大鼠
小雨の降る夜であった。
一寸先も見えない、漆黒の闇の中、一匹の猫を抱いて、蝶が歩いていた。
『いつになったら着くんだい。早く温まりたいよ』
「我慢なさってください・・・あと少しでございます」
蝶が抱いている猫は、人語を話した。
猫又、である。
『あんたもよく私を見つけられたねぇ。夜目は利くのかい?』
「私は式でございます。ただこうして人の形を保っているだけなのです」
『そうかいそうかい。それなら納得がいくよ』
猫又は笑った。
蝶は少し歩調を速めた。
式とは言え、今は人の形。
体が冷える。
『ここかい?』
「はい」
流石は齢を重ねてきた猫である。
土御門の安倍晴明邸をぴたりと言い当てた。
蝶は音も無く門をくぐった。
『おやおや・・・眠ってしまったじゃないか』
猫又は、横になり規則正しい寝息を立てている蝶を見て言った。
「疲れているのでしょう」
晴明は、少し無茶をさせすぎたか、と呟くと、小鬼たちに上掛けを持ってくるように命じた。
程なくして、数匹の子鬼たちが上掛けを運んできた。
常人が見れば、さぞ奇怪な光景であろう。
室に晴明、その傍には眠る少年、二本の尻尾を揺らめかせる猫又、ひとりでに動く上掛け。
奇怪なことこの上ない。
『あとは私がやってあげるよ。お下がり』
猫又が上掛けを前足で掴み、小鬼たちに言うと、彼らは深々と礼をすると、その場を去った。
『まだ幼いじゃないか・・・これで私を見つけられるとは、大したものよ』
「恐れ入ります」
猫又は笑うと、人間のように二足で立ち、上掛けを蝶の体にかけてやった。
そして、晴明の傍へ行き、よいしょ、と座り酒の注がれた杯を手にした。
ちろちろと酒を舐めながら、猫又は言う。
『私に何か用でもあったのかい?』
「ええ、だからこそお呼びしたのですよ」
晴明は、空になった猫又の杯に酒を注ぎ、続けた。
「最近、屍が喰い荒らされている、との話を博雅から聞きました。内裏も騒がしいとの噂で」
『鼠かい?』
猫又は、酒を舐めながら、瞳だけを晴明に向けた。
「もうご存知でしたか」
『鼠の臭いには敏感でね。血生臭いことこの上ない』
猫又はぺろりと酒を舐め終え、尚も続ける。
『河原岸に流れ着いた屍を喰っているのを見ていたよ』
「ほう・・・」
『身の丈は・・・猫だから分からないね』
そう言うと、蝶のほうを振り向き、ずれた上掛けを直しに立った。
「博雅の話によると、身の丈は一尺ほどあったとか・・・」
『それで?何でわざわざ私をここに呼んだんだい?』
晴明は笑みを崩さずに猫又のほうを向く。
『大体の察しはついてるよ。私の力を引き出そうってことだね?』
「まぁ・・・それに近いですけれどね」
『ふふふふ・・・まぁいいよ。鼠で河原が血生臭くなるのは嫌だからね。協力するよ』
「感謝します」
だけどね、と猫又は条件を出した。
蝶は、その条件も知らず、眠り続けていた。
漆黒の夜空に下弦の月が輝く頃。
河原に、妙な音が響く。
ごり、ごり、
ばり、ばり、べり、
肉が剥ぎ取られ、骨のかじられる音だ。
河原に流れ着いた屍を喰っているのは、身の丈一尺ほどの大鼠であった。
ごり、ごり、
骨をかじり、血を舐める音が河原に木霊する。
その光景を、晴明と蝶、そして猫又は冷静な感情で見つめていた。
「噂どおりでございますね」
『ああ、嫌だ嫌だ。血生臭い上に鼠のきな臭い臭いがするよ』
「トノサ殿、我々にお力を・・・」
晴明は、悪態をつく猫又―――トノサに静かに言った。
『分かっているよ。ちゃんと結界を張っておくれ』
「お任せください」
す、と蝶が動く。
トノサは軽く地面に降り立つと、晴明が呪を唱え始めるのと同時に、身の丈二尺もあろうかという、まさに本来の妖しの姿となり、人肉を剥ぎ取ろうとしていた大鼠に飛び掛った。
「蝶」
「はい」
晴明の鋭い呼びかけに、蝶は呪を張り巡らせた短刀を袖から取り出し、トノサを援護する位置に立つ。
『があぁぁああ!!』
トノサに噛みつかれつつも、その鋭い前歯が彼女の喉元を狙っているのを、蝶は見逃さなかった。
「お退きくださりませ!」
『ぐおあぁあ!』
トノサは蝶の声に、大鼠に立てていた刃の如き爪を引き抜き、飛びのいた。
その瞬間、トノサの喉元があった位置に、大鼠の前歯が突き刺さった。
「破!!」
ガツリ、と音を立て、蝶が短刀を大鼠の左目に突き立てる。
おおお、と醜い叫び声を上げ、大鼠が悶え苦しむ。
『もう一つの目も見えなくしてやろうかね!!』
びゅ、と風を切り、トノサの爪が大鼠の右目を潰した。
『があぁあああ!!』
両目の視力を失った大鼠は、さして長くもない両前足を振り回した。
『たかが鼠が足掻くんじゃないよ!!』
ざくり、とトノサの爪が大鼠の喉笛を引き裂いた。
「蝶!トノサ殿!」
晴明の呪が完成したのを、二人は本能で捉え、その場から引き下がった。
大鼠は、影縫いの呪の中で浄化を受け、最後の悪足掻きをしていた。
「・・・」
『・・・』
蝶とトノサは、だんだんと形を無くしていく大鼠を見ていた。
『ぎゃあぁああぁ・・・!』
「破!」
晴明の声と同時に、大鼠の姿は跡形も無く消えた。
『・・・さて、これでこの河原もこれで静かになる』
トノサは満足げに言うと、元の猫又の大きさとなった。
「そうですね。内裏の噂も静まりましょう」
下弦の月が、帰路につく牛の無い牛車を照らしていた。
さわ、と優しい風が、眠る蝶の黒髪を揺らす。
風に遊ばれる髪を優しくなでる晴明の傍には、猫又のトノサが丸まっていた。
そう、トノサが大鼠を退治する代わりに出した条件とは、晴明邸に住まうことだったのだ。
さわさわ、さわさわ、
「こんな生活も・・・悪くありませんね」
晴明はどこまでも澄み切った青空を見上げて小さく呟いた。