1.4
それから二年ほどがたち――。
公蘭も玄徳も官吏として多忙な日々を送るようになっていた。あまりの忙しさに、玄徳だけではなく公蘭も、宮城にほど近い文官のための官舎に住むようになっていた。公蘭の生家は繁華街の一角にあって宮城からはやや距離があり、通勤には不便だったのだ。するとあれほど仲睦まじかった三人が一同に会する機会はほとんどなくなってしまった。
大きな仕事を終え、一年が終わろうとしている真冬の夜。
玄徳は寒空の中、白い息を吐きながら、一人だけで公蘭の生家を訪れた。公蘭のことも誘いたかったのだが、公蘭の働く中書省と玄徳の働く枢密院、物理的にも任務の内容的にもかけ離れており、この頃では姿を見ることもあまりないくらいだった。
目的地である妓楼に着き、はてどうしたものかと玄徳は悩んだ。それまでは公蘭を呼んでもらえば彼女の自室に通してもらえた。だが公蘭がいない今、蔡蘭一人しかいない部屋にそれでは非礼なようにも思えた。
運よく番頭の一人が玄徳のことを覚えていてくれた。
「おや。お久しぶりですね」
こういう店では客の顔を覚えることは非常に重要なことだ。だがそれを知らない玄徳は、物覚えのいい番頭に途端にうれしくなった。
「お久しぶりです」
「今日は公蘭様はいらっしゃいませんよ?」
「それは知っています。あの、今日は蔡蘭に会いにきたんです。お土産を渡したくて……」
言い訳がましく手に持つ菓子袋を掲げてみせると、番頭は表情だけは残念そうに言った。
「それはそれは。ですが蔡蘭は今はお客様の席に出ているんですよ。そのお菓子はこちらで預かっておきましょうか?」
「え……。客……?」
その言葉はすぐには理解できなかった。
「ええ。蔡蘭ももう大きくなったでしょう? ですから、半年前からお客様の前で琵琶を弾かせているんです。あの子、けっこういい腕前でね。それに顔もなかなかいいし、お客様にうけがいいんですよ」
具体的に語られていく蔡蘭の様子を、玄徳は戸惑い半分、だが最後にはっとした気持ちで聞いていた。
玄徳はここが何を売る店であるかをすっかり忘れていた。
何度か挨拶したことのある公蘭の父母は、この高級妓楼を繁盛させているだけのことはあり、現実的で、情に流されることのなさそうな人物だったことを思い出す。
(公蘭不在の今、店にあるものは何でも売ろうというのだろうか?)
実の娘である公蘭が可愛がっている蔡蘭ですら、彼らにとっては売るための商品にしか見えないのだろうか……。
玄徳は思わず言っていた。
「じゃあ待っています。そのお客が終わったら、次は私が蔡蘭を呼びます。お金は払います。それでいいですか?」
「へ、へえ。そりゃあ、そうしてもらえたらうちとしては万々歳です。異存などありゃしませんって。いやあ、あいつはまだ色も売れない娘だから、夜も遅い時分なんて役に立ちませんしねえ。ささ、ではどうぞ。官吏様のためにすばらしい一室をご用意いたしますよ」
それから、蔡蘭が来るのを、玄徳はやきもきとしながら待った。
通された部屋は確かに立派だった。が、鼻につく白粉の香りや独特で濃密な空気がひどく息苦しい部屋だった。調度類は派手派手しく、公蘭の無機質な部屋がここにきてふとなつかしく思えた。
あの部屋にいる間、三人は無邪気に笑っていることができた。
公蘭の語る美しい未来も、社会も、絵空事ではなく思い描くことができた。
だがこの華美な部屋にいると、それが遠い幻のように思えてならなかった。
かたりと小さな音が鳴り、玄徳が振り向くと、開いた戸の前に蔡蘭がいた。
「……お待たせ、しました」
久方ぶりに会った蔡蘭は、すらりと背が伸び、成長期にあることをうかがわせた。表情も大人びて、幼子というより、もはや少女と言うべき存在になっていた。だが蔡蘭をこうも早くに成長させたのは、年齢ゆえのことだけではないことは容易に想像がついた。
蔡蘭は緑に染められた絹の衣を身に着けてあらわれた。
その発色の鮮やかさに、久方ぶりの再会に笑いかけてあげるべきところを、玄徳はただ茫然とし言葉を失ってしまった。そんな玄徳の様子に、蔡蘭は悲しげに笑った。
「……玄徳様、私は妓女なんですよ?」
その一言に、玄徳は今度こそすべての言葉を失った。
ここで生まれたときから蔡蘭の生涯は決まっていたのだ――。
実際に色を売っているかどうかは関係ない。自分を庇護してくれていた公蘭がいなくなれば、ここでの蔡蘭は妓女としての扱いを受けるしかなかったのである。
この当時、湖国では、市井の民が使う色はきつく制限されていた。黒や白や褐色といった暗色しか身に着けることができなかった。その真逆である彩色はといえば、貴族など、特権階級にある者が誇らしげに、当然のように独占していた。特に文官の官服に用いられている紫、緋、緑の三色は極彩色と呼ばれ、彼ら以外には利用することはできなかった。
だが、唯一の例外があった。
それが妓楼だ。
文官の客の相手をする妓女は、客と同じ色の衣を身に着けることが昔からゆるされていた。それがなぜか変化し、この時代に至ると「妓女は相手と同じ色を身につけなくてはならない」と定められていた。確かに、このような場で暗い雰囲気の女を抱きたいとは思えないのも一理ある。声の大きな誰かがそれを言いだし、ついには認められたといったところだろう。公蘭の生家は宮城勤めの高位の文官が訪れるような格式ある妓楼だったから、この定めは厳密に守られていた。
