3.1
趙龍崇、菊花がメイン、話題として趙英龍と楊珪己が出てきます。
少女編五巻から少したった頃の二人の会話。そのため本編のネタバレあり。
本作品特有のキーワード:謝罪。(R15なし)
「やあ、姫。僕に何の用かな」
声を掛けられはしたものの、菊花はすぐには振り向けなかった。
「誰だ? わららは今忙しいのだ」
実際、菊花はひどく忙しかった。自分よりもふた回りは大きな愛馬・梅花の毛づくろいは手間のかかる作業で、まさに重労働と呼ぶにふさわしかった。冬だというのに衣服の下には湯気がたつほどに汗をかいている。早朝の凍てつく空気に溶けるように、愛馬と菊花の体から発せられる熱が厩舎内にゆらめいている。
だがしばらくして、菊花ははたと気づいた。自分に対してこうも粗野な言い方をできる人物は限られている。そう、皇帝の一人娘である自分に敬語を使わない青年など、心当たりは一人しかいない。
馬体の向こうへと顔を出すと、案の定そこには黒衣に身を包む青年がいた。
「ああ、叔父上ではないですか!」
叔父とは言っても、まだ彼――趙龍崇は二十代であり、妻帯もしておらず、若々しい風貌は菊花の兄とたとえてもおかしくはない。
だが龍崇はここ半年ほどですっかり老成してしまった。いや、先にも述べたとおり、その姿や顔つきはまさに若者特有のものだ。だが漂わせる気配は幾重もの経験を積んだ老いた人のようだった。それでも以前は、瞳だけは常に熱く燃え滾らせていた。そこには彼の生、命の原動力が見えた。なのに今は炎の残滓すら見当たらない。夜の湖のように暗い瞳には人を寄せ付けない恐ろしさすらある。一度取り込まれれば抜け出すことのかなわない、底無しの湖のような瞳だ。
だが幼い菊花にはそこまで深く人を洞察する力はなかった。だからこの厩舎に突如あらわれた身内に対して、ぱっと明るい笑みを浮かべてみせることができた。
「このように早い時間にどうしてこのようなところに?」
それに龍崇が苦笑した。
「姫が僕に会いたいと言ったのだろう。じゃあ、昨日僕に届いた分厚い文はいったい誰の手によるものなのかな?」
「そ、それはもちろんわらわが! ……あ、いえ」
動揺のあまり素が出てしまい、あわてて口をつぐんだ菊花に龍崇が笑みを向けた。
「僕に敬語なんて使わなくていいんだよ。僕は君の臣下なのだから」
皇帝直系の姫である菊花は皇位継承権一位を有しており、菊花の父であり現皇帝・趙英龍の異母弟である龍崇は第二位にある。このまま平穏に時が過ぎれば、菊花は女人として初の湖国皇帝となり、さらなる未来、菊花の子が皇帝を継いでいくことになる。それはつまり、龍崇は生涯を菊花の臣下として生きるということだった。
「ですが……」
言い淀んだ菊花に、龍崇が困ったような顔をした。
「僕も姪の君には敬語を使われたくはないかな?」
それでも菊花はしばらくの間もじもじとしていた。だが、やがて頬を桃色に染めてこくんとうなずいた。その小さな口からほおっと出された白い息は、菊花の純真な心そのもののようだった。
眩しさに龍崇は目を細めた。
*
二人はそれから、この刺さるような冷気漂う厩舎で二人きりで話を始めた。
昨夜、菊花が龍崇に出した文には、簡単にまとめれば、「知りたいことがある。できれば二人きりで話したい」と記されていた。だから龍崇は菊花が馬を世話するこの早朝、まだ太陽も昇らぬ時間帯に、彼女一人しかいない厩舎へとやってきたのだ。
この国でもっとも安全な場所とは後宮に他ならない。治安の良さが売りの首都・開陽、そこにある宮城は周囲を壁で囲われ、いたるところに屈強な近衛軍の武官が配置されている。そして、宮城内において、さらなる壁で囲まれた一帯に皇族やその血縁が住む華殿、そして後宮がある。
であるから、ここ後宮では、この国でもっとも大切にされるべき姫にもある程度の自由が保障されていた。菊花が愛馬の世話に熱心なのは誰もが知っていることであり、このところは菊花が自発的に起床するや単独で馬の世話をしにでかけ、半刻ほどで自室へと戻るという習慣ができあがっていた。
「で、僕に訊きたいことって何?」
こうして高位にある二人が、厩舎で、獣くさい馬を間に挟んで、白い息を吐きながら会話をしているというのは、よくよく考えれば異常なことだった。
