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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

庭に咲かなかった花

作者: まむ
掲載日:2026/05/26

第一部


四人家族



プロローグ


事件記事


佐藤家の事件は、母親による一家殺傷事件として報じられた。


死亡したのは、父、長女、長男。


生き残ったのは、母親だけだった。


八月二十一日午前零時過ぎ。

横浜市青葉区の住宅街で、近隣住民から一一〇番通報があった。


「女性の叫び声がした」

「何かが割れるような音がした」

「庭先に人影が見えた」


通報の内容は、はっきりしなかった。


警察官が駆けつけた時、佐藤家の一階リビングには、会社員の佐藤誠司さんと長女の遥さんが倒れていた。


二人とも、すでに死亡していた。


長男の和馬くんは、当初、自宅二階の子供部屋で発見されたと報じられた。


だが、数日後、その報道は訂正された。


和馬くんの遺体は、自宅の庭から発見されていた。


母親の佐藤美沙容疑者は、住宅から約三百メートル離れた児童公園で発見された。


裸足だった。


衣服には血痕があり、足の裏には黒い土が付着していた。


警察官が名前を尋ねると、美沙はしばらく黙っていたという。


その後、小さな声でこう答えた。


「私は、母親です」


翌朝の新聞には、その言葉は載らなかった。


見出しになったのは、もっとわかりやすい言葉だった。


「私がやったのだと思います」


近隣住民は、夫の誠司さんについてこう語った。


「本当に優しいご主人でした。奥さんの体調がよくない時も、よく支えていて。学校や近所への連絡も、だいたいご主人がされていたと思います」


また別の住民は、こう話した。


「奥さんは少しぼんやりしていることがありました。でも、ご主人がいつもそばにいたから、大丈夫だと思っていました」


テレビは、事件をこう呼んだ。


“壊れた母親の家”。


だが、佐藤家の中で何が壊れていたのかを、正確に知る者はもういなかった。


残されたのは、母親の日記。

長女の自由帳。

父親の手帳。

そして、庭の土だけだった。




母の日記


六月一日


和馬が朝顔の種をもらって帰ってきた。


学校で配られたものらしい。


茶色い小さな封筒に、ひらがなで「さとうかずま」と書かれていた。


和馬はそれを両手で持って、私に見せた。


「庭に植えていい?」


もちろん、と答えると、和馬は少しだけ笑った。


この子は、笑う時にあまり声を出さない。


遥はすぐに声を出して笑う。

和馬は、口元だけで笑う。


夕方、四人で庭に出た。


庭といっても広くはない。


物干し台と、古いプランターが二つ。

端の方に、少しだけ土の場所がある。


和馬は迷わず、その隅を指さした。


「ここ」


そこは塀に近くて、日当たりがあまりよくない。


「もっとこっちの方がいいんじゃない?」


私が言うと、和馬は首を振った。


「ここがいい」


「どうして?」


「ここが、ぼくの場所っぽい」


遥が少し笑った。


「場所っぽいって何?」


和馬はむっとした顔をした。


「いいじゃん」


夫が物置から小さなスコップを持ってきた。


「和馬が決めたなら、そこにしよう」


そう言って、土を少し掘ってくれた。


和馬が種を置く。

遥が水を汲む。

夫が支柱を立てる。


私は途中で味噌汁の火を思い出して、台所へ戻った。


窓から見ると、三人が庭にしゃがんでいた。


夫の白いワイシャツ。

遥の赤いヘアゴム。

和馬の小さな背中。


普通の夕方だった。


夕飯は鮭。


和馬は皮を残した。

夫が食べた。


遥が、


「お父さん、何でも食べるね」


と言った。


夫は笑って、


「残りもの係だから」


と言った。


遥は、


「私は違うからね」


と言った。


「何が?」


「残りもの係じゃない」


夫は少し笑って、


「遥はお姉ちゃん係かな」


と言った。


遥は何も言わなかった。


夜、和馬は寝る前にもう一度庭を見たいと言った。


「種は逃げないよ」


夫がそう言うと、和馬は少し笑った。


今日は四人で朝顔の種を植えた。



遥の自由帳


六月一日


和馬が朝顔を植えた。


場所は庭の端。


日があまり当たらないところ。


