2.1
李清照、袁仁威がメイン、話題として李侑生が少し出てきます。
清照が仁威を愛するようになったきっかけについて。昔の話のみ。
本作品特有のキーワード:愛、結婚、離婚、死産、別れ、全話R15、全話シリアス。
「どうしたんだ」
声を掛けられたのが自分だとはすぐに気づかず、李清照は顔を上げるのが遅くなった。
じっと見入っていた川面から無理やり目線を引きはがし、それからやっとのことで声の主のほうを見た。だがその声の主とはいまだ数回しか会ったことがなかったため、名前を思い出すのにひどく苦労した。
「袁仁威さん……でしたっけ。私に何か?」
清照には侑生という名の弟がいる。今年近衛軍に着任したばかりの新人武官だ。袁仁威はそんな弟がもっとも親しくしている同僚であり、おそらくここ開陽における唯一の友だった。
まだ十代後半に入ったばかりとはいえ、やや細い感じもする気の優しい侑生に比べて、仁威は典型的な武官らしさのある少年だった。隆々とした体躯は衣からはみ出そうなほどだし、表情はいつも険しい。それに何度か李家にやってきたときも、仁威はいつも無口だった。社交辞令でも、他の男たちのように清照の華やかな容姿を賛美することもなかった。だから清照は弟と同い年のこの少年にある種の難しさを感じていて、常のように気安い態度をとってみせることができなかった。
いや、誰が相手だとしても、今の清照にはそういった心の平穏はなかったのだが。
清照の硬い声音に、だが仁威のほうは不愉快になる様子もなかった。
いや、彼の表情や仕草のどこにも感情自体が見えない。
「そうやってずっと川を覗き込んでいる姿があまりに儚げでな」
「それでつい声を掛けたってわけ?」
仁威の無遠慮な言い方は、あっけなく清照の心の壁を破壊した。
代わりに芽生えたのは鉄壁の城塞、この少年への強い警戒心である。
「何それ。どれだけ下手な誘い文句なのかしら」
清照は自分が強いことを知っている。
花にたとえるなら薔薇や牡丹。
肉厚の花びら。
色は当然、目にも痛いほどの鮮やかな赤。
ちょっと触ったくらいでは傷つくことなどなさそうな女。
そんな自分を儚げなどと言うこの男の性根が笑えた。
「おあいにく様。私、そんな安っぽい嘘を言う男にほいほいついていくような尻軽じゃないの。弟の友達だから今回はゆるすけど、二度目はないわよ?」
威嚇しながら、清照はそこでようやく気づいた。
この男が言ったことは事実だ、と。
(……まるで手負いの獣が牙をむき出すかのように、私はこの人に応じている)
だが気づいたところで今さら訂正することなどできはしない。
恥辱でやや赤らんだ頬は、夜分遅いこの時間、少年には気づかれないだろう。
確かに、仁威は清照の外見上の変化に気づくことはなかった。だが、睨む清照にかまうことなく、ゆっくりと清照に近づいてこう言った。
「俺は事実を言っただけだ。お前は儚げだ、とな。知り合いの姉が死にそうな顔をして、こうして橋の上から下を覗いているのを見て、素通りするわけにはいかんだろう」
近づかれたことで、清照は仁威の瞳をよくよく見ることができた。
言葉使いは悪いが、清照のことを案じて声をかけてきたことは確かなようだった。ややひそめた眉はけっして迷惑がっているわけではないのだろう。なぜなら、澄んだ瞳の奥には裏心がまったく見えない。
開陽の街はいつでもにぎやかだ。昼夜問わず喧騒であふれかえっている。どこもかしこも、人々の楽しそうな声で満ちている。誰もが笑っている。こんなふうに、夜に女が一人歩いていても危険なことは何一つない。まるでここが極楽浄土であると勘違いしてしまいそうなほどに。
だがこの街は他人には無関心なように思える。少なくとも清照にとってはそうだった。田舎由来の人々の関わりの深さに辟易して生家から開陽に戻ってきたというのに、まだ一か月もたたないというのに、清照はすっかり弱っていた。
人は人といることで悩み傷つく。
なのに人は人と関わらないことでまた悩み傷ついてしまう。
