2.2(最終話)
「……なんで断らなかったの」
あまり広いともいえないこの室は、夜遅くにやってきた一組の客に提供されるにふさわしい一室だった。この手の一夜の逢引きのための宿坊は、開陽ではいつでも繁盛している。この日、二人が空室にありつけたのは奇跡的なことだった。
だが清照はこの手の場所に来たのはこれが初めてだった。
そのことを最後まで言わなかったが。
事を終え衝動と熱が収まれば、二人の間には沈黙と説明しがたい空気が漂うばかりであった。
なぜ自分の誘いを断らなかったのか。
そう問うた清照にすら実は分かっていない。
(なぜ私はこの人を誘ったんだろう?)
分からないから答えを求めて相手に尋ねてしまう。
寝台の上、清照はうつぶせのまま壁際に灯るろうそくをぼんやりと眺めていた。
ゆらめく炎はこのところの自分のようだ。触れることを恐怖させる熱を持つくせに、一息で消してしまえるほど小さな炎……。強いのか弱いのかよく分からない存在。よく分からない自分。
仁威が体を起こし、そんな清照をちらりと見た。
「……断れば死にそうな顔をしていたから」
「ええっ? 私ってそんなに儚げ?」
橋の上での会話を再現されたかのようにわざとおどけた調子で返したが、仁威は清照を見つめるその目にさらに力を込めてきた。
「ごまかさなくてもいい。話くらいなら聞くぞ」
その目があまりに真摯な色に彩られていて、清照は恥ずかしいのと怒りとでうつむくしかなかった。怒りは自分自身へが大半、若干はこの少年に対してである。
この街の人々の無関心さに傷ついていたはずなのに、こうもあけすけに見透かされるのは居たたまれないほど恥ずかしかった。
枕に深々と顔を沈める。
「そんなに私っておかしかった? ……迷惑だった?」
「いいや。俺もちょうどたまっていた時期だったから正直助かった」
「たまっていた、ですって?」
二人、しばらくじっと見つめ合った。
やがて清照は剥き出しの肩を震わせて笑い出した。
「あははっ。そんなこと女にぶっちゃける人っているのね。初めて聞いたわ」
「ああすまない。だが助かったというのは本当だ」
嘘のない言葉と表情に清照は心が軽くなっていくのを感じた。
そう、この人ともっとこうして言葉を交わしたくて、それで誘ったのだ。
気づけば、些細なことでもいいから仁威と話していたいと願う自分がいた。
そして、今夜言葉を交わしてから今までの間、一度も嘘をついていない仁威に対して、自分もとことん正直になりたいと思っていた。
「一緒に来てくれてありがとう。私のことを抱いてくれてありがとう」
「……俺も女にそんなことを言われたのは初めてだ」
目をしばたいてみせた仁威はやはり可愛い。
「私の体、変じゃなかった?」
「いいや?」
本心から分からないといった仁威の態度が、清照には涙がでるほどうれしかった。
「ねえ。これ見て」
清照は起き上がるや、掛布を裸身から取り除き下腹部に触れてみせた。清照が思ったとおり、仁威は面倒くさがることもなくゆっくりとそこに視線を移した。だがひきつれたような痕が三本、腹の上を横切っているのを認めた瞬間、あれほど悠揚としていた仁威がさっと顔をあげて清照を食い入るように見つめてきた。
「……これは火傷の痕か」
ひそめられた眉に、今頃になってこの男の美しさを清照は知った。
「違う違う。これは妊娠するとできるものなのよ」
妊娠。
その一言を口にした瞬間、耐えがたい重石を口に含んだかのように気が滅入った。
仁威は「そうなのか。知らなかった」と答えたが、伏せられた瞳は清照に不安を抱かせた。
清照は心中をごまかすかのように早口で語っていった。
「これね、おなかが急激に大きくなって皮膚の伸びが追いつかないとできてしまうの。しかも一度できると消えないのよね。みっともないから、妊娠に気づいてからは毎日油を塗って手入れしていたんだけど、それでもできちゃって。こうしてあらためて見るとどう思う? やっぱり変? こんなおなかをした女、嫌じゃない? 実は出産してからこういうことをするのも初めてで、それですごく不安で……」
ぺらぺらと語っていったが、一つも動揺しない仁威にさしもの清照も気づいた。
「……私が離婚しているって知ってたの?」
「侑生から聞いていた。出戻りの姉がいると」
やや言いづらそうに仁威が続けた。
「……死産していることも、それが理由で夫に見限られたことも聞いている」
「あんの馬鹿やろう! 実の姉のことをなんでそう他人に話すかなあ!」
本気で怒ってはいないが、他にどう反応すればいいか分からなかっただけだ。
だから清照は怒ったふりを続けた。
「姉のことを少しは可哀想に思いなさいよね」
「お前のことが………清照のことが大切だから、だから俺に話したんだよ」
「……え?」
「清照のことが心配で、だから侑生は俺に相談したんだ。けっして軽い気持ちで俺に言ったわけじゃない。だが俺にはどうすることもできないから、ただ話を聞いてやっただけになったがな」