和馬は「ここがぼくの場所」と言った。


お父さんは何も言わずにスコップを持ってきた。


お母さんは味噌汁の火を見に行った。


夕飯は鮭。


和馬は皮を残した。


お父さんが食べた。


お父さんは残りもの係だと言った。


私は違うと言った。


お姉ちゃん係とも違う。


係じゃない。




母の日記


六月三日


病院の日。


夫が半休を取って付き添ってくれた。


「一人で行けるよ」


と言ったけれど、夫は、


「俺も先生に聞きたいことがあるから」


と言った。


診察室では、私より夫の方がよく話した。


夜中に起きること。

薬を飲んだか忘れること。

台所の火を消したか何度も確認すること。

階段の前で立ち止まること。


私はそんなに色々していただろうかと思った。


先生は優しく頷きながら聞いていた。


「睡眠は、まだ浅いようですね」


夫が答えた。


「はい。本人は覚えていないこともあります」


本人。


その言葉を聞いて、私は少しだけ変な感じがした。


でも、夫はいつも私のことをよく見てくれている。


私自身よりも。


先生は薬の量を変えずに、しばらく様子を見ると言った。


帰りに夫がプリンを買ってくれた。


「頑張ったから」


と言った。


家に帰ると、遥が食卓で宿題をしていた。


和馬は庭を見ていた。


「まだ芽、出ない?」


と聞くと、


「まだ」


と言った。


夫は薬のケースを新しくしてくれた。


朝は白。

夜は青。


曜日ごとに小さな蓋がついている。


「これなら間違えにくいと思う」


夫がそう言った。


私はありがたいと思った。


夜、プリンを食べた。


和馬に少しあげた。


遥にも少しあげた。


私の分はほとんどなくなった。


でも、みんなで食べると、その方がおいしい。



遥の自由帳


六月三日


お父さんが薬のケースを買ってきた。


白と青。


朝と夜で違うらしい。


お父さんが中身を入れていた。


お母さんは見ていなかった。


お母さんは「助かる」と言った。


お父さんはケースを食器棚の上に置いた。


お母さんには届きにくい場所。


でも、お父さんなら届く。


プリンを食べた。


和馬はカラメルのところを多く食べた。


お母さんは笑っていた。




母の日記


六月六日


朝顔はまだ芽を出さない。


和馬は毎朝見る。


「まだ?」


「まだだね」


「失敗?」


「そんなにすぐ出ないよ」


遥は少し呆れて、


「見ても早くならないよ」


と言った。


和馬は何も言い返さなかった。


夫は出勤前に庭へ出て、和馬の隣にしゃがんだ。


「咲いたら写真撮ろうな」


和馬は頷いた。


夫は子供に声をかけるのが上手い。


私なら、ちゃんと水をあげたかとか、日当たりが悪くないかとか、そういうことを先に言ってしまう。


夫は違う。


まず、子供のしたことをそのまま受け止める。


夕方、階段の掃除をした。


階段の柱に、小さな金具の跡が残っている。


昔つけた柵の跡だと思う。


和馬が小さい頃のものだろうか。


遥だったかもしれない。


どちらにしても、もう使わないものだ。


剥がれかけた星のシールもあった。


取ろうとしたけれど、うまく剥がれなかった。


そのままにした。


夜、夫が階段を見て、


「そこ、掃除してくれた?」


と言った。


「うん。シールは取れなかった」


夫は階段の下を少し見て、


「無理に剥がさなくていいよ」


と言った。


それだけだった。



遥の自由帳


六月六日


朝顔はまだ。


和馬は毎日見ている。


お父さんが写真を撮ろうと言った。


和馬は嬉しそうだった。


階段のシールがまだある。


星の形。


お母さんが剥がそうとしていた。


お父さんが「無理に剥がさなくていい」と言った。


剥がせばいいのに。


階段に物を置くのは危ない。


シールは物じゃないけど、見るとそこに目が行く。


階段はちゃんと見て降りた方がいい。




母の日記


六月十日


夜中に目が覚めた。


台所の電気がついていた。


一階へ降りると、夫がシンクの前に立っていた。


「起こした?」


夫は小さな声で言った。


「ううん。何してるの?」


「コップ割っちゃって」


床に新聞紙が敷かれていた。

濡れた布巾もあった。


私は寝ぼけていて、あまりよく見なかった。


