九十九神
「只今戻りました」
「来なさい、蝶」
「はい、主様」
蝶は草履を脱ぎ、階を上がり、主である安倍晴明の元へと移動した。
そう、蝶は晴明の式神であった。
「・・・・・という話でございました」
「なるほど・・・九十九神ですか」
「はい」
屋敷の中に、さわさわと風が舞い込む。
先刻、蝶は藤原家の屋敷へ行っていた。どうも、晴明の仕える藤原道長の周りで、妖しの事柄が起こっているようなのだ。
晴明は、蝶を自分に似せ、道長の話を聞いてくるように命じ、今、蝶が戻ったのである。
「これは早々に片付けた方がよろしいかと・・・」
「・・・まぁ、焦ることは無いでしょう。明日の夜、伺うように今しがた式を飛ばしておきましたから」
「・・・・・随分とのんびりしたものですね」
ちょっとした皮肉を込め、蝶は晴明の杯に酒を注ぐ。
晴明は、蝶の皮肉を左から右へと流し、酒を一口飲み干した。
蝶は酒を盆に置くと、ゆっくりと横になった。
「おや、どうしました?」
「人の形を保っていると疲れるのでございます・・・」
晴明は、くす、と笑って、蝶の美しい黒髪を結っている紐を解く。
さら、と蝶の黒髪が床に広がった。
「少し眠ると良いでしょう。明日の夜には仕事ですから」
「お酒はほどほどにしておいて下さいね・・・」
「分かってますよ・・・と」
蝶は、既に規則正しい寝息を立てていた。よほど疲れたのだろう。
晴明は、杯に残っている酒を飲み干すと、杯を床に置いた。
そして、庭へと視線を向ける。
「・・・・・お久しぶりですね、道満殿」
「気付いておったか、晴明よ」
「・・・ええ」
ひゅ、と庭に茶色の水干姿のぼさぼさ頭が現れた。
「さ、こちらで酒でもどうです?」
晴明が勧めると、うむ、と道満は頷き、蝶を起こさぬように床に胡坐をかいた。道満は、いつの間にか用意されていた杯を手に取り、酒を並々と注ぎ、一気に飲み干した。
「久しぶりの酒だ。なかなかいける」
「それは良かった」
晴明が勧めるより先に、道満は手酌を始めていた。
「相も変わらず美しい式よ」
「・・・蝶ですか?」
「そうだ」
道満は眠っている蝶をちらりと見て、言った。
「今日、道長の屋敷にお主の姿をしたこの式が来ておったな」
「よくご存知で」
晴明は笑った。
「明日に道長のところへ行くそうだな」
「やはりご存知でしたか」
晴明は笑みを崩さず言った。
「放っておいたわしの式が伝えに来おってな」
手酌でぐい、と道満は酒をまた飲み干す。
「お主の力、拝見させてもらうぞ」
「それはそれは・・・手が抜けませんね」
「わしを術比べで負かしておいてよく言うわ」
道満は低く笑った。
蝶が小さく身じろぎする。
「わしはこれで暇する」
「お早いお帰りですね」
「そのかわりにこの酒、もらっていくぞ」
「どうぞどうぞ」
くくく、と低い笑いと共に道満は庭に下り、裸足の足で屋敷の門を潜り抜けていった。
蝶がす、と白魚のような指で結界を張っていく。
「のう、晴明よ・・・わしは恐ろしいのじゃ・・・」
「ご安心くださりませ・・・私がおりますゆえ・・・」
蝶が音も無く晴明の横に座った。
「張り終わりました・・・」
晴明は蝶に頷く。
「道長様、私が良いと言うまで、決して声をあげぬように・・・」
「・・・・・主様、来ました」
道長は、晴明の言葉に何度も頷き、その横を、するりと蝶が駆け抜けた。
晴明が呪を唱え始める。
蝶が呪に従い、九十九神たちの周りに結界を張りはじめた。
琵琶に手足が生えた異形を先頭としていた九十九たちは、蝶の張った結界で、バラバラに動き始める。どうやら琵琶の異形が親玉のようだ。
鏡に足の生えた異形が、無駄に飛び上がり、結界から飛び出そうとするが、その努力は蝶によって無駄なものと化す。
蝶がふわりと宙に舞った。
そして。
「「浄化!」」
晴明と蝶の声が重なると同時に、ガラガラと物の重なり合う音が響いた。
「もうよろしいですよ、道長様」
「お・・・おお・・・ようやった、晴明」
「いえ、当然のことでございます」
道長が安堵の息を吐く。
すると、蝶が先ほどまで九十九であった物を抱えてやってきた。
「道長様、これに見覚えはございますか?」
道長はしばらく考え込み、手を叩いた。
「そこの倉にあった物じゃ」
「倉、でございますか・・・」
晴明は道長の言う倉を見ると、蝶を下がらせ、一枚、符を道長に手渡した。
「これをあの倉の梁の上にこの符を置けば、もうこのようなことは起こりませぬ。ご安心くださいませ。九十九であった物は私が引き取りますが・・・よろしいですか?」
「おうおう、そうしてくれ」
「それでは・・・私どもは是にて失礼いたしまする」
「毎度毎度すまぬな、晴明よ」
「いえ、道長様に仕える身、当然のことでございます」
晴明と蝶は、道長に礼をすると道長の室を後にした。
「・・・これで道長様もご安心ですね、主様」
「そうですね・・・九十九でしたから簡単に終わりましたね」
二人は牛車に乗り込んだ。
がたん、と牛車が揺れ、土御門の屋敷まで二人を運び始める。
「主様・・・いくら九十九とは言え、油断は禁物です」
「はいはい」
晴明は蝶の言葉をさらりと流し、御簾を上げて、夜空を見上げた。
満天の星が輝く夜であった。