1.1
楊玄徳、柳公蘭、蔡蘭の三人がメイン、プラス李侑生、趙大龍が出てきます。
少女編二巻の第一話と最終話の詳細、それに少女編5巻から少し先のことも。
本編読んでない方大きなネタバレあり注意必要。
本作品特有のキーワード:友情、愛情、色、妓楼、義理の母娘、科挙、文官、一部R15
「玄徳様」
声を掛けられ、楊玄徳は滑らかに動かしていた筆を止めた。顔を上げると、そこにはよく知る紫袍の青年がいた。
「ああ、李侍郎か」
「……玄徳様」
年は二十代半ば、だが若くして官吏となり今は侍郎という高位に就く彼には年齢以上の風格がある。なのに青年が二度目に発した声には、困ったような、ねだるような可愛らしさがあった。
玄徳はふふっと笑った。
「はいはい。二人きりのときは名前で呼ぶ約束だよね。侑生?」
途端に李侍郎――李侑生の顔がぱあっと明るくなった。
侑生が中書省、吏部の侍郎に異動となって早一年。
人事を司る吏部において、侑生は枢密院所属の文官の人事を担当している。そのため、侑生は今もこうして足しげく武殿――枢密院に与えられた殿――へとやって来る。
侑生は元々枢密院所属の官吏だった。科挙に合格して以来、ずっとだ。軍政を司る枢密院において、直近までは枢密副使として武官の人事を担当していた。だが昨年、玄徳は侑生を中書省――文政を司る部署へと異動させた。それは本当の意味でこの部下を独り立ちさせるためであった。枢密院の官吏であるということは、侑生にとっては玄徳のために生きるということと同義であったからだ。
だが人は誰かのために生きてはいけない。
そう玄徳は思っている。
それゆえ、枢密院にやって来るたびに水を得た魚のように満ち足りた顔をする侑生を、その都度玄徳はやや難しい思いで出迎えていた。
それでも表面上は何の問題もないかのように笑みを浮かべてみせる。
「どうだい、仕事の方は順調かい?」
「はい」
回答は端的であり清々しかった。
だが侑生は自分の悩みを暴露するような男ではない。枢密院、つまりは枢密使である玄徳の期待を背負って中書省へと異動した身であればなおさらだ。
玄徳は侑生の現状をいくつか耳にしていた。たった一人異郷の地へと旅立ったこの部下が、針のむしろのような好奇の視線に耐え、一年たった今も幾多の苦難に苛まれていることを……。
こういうとき、玄徳は迷う。
悩みを語らせるべきか、それとも何も聞かずに信じてやるべきか。
どちらにすべきか迷う。
いや、玄徳は侑生のことを信じている。この部下自身が信じずとも、玄徳は侑生のことを信じている。もとより侑生は人の上に立つ才能のある人物だし、挑戦的分野で成功できる稀有な手法も熟知している。あれほど打たれ弱かった心も以前に比べてだいぶ強くなった。だからきっと大丈夫だ。いや、大丈夫だと確信しているからこそ中書省へと送り出したのだ。
玄徳は愛用の筆を硯の上に置いた。
「お茶でも飲んでいくかい?」
「……はい!」
*
二人向かい合って座り、熱い茶に口をつけている間、無言だった。
だがその静寂が心地いい。とってつけたような言葉は心の通う者同士には不要だ。静寂を楽しむことのできる関係に二人はある。その事実を確かめれば自然と心は軽やかになる。
と、侑生が椀を机に置いた。
まだ半分ほど茶は残っている。
「……侑生?」
「あの……。玄徳様、何か知らせはありましたか……?」
見れば、縋るような目で侑生は玄徳を見つめていた。
今、侑生の瞳は一つしかない。
もう一つは昨年失った。
その部分、顔の左半分には、額から耳のすぐ近くまで、大きく斜めに太い直線が走っている。斬られた部分の肉は盛り上がり、肌の色よりも白く目立つ。そしてその直線は、無情にも侑生の瞼の上を通過していた。
それでも、たった一つでも、侑生の瞳が彼の内心を口で語る以上に映しだすのは昔からだ。玄徳はいつでも侑生の虹彩の表面に、奥の方に、この部下の心を見てきた。
だから玄徳は一寸迷った。しかし結局は正直に首を振った。
玄徳の一人娘、楊珪己は、突然開陽からいなくなった。
そして、いなくなってからもう一年と半年が過ぎようとしている。