だがそれが許される雰囲気がなぜかここにはあった。
空はほんのりと明るくなってきており、太陽は四半刻もすれば赤々とした夕焼けのような色で空を染めていくことだろう。だがまだ今は空に太陽の姿はない。なのに白々とした空において月星はよく見えなくなっている。朝でもなく夜でもない、短くも不思議な時間帯だった。
菊花は馬を磨く手を止めることなく、頬を染めたまま語りだした。
「叔父上は……ご存じか」
そこまで言い、だがそれ以上がなかなか口から出てこない姪に、龍崇は助け舟を出した。
「いいよ。なんでも言ってごらん」
ちらりと龍崇を見上げた瞳は父である英龍によく似ている。つり上がり気味の大きな瞳の上で、ふさふさとした睫が揺れ動いている。
「あの……その……」
言い淀む菊花だったが、手は止まることなく馬体の上で動いている。普段からこの姪が馬の世話をし慣れているということだ。それがなんとも愉快に思えて、龍崇は久しぶりに嘘偽りのない笑顔になっていた。
「ほら、どうぞ? 父上のことで僕に何か訊きたいことがあるんだろう?」
それにようやく働き者の手が止まった。ぱちぱちと目を瞬かせ、それでもゆっくりと作業を再開させながら、菊花の重い口がようやく開いた。
「……珪己がここに来れなくなった理由を教えてくれないか」
「……え?」
束の間絶句してしまったのは、その名がここで出てくるのが予想外だったからだ。
「珪己って、楊珪己の……ことだよね」
「そうだ。楊珪己。枢密使の娘で、昨年の春にここで女官として働いていた楊珪己だ」
つい口元に手をやってしまいそうになり、龍崇は少し腹に力を込めなくてはならなかった。
「どうして楊珪己のことを姫が訊くの?」
「……ずっと気になっていたから」
ぽつりとつぶやかれたそれは菊花の答えを端的にあらしていた。
「珪己がここにまた来ると父上から聞いて、わらわはひどく嬉しかったのだ。また珪己に会えると思うとすごくうれしかったのだ。……なのに珪己は来なかった」
伏し目がちな瞳がうっすらと涙で濡れていくのを、龍崇は湧き上がる苦しい気持ちをこらえながら、何も言えずただ見つめるしかなかった。
半年前。
龍崇は楊珪己を異母兄であり菊花の父である英龍の妃にしようと画策した。
そして物の見事に失敗した。
策略家としてふるまいきれなかった要因の一つは楊珪己という少女の側にある。珪己の存在が偶然この国を訪れていた異国の王子を焚き付けたのだ。
なおかつその王子の行動は、意図せず龍崇のこれまで秘めてきた野蛮な欲望を暴いた。愚かで身勝手な、自分自身ですら気づいていなかった欲望を……。
だから龍崇は楊珪己を英龍の妃にする計画を棄てた。
英龍の初めての恋を潰した。
だがこの姪にとって、楊珪己とは自らの命の恩人であった。
複雑な出生のせいで、菊花は誕生とともに父母とは疎遠な生活を送ってきた。誰とも心を通わせることができないでいた当時七歳の菊花は、とある任務を負ってにわか女官として後宮にやってきた珪己に救われた。父母のために自死すべきとまで思い詰めていた菊花は、本当に文字通り珪己にその命を救われたのだった。
「姫……そんなに楊珪己に会いたかったんだね」
すると菊花はかぶりを振った。
「いや、わらわはいいのだ。わらわは……。だが父上のことが心配でな」
「英のことが?」
「ああ。父上が悲しそうなのだ。わらわには分かる。父上は珪己が来れなくなったと知ってからずっと悲しそうな顔をなされている。なあ叔父上、なぜ珪己は来れなくなったのだ。叔父上であれば知っているであろう?」
食い入るように見つめてくる菊花の瞳に、龍崇はさらなる悲しみを感じた。
そう、あの夏を目前にした雨の日のこと。
楊珪己を英龍の妃にすることはできなくなったと告げたのは龍崇だった。
それに英龍は激怒した。
ここまでの憤怒を示されたのは出会って以来初めてのことだった。
だが最後には「分かった」と一言告げ、英龍は龍崇の前から去っていったのだった。
『分かった』
その一言にはすべての感情が込められていた。
束の間夢見た美しい未来への期待、愛する少女を娶ることのできる己が生への喜び。
だがそれを上回っていたのは、そんな未来を破壊した現実、いや龍崇への怒りだった。
それに悲しみ。
二度と浮かび上がることのできない絶望……。