「大丈夫?」


「大丈夫。破片あると危ないから、先に寝てて」


夫はいつも片づけが早い。


私が慌てる前に、たいていのことを終わらせている。


水を飲んで、二階へ戻った。


階段を上がる時、少しだけ足が止まった。


夜の階段は、昼よりも長く見える。


朝、台所はきれいになっていた。


割れたコップのことを聞くと、夫は、


「透明のやつ」


と言った。


透明のコップはいくつもある。


どれがなくなったのかは、わからなかった。


朝食の時、和馬が、


「どのコップ?」


と聞いた。


夫は、


「もう片づけたよ」


と言った。


和馬はそれ以上聞かなかった。


遥は食パンを小さくちぎって食べていた。


「遅れるよ」


と言うと、


「わかってる」


と言った。



遥の自由帳


六月十日


夜中に音がした。


朝、お父さんがコップを割ったと言った。


透明のやつ。


透明のコップはいっぱいある。


和馬がどのコップか聞いた。


お父さんは「もう片づけた」と言った。


お父さんは片づけるのが早い。


お母さんはあまり見ていない。


私はパンを食べた。


コップが一つなくなっても、誰も困らない。




母の日記


六月十二日


和馬が給食を残したらしい。


連絡帳に「少し元気がないようでした」と書かれていた。


熱はない。


咳もない。


でも、少し顔色が悪い気がした。


夫が帰ってきてから、和馬の額に手を当てた。


「熱はないな」


「病院行く?」


私が聞くと、夫は首を振った。


「明日まで様子見よう。疲れかもしれない」


その言い方が落ち着いていたので、私も安心した。


夜、和馬は夫と将棋をした。


最近、夫が教えている。


私は将棋がわからない。


遥はソファで本を読んでいた。


「お父さん、わざと負けてる?」


遥が聞いた。


夫は、


「負けてない。追い込まれてる」


と言った。


和馬は少し嬉しそうだった。


遥は本から目を離さず、


「ふうん」


と言った。


夫が、


「遥もやる?」


と聞くと、


「私はいい」


と答えた。


「昔はやってたのに」


夫が言うと、遥は、


「昔はね」


と言った。


それ以上は何も言わなかった。



遥の自由帳


六月十二日


和馬が給食を残した。


お母さんが心配していた。


お父さんが熱を見た。


病院には行かなかった。


夜、和馬とお父さんが将棋をした。


お父さんはわざと負けそうにしていた。


和馬は気づいていなかった。


私はやらなかった。


昔はやっていた。


昔のことを言われるのは好きじゃない。


お父さんは昔のことをよく覚えている。


覚えていないふりをする時もある。




母の日記


六月十五日


診察の日。


夫がまた付き添ってくれた。


薬のケースも持ってきてくれた。


先生はそれを見て、


「きちんと管理されていますね」


と言った。


夫は、


「僕が見た方が本人も安心するので」


と答えた。


私は頷いた。


実際、その方が安心する。


自分で管理しようとすると、飲んだかどうかわからなくなる。


診察の途中で、先生が、


「以前、大きく調子を崩された時のことを思い出すことはありますか」


と聞いた。


私は少し黙った。


以前。


いつのことだろう。


夫がすぐに言った。


「最近は落ち着いています」


先生は夫を見て、頷いた。


「そうですね。無理に触れる必要はありません」


その話はそこで終わった。


帰り道、私は夫に聞いた。


「以前って、何のこと?」


夫は信号を待ちながら、


「昔のことだよ」


と言った。


「昔?」


「美沙が一番つらかった時期」


「私、そんなに悪かった?」


夫は少し笑った。


「今は落ち着いてる。それでいいよ」


それでいい。


夫がそう言うと、本当にそれでいい気がする。


夜、薬を飲んだ。


夫が水を持ってきてくれた。


遥がこちらを見ていた。


「どうしたの?」


と聞くと、


「別に」


と言った。



遥の自由帳


六月十五日


お母さんの病院の日。


お父さんが薬のケースを持っていった。


帰ってきてから、お母さんは少し静かだった。


お父さんが水を持ってきた。


お母さんは薬を飲んだ。