当時、珪己は芯国の王子に執拗に付け回されていた。実際、拉致までされた。そのとき珪己の身を取り戻すべく行動を起こした一人はここにいる侑生だ。場所は芯国の大使館、侵入したという事実一つでその首が飛んでもおかしくない危険な行為だった。だが侑生は自らその館へと足を踏み入れた。すべては愛のため、愛する珪己を己が手で護るため……。
だが、その次の日。
楊珪己は突如姿を消したのである。
珪己と同じく、彼女を護衛していた袁仁威――当時の近衛軍第一隊隊長――も開陽から消えてしまった。
それが昨年の初夏直前のことである。
その後、いくら捜索しても二人の姿を発見することはできなかった。いや、芯国の手前、大々的な捜査は今もできないでいる。なぜなら一人は王子が欲する少女であり、もう一人は珪己を救出する際にその王子を打ち負かした男だからだ。
あれから一年たち、季節はすでに冬になってしまった。
「そうですか……」
思ったとおり、見るからに侑生は落胆した。
肩を落とし視線はゆるゆると下がっていく。
侑生の体が一回り小さくなった。この一年、新しい職場で肩に力が入っているのだろう、枢密副使であったころより大きく頼もしく見えていた侑生の体が、玄徳の回答一つで、時を遡るかのように小さくなってしまった。
(そういえば……)
侑生がこうして直接娘のことを玄徳に問いかけてきたのは初めてのことだった。そのことに玄徳はふいに気づいた。それは当然、珪己の父である玄徳に遠慮してのことだろう。
玄徳としては、珪己の話題を出さないことで侑生を気遣っているつもりでいた。重傷を負い、休む間もなく新たな職場へと異動した侑生のため、進捗のない娘の消息についてわざわざ口にする必要はないとも思っていたのだ。
だが、こうして侑生の様子を見れば、彼がどれほど珪己の身を案じているのかがよく分かる。……今も娘を愛していることがよく分かる。もうあれから一年と半年が過ぎようとしているというのに、侑生の純粋な愛は継続されていた。いや、純粋さゆえの愛の力なのか。
「……すまないね、娘のことで心配をかけて」
すると侑生はぱっと顔を上げ、次に大きくその頭を下げた。
「申し訳ありません、不躾でした。玄徳様の心痛に比べたら私など」
「何を言ってるんだい。あの子を愛しているという点では、君も私も同じじゃないか」
それでも、おずおずと顔を上げた侑生の表情には、いまだ「申し訳ない」と墨で書かれているかのようだった。
玄徳は苦笑した。
「血のつながりのある者同士の愛が一番強いなんて、いったい誰が決めたんだい?」
「で、ですが。……そう! 私と玄徳様とでは違いますから」
「こら、侑生。君は今でもそうやって『自分なんかが』と考える癖が抜けないね」
「すみません……ですが」
そこへ玄徳がやや強引に言葉を重ねてきた。
「私は知っているよ。血の繋がりよりも強い関係を。侑生は私の妻のことを知っているかな」
その問いに侑生の開きかけた口が閉じられた。
ややあって、ためらうようにその口が開かれた。
「蔡蘭様、というお名前であることは存じております」
口に出すのをためらいはしたが、侑生ははっきりとその名を覚えていた。
九年前、武殿の中央にある鍛練場において、地面に叩きつけられた髪の束。
その映像は記憶から消えることはない。
長く、ぐっしょりと血に濡れていたそれは、地面に触れた瞬間、べちゃりと重い音を響かせた。投げつけたのは当時の近衛軍第一隊隊長だ。そしてその髪の持ち主こそ、玄徳の妻、蔡蘭だった。
この日、第一隊の武官ほぼ全員が加担した事変が起こった。彼らは武殿を制圧し、当時の枢密副使であった玄徳を捕えた。さらには玄徳の自宅を襲撃し家人と妻を惨殺した。これを楊武襲撃事変という。一夜限りの事変ではあったが、三代皇帝のこの御世において、これほどまでに非道な事変は後にも先にも起こっていない。
侑生は当時、この第一隊所属の新人武官だった。事情を知らず、年長者らに使われ、この時も縛られた玄徳を見張る役を勤めさせられただけのことではあったが、この日の出来事を侑生はずっと悔いて生きてきた。だからこそ事変後すぐに武官を辞め、受験し、枢密院の文官へと転身したのである。
