1.3
楊玄徳に蔡蘭の出自について打ち明けた日。
公蘭は、この陽気で柔和な雰囲気のある年若い同期をまぶしい思いで見つめたのだった。
大人になってなお穢れない心を有しているこの男――。妓楼で生まれ育ち、天と地という両極端な世界を見せられ続けた公蘭にとって、玄徳の性質はうらやましくもあり妬ましかったのである。たとえ自分のほうが科挙の成績が良かろうとも、この年若さ、そして稀有な無垢さを有している玄徳の方がよほど幸福な人間だということにも気づいていた。
公蘭は家を出たくて官吏となることを志した。自分が今いる環境から脱け出したくて官吏となることを決めたのだ。そういう人間は公蘭の他にもこの国には幾万といる。科挙によって人生を挽回しようと目論む者は、貧しい者に特に多かった。官吏となれば名誉と金、両方が手に入るからだ。だが公蘭は官吏を目指した本当の理由をほとんど語ったことはない。裕福なお嬢様である自分が正直に言ったところで、正確な理解を得られないことが分かっているからだ。
自我が芽生えて以来、公蘭は家業について苦悩し続けた。
女を売買することで金を得る父母。それが先祖代々の仕事だという。
だが自分も女なのだ。
同じ女なのに、自分は彼女たちを商品として扱えるのか? ……否だ。それははっきりと分かった。
だが父母はそれを良しとしない。
お前がこうして飯を食えるのは誰のおかげだと思っているんだ。
その衣、その沓はどうやって買ったと思っているんだ。
そう言って公蘭を責めた。幼い公蘭が負けを認めるまで、ねちねちと、しつこく責め続けた。
だが公蘭が十歳のとき、二代皇帝に即位したばかりの趙大龍がこう宣言したことで事態は変わる。
「女も科挙を受験することを認める」
それを知った公蘭はひたすら歓喜した。官吏となればこの家から出られる、と。
それからは現実を直視したくない一心で、この部屋に一人こもり勉学に打ち込んできた。幼さはこの部屋で卒業し、また大人となったのもこの部屋でのことだ。
そして公蘭はこの国初の女官吏となった。
公蘭の大願と皇帝の悲願が同時に叶った瞬間だった。
今は科挙の試験は三年に一度と定められているが、当時はまだ毎年実施されていた。その毎年の試験に公蘭は何度も落ちた。落ちては受け、受けては落ちた。歴代の誰と比べても若すぎる公蘭の挑戦は無謀ととられたが、止める者は誰もいなかった。公蘭の科挙に懸ける気迫は本物であったし、皇帝の望む女官吏誕生を阻害することなど誰にもできはしない。少女時代を捧げることを厭わなかった公蘭にこそ、この国初の女官吏、そして天子門正の肩書はふさわしい。
それでも長い受験時代の毎日は相当に苦しいものだった。勉学だけのことではない。最大の至難は心を正常に保ち継続する気概を保つことだった。それは修行僧の苦難と同質と言ってもよかった。孤独の中、己をひたすら見つめ直す毎日だった。
自分には才がないのではないかと疑心暗鬼にとらわれることはしょっちゅうだった。そんななか、最低まで沈みきった心を再度振るい起こさせるためだけに、いつしか公蘭は妓女の住む建屋を訪れるようになっていた。
その建屋は公蘭の見たくないもので満ち溢れていた。
涙、苦しみ、痛み、絶望――。
だがそれよりもおぞましかったのはあきらめに満ちた空気だった。
妓女の誰もが現状を打開することなど考えていなかった。今いる世界を当たり前のものと受け入れていた。
毎日決まった時間に起きる。
化粧をし身づくろいをして客の相手をする。
心を閉ざして偽物の笑みを浮かべる。
嫌な男と閨に入る……。
したくないことばかりをする日々。
いつまでも抜け出せない闇。
この世界には闇しかないものと信じる者たち。
二度と光を見ることはないとあきらめた者たち……。
あきらめる。
それこそがもっともゆるせず、もっとも恐ろしいことだったのである。
あちらの世界には絶対に行きたくない、そう恐怖することで公蘭は机の前に戻った。
すると勉強がはかどった。
こんな世界を作った人間共には腹が立ち、その怒りを思い出しながら書物をめくった。
すると覚えるべきあれもこれもが吸収できた。
なぜこの世はこんなふうなのか、そのこらえきれない悲しみを筆に込めた。
すると運筆が滑らかになった。
公蘭の勉学の動悸づけは、恐れと怒りと悲しみ、いつしかこの三つで構築されていたのだ。
生まれたばかりの蔡蘭を見つけたのも、そんなとある一日のことだった。
「その部屋から、細く泣く赤子の声が聞こえてね。それで赤子の顔をちょっと見たくなって戸を開けたんだ」
玄徳にはそう説明した。
だが実際は赤子を見たかったからではない。そういう赤子を産むような女を見て、そういう女にはなりたくないと恐れるため、そういう女の代わりに怒るため、そういう女に同調して悲しむために戸を開けたのだ。いつ受かるともしれぬ科挙の勉強に己を奮い立たせるために、習慣として覗いたのだった。
「部屋には赤子と母親がいた。母親はすでにこと切れていて、その股の間にまだへその緒の繋がっている赤子がいた。他には誰もいなくて、それで私があわてて処置をしたってわけさ」
「公蘭がへその緒を切ったのかい?」
「そうだ。へその緒を切って、産湯につからせ、それから乳の出る女のところに連れていった」
「それでその日に公蘭は母親になったっていうわけか」
「ああ。私があの子を育て、あの子は私を見てここまで大きくなったんだ」
*
それまで黙って話を聴いていた侑生は、思わずといった感じで息を吐いた。
「柳中書令と奥様の間にそのようなことが……」
「どうだい。公蘭のことを見直したかい?」
「ええ……あ、いや、もちろん普段から尊敬しておりますが」
あたふたとする侑生は、もう先ほどまでの思いつめた表情をしていなかった。
それに玄徳は安堵した。
だがここまで話したのであれば、やはりその先に触れないわけにはいかなかった。
玄徳は何も公蘭の美談を語りたかったわけではない。
娘の家族のこと、そして自分がただの人間であることを、ぜひとも侑生に伝えたい。
だから玄徳は話を続けたのである。
*
その日、玄徳の前で胸を張ってみせた公蘭は、まごうことなく一人前の親だった。
なぜその、この世界では珍しくもない可哀想な赤子を公蘭が受け入れたのか。このとき詳細な理由までは語られなかったが、親となる責任を負うことにしたという事実だけで玄徳には十分だった。
「……大きくなっていくあの子を見ていたら、私はなぜ自分が官吏となるべきかがようやく分かったんだ。私はあの子が幸せに暮らせる社会を作ってあげたい。たとえ妓楼で生まれても人生を挽回できるような、誰もが平等に楽しく生きられるような社会にしてあげたい、今はそう思っているんだ」
つい熱く語り過ぎたことに気づき、恥ずかしそうに口を閉ざした公蘭は、そうすると年齢のわりには幼く見えた。仕草やふるまいではなく、社会や未来に期待を寄せ続けることができるその心が、成熟された肉体を持つ人間にしては公蘭を若々しく見せたのだ。
公蘭は今、負の感情によって官吏を勤めてはいない。
蔡蘭を想うことで得た喜び、ただ一つのために生きている。
「蔡蘭は公蘭の仕事の活力であり生きがいってわけだね」
玄徳の言葉は的確で、公蘭はそれに深くうなずいてみせたのだった。