パンドラの箱
「あ……お菓子買い忘れてた」
「は? じゃあ今から戻るか?」
荷馬車で宿まで半分ほどの距離を戻ったところで肝心のお菓子、というかレオンのためのバースデーケーキを買い忘れていたことに気が付いた。さっきの<黒い陰>……この国では『シャドウ』と呼ばれているらしい、の騒ぎのせいですっかり忘れていたのだ。まあ、この世界では誕生日に必ずケーキを食べるという習慣は無いし、レオンはお菓子よりもパンの方が昔から好きだったけれど、それでも義姉として何かお祝いをしてあげたかったのだ。
しかもあろうことか、結局プレゼントも何も用意していない。日頃お世話になっている(義弟の方が優秀なんだから仕方が無い)から感謝とお礼の気持ちが伝わるものを、と、あれこれ考えていただけにとってもショックだ。せっかく大きな街の商店街には素敵な物がいっぱいあったのに……。
でも、もう日も落ちてきたし私の我儘だけで来た道を戻らせるのも可哀想だ。どうせ今日も男性陣は羽を伸ばして旅籠で酒盛りするんだろうし。その後キレイなお姉さん達と消えていくんだろうし。
今日、街の本屋で『旅の心得』なる本を見つけて立ち読みしたから、その辺のところはちょこっとだけ詳しくなった。今まで『酒場の給仕さんやお姉さん達はセクシー美女が多いなぁ』と感心して見ているだけだったけど、それはきっとそういう事だったからなのだろう。ようやく少しだけ大人の世界がわかったような気がした。
「どうする?」
「うわっっ!」
いきなりのぞきこまれてビックリした。レオンの綺麗な顔が目の前にあったから。
私達は今、宿の方にお借りした荷馬車の御者席に仲良く並んで座っている。荷物を積み込んだのは、レオン。馬を繰っているのもレオン。行き先を調べて連れて行ってくれたのも帰り道をちゃんと知っているのもレオン。
うう、役立たずなんて言わないで。一応買い物メモ持ってるし、お手伝いはしているんだから。
「あ、ごめん。今日はもういいや。暗くなったら危ないし真っ直ぐ宿に戻ろう!」
それでなくても<黒い陰>は闇と同化してしまうため、夜は危ない。さっきはたまたま嫌がられたから良いものの、同じ手が何度も効くとは限らない。それに、起こったことをレイモンド様に帰ってきちんと報告しなくっちゃ!
「わかった。アリィがそう言うなら。お菓子が無いからって後で文句を言うなよ?」
「言いませ~~ん。たぶん……約束はできないけど」
「ぶはっっ何だそれ?」
義弟が横で楽しそうに笑う。その横顔を見ていると少しだけ胸が痛んだ。
こんな何でもない幸せな時間が、これからもずっと続けば良いと思う。優しく温かなこの世界が、ずっと平和であれば良いなと思う。
けれど、実父の生み出した<黒い陰>が蔓延る限り、その願いは叶わない。せめて大切な人たちを守れる強さが自分にもあれば良いのに……といつも思ってしまう。
「ほら、着いた。そんな風に眉間にしわを寄せていると変な顔に見えるぞ」
義弟のレオンは買い出しの後半、終始上機嫌だった。
でも――。
「ねえ、レオン。もしかして昔、私が陰に襲われた時の事を思い出して心配してくれているの?」
「なっっ、そんな事無いよ。それより、俺は荷物を降ろして馬を戻しておくから、先に報告だけ済ませておいて」
「わかった」
私の方が一つ年上なのに義弟に余計な気を遣わせてしまった。
あの子は昔、<黒い陰>に捕えられた私の一部始終を見ている。その後何年も目覚めなかった私の姿を知っている。それだけに今日、街で以前と同じように陰に捕えられようとする私を見て一瞬恐怖に陥ってしまったのだろう。それなのに、私は何も考えずに不用意に陰に近づいてしまった。陰の事よりお菓子やプレゼントの事を考えて、買い忘れたと悔やんでいた。
ごめん、レオン。姉としてもっと頑張るから!
