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目が覚めたかね?

その日は特に変化の無い一日だった。

声優になって10年、ランカーになってからもとりあえずバイトせずに食べられるようになって少し経つ。

妻とは共働きで子供は7歳になる娘が1人。


朝はバタバタと家族で朝食を取り、先に妻が出勤し、少し遅れて自分が娘と出勤。

小学校には登校班で行くため集合場所まで一緒に移動し、その後、電車に揺られて収録に向かう。


今日はナレーションの収録だった。

内容は大手不動産会社が新しく立てたマンションのVP。15分くらいのものだ。


9時55分にスタジオ入りして10時からオンタイムで収録開始。

終わったのは12時半。

収録場所が東新宿スタジオだったので歌舞伎町までのんびり歩いて、どこかでラーメン食べて午後は舞台でも見に行こうか、と思って建物を出た瞬間、ぐにゃり、と視界がゆがんだ。





目を覚ますとよくわからない場所にいた。

平衡感覚が無くなっていて宙に浮いてるのか水に沈んでるのかはっきりしない。

目を開けているのに何が見えているのかがわからない。感覚的になんだか全体的に白い、という風に感じるだけだ。


『目が覚めたかね?』


耳元で老人のしゃがれた声が聞こえた。

青年座の津嘉山正種さんみたいな声でびっくりする。

声がした方に振り向いて姿を見ようとしたがそれはできなかった。

だいたい目を開けている気がするだけで実際のところ目が開いてるのかすら怪しい。

どんなに力を入れても無駄だった。金縛りにあったかのように目線を動かすことも首をひねる事もできなかったんだから、これはもうあかん。


「すみませんが、状況を、教えて頂けますか?」


嫌な予感しかしないがそう聞き返す。


『その言葉が出るまで3秒か。冷静で頭の回転が速い、今回の稀人は当たりかもしれんな』


豊潤で年輪を感じる落ち着いた響き。

だが聞いている俺はまったく落ち着けない。

いま、この相手は、稀人、と言った。


マレビト。稀人だ。

それは客人を指す。

俺は、どこから来て、どこに来てしまった客人だと言うのか。

俺は東京都民で30過ぎの声優だ。

少なくとも娘が高校を卒業するまでは東京を出るつもりは無い。


声優は辞めても良い。

手足がもげても良い。

目が見えなくても、足が動かなくても良い。

でも、帰れなくなるのはごめんだ。


いってきます、と言って家をでた妻の顔を思い出す。

いってらっしゃいと言った俺が、夜にはおかえり、と出迎えなければいけない。


娘は今年七五三だ。

帰らなければいけない。何があっても、絶対に、俺は帰らなければいけない。



「繰り返しますが教えてください。僕は帰らないといけない。娘と妻が待っているんです」



少し涙声になっていたかもしれない。

目の感覚は無いくせに涙が出ているのがわかる。

ちくしょう、30過ぎたおっさんがなんで泣かなきゃいけないんだ。



『稀人よ、ここは異世界だ。君が帰る家はここにはない』



老人の声が断言する。

耳で聞いている声なのかどうかもわからないのに、研ぎ澄まされた感覚がその言葉に一片の嘘も無い事を伝えてくる。


ああ、ちくしょう。なんだこれ、はやりの異世界転移かバカ野郎。

そういうのはこの世に未練の無い世捨て人相手にやってくれ、俺みたいにしがらみだらけで生きてる人間からしたら迷惑極まりないんだよ。

くそったれと言いかけて口をつぐむ。

そんな事をしている暇はない。


現状は簡単に説明できる。

現在進行形で良くわからない空間で良くわからない相手と良くわからない会話をしているわけだ。

ここには東京23区が存在しない。まあ異世界的なアレなんだろう。

会話の相手は何者だろうか。

神か悪魔か管理人か、なんにしても何かしらの権限があって何かしら超越している糞野郎なんだろう。



「帰る手段を教えてください。可能であれば僕を送り返してください。代価が必要なら言ってください」



善行を積めと言うならこれから死ぬまで毎日神社にお参りに行こう。

金銭を要求されるとは思えないが喜捨して済むなら喜んで、だ。

悪魔なら魂の要求だろうか?この際それでも文句はない。



『絶叫するでもなく、罵倒するでもなく、良く考え、判断し、簡潔に迅速に行動する。この状況下で交渉に臨む気概、胆力もある。良い魂だな。嬉しい限りだ』



うるせえじじい聞いたことに答えろ。

喉元まで出かかった言葉をねじ伏せる。



『結論から言おう。異世界グランディスタから君が帰る手段は存在しない。送り返す事は不可能だ。したがって代価も存在しない』



後頭部をアスファルトに叩きつけられたような衝撃だった。

ぐにゃりとゆがんだのは俺の視界か。足元か。それとも存在そのものか。


思い出せ。


よくわからない白い世界に溶け込みそうになった自分を意思の力でつなぎとめる。

ほう?と老人の声が聞こえた気がするがそんなことはどうでもいい。


思い出せ。

ここに来る直前の記憶だ。


スタジオを出た。

エレベーターで一回に降りた。

自動ドアを通ってビルを出た。

一歩踏み出したところで、ぐにゃり、と視界がゆがんだ。


思い出せ。もっと明確に。


車が突っ込んできたか?NOだ。

道路上に車はあったがスピードは出してなかったし突っ込んできてもいない。


ビルの上から何か降ってきたか?NOだ。

はっきりと思い出す。特に外装工事なんかをしてたわけでもない、何かが落ちてきて俺の頭を割ったりしていないのは間違いない。そんな衝撃の覚えもない。


突然の心停止?NOだ。苦しかった記憶がない。

暴漢に刺された?NOだ。痛みを感じた覚えがない。

スナイパーに狙撃された?NOだ。俺は海外の紛争地域にいたわけじゃない。日本人だ。


「・・・俺は死んでいない。つまり死んで転生だとか、そういう事じゃないはずだ。あなたは稀人だと言った。それはつまり、日本で言う神隠しにあったようなものですか」


『そうだ、稀人よ。君は生きたままこちらに飛ばされたのだ』




ああ、そうか。なら、まだ手はある。あるはずだ。

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