床に頭をこすり付け、龍崇は異母兄のその言葉を聞いた。
『分かった』
だが言葉一つで英龍の気持ちは手に取るように理解できてしまった。
それ以来、英龍は龍崇と必要以上のことを会話することはなくなってしまった。朝議の前、侍従を控えさせた場で最低限のことを確認する以外、二人には接点がなくなった。
以前は政務の合間にも二人してあれやこれやと議論をしたり、世間話に花を咲かせていたものだった。幼馴染でもある現側妃の胡麗や一人娘の菊花のことについて、そして楊珪己について、英龍が相談できる相手は龍崇しかいなかった。夜もどちらかがどちらかの室に寄り、一日の終わりを締めくくるかのような穏やかなひとときを過ごしたものだった。
だが今は違う。
英龍は龍崇の顔を見ようともしないし、龍崇も英龍の前では頭を深く下げ腰を折り曲げる姿勢を崩せない。龍崇が近寄ろうとするのを英龍はゆるさない。少しでも傍に寄ると、その眉をひそめてあらぬ方を見てしまう。この半年、英龍は明らかに龍崇を拒絶していた。
今、その娘が、英龍そっくりの大きくつり上がった瞳を龍崇に向けている。一心に、龍崇を信じる真っ直ぐな視線――それが懐かしくて龍崇の胸は条件反射のように震えた。嬉しいのと懐かしいのと……申し訳なさとで。
龍崇は視線を下へとやった。地面にちらばる飼葉には霜が立っていて、それがきらりと光ったかのように見えた。
「楊珪己のことは……説明が難しい」
なんとかそれだけを言い菊花を見ると、姪は明らかに落胆した顔をしていた。だがそれ以上のことを言えない龍崇の様子には気づいたようで、菊花がいかにも無理した仕草で笑ってみせた。
「そうか。分かった」
なんてことないその一言は、龍崇が最後に聞いた英龍の叫びと同じだった。
分かった。
本当は分かってなんかいないし分かりたくもないのに、「分かった」と言わざるを得なかった英龍、そして菊花――。
「……ごめんね」
気づけば、龍崇の口からはその一言が出ていた。
「本当にごめん。ごめんね……」
それとともに龍崇の瞳からぽろぽろと涙がこぼれだした。
菊花が驚いた顔をしている。
だが一番驚いているのは龍崇本人だった。
なのに止めることはできなかった。
「ごめんね、ごめんね……」
謝罪の言葉も止まらない。
「ごめん……」
この半年間、龍崇はどうにかして英龍に赦しを乞おうと尽力してきた。だが英龍は龍崇と関わることを拒絶してきた。どのような時にでも二人きりになろうとせず、龍崇が至近距離に入り込むと頬を固く強張らせる有様だった。
だが、ずっとこうして英龍に謝りたかったのだ。
「ごめんね……」
なぜ自分がここまで深く罪の意識にさいなまれているのか、きっと英龍は今も知らないのだろう。ただ華殿の長としての責務を全うしきれなかったことに申し訳なさを感じているとでも思っているのかもしれない。
だが龍崇は英龍に本当のことを言うわけにはいかない。なぜ楊珪己を妃として迎えることができなくなったのか、そのすべてを説明するわけにはいかないのだ。
だから英龍が自分を拒絶してきたこの半年、悲しくもあり、同時にほっとする自分がいた。英龍が拒絶するから自分は正面きって謝罪しなくて済んでいる。だがもしも腹を割って話す機会を与えられでもしたら……英龍の追及に龍崇は口を割らない自信はない。
謝罪すべき相手に謝罪せずに済んで安堵する自分。
それもつまるところは、楊珪己を英龍の妃にしないと決めた理由と同じだった。
自分の手元を離れて幸せになろうとする英龍に怖くなったのだ。
自分を置いて、自分の知らない愛を理解しつつある英龍が妬ましかったのだ。
いつまでも英龍には自分と同じ世界にいてほしい。
自分と同じように、愛のない世界で、本当の幸せのない世界で、共に傷をなめ合いお互いだけで補完しあって生きていきたいのだ。
「ごめんね……」
そういう浅ましい自分はいったん認めてしまうともう隠すことはできなくなってしまった。
同じことばかりを繰り返す龍崇の体が、次第に燃えるような赤に染まっていった。太陽が昇り始めた。明るいだけではない真正の朝が訪れようとしている。だが龍崇は涙を流すばかりで、菊花はそんな叔父を濡れた瞳でじっと見つめていた。
二人の吐く息は白く、空は赤く、だが心は闇に囚われたままだった。
了




