雪と街頭と座布団と走る
彼、大野健は、ふと誰かが家に訪ねてきたような気がした。 チャイムが鳴ったわけでもなく、窓の外を人影がよぎったわけでもない、本当に何となくそう思ったのだ。
大野少年は、自分の感覚をいぶかしみながら玄関のドアを開けた。
誰もいない。
ただ、夜の暗い街並みと、冬の凍えそうな空気とがそこにはあるだけだ。
誰もいないなんて当たり前だ。もう夜の9時、誰かが来るには少々遅い時間といわざるを得ない。健は自分の直感の当てにならなさを面白く思いながらドアを閉じようとした。玄関の扉からは冷たい風が入り込み、このままでは風呂上りの少年の体が冷めてしまう。早く暖かな部屋の穴を閉じなくてはならない。
しかしその手が止まる。
真黒なヴェールに覆われた家々の間を、白く、細やかなものが飛び回っているのに気がついたからだ。そう、雪だ。今年一番の初雪だ。
少年の住む都市は温暖で冬は乾燥ばかりしているため、雪など数回降る程度であり積もることなどそうそうない。だからこそ、ちょっとの粉雪であっても不思議と心躍る気持ちになる。今の今まで温かい部屋の中へ戻ろうと思っていた気持が、雪を喜ぶ心で塗り替えられていくことを感じる。
大野少年はそのまま傘も持たずに外へ歩き出した。それまで忌避すべきと思っていた寒さは、肌への心地よい刺激となり。薄暗くて何が潜んでいるかもわからないような胡乱な夜の雰囲気は、街灯の明かりのみに照らされる冒険心くすぐられる風景にと早変わりした。
家の前の道を左に、大通りを北上し、大きな交差点に突き当る前に小さな小道へとはいりこむ。そのまま進むと左手に小さな稲荷がある。小さな祠と古ぼけた鳥居、そして少しだけ非日常を感じさせる敷地。彼はそこまでちょっと散歩と洒落込むことにした。
昼間見なれた道を通り、稲荷へ着く。
色のはげかけた鳥居と、それをくぐるように設置された数個の敷石。稲荷の周りを取り囲む垣根とわびさびを感じさせる程度の枯れ木や下草。少年の目には、いつもと同じように見えたが、それでもどこか違うような気もして、けれどやっぱりそれは初雪と夜の帳のせいであるように思えた。
そしてふと、大野少年は誰かに呼ばれたような気がした。声をかけられたわけでもない、手招きされたわけでもないが、なんとなく祠の裏に来るように言われたような気がしたのだ。
そこには一人の少女がうずくまっていた。
白い厚手のブラウスを着て鴉の濡れ羽のような髪をした少女が、祠の下を覗き込むようにしゃがんでいた。雪の夜に、その服の白と髪の黒とのコントラストに一瞬驚き、それが少女であるとわかるとその明瞭さに見とれてしまった。全くこの日に何と偶然な服装をしていることだろうと。
「何をしているの?」
そこで少女は初めて大野少年に気がついたかように、彼のほうを向いた。切れ長の目とつんと上を向いた鼻や唇は少女を美しく見せるのに十分なものであり、黒目がちな瞳は彼女を幼くかわいらしい雰囲気に仕立て上げていた。
「こねこが、いるの。」
少女の指差した先は、祠の床下。大野少年が覗き込むとそこには確かに仔猫らしきものが見えた。寒さのせいか、いくつかの毛玉はひとまとまりになって震えていた。かわいそうに今夜の気温は仔猫の体温を奪っているに違いない。
母猫はいないのだろうか。このようにしばれた宵であるならば、親猫が子供たちを温めていてもおかしくはないと思うがどうしたのだろう。祠と地面との隙間にも、周囲にも、それと思わしき存在は見られない。
「この仔猫たちのお母さんはどこに行ったんだろう。知ってる?」
少年が少女の方に顔を向けると、その竜胆の実のような瞳と真っ向から向かい合うことになった。彼女は何を考えているか分からないような顔で純粋に見つめ返してくる。
「わからないけど、あさから、このこたちだけ。」
車に轢かれたのか、あるいは縄張り争いか、人間や他の動物に襲われたのか。少年には親猫がどれくらいの時間仔猫から離れているのが普通なのかを知らないが、きっとこの寒さで戻らないのはそういうことなのだろう。
健少年は、どうにかしてこの仔猫たちを助けたいと思った。この寒さの中で震えていることに対する憐れみや、先ほどからの何かに呼ばれている感覚、隣に座って床下を覗き込んでいるかわいらしい少女にいいところを見せたいというような感情などが混ざり合い、そういう結論に至った。
「保健所とかに連絡したほうがいいのかな。」
とたん、少女が強く大野少年の腕をつかんだ。健少年が少女のほうを向くと、強い怒気をはらんだ顔で睨みつけている。彼は、瞬間、何が彼女の逆鱗に触れたのかが分からなかった。
「ほけんじょって、ころすところでしょ。だめ。」
彼女の口から強い否定の言葉が飛び出すと、大野少年にも納得がいく。しかし、彼は自分たちだけでこの問題を解決する方法を知らなかった。保健所でも必ずしも殺されるわけではないと思っていたくらいだ。
「じゃあ、君がこの子たちを引き取ればいいじゃないか。」
つい口調が強くなる。自分の提案を否定されて心穏やかになれるほど少年は大人ではなかった。それに実際その理屈は正しい。仔猫たちを保護したいのならば自分でするべきだ。
しかし、仔猫たちを見つけた女の子は何とも言えない表情を返した。
「わたしは、むり。」
はっきりとした口調。それゆえに少年は二の句が継げず、少しいきり立っていた心が覚めていくのを感じた。理由は分からない、しかし、少女には引き取りたいと思っているのにこの仔猫たちを引き取れない理由があるのが、感じさせられる口調だった。
無言の時間が流れた。
大野少年の申し訳なさそうな顔が二人の間で謝罪の代わりになる。少女は彼の腕をつかむ力を弱め、再び仔猫たちのほうへ向きなおった。隣に座る少年が悪意からその言葉を発したわけではないとわかったのだろう。
空は暗く、稲荷の敷地の前にある街灯の光のみがひと組の人影を作り出していた。初雪はまだ降り続いていたが、積もるには地面がもっと冷たくなる必要があるだろうし、何より降雪量が少なすぎる。
この寒さの中子猫たちはそう何時間も耐えていられないだろう。
こんな奥まったところにある稲荷に、この時間に他に人など来るはずもないだろう。
それらの現実をしっかりと見据えると大野少年は心を決めた。自分の家に連れて帰ろうと。いままでペットを飼ったことなどないが、ここまで哀れを誘う子猫ならきっと両親も無碍にはしないだろう。
「ちょっと家から布を持ってくる。素手で抱えるわけにも行かないだろう」
思い立ったらそのまま行動に移す。少女に子猫たちを見ていてもらうよう頼むと、少年はきびすを返した。
元来た道を駆け足で引き返す。来たときと違い周囲の風景を眺めることもしない。
家について部屋を見渡しても適当な布はない、毛布では大きすぎて持って行くのに不便だ。タオルは残念ながら使われて適度に湿っている。あまり子猫に優しいとはいえない。
しかたなく少年は座布団をつかみ、家を飛び出した。深夜、街灯が照らす町を走る。その頭上には初雪が降っていた。