レオンの告白
この家は居心地が良く、どこまでも俺に優しい――
今この時にも懐かしく思い出せるのは、かつて暮らした緑の風景。
隣国との国境にほど近い山あいの村で、俺は祖母と二人で暮らしていた。両親は物心がつく前に馬車の事故で亡くなったのだという。あっという間の出来事で、母に庇われた俺だけが助かったのだそうだ。
祖母の髪は茶色で目は青、娘である母も同じ色をしていたらしい。俺の青い瞳は母親譲りで金色の髪は父に似たのだろう。ただ、両親の記憶はぼんやりしていて、よくは思い出せない。両親がいないのが当たり前だったし、祖母はいつでも優しかったから特に寂しいと思った事は無かった。
のんびりした田舎暮らしは不便といえば不便だったが、俺はそれなりに満足していた。
日の出と共に起きて、暗くなったら眠る生活。
ウサギやリスを追いかけたり、鳥や虫の声を聞いたり、降るような星空や月をボーっと眺めたりして過ごす日々は意外と幸せだった。同年代の遊び相手がいなくてつまらないと思った事はあっても、ここから離れようと思った事は一度も無かった。
おばあちゃんはたいした手伝いをしなくても、いつも孫の俺を褒めてくれた。手伝いといっても雑草を刈り取ったり掃除をしたり食器を並べたりと、ほんの他愛もない事。なのにすごく喜んでくれて、俺の頭をポンポンと軽くたたきながら、「レオンはおりこうで優しいね~。大好きだよ」と言ってくれた。大事に可愛がってくれているのがわかっていたから、ただそれだけで嬉しかった。
平凡だけど楽しい毎日。
俺はこの幸せがずっと続くと思っていた。
けれど5歳の時、大好きな祖母が亡くなると状況は一変した。
葬儀の時、村の大人達が集まり「誰が親族に連絡を取るか」と話し合っていた。ようやく連絡がついた日の翌日から、俺は親戚中をたらい回しにされた。いろんな家を転々としたあげく、亡くなった父さんの遠縁だという家に引き取られることとなった。
王都郊外にある立派な石造りの家。
その家に住む優しそうな一家は、貴族だった。
だけど優しかったのは外での態度だけ。すぐに「体裁が悪いから仕方なくお前を引き取った。うちにはお金が無いから甘えるんじゃない」と家長に宣言されてしまった。一家は言葉通り、俺を使用人としてこき使った。
同い歳くらいのその家の子ども達は、毎日キレイな服を着て美味しいものを食べ、家庭教師をつけられて勉強していた。俺は彼らを横目で見ながら、朝まだ暗いうちに起きて水汲みや清掃をし、夜遅くまで馬の世話や雑用、厨房の片付けやゴミ捨てなどの下働きをする。自由時間はほとんど無く、食事は少なく残り物ばかり。与えられた部屋も狭くて夜は冷えた。それでも、行き場の無い俺は耐えていた。
6歳になったある日、「学校に行かせて欲しい。今まで以上に仕事は頑張るから」と勇気を出してお願いしてみた。生活に必要な最低限の読み書きはできるようになりたかったから。なのに当主は「お前のような厄介者を置いてやっているだけでもありがたいのに、恩も忘れて生意気だ。アバズレの子に教育は要らない」とその場で蹴られ、殴られてしまった。
意地悪な彼らが言うには、主家筋の息子である父さんをメイドだった母さんが誘惑したあげくに2人で逃げたのだそうだ。その頃から一族も傾き始めたから、全ては母さんのせい。俺は憎い女の血を引く子供、という事だった。
「あんな女に引っかかるなんてお前の父さんもバカなヤツだよ。呪われた平民の血を引く厄介者め」
そう言われて、俺は散々罵られた。
明らかに八つ当たりだし、父さんと母さんは事故に遭うまできっと幸せだったと思う。ぼんやりとした記憶でも、両親の笑い声と優しい手の感触は覚えているような気がするから。だけど口に出せば「反抗的だ」とまた殴られるのでやめておいた。勉強は断念するしかなかった。
8歳になると小さくとも少しは見られる顔になったのか、その家の女の子から「特別に私専用の召使いにしてあげる」と言われた。全く興味が無かったし、この家の人間や使用人の間で何を言われるかわかったもんじゃない。丁寧にやんわりと断った。すると後日、「娘に手を出そうとするなんて……。やっぱりアバズレの子は油断ができん」と事実と正反対の事を言われ、また殴られてしまった。
それからは気に入らない事があるとすぐに一家に呼びつけられ、殴られたり蹴られたり。ひどい時には棒や家畜用のムチも持ち出したので、俺の背中からあざやミミズ腫れが消える事は無くなった。
公爵家に来る少し前、いつもとは違う清潔な衣装を着せられた。髪もキレイに梳かされて整えられたからか、鏡の中から見つめ返す顔は自分でも悪くないな、と思う程だった。
ほどなくして、父さんの友人だったという太った貴族の男がその屋敷にやって来た。
「よく見れば可愛い顔をしているな。悪いようにはしないから私の子にならないか?」
そう言って身体中をベタベタ触ってきた。
気持ち悪くて吐きそうになった俺は、我慢できずにとうとう家を飛び出した。
行くあても無く知り合いもいない。
俺がこのままいなくなったとしても、誰も心配してはくれない。街にはこんなにも人が溢れているのに、俺はとても孤独だった。大人も子供も誰も信用できなくて、怖かった。正直、どうなってもいいやと思わなかったわけではない。自分はどうせ取るに足らない、ちっぽけな存在だから。
ひとりぼっちで王都をさんざん彷徨い歩いた俺は、偶然丘の上の救済院の前にたどり着いた。そこには、俺と同じかそれより下の年齢の恵まれない境遇の子供達がたくさんいた。
翌日、「院長から連絡をもらった」とわざわざやって来たのは、何とこの国の宰相である偉い公爵様。長身の公爵の、厳しいけれどどこか慈愛を秘めたアイスブルーの瞳で見つめられると、嘘は言えなかった。怖かったけれど、俺は今までの事をたどたどしく一生懸命説明した。公爵は時々頷きながら、黙って俺の話を聞いてくれていた。
でもまさか彼の家に連れて来られることになるとは、その時は思っていなかった。「大好きだよ」と俺に呼びかけて頭を撫でてくれる人が、また現れるとは思わなかった。同じ貴族でも、ここは全然違う。
夜も怖い夢にうなされず、暖かいベッドでぐっすり眠れるようになった。毎日三食きちんと食べられ、お腹が空きすぎて眠れなくなる心配もない。物音に怯えたりいつ殴られるかとビクビクしたり、旦那様やお嬢様、年長者の顔色を伺って心にも無い事を無理してあれこれ言わなくても良い。
この家の娘と同じように家庭教師も付けられた。
使用人も皆感じが良かったので、お礼にと掃除や雑用を手伝おうとしたら止められた。公爵夫人からは「もっと子供らしく甘えてくれてもいいのよ?」と逆に窘められてしまった。
この家は居心地が良く、どこまでも俺に優しい――
何もできない俺の事を『家族』だとアリィは言ってくれる。
公爵も夫人も、温かく見守って下さる。
今のこの快適な暮らしを、王都に来てから不幸続きだった以前の俺が見たらきっとビックリするだろう。
幸せな夢を見た。
小さな俺と今の俺が優しかった祖母を囲んで笑っている。
「おばあちゃん……」
心配しないで。
俺は今、とても幸せだから。