新人官吏の玄徳は、この妓楼に初めて訪れた夜から今に至るまで、いつも低級官吏の証である緑袍を身にまとっていた。この緑の袍衣しか玄徳は持っていなかったのだ。この高級店へ来るのに適した着衣を、玄徳は他に持っていなかったのである。
公蘭も宮城へと向かうときは同じ袍衣をまとってこの生家である妓楼から出立していたはずだ……。
そのことを大人である二人はこれまで特段意識したことはなかった。緑袍は与えられた官服であり、自分の官位を自覚するため、または周囲に知らしめるための手段でしかないと思っていた。
だが今、緑一色の衣をまとっているのは小さな少女で――。
自分を染め上げている緑という色に恥辱を感じ、涙をこぼし始めた少女は、玄徳の知らなかった価値観によって痛いほどに唇を噛んでいた。
*
もうほとんど湧き上がらない湯気が、茶がぬるくなったことを公蘭に伝えてきた。
公蘭は一息で茶を飲み干し、もう一度席を立った。
こんなふうにぼんやりとしてしまう自分の姿を、部下の誰が知っていようか。誰もが公蘭のことを完璧な長官だと思っている。女を捨て、官吏としての道を猛然と駆け抜け、今いる中書省の頂点にたどり着いたのだと信じきっている。実際、公蘭は独身であるし、今も一人で暮らしている。だがそんな公蘭にも家族と暮らした日々はあったのだ。
部下の誰が知らずとも、あの旧友だけは覚えているだろう。
そう、あの日も今日と同じ天候だった。
窓の外、いつの間にか雪が降り出していた。白く丸いものが、ふわふわと舞い降りる様はあの日と同じだった。
*
新年を前に、突如玄徳に呼び出されて事情を知った公蘭は、すぐに生家へと戻った。そして父母らを批判することも談判することもなく、座敷に出ていた蔡蘭の手をとり、来たばかりの生家を飛び出したのだった。
蔡蘭の手を引き、寒空の下、公蘭は自分が暮らす官舎へと向かっていたが、その心中は荒れに荒れていた。
他の同期の多くは与えられた官舎で家族とともに暮らしていた。公蘭や玄徳のように、一人で暮らしている者のほうがよほど少ない。だから公蘭が蔡蘭を官舎に住まわせることにしても誰も咎める者はいない。
(……最初からこうしていればよかったんだ)
家人を一人雇い蔡蘭の面倒を見てもらうくらいの給与はもらっている。だが公蘭は官吏として過ごすうちに、いつの間にか仕事一辺倒の生活を楽しんでしまっていた。朝から晩まで仕事のことだけを考える日々は、公蘭にとってはひどく楽しかったのだ。生家を出るまですぐそばにあった非道な世界のことを、仕事をしている間は忘れていられることができたからだ。
(見えていなかっただけで、世界は何も変わってはいなかったというのに……!)
悔しくて腹が立って。
公蘭はぎゅっと唇を結んだ。
曇天の空から、ふわふわと雪が舞い降り始めた。
空気は冷たい。早足で歩く二人の頬を冷気が刺す。
なのに――。
繋いでいる蔡蘭の手はとても温かかった。
こんなに寒くて雪も降るような夜なのに、小さな子どもなのに――。
蔡蘭の手は痛いくらいに温かかった。
だが、こんなにも人を温めることができる尊い存在だというのに、蔡蘭は泣いていた。客前に出ていたところを連れ出されたので、今も緋色の衣をまとったままだったからだ。街中でこの色はひどく目立った。昨日の大雪で周囲の何もかもが薄灰色の雪で覆われていた。そして空が暗いということは、周囲には鮮やかな色は何もないということだ。蔡蘭の衣と公蘭の衣以外には……。
生家から離れ、ようやく心が落ち着いてきた公蘭が後ろを見ると、蔡蘭はぎゅっと唇をかみしめていた。泣き声を洩らさないよう必死で公蘭についてくるその姿はひどく幼気だった。
公蘭は少し歩く速度を落とした。
「……私たちは同じだね」
思わずといった感じでつぶやいた公蘭に、蔡蘭はきょとんとし一瞬泣き止んだ。気配を感じ、公蘭はきちんと振り向いて蔡蘭に笑ってみせた。
「今たぶん、私たちは同じ顔をしてるよ」
言葉に出すことで愉快さが募った。はは、とわざと声に出して笑ってみせると、蔡蘭も真似するかのように笑った。
「あはは。母様ったらおかしいの。家族だもん、似るのが当たり前でしょ?」
「そうか。そうだな」
産みの母親ゆずりの美しい蔡蘭。
それにひきかえ、男勝りできつい顔の公蘭。
だけど確かに二人は似ていた。
涙を浮かべ、眉を寄せ、唇を噛み。
二人はそっくりだった。
公蘭は蔡蘭の手を握り直した。
「さあ、私たちの家へ行こう」
*
玄徳の話を聴く侑生の表情は見るからに柔らかだった。
過去の一場面を想像し心を温めているのだろう。
くしくも外はあの夜と同じような天候になってきた。
侑生がここにやってきた時は、まだ空に星が光り輝く様が見えた。なのに今、空には輝くものは何一つなく、ふわふわと踊るように舞う雪しか見えない。
この夜の話を公蘭から聞いた当時、玄徳は今目の前にいる侑生のようにうれしくなったことを覚えている。そのとき、公蘭の隣には蔡蘭がいた。公蘭は玄徳に礼を言い、玄徳はそれを照れながら聞いたのだった。
このことがきっかけで、二人はさらに強い絆で結ばれた。その二人を繋ぐものは当然、蔡蘭だ。そして二人はこれですっかり問題が片付いたものとばかり思っていた。
だが実際は違っていて、これは新たなる幕の始まりだった。