お父さんはお母さんが飲むまで見ていた。


お母さんは気づいていない。


私は見ていた。


お父さんは、見ていることが多い。


でも、見ていないふりも上手い。




母の日記


六月十八日


朝顔の土が少し盛り上がっているように見えた。


和馬は芽だと思ったらしい。


でも近づいて見ると、ただの土だった。


「もう少し待とうね」


と言うと、和馬は頷いた。


遥が、


「水あげすぎなんじゃない?」


と言った。


和馬は、


「そんなにあげてない」


と言った。


「昨日もあげてたじゃん」


「ちょっとだけ」


「ちょっとじゃないよ」


遥の言い方は少し強かった。


「遥」


私が名前を呼ぶと、遥はすぐに、


「ごめん」


と言った。


夫が窓から顔を出して、


「朝顔もプレッシャーだな」


と言った。


和馬は笑った。


遥も少し遅れて笑った。


夕方、食器棚の下の段を整理した。


奥から小さな茶碗が出てきた。


白地に黄色い花の絵。


和馬のものにしては小さすぎる。

遥のものだっただろうか。


見覚えはある。


でも、いつ使っていたのかは思い出せない。


捨てようか迷っていると、夫が台所に入ってきた。


「それ、まだあったんだ」


「誰のだっけ?」


夫は少しだけ黙って、


「古いやつだよ。もう使わない」


と言った。


そう言って、茶碗を棚の奥へ戻した。


捨てなくていいのか聞こうと思ったけれど、夫はすぐに冷蔵庫を開けて、


「牛乳、もうないね」


と言った。


牛乳を買うのを忘れていた。


明日買う。



遥の自由帳


六月十八日


朝顔の土が少しふくらんでいた。


芽じゃなかった。


和馬は少し残念そうだった。


お母さんが小さい茶碗を出していた。


黄色い花の茶碗。


お父さんが棚の奥へ戻した。


お母さんは誰のか聞いた。


お父さんは「古いやつ」と言った。


古いやつ。


それで終わり。


お父さんは牛乳の話をした。


お母さんは牛乳のことをメモしていた。




母の日記


六月二十日


朝、起きるのが遅くなった。


夫が朝食を作ってくれていた。


トースト。

ゆで卵。

ヨーグルト。

小さく切ったりんご。


遥は制服を着ていた。

和馬は牛乳を飲んでいた。


「ごめん、寝坊した」


と言うと、夫は、


「たまにはいいよ」


と言った。


和馬はゆで卵の黄身を残した。


夫が食べた。


遥が、


「また?」


と言った。


和馬は、


「白いところの方が好き」


と言った。


夫が笑って、


「変なやつ」


と言った。


普通の朝だった。


朝食のあと、夫が学校からのプリントを確認していた。


「遥、これ提出明日まで」


「知ってる」


「和馬のもある?」


「たぶんランドセル」


夫は和馬のランドセルを開けて、プリントを出した。


私はそれを見て、少し申し訳なくなった。


本当なら私が見るべきなのに。


夫は、


「いいよ。気づいた人がやれば」


と言った。


そういうところが、夫らしい。



遥の自由帳


六月二十日


お母さんは朝起きてこなかった。


お父さんが朝ごはんを作った。


りんごの皮が厚かった。


和馬が「もったいない」と言った。


お父さんがプリントを見ていた。


私のも、和馬のも。


お母さんは「ごめん」と言った。


お父さんは「気づいた人がやれば」と言った。


お父さんは気づくことが多い。


多すぎるくらい。




母の日記


六月二十三日


和馬が夕飯前にソファで眠ってしまった。


遥が毛布をかけていた。


「最近、和馬よく寝るね」


と言うと、遥は、


「学校疲れるんじゃない」


と言った。


夫も、


「成長期だろ」


と言った。


夕飯の頃になっても起きなかったので、夫が二階へ運んでくれた。


「重くなったな」


夫がそう言った。


和馬は起きなかった。


夜中に一度、目が覚めた。


リビングに行くと、ソファは空だった。


二階は静かだった。


翌朝、和馬は食卓にいた。


少し眠そうだったけれど、パンを食べていた。


「昨日、ソファで寝ちゃったね」


と言うと、


「覚えてない」


と言った。


夫が、


「ぐっすりだったもんな」


と言った。


遥は何も言わなかった。



遥の自由帳


六月二十三日