レイモンド様に報告をしたけれど、他にも同じような現象が目撃されていたためか大して驚かれはしなかった。<黒い陰>が私を嫌っていたように見えたのは、根拠がないから言わなかったし。
結局今日も『夜間の外出には十分気を付けよう』という事になって、宿の1階で夕食を取った後はそのまま飲み会に突入! 私はお酒に弱いので、食事だけしてさっさと部屋に引き上げた。イケメンだらけのメンバーは今日もセクシーお姉様達に囲まれていた。
でも大丈夫! ちゃんとわかっているから。私って気が利くでしょう?
コンコン
どうせみんな当分帰ってこないからとゆっくり旅支度をしていたら、部屋にノックの音が響いた。
入って来たのは義弟のレオン。
「どうしたの? みんなと一緒に飲んでるんじゃなかったの?」
「今日はいいや。アリィは平気?」
「え? ええ」
昼間の事を言っているのだとわかった。騎士団として普段から<黒い陰>を見慣れているとはいえ、たぶん私よりもレオンの方がショックが大きかったのだろう。そのせいで飲み過ぎて、年長者達に早めに返されたのかもしれない。
「レオンは? あなたの方が辛かったんじゃないの?」
街で人が呑み込まれそうになるところを久々に目撃してしまって。
私が黒い陰に自分から近づくのを見て。
私は腰かけていたベッドの横をポンポンと叩いて義弟を隣に座らせた。
今日のレオンは珍しく、私に素直に従った。
弱っている時のレオンの姿は昔を彷彿とさせるし、いくら背が伸びて大人っぽくなったと言っても彼は可愛い弟だ。
「いいよ、辛いなら。全部吐き出しちゃえ」
酔っているのかレオンは私の肩に頭をコツンともたれかけさせると、ポツポツと話し始めた。サラサラの金髪が時々揺れる。
「あの時……何もできなかった自分を悔やんだんだ。俺の力では呑み込まれていくアリィを止めることができなくて、すごく怖かった。助かったと思って喜んだのもつかの間、アリィはそのまま目覚めなかった。義父さんや義母さん、ヴォルフもみんなが悲しそうだった。あの場にいたのがもし俺でなければ、別の誰かだったなら、君はそのまま助かっていたのかもしれない。もっと長く一緒に、幸せな時を過ごせていたはずなのに――。
アリィが急に大人になってしまったのも、助けられなかった俺のせいだ。だから今度こそ、俺は一番近くで君を守りたかった。なのに……」
レオンがそんな風に責任を感じていたなんて、知らなかった。長年思い悩んでいたとは気づかなかった。でもあの頃は、私もレオンもまだ小さかった。だから彼を責める人なんているはずが無いのに……。
けれどレオンは自分で自分の事を責めていた。それがいつしかトラウマになってしまって、私が陰に近付くだけで怯えてしまうのだろう。
「気にしないで」というのは容易い。「大丈夫」と言うのも簡単だ。でも、彼のこれまでの気持ちを考えた時、私は何と言えば良いのだろう?
「ええっと……いつもありがとう。それからごめんね? 余程の事が無い限り、もう自分から陰には近付かないようにするから」
私の言葉を確認するかのようにレオンは顔を上げ、深く青い瞳で私の顔をじっと見つめた。この子の目ってこんなに綺麗な青だったっけ? 鼻筋も通っていて整った顔立ちだから周りの女性が放っておかないのもわかるような気がするなぁ。
話の流れとは全く関係無い事を考えながら、久々にまじまじと見た義弟の顔はどこか他人のようで、不思議な感じがした。あれ、でも、よく考えたら超至近距離! 急に恥ずかしくなって、私は目を逸らした。ええっと、何か話題、話題はないかな? そうだ!
「あのね、レオンも15歳で成人した事だし何か欲しい物なんてある? あ、旅の途中だから大したものは用意できないけれど、それでも何か希望があれば、と思って……」
「何で?」
「え?」
「何でそんな事、聞くの?」
その時の私はまだ、開けてはいけない『パンドラの箱』を開いてしまった事に、まだ気づかないでいた。