玄徳の導きの甲斐もあり、罪の呪縛からは少しずつ抜け出してきている侑生であったが、一人の女性の名前を思い出したことでその唇が小さく震えた。
「こら、侑生」
声を掛けられ、はっとして顔を上げると、玄徳が軽く睨んでいた。
「そうやってすぐに思い悩むのはやめなさい」
ぎゅっと唇を噛んだ侑生に、玄徳が「そうそれ」と言った。
「それそれ。その唇を噛む癖が蔡蘭にはあってね」
「奥様の……ですか?」
「珪己もそういうところがあるんだよね。何かあると唇を噛んでしまう」
「……ああ、確かにそうでしたね」
侑生の顔がようやく和らいだ。
「蔡蘭と珪己、一緒に暮らした期間は八年と短かったかもしれないけど、やっぱり似ているんだよね。でも二人の顔はそんなに似ていないんだよ? 僕と蔡蘭、二人を混ぜて適当に配置したらああいう顔になったっていう感じかな」
飄々とした感じで話す玄徳の顔も、次第に和やかになっていった。
「でもね、ところどころで似ているんだよね。さっき言った癖一つでもそう。面白いよね。雰囲気もなんとなく似ていてねえ。あの公蘭ですら、珪己のことを見かけて私にこう言ったことがあるんだよ。『姿かたちは蔡蘭に似ている』って。そんなことないのにね。蔡蘭を育てた公蘭がそう錯覚してしまうんだから、親子って不思議だよねえ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
舌も滑らかに語る上司に、侑生は思わず「玄徳様!」と声を上げた。
「その……公蘭というのは、もしかして柳中書令のことでしょうか」
「ああ、そう。そうだよ。柳公蘭」
「……今のお話を聞く限り、玄徳様の奥様は柳中書令の娘御であると」
「そうだよ?」
さらりと認めた玄徳に、侑生がその一つだけの瞳をこれ以上はないほどに大きく見開いた。絶句している。驚きのあまり言葉を失う侑生というのは非常に珍しく、軽い気持ちで話を始めていた玄徳は少し申し訳なく思った。
「ああ、驚かせちゃったね。無理もないか」
今の話を整理すると、侑生の愛する少女は、枢密使を父に持ち、中書令を祖母に持つということになる。それはつまり、この国で皇族に次ぐほどの高位の女性だということになる。いや、そんなことはどうでもいいのだ。侑生は少女への愛を身分の変動でもって見直すつもりなどないのだから。
それよりも侑生が気になったのは、玄徳と公蘭、この二人の関係である。
二人はこの国の政治、文政と軍政を司る二府の長官である。
齢五十を過ぎた公蘭と、四十半ばになろうとする玄徳。
だが侑生の知る限り、この二人はいつでも衝突してきた。正確にいえば、公蘭のほうが玄徳の隙を探り執拗に追及してくるのが常なのだ。大から小まで、毎日毎日。
だから侑生の知る朝議とは、皇帝と、皇帝に頭を下げる配下達、という図式ではなく、公蘭と玄徳の終わることのない対決の場、それに立ち会うお互いの配下達、なのであった。
その公蘭の態度が、この国が興って以来の二府の対立構造を助長してきたともいえる。
だが、その二人が実は義理の親子の関係であったなどと、誰が信じるだろうか。
侑生は一つの仮説に行き着き、すべての過程を飛ばして問わねばならぬ結論を口にした。
「……柳中書令は奥様のことで玄徳様をお怒りなのでしょうか」
事変で娘を失ったことで、その原因である枢密院と義理の息子を恨んでいるのではないか。侑生はそう結論づけたのであった。
『もしそれが事実であれば、その罪は自分も背負うべきだ』
そこまで覚悟して侑生は問うている。
だが玄徳は静かに首を振った。
「いいや。公蘭はそんな人ではないよ」
それでも疑いを消せず、背負うべき罪をすべて拾い集めようとする侑生に、玄徳は一つため息をついた。
「侑生は今日はまだ仕事は残っているのかい?」
「もう終わっております」
言葉だけでなく身を固くした侑生は、まるで判決を待つ罪人のようだ。このような侑生を見るのは随分久しぶりだった。
だから玄徳は、これまで誰にも言わずにいたことをこの部下に話し始めた。
玄徳と公蘭、そして蔡蘭との出会い、彼らの若かりし頃の日々を――。