和馬がソファで寝た。


お父さんが二階に運んだ。


「重くなったな」と言った。


お母さんは見ていた。


和馬は起きなかった。


夜、お父さんがもう一度二階へ行った。


トイレかもしれない。


朝、和馬は食卓にいた。


お母さんは安心していた。


お父さんはコーヒーを飲んでいた。




母の日記


六月二十五日


夢を見た。


庭の朝顔に水をあげている夢。


水は土に染み込まず、表面に溜まっていた。


小さな水たまりの中に、青いものが浮かんでいた。


靴のようにも見えた。

花びらのようにも見えた。


目が覚めると、喉が渇いていた。


夫に話すと、


「夢だよ」


と言われた。


「最近、朝顔のことを気にしてるから」


そうかもしれない。


朝、和馬に夢の話をした。


「咲いた?」


と聞かれた。


「咲かなかった」


と言うと、和馬は少し残念そうな顔をした。


「じゃあ正夢じゃないといいな」


「大丈夫。咲くよ」


そう答えた。


遥がその会話を聞いていた。


「咲かなかったら?」


遥が言った。


和馬は少し考えて、


「待つ」


と言った。


遥はそれ以上何も言わなかった。



遥の自由帳


六月二十五日


お母さんが夢を見た。


朝顔の夢。


和馬は「咲いた?」と聞いた。


お母さんは「咲かなかった」と言った。


和馬は「正夢じゃないといいな」と言った。


私は「咲かなかったら?」と聞いた。


和馬は「待つ」と言った。


待つのは、得意な人と苦手な人がいる。


和馬は得意そう。


お母さんも得意そうに見えるけど、たぶん違う。


お父さんは待たない。


先に決める。



十一


母の日記


六月二十七日


雨。


和馬が傘を忘れて帰ってきた。


靴が濡れていて、玄関に泥が落ちていた。


夫がそれを拭いてくれた。


「ごめんね」


と言うと、


「美沙が謝ることじゃないよ」


と言った。


私は何でも自分のせいにしてしまう。


子供が忘れ物をするのも。

部屋が散らかるのも。

夫が疲れているのも。


夫はいつも、それを否定してくれる。


夜、和馬が朝顔を見に行こうとしていた。


「雨だよ」


と言うと、


「ちょっとだけ」


と言った。


遥が、


「明日でいいじゃん」


と言った。


和馬は少し迷って、


「うん」


と言った。


夫はその様子を見て、


「明日、晴れるといいな」


と言った。


それだけだった。



遥の自由帳


六月二十七日


雨。


和馬が傘を忘れた。


玄関が汚れた。


お父さんが拭いた。


和馬はごめんなさいと言った。


お父さんはいいよと言った。


夜、和馬が朝顔を見に行こうとした。


私は明日でいいと言った。


和馬は行かなかった。


お父さんはそれを見ていた。


お父さんは、止める時と止めない時がある。


どっちも同じ声で言う。



十二


母の日記


六月二十九日


調子が良かった。


洗濯を二回した。

冷蔵庫を整理した。

遥の体操服のゼッケンを縫った。


和馬の給食袋も洗った。


でも一枚足りなかった。


夫に聞くと、


「学校に置いてきたんじゃない?」


と言った。


そうかもしれない。


和馬に聞くと、


「知らない」


と言った。


「学校?」


「たぶん」


夫が、


「明日見てきな」


と言った。


和馬は頷いた。


夜、古いアルバムを少し整理した。


遥の入学式。

和馬の七五三。

夫の実家へ行った時の写真。


一枚だけ裏返しになっていた。


手に取ろうとした時、夫がリビングに入ってきた。


「何見てるの?」


「アルバム」


夫は私の手元を見た。


「懐かしいね」


そう言って、テーブルの上の写真をまとめてくれた。


「埃っぽいから、今日はこのくらいにしよう」


私は頷いた。


アルバムはまた棚に戻した。



遥の自由帳


六月二十九日


お母さんがアルバムを見ていた。


裏返しの写真があった。


お父さんが来た。


お母さんは写真を見なかった。


お父さんがまとめて棚に戻した。


「埃っぽいから」と言った。


お母さんは頷いた。


裏返しの写真は、まだ裏返しのまま。


誰も見ない写真は、表でも裏でも同じ。



十三


母の日記


七月一日


朝顔はまだ芽も出ない。


