鵺―三夜
息も絶え絶えに、晴明邸へ戻った蝶の様子を見て、晴明と博雅、猫又のトノサは思わず息を呑んだ。
あちこち切り裂かれた水干、血を流す左の脇腹、そして左手に握られた一本の破魔矢。
「蝶!」
『何てことだい!』
「・・・っ!」
晴明は、血相を変えて蝶に駆け寄った。ずる、と蝶の体が力を失う。
「蝶!何があったのです!蝶!」
まさか、と晴明は蝶に呼びかける。蝶は、晴明が従えている式の中でも一、二を争う力の持ち主である。
しかし、大文字山から戻った蝶は、この有様。
一体、大文字山で何があったのか。
晴明の腕の中、蝶は左手を持ち上げ、言った。
「あ、るじ様・・・これ、を・・・」
蝶の左手から破魔矢がカラリと地に落ちる。
それと同時に、腕にかかっている重さが増した。
蝶が気を失った。
『破魔矢・・・だね』
「布と酒を持て!褥を整えよ!」
晴明と、トノサが慌しく動き始めるその横で、博雅は、あまりの衝撃に身を硬くしていた。
小鬼たちは、二手に分かれ、一組は血止めをするための道具を取りに行き、もう一組は、蝶の体に負担がかからないように褥を整える。
『水と化膿止めの薬草も持って来るんだよ!』
トノサが小鬼達に指示を出した。小鬼たちは大急ぎで水と化膿止めの薬草も持ってくる。
「う・・・」
「蝶、少し耐えてくださいね」
晴明は、脇腹を押さえていた布を取り払うと、酒を含ませた布を強く脇腹に当てた。純度の高い酒には、消毒の効果がある。だが、激しい痛みを伴う。案の定、痛みに暴れる蝶を、力の限り押さえつける。
「う、ああ・・・!ぐ、あ!」
「蝶、耐えるのです!」
『何やってんだい!アンタも手伝うんだよ!!』
「あ、ああ!」
衝撃で固まっていた博雅を、トノサが現実に引き戻した。
「博雅!布に酒を!」
「わ、分かった!」
『替えの布を持って来るんだよ!!』
博雅が慣れない手つきで布に酒をしみこませるその横で、トノサは小鬼たちを使役し、室はしばらく騒然としていた。
「本当に・・・何があったのでしょう」
蝶の髪をなでながら、晴明は呟いた。
夕暮れの日が差し込む室の一角に用意された褥の横に、晴明たちは座っていた。
今、蝶の容態は邸に戻ってきたときよりも随分と落ち着き、浅い呼吸をしているものの、血は止まり、眠りについていた。
『この子がこんなに苦戦するなんてねぇ・・・』
トノサは、自分も蝶に触れようとして、猫であることを思い出し前足を引っ込めた。
『それよりも、これが何で鵺に刺さっていたんだろうね』
二本の尻尾で器用に破魔矢を自らの近くに持ってくると、くんくんと臭いを嗅ぎ始めた。
「その破魔矢は・・・俺が供をしていた公達の一人が持っていたのだ」
ぽつりと博雅がこぼした。
晴明とトノサは何も言わずに、博雅の話を聞く体制になった。
ひゅう、と蝶が呼吸をする。
時折苦しそうに眉をひそめる蝶の姿をちら、と見て、博雅は話を続けた。
「公達が、その破魔矢を何処から取り出したのか、俺には分からない。だが、呪を唱えていたのだけは覚えている」
晴明とトノサは顔を見合わせた。二人の間に、一つの確信が生まれた。
その公達は、呪を間違えて唱え、破魔矢だと信じ込み放った。
その、間違った呪こそ、鵺を凶暴化させた原因である。
二人は目で会話した。
博雅は俯いたまま、尚も続ける。
「・・・迂闊だった!大文字山の前を通ると言ったあの公達を俺が止めていれば・・・!晴明、すまぬ!俺のせいで、お前の式がこのような・・・!」
自責の念に駆られ、博雅は拳を握り締めた。
「・・・博雅」
『もうお止め。蝶は消えたりなんざしていないよ。アンタが悪いんじゃない』
そう言うと、トノサは二本の尻尾を一本に合わせると、破魔矢もどきめがけて振り下ろした。
パシ、と乾いた音を立て、破魔矢もどきが二つに割れる。
カラカラと情けない音を立て、矢が床に転がった。
それを見届け、静かに晴明が立ち上がる。
「どうした、晴明・・・」
「大文字山へ行ってきます。博雅はここで、蝶の様子を見ていて下さい」
『私も行くよ』
「お・・・おう」
博雅は、晴明とトノサの強い瞳に、しっかりと頷いた。
月は三日月。
暗闇が舞い降りる夜。
晴明は、トノサを抱き、大文字山へと向かった。