鵺―四夜
晴明とトノサが大文字山の入り口に到着した。
鵺の気配は一切しない。
「行きましょう」
『そうだね』
トノサは晴明の腕から飛び降りると、少し体を大きくさせた。
さく、さく、
落ち葉が敷き詰められた山道を、二人は黙々と歩く。
鵺の気配を感じるまで。
さく、さく、さく、
『ここまで来ても気配は無いねぇ』
「ええ・・・ですが、この先に、道が開けた場所があります。そこまで行きましょう」
『分かったよ』
二人は枝を避け、山道特有の急な段差などをいとも簡単に登り、落ち葉を踏み、道なりに進んだ。
辺りには、自分達の足音と息遣いしか音は無い。
もちろん、鵺の気配もしなかった。
もう何刻歩いているのだろう。
そんな諦めを滲ませた言葉が頭を過ぎり、晴明は自らを叱咤した。
隣を歩くトノサも同じであった。
こんなに道が入り組んでいただろうか。
二度目の叱咤を繰り返し、晴明は進んだ。
「この先です」
『近いのかい?』
「ええ」
ざぁ、と二人の間を風が通り過ぎた。
目の前にある枝を、晴明は腕で押し上げた。
急に目の前が開ける。
晴明とトノサは頷き合うと、広場の土を踏もうとした。
その瞬間。
オォ、オォ、オォ、
「鵺!」
広場の空気が変貌した。
晴明は警戒し、符を何枚か袖口から取り出した。
オォ、オォ、
啼き声が、だんだんと迫る。
どん、と地面が揺れた。
オォ、オォ、オォ、
ごう、と風が吹き荒れ、ついに鵺がその巨体を現した。
その頃晴明邸では、博雅が蝶の手当てを再開していた。
脇腹を覆っている布を取り払ってみると、まだ血が滲んでいる。
「・・・」
博雅は酒をしみこませた布を、脇腹に強く当てた。
「う・・・う、ぐ・・・」
痛みに呻く蝶に、すまぬ、と呟き、何度か消毒を繰り返した。
そして、化膿止めの薬草を軽く揉み、傷口に当て、もう一度元のように布を巻く。
博雅は、頼りない蝶の体をそっと褥に横たえた。
「このような細い体で・・・鵺と・・・」
しばらくして、規則的な呼吸が聞こえてきた。
博雅は、蝶を心配そうに見つめ、体の向きを大文字山の方向へと向ける。
「晴明、猫又殿・・・どうか無事であってくれ・・・」
博雅は下唇を噛み締め、懇願するように呟いた。
広場では、鵺と晴明たちが対峙していた。
『私にあの忌々しい矢を放ったのは誰だ・・・』
地の底を引き裂くような低い声で、鵺は唸った。
その声に臆することなく、晴明は答える。
「その人間ならば、あなた様が追い詰めたのでございましょう」
『ぬぅ・・・そうであったか・・・』
晴明は、符をしまった。
『何だい、攻撃しないのかい?』
トノサがそっと耳打ちする。
「しません」
晴明はきっぱりと言ってのけた。
『私の胴に、あの矢が刺さってからの記憶が一切無いのだ』
ぐぅ、と鵺が唸る。
やはり・・・。
晴明は今度こそ確信した。「あなた様の胴に刺さった矢は、間違った呪をかけられた破魔矢だったのです」
『何だと!』
鵺の尾の蛇が鎌首を持ち上げ、赤い目を光らせた。
『ならば・・・その矢は何処へ行ったのだ・・・』
「私の式が抜きました」
『何と!』
トノサは元の大きさに戻り、ゆっくりと晴明の足元に座り込んだ。
「ですが、その矢を抜く際に、あなた様と一戦交え負傷して帰ってまいりました」
『何!?』
鵺は、ぐお、と風を起こす勢いで真意を確かめようとする。
『本当だよ。今は邸で手当てを受けて寝ているよ』
トノサの言葉に鵺は低く呟いた。
『私ともあろうものが・・・何ということを』
鵺は晴明を真っ直ぐと見つめて言う。
『すまなかった。いくら矢のせいとは言え、お主の式を傷つけてしまうとは・・・』
「いえ・・・大事には至りませぬ」
晴明は、長き年月を生き抜いてきた大妖怪に、深く頭を下げた。
本来、鵺は人を襲ったりなどしない。
ただただ齢を重ね、京を見渡す大きな存在であるのだ。
大文字山に住まう鹿たちと戯れ、滝を見上げ、空を仰ぐ。
それが、鵺の姿である。
「それでは・・・あなた様の体に纏わりついた呪を祓わせていただきます」
『おお・・・そなたは』
「申し遅れました。私は安倍晴明、陰陽師にございます」
ざわ、と広場に風が踊る。
『安倍晴明よ、そなたの式に謝罪を頼みたい』
「いえ、我が式も分かっております。ご安心下さりませ」
そう言うと、晴明は矢の刺さっていた場所を中心に穢れを祓った。
『おお、体が軽くなった・・・感謝するぞ、安倍晴明』
晴明はもう一度深く頭を下げた。
がたり、がたり、と月明かりの道を牛のない牛車が進んでいる。
中に乗っているのは、晴明とトノサ。
トノサは疲れからか、彼の膝の上で眠っている。
がたり、がたり、がたり、
「・・・・・」
がたり、がたり、
晴明も、牛車に揺られ、いつしかうとうとしていた。
ただ一頭、残された鵺。
この先も長きに渡り、京を見守る。
「今宵は月見酒、とでもいきますか」
晴明の言葉は、月夜に溶けた。