それに傷つく自分こそ、馬鹿みたいに「ただの人間」なのだ。
清照は仁威に背を向けると、橋の欄干に両手をつき顎をのせた。下のほう、川面には墨のような黒い液体が流れている。
「……明るいときにはここからでもめだかが泳いでいるのが見えるのよ」
「そこからめだかが見えるとはよほど目がいいんだな」
変なところに感心するこの少年に、清照は初めて笑顔を見せた。
「めだかの稚魚って見たことある?」
「まあ、それくらいはあるが」
「あんなに小さいのに、あんなにたくさんの子どもを産めるなんてすごいわよね。人間には絶対に無理よ」
「それは卵のうちに外に出してしまうからだろう」
いちいち真面目に返答する仁威は、この街では接したことのない性質の人間だった。
「……卵を産まないめだかに価値はあるのかしら。ただ生まれて死んでいくだけのめだかに価値はあるのかしら」
「そんなことを言ったら、卵のうちに食われてしまう奴らはどうなんだ」
「じゃあ、その卵は食べられるために生まれてきたの?」
問答のような清照の話は、ちょっと聞けば敬遠されて逃げ出される類のものだった。清照自身、そういう話をしている自覚は十分にある。だからこれまで誰にも話したことがなかった。生家でも、ここ開陽でも。誰にも言わず心の奥底で一人自問自答していただけだった。
だけどこの少年、袁仁威になら話してもいいような気持ちになっていた。
いや、話したい、そう思っていた。
清照の願ったとおり、仁威はこの会話を嫌がるそぶりをみせなかった。それどころか至極真面目に答えていった。
「食うものと食われるものがいるのは仕方のないことなのだろうな」
「なぜそういう世界なのかしらね。誰だって食われる側にはなりたくないじゃない。そういう人はよほど前世で業が深かったのかしら」
「俺は前世なんて信じない」
ひどくきっぱりと仁威が言った。
「俺はこの身に起こる出来事の原因を前世なんていうものに押しつけて分かった気になんてなりたくもないね」
「じゃあ仁威さんは……」
「仁威でいい」
こそばゆそうな表情を見せた仁威は、ようやく年下の少年らしい反応を見せた。
そんな小さな変化が清照には不思議とうれしかった。
「仁威、は」
言い換えた清照の言葉一つに、仁威は照れたようにその視線をややそらした。
それが可愛く思えて、もっと困らせてやりたいという、若い女性らしい仄暗い欲望を清照は押さえることができなくなった。
「仁は」
そう呼び換えたとたん、仁威があからさまに動揺した。
(やっぱりね)
にまにまとしてしまいそうなところをぐっとこらえつつ、清照は自分の推測が間違っていなかったことを確信した。
この少年、武官になぞ就いているが顔はけっこういい。美丈夫である自慢の弟と引けを取らないくらいには女にもてそうだ。だがこれまで、仁威は過度に清照のことを警戒していた。友人の姉であり初対面の清照に対して失礼なその態度、女が嫌いなのが理由だろうと前から思っていたのだ。
これまで女に愛称で呼ばれたことなど一度もないのだろう。
仁威の頑なにみえた心は、紐解けば単純なものだった。
(開陽に来て日が浅いみたいだけど、ここで何年か過ごせばきっと女嫌いは克服しそうね)
まだ短い時間であったが、清照は仁威の本質を十分に理解した気になった。これまでに何があったかは知らないが、こんなふうに大して関わりのない自分を心配して声を掛けてくれて、ちょっと愛称で呼ばれたくらいでおたおたとしてしまうような純な人が、この先も不幸を背負ったままでいるとは思えない。きっといつか重荷を捨てて、誰か愛する人を見つけて幸せになるのだろう。
(……そう、こういう人が幸せにならないで、いったい誰が幸せになれるのよ)
すると醜い感情がむくむくと湧いてきた。
(私だって幸せになりたかったのに。なのになんで……?)
(なんで私はもう幸せになれないの?)
(なんで?)
だから清照は仁威を誘った。
少しでも他人から幸福を奪ってやりたくて誘ったのである。




