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剣女列伝 Side story  作者: アンリ
1.雪降る夜はあなたと共に
2/18

1.2

 どのような偉人にも悪人にも、幼き頃は等しくある。


 そしてまだ何の才能もないような、穢れ一つ背負っていないような無垢な者たちも、人生のどこかで必ず分岐点へとたどり着く。道を分かち、それぞれがそれぞれの終着点へと近づいていく。その背に負う物は様々だ。軽い物、重い物。好きな物、嫌いな物。自由と摂理。善と悪。希望と絶望。故意に、または無意識に、人は背負う物を増やし、捨て、そしてまた増やし最果てへと進んでいく。


 今は枢密使である楊玄徳にも、当然、新人時代はあった。まだ何者にも染まらず、背負うものもほとんどなく、選択肢は無数にあった時代だ。


 そんな若人であった彼が先輩官吏に連れられてやってきた妓楼には、二つの運命が待ち構えていた。


 その日が玄徳にとっての分岐点となり、おのずと道は定まったのである。



 *



 遊びにやってきた官吏二人に対して、妓女たちは休む間もなく、あれこれと色仕掛けを繰り出してきた。どれも濃密で手慣れていて、先輩官吏の方はあっという間に籠絡した。もとよりそのつもりで妓楼に来たのだから当然ともいえる。


 だが、まだ若く初心で人並み以上に清廉とした玄徳には、彼女たちの手法は逆効果にしかならなかった。辟易し、厠へ行くと見せかけて逃げ出そうとした玄徳は、迷路のごとき荘厳な造りの店内で出口を見失ってまごついてしまった。そんな彼の前に、その二つの運命、対極の二人はあらわれたのである。うち一人は玄徳の知る人物だった。


「……ああ、柳公蘭じゃないか」


 同じ年に科挙に合格した気安さで、顔見知りに出会えた安心感もあって、玄徳はいまだ数回しか会ったことがなく、一度も話したこともない公蘭に、気づけば自分から声をかけていた。


 当の公蘭は、玄徳を見てひどくぎょっとした顔となった。


「あはは、公蘭でもそんな顔をすることがあるんだね」


 けたけたと笑ってしまったのは、玄徳が酒に酔っていたからだ。玄徳をここへ連れてきた先輩官吏は酒と女に目がない男で、若い玄徳にはつきあうだけでも骨が折れるやっかいな相手だった。


 笑われ、公蘭がむっとした顔になった。それで驚きに飛び出していた目が一気にへこんだ。


 その変化もまた面白かった。


 けたけたけた。


 いつまでも笑う玄徳に、いよいよもって公蘭の堪忍袋の緒が切れた。


「楊玄徳、あなたはここで何をしているのです!」

「まあいいじゃない、母様」


 鈴のような可愛らしい声と共に、公蘭の背の後ろから軽やかに一人の幼女が顔を出した。


 飾り一つなく結わえてもいない幼女の髪が、飛び出た幼女の後を追うかのようについてきて、ふわっと頬を隠した。その目がきゅっと玄徳を見上げてくる。初対面の玄徳を恐れる様子はほとんど見られず、逆に好奇心でうずうずしている。


 玄徳は腰をかがめて幼女の視線の高さに合わせ、「こんばんは」と明るく声をかけた。


 すると幼女はその頬をうっすらと染め、聞こえるか聞こえないかといった小さな声で応じた。


「……こんばんは」

「娘さんは何歳なの? かわいいねえ。お名前はなんていうのかな」


 目尻をさげる玄徳に、幼女は恥ずかしそうにうつむいてしまった。公蘭はいまだ眉をしかめたまま何も答えない。だが玄徳はどちらからも返答がないことを気にもとめなかった。立ち上がり、公蘭に向けた顔は、この頃から柔らかだった。


「公蘭は子育てをしながら科挙の勉強をしていたんだね。それで一位及第で合格しちゃうんだから、公蘭はすごいんだね」


 すると、うつむいていた幼女の顔がぱっと上がった。


「そうよ! 母様は本当にすごいんだから!」


 太陽のように輝いたこのときの笑顔を、玄徳は今でも覚えている。


 このとき玄徳はいまだ齢十七、公蘭は齢二十五であった。そしてその幼女――蔡蘭は十歳にもならない幼子だった。




 その妓楼には、玄徳はそれからも数えきれないほど通うことになる。


 おなじみの先輩官吏に連れてこられるたびに、妓女らの攻勢をかわして、公蘭とその娘のもとへと逃げる習慣がついた。先輩官吏には「その若さでもう気に入りの妓女を見つけるたあ色気づきやがったな」と苦笑された。だがその誤解は解かなかった。解く必要性を感じなかったからだ。


「なぜしょっちゅうここに来るのですか」


 責めるような公蘭のまなざしには、当時から人を恐れさせる迫力があった。が、それも玄徳は気にしなかった。


「だって官舎は一人だけでさみしいし、あの先輩は私をここへ連れてくれば喜ぶものと信じきってるし。それに蔡蘭にも会いたいしね」


 ねー、と、蔡蘭の顔を覗くと、ねー、と蔡蘭も満面の笑みで答えた。出会ったその日から、蔡蘭は玄徳になついていた。それを公蘭は苦々しい顔で見ていた。


 だが、何度も通い、季節が一つ移り変わったある日。


 公蘭は玄徳に己の抱えるもっとも大きな秘密を暴露した。


「実はここは私の生家なんだよ」


 それに玄徳は黙ってうなずいた。いつしか公蘭自ら通してくれるようになったこの部屋は、いつも同じで簡素な一室だった。質の良い調度類ばかりが配されており、明らかに色を売る女の部屋ではない。公蘭がこの高級妓楼の娘なのだと聞けばすべて納得だ。