最後の方は申し訳なさそうに頭を掻きむしりながら言った。
「……侑生が? 私を心配して?」
「ああ。お前が何も言わないとひどく心配しているぞ。生家で何かあったのか?」
察しがいいのは、侑生がそれだけ事細かに仁威に相談していたからだ。
「……離縁された理由や赤ちゃんのことを根掘り葉掘り聞こうとする人が多くて。辛かったから……だからこっちに来たの」
「だが開陽にはお前の元夫がいるじゃないか。同じ街に住む方が辛くはないのか」
清照は婚姻のために開陽に移り住み、数年をこの街で過ごしている。離縁後、逃げるように生家のある地方へと移り住んだというのに、またこうしてほとんど知り合いのいない開陽に戻ってきた。仁威が指摘しなくても、確かに清照の行動はおかしなものに見えても仕方がない。
「一つ言っておく。私はもう前の夫に心残りなんてないから」
そう言い切った清照を疑うように見返す仁威は、裏に侑生を住まわせているかのようだ。
だから清照は弟を前にするように、誠実に、きっぱりと否定した。
「あいつ、赤ちゃんを亡くして泣いている私にこう言ったのよ。次はちゃんと産めよって。世継ぎを産めない女はいらないんだからなって。でもね、私、もう子供は産めないの。そういう体になっちゃったの」
「……清照」
自分の名を呼んでくれる男は久しぶりだな、と、清照はこういうときだというのに新鮮に感じた。前の夫は死産の後、一度も自分の名を呼んでくれなくなったから。……自分のことを抱くこともなくなったから。
「でもね、たとえまだ子供を産めるとしても、もう絶対にあいつの子は妊娠したくない。あいつとは元々相性が悪かったのよね。初めて会ったときから分かってた。でも父様が決めた縁談だから、それで結婚したの。結婚してやっぱり分かった。ああ、こいつと心を通わせることは一生できないな……って」
黙って話を聞いてくれる仁威の存在がとてもうれしかった。
「あいつは李家の家名と私の外見だけは気にいってたわ。まあ、私もそれでいいと思ってたんだけどね。それが私だと思っていたし、他に何のとりえもないし。だけどあいつは私が持っているものをさらに奪っていったわ。女としての自信、それに子供を産める体……」
すると、仁威が清照の頭にぽんと手を置いた。
まるで子供相手のようなその所作。
だが頭の上から感じる大きな手のひらからは温もりが伝わってきた。
とても心地のいい温もりだったから、自然と清照は目を閉じた。
「仁と一緒にいるとすごく安らぐ……」
「そうか?」
「うん。肌が触れ合って気持ちいいって思ったのは初めて。……もう一度してくれる?」
「……ああ」
どこまでも優しいこの年下の男に、清照は思いついたばかりの、しかし心からの約束をした。
「もしも仁が辛いことがあったら、どうしようもなくなったら、そのときは私があなたを助けてあげる。こうして誰かと肌を合わせることで救われることってきっとあるから、それを覚えていてね」
すると仁威の顔に笑みが広がった。
雨がやみ、一気に空が晴れ渡るかのような清々しい笑みだった。
口元だけの適当なものではなく心からの笑みを浮かべ、仁威は清照を見つめた。
「ああ。そのときがきたら助けてもらうことにするよ」
清照は高鳴りだした胸を自覚しながら微笑む仁威を見つめ返した。
「約束よ?」
「ああ。約束だ」
*
この一夜だけで、仁威は清照にたくさんのものを与えた。
だから清照は仁威に約束し、その日が訪れたときも迷わずその約束を果たした。
その頃、李家には清照しか住んでいなかった。侑生は生家のある地方へと戻っていたのだ。突如武官を辞し、科挙の勉強に集中したいとわけのわからないことを言って。それと入れ替わるかのように仁威が清照の前に姿を現したのだった。
一目見て清照は分かった。
今がその時なのだ――と。
「……約束、覚えていてくれたんだね」
再会した瞬間泣き笑いになってしまったのは、覚えていてくれてうれしかったからだ。
ずっと会いたかった。
気づけば、仁威のことを愛してしまっている自分がいた。
そして清照は仁威が欲しがっているものを与えた。
だが仁威が欲しいとは思っていなかったもの――愛――まで与えようとした。
だからだろう、仁威はある日を境に清照の前から姿を消した。
最後の日、少年の表情から清照は悟ってしまった。
ああ、今日で終わりなんだな……と。
仁威は最後まで清照の愛を拒んだ。
だから清照はもう仁威を引き留めることなどできなかったのである。
仁威が来なくなるのを見計らったかのように、李家には弟が戻ってきた。
*
清照にはいまだに分からない。
卵を産まないめだかに生きている価値はあるのだろうか。
他にも分からないことはたくさんある。
花を咲かせなくなった梅の木は残す価値はあるのか。
甘くない桃に食べる価値はあるのか。
想い合えない愛に価値はあるのか。
私という存在に価値はあるのか。
――この世には分からないことが多すぎる。
了




