鵺―二夜
鵺の啼き声が、京に響いた夜が明けた。
晴明邸では、蝶が未だ褥から出てこない主を起こしにかかっていた。
「主様、朝でございます」
「・・・・・」
「主様、朝でございます」
「・・・・・・・・・・」
「主様、朝、で、ござい、ます!」
「・・・うん、はいはい・・・」
蝶が声を高くして、言葉を区切って言うと、もぞもぞと晴明が身じろぎしてようやく返事が返ってきた。
「朝でございます」
ぱん、と蝶が手を叩くと、洗面用の水桶や、鏡などを持った小鬼たちが晴明の室に集まった。
「御出仕でございます」
「あぁ・・・今日はそうでしたね・・・」
仕方ない、とばかりに出仕の支度を始めた所に、とんだ客がやってきた。
「晴明!!晴明はいるか!!」
「・・・博雅?」
息を切らして邸に飛び込んできたのは、源博雅であった。
「晴明!鵺だ!」
博雅は肩で息をしながら、「鵺が、鵺が」と繰り返す。
おかしい。
晴明と蝶は、博雅の腰に挿してある愛刀「月影丸」から漂ってくる妖しの気配をそう読み取った。
こんな朝早くから、妖したちが動くはずは無い。
「月影丸を、蝶」
「はい」
失礼いたします、と蝶は一瞬で博雅の腰から月影丸を抜き取り、晴明の元へと運んだ。
博雅は、回廊に腰を下ろし、息を整えている。
「・・・・・」
「・・・鵺の噛み跡がございます」
「・・・・・」
蝶が指摘したのは、刀身が収まっている鞘であった。蝶は続ける。
「鵺は、大文字山に今や唯一頭しかおりません」
「月影丸を、博雅に」
蝶は、このとき晴明が何を考えているのか分からなかった。
だが、主の為に在るのが式。
蝶は素直に博雅へと月影丸を返した。
「大文字山へ行ったのですか」
「あ、ああ・・・公達の供だ」
「なるほど。そして、鵺が公達に襲いかかろうとしたわけですね」
「そうだが・・・何故それを」
晴明はゆっくりと博雅の隣へ腰を下ろした。
「その月影丸から読み取ることが出来たのです」
そして、今持ち主の手に戻ったことでさらに強く感じられる、と晴明は言った。
「俺は、呪になると弱いが・・・そういうことがあるのだな」
大きく息をして、博雅は自分自身を落ち着けた。
「蝶」
「はい」
晴明は、命じた。
大文字山へ行け、と。
「何と・・・いうことが・・・」
大文字山へ到着した蝶が見たものは、無残にも破壊された牛車と、折れた太刀・・・。
まるでここだけ戦が起こったようであった。
「何故・・・本来鵺は、人を襲ったりなどしないはず・・・」
オォ、オォ、オォ、
「鵺!」
蝶は風を切り、空中へと移動した。
枝に立ち、辺りを見回す。
「凶暴な啼き声・・・やはり、何かが」
そのとき、ズン、と山が揺れた。
地震などではなかった。
ズン、ズン、
「く・・・!」
続けざまに山が揺れ、枝に立っていられなくなった蝶が地へ降り立った。
そこで蝶は、鵺の尾にあたる蛇を確認した。
博雅の持っていた「月影丸」から漂う気配と同じであった。
次の瞬間、木をなぎ倒し、天にも響かんというほどの咆哮を上げ、鵺の頭が現れた。
「何という」
巨大な、という蝶の言葉は、鵺の振り下ろした鉤爪によって飲み込まれた。
どう、と蝶の横に立っていた木が右に倒れた。
この鵺の爪にかかったら、いくら式とは言え、再起不能になる。
蝶は本能で悟った。
鵺の攻撃は留まることを知らない。
両の爪が蝶を狙う。尾の蛇は、大きく口を開き威嚇を繰り返しながら、爪とは別の角度から蝶の喉笛を噛み千切ろうと狙いを定めている。
その攻撃をかわしながら、蝶はある物を見つけた。
「あれが、原因か!」
蝶が見つけたのは、鵺の胴に深々と突き刺さった、一本の破魔矢であった。
「く!」
彼がその破魔矢を引き抜こうと、鵺の爪をかわし胴に飛び乗った。
そのときであった。
ずくり、
「う・・・!」
激痛が、左脇腹を襲った。
破魔矢を引き抜こうとした蝶の左脇腹には、尾の蛇が喰らいついていた。
油断した!
蝶は脇腹から血が滴り落ちるのを気に留めず、残り少なくなった力で、破魔矢を引き抜いた。
オォ!オォォオ!
矢を抜くと同時に鵺が咆哮し、蝶を胴から振り落とした。
尾の蛇に喰いつかれた水干は、左脇腹の部分だけ無くなっていた。
だが、そこからは未だ真っ赤な血が噴き出している。
破魔矢を抜かれた痛みに咆哮する鵺を視界の端に捉え、蝶は最後の力を振り絞り、晴明邸へと自らを移動させた。