 二人が語る脇で、蔡蘭は夢中で琵琶を弾いている。ここは妓楼だから、公蘭のいない昼日中には、蔡蘭は他の妓女に混ざって琵琶を習っているのだという。暇つぶしくらいにはなるかとやらせてみたら、蔡蘭は予想以上に琵琶に心酔したそうで、それからは、指が痛くなるのもかまわず、朝から晩まで一人懸命に弾いている。まだぎこちない指使いながらも、それが初々しく可愛らしい。


 そんな蔡蘭を見ながら公蘭の独白は続いた。


「……それにあの子は私の本当の娘じゃないんだ」


 これは初対面から分かっていたことだ。年齢からは実母である可能性は皆無ではなかったが、二人の姿形には共通点がまったくなかったのだ。


 生真面目そうに常に目を細め、目に見えるものすべてを睨み付ける癖のある公蘭。ささやかな胸のふくらみくらいしか、公蘭を女だとみなせる証はない。


 かたや蔡蘭はほころびかけた一輪の華のような子どもだった。仕草の一つ一つになぜか人を魅惑する性質があったし、将来どれだけ美しくなるかが想像できてしまう顔の造りをしていた。


 この頃には、公蘭は玄徳にだいぶ気をゆるしていた。年下相手に頑なに使っていた敬語も出番はなくなっていた。


「あの子はここで生まれた可哀想でいて珍しくもない娘の一人でね。本当の母親はあの子を産み落としてすぐに息を引き取ったよ」


 湖国では性を、色を売買することが公的に認められている。それはこの時代、近隣諸国のどこにおいても同じだった。別段、湖国だけを非人道的な国だと責めることはできない。色を買うことは貴重な娯楽の一つであり、色を売ることは財産のない家が救われるための最終手段でもあった。


 だが、たとえ国が、社会が、この世界が妓楼の存在をゆるしたとしても……買われる者たちの多くにとって、ここが生き地獄であることは確かだった。売買される者たちのほとんどは生まれ育った土地から引き離されて残る一生を妓楼に閉じ込められる。だからこそ、天上から一気に地下深くにまで落とされる衝撃に、一瞬にして心を壊されてしまう者も少なからずいた。


 蔡蘭を生んだ母はそういう女の一人だった。この高級妓楼に売られ、ややあって避妊の甲斐なく妊娠した。その妓女としてあってはならない失態に気づいたときには堕胎できる時期はとうに過ぎており、彼女は仕方なく蔡蘭を生んだ。そして死んだ。死因は出血過多で、それは医療の発達していないこの時代では珍しくもないことだった。


 だがそれ以前に、その妓女はすでに心を壊していた。妓女としては使い物にならない有様で、人として生活することも難しくなっていた。


 だから蔡蘭が早くに母を失ったのは、定められていた宿命だったともいえる。ほんのわずかな時期の違いがあるかないかだ。


「受験勉強をしていた頃、私はこの部屋で朝から晩まで、もう何年も閉じこもっていてね。だから妓女たちの住む建屋のほうへは行くことはなかった。そんな暇はないし、行く理由もなかったから。だけどその日はなぜか気になったんだ。ちょうど勉強漬けの日々にいささか退屈していたのもあってね、ちょっと行ってみようかな、と」

「『天子門正』の公蘭でもそういうことがあるんだ?」

「お前は本当に不思議な奴だな、玄徳」


 ふっと公蘭が笑った。


「私に対してそのような軽口をたたくのはお前くらいなものだよ」





 公蘭はふと顔を上げた。


 窓の隙間から見える屋外は、星々のきらめきがまぶしいほどだった。


 その輝きが、真冬の夜の凍てつく空気を伝えるかのようだった。温かく保たれた執務室にいるというのに、公蘭の身は夜空の美しさに条件反射のように震えた。年をとり、筋肉も脂肪も次第に減ってきている。昔に比べて寒暖の変化に体がついていかない。


 公蘭は筆をおいた。書きかけの書簡は特段急ぎのものではない。少し休憩するかと席を立ち、茶を入れる準備を始めた。壺の中の湯はまだ熱さを保っている。部下が定期的に交換しているからだ。だがそのことを公蘭は普段の生活で意識していない。覚えていなくてはいけないことが多すぎるからだ。だからこそ、覚えていなくても支障のないことは脳内から強制的に消去するようにしている。年齢を重ね、公蘭は記憶力にも衰えを感じるようになっていた。


 公蘭は熱い茶で満ちた椀を手に元いた席へと戻った。そして茶を飲もうとして、なぜか椀から立ち昇る白い湯気に目が奪われた。ゆらゆらと不規則に揺れる湯気は、いくらか上昇すると淡い色に変化し消えていく。際限なくその現象は続く。だが実際には消えてはいない。ただ空気に溶けただけだ。


 人も同じだ。

 たとえ命を失おうとも消えることはない。


 人と人の繋がりも同じだ。

 たとえ離れていようとも、一度繋がったその絆が消えることは決してない。


 これも年のせいだろうか。公蘭にしては珍しく感傷的な想いが、やがて公蘭を取り戻せない過去へと回顧させていった。

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