玄徳の瞳は公蘭の心の奥底にある迷いや偽りを見透かすかのようだった。
振りほどけない手の代わりに公蘭は声を張り上げた。
「ああ、思っているさ! だからそうしたんだよ!」
きつく真向から玄徳を睨んだ。
二つの視線が絡み合う。
すると玄徳はややあってうなだれた。
「ああ……。ごめん、公蘭。私にもっと力があれば……」
(やっぱりそうだ)
虚勢を張っていた肩から力が抜けていくのが分かった。
(目が合うだけで、それだけでこの男は私のことを理解してしまうんだ……)
だからこそ、本気で悔やむこの男に公蘭は苛立った。
肩をいからせ、迷いを振り切るために腹の底から怒鳴っていた。
「玄徳が謝ることではない、これは私と蔡蘭の問題だ!」
言いきって、はっとした。
見れば玄徳はひどく傷ついた顔をしていた。
「……私が君たち親子の心配をするのはお門違いかい?」
違う、違う。そうじゃない。
そうじゃないんだ。
――だけどこのことが玄徳を傷つけることになるなんて、思ってもいなかったんだ。
*
公蘭は玄徳を傷つけたいわけではなかった。
蔡蘭の心を救いたい、それだけだったのだ。
たとえ血が繋がっていなくても蔡蘭は自分の娘だ。今のままのこの国では、蔡蘭の一生は暗く塞いだものとなることは定められている。そんな娘のために、命を懸けてでも何かをしたいと願うのは親として当然のことではないか。
天子門正などといっておだてられているが、自分がただのつまらない小娘であり、一官吏でしかないことを公蘭は十分自覚していた。
明日自分が死んだとしても、誰も困ることはない。
今抱えている仕事は誰か別の者が処理するだけだろうし、心の通じ合わない父母は葬式のための突然の出費に眉をひそめるだけのことだろう。
蔡蘭は……玄徳がいれば大丈夫だ。玄徳によくなついていて、年もそれなりに近く、はた目には実の兄妹のようでもある。玄徳であれば蔡蘭を任せることができる。だからこの夜、玄徳に蔡蘭を任せたのだ。
だから、自分の命はどうなってもよかったのだ。
この命を懸けて蔡蘭を地獄から救い出せるのであれば、いくらでも提供する。
*
この体を抱いてほしい。
その日、公蘭は皇帝・趙大龍に自ら望んだ。それを皇帝は受け入れた。
閨のさ中、皇帝に問われるままに、公蘭はこの提案による利益と不利益をつまびらかに説明した。公蘭は初めての行為による痛みと奇妙な感覚に耐えながらもすべてを伝えきった。そして最後にもっとも言うべき必要のあることを皇帝に伝えた。
「どうしてもこの案が朝議で通らない場合、私は街の中心で、大衆の面前で、今夜のことを暴露する覚悟でおります」
「ほお。なんと?」
「陛下に無理やり手籠めにされたと。この国の皇帝は残虐非道な十国時代の支配者のようであると」
「それは困るな。よし、では明日さっそく朝議で話すとするか。決めの台詞は『余の寵姫が泣く』でどうだ?」
今日初めて言葉を交わしたばかりの一官吏のほら話に、皇帝その人は面白いくらいにのってきた。いや、それは二人が目を合わせた瞬間から始まっていた。公蘭は命を懸けるべきもののために行動する人間特有の、崇高で真摯な心で皇帝の前にあらわれた。それしか自分には誇れる強い武器がなかったのだ。皇帝はそれを正しく解釈してくれた。公蘭の魂を受け止めることをその場で決めてくれたのだった。
公蘭も人の子だから、皇帝のからかうような言動には戸惑いを感じてしまう。こうして肌を触れ合わせた後でも、だ。こんなふざけた話を続ける自分のことなど、隠密に殺してしまうこともできるというのに――。
「……泣く程度では足りないかと。死にかけているから即刻実行しろとお命じいただきたく」
「分かった分かった。そうしよう」
本気を出した皇帝の命令には、黒を白にできるほどの絶対的な力がある。その権力を女ごときを理由にして使わせろと迫ったのは公蘭自身だ。
それでも、やはり――。
「今さらおじけづいてきたのか?」
問われ、顔をあげると、皇帝はいまだ裸の公蘭を慈愛に満ちたまなざしで見下ろしていた。
「さあもう帰れ、柳公蘭。お前はお前のもっとも愛する者のところへ戻り、これからもその者のために生きろ。そうすることでお前はもっと良い官吏になる。もっと強い女になる。それがこの国の力となる」
「陛下……」
「だが一つ約束しろ」
「約束?」
「ああ。また余の前に姿を見せると。ただし、上級官吏となって余の前に堂々と出てこい。こんなところではなく、余はお前とはきちんと衣を着て朝議の場で話をしたい」
それを聞くや、裸の公蘭は寝台から降り、床にひざまづき深く頭を下げた。
「はい。必ずや、必ずや……!」
このような無謀なことをしでかした自分を、皇帝は高く評価してくれた。その事実に公蘭は頭を下げるしかなかった。使い捨ててしまえばよいと思っていた自分の命に、まだ価値があるのだと教えてくれるこの人――。
(絶対にこの人の恩に報いたい)
(絶対に出世してみせる)
公蘭はそう強く思った。
それは蔡蘭ただ一人のために官吏となった公蘭が、別の動機づけでもって官吏として生きる指針を定めた瞬間だった。
「だがな、もう二度とその体をこんなふうに使うでないぞ。余の得たお前の体は他の奴らが簡単に使えるほど安いものではないからな」
「はい。絶対に使いません。そして私は正しさと信念のみで出世することを陛下に誓います」
それに皇帝は満足げに目を細めた。
「それでいい。ではその日を楽しみに待っているぞ。余が皇帝であるうちに朝議の場にやって来い。いいな」
「はい……!」
*
皇帝・趙大龍は約束通り、次の日の朝議において爆弾のようにその提案を投じた。あまりに突然の提案、だがすでに定められたその命令は、一か月後には法を改定させ、民へも触れが出された。
とはいえ、湖国民のすべての者に刷り込まれた色への既成概念は容易には変わらなかった。だから国の方でも、祭事を利用したり、彩色を利用した品物の流通を故意に安く増やしたりと、人々の意識を変化させるための様々な介入をしていった。
そして――。
玄徳はあの夜以来、公蘭の家に訪れることはなくなった。広い宮城の中では、異なる殿にて働く二人はすれ違うこともない。いや、機会はいくつかあった。だが公蘭の方で玄徳と接触するのを避けた。
あの夜、玄徳に捕まれた右手がふいに痛むことがある。
もう痛くもないのに痛むのだ……。