和馬はもうあまり見に行かなくなった。


代わりに遥が水をあげている。


「優しいね」


と言うと、


「別に」


と答えた。


遥は最近、「別に」が多い。


思春期だろうか。


夫に言うと、


「女の子は早いからね」


と言った。


夕飯の時、和馬はあまり話さなかった。


夫が、


「具合悪い?」


と聞くと、和馬は首を振った。


「眠いだけ」


「早く寝た方がいいな」


夫がそう言った。


和馬は頷いた。


遥は食器を運んでくれた。


「ありがとう」


と言うと、


「別に」


と言った。


やっぱり最近、多い。



遥の自由帳


七月一日


朝顔はまだ出ない。


和馬は見に行かない。


私が水をあげた。


お母さんが「優しいね」と言った。


優しいわけではない。


水をあげる人がいないだけ。


和馬は眠そうだった。


お父さんが「早く寝た方がいい」と言った。


和馬は頷いた。


お父さんが言うと、みんな頷く。


お母さんも。


和馬も。


私も、必要なら頷く。



十四


母の日記


七月二日


朝、和馬の部屋の前にランドセルが置いてあった。


珍しい。


いつも玄関に置きっぱなしなのに。


ドアは閉まっていた。


夫が、


「昨日疲れてたみたいだから、今日は休ませよう」


と言った。


「熱ある?」


「少し。朝、測った」


そう言われて安心した。


私は見ていなかったけれど、夫が見てくれている。


学校への連絡も夫がしてくれた。


「少し熱っぽいので、今日は休ませます」


電話の声は、いつもより少し低かった。


丁寧で、落ち着いた声。


私はああいうふうに話せない。


朝食は三人で食べた。


和馬の分は残しておいた。


昼に起きたら食べればいい。


遥は朝から静かだった。


「学校遅れるよ」


と言うと、


「わかってる」


と答えた。


夫が、


「遥」


と呼ぶと、遥はすぐに、


「ごめんなさい」


と言った。


夫は怒っていなかった。


ただ名前を呼んだだけだった。



遥の自由帳


七月二日


和馬は学校を休んだ。


お父さんが先生に電話した。


熱っぽいと言った。


体温計は洗面所にあった。


使ったのかは知らない。


お母さんは和馬の分のパンを残した。


昼にはなくなっていた。


誰が食べたのかは知らない。


お父さんは電話の時、声が変わる。


困っているみたいな声。


電話を切ると普通に戻る。



十五


母の日記


七月三日


今日も和馬は部屋にいた。


夫が昼に帰ってきた。


「近くまで来たから」


と言っていた。


昼食は三人で食べた。


夫は和馬の分のお粥を作って、二階へ持っていった。


しばらくして戻ってきた。


器は空だった。


「食べた?」


と聞くと、


「少し」


と言った。


少しと言うわりには、器は空だった。


でも、お粥の量が少なかったのかもしれない。


夕方、遥が帰ってきた。


「和馬、まだ寝てるの?」


と聞いた。


夫が、


「うん。今日は静かにしてあげよう」


と言った。


遥は頷いた。


夜、夫が和馬の部屋の前に水を置いていた。


「起きた時に飲めるように」


と言っていた。


私はありがたいと思った。



遥の自由帳


七月三日


お父さんが昼に帰ってきた。


近くまで来たからと言った。


和馬のお粥を持って二階へ行った。


戻ってきた時、器は空だった。


お母さんは安心していた。


夜、お父さんが和馬の部屋の前に水を置いた。


コップは青いやつ。


朝にはなくなっていた。


お父さんが片づけたのかもしれない。


和馬が飲んだのかもしれない。


どっちでも同じ。


お母さんは安心した。



十六


母の日記


七月四日


朝から雨。


庭の土が黒くなっていた。


朝顔の場所だけ、少しへこんで見えた。


水が溜まっているのかもしれない。


和馬は朝から部屋にいた。


夫が、


「まだ少しだるそう」


と言った。


私は二階へ行こうかと思ったけれど、夫が朝のうちに見てくれていたので、そのままにした。


昼過ぎ、薬を飲んだ。


そのあと、眠ってしまった。


起きた時には夕方だった。


夫がカレーを作っていた。


「よく寝てたね」


と言われた。


「そんなに寝てた?」


「うん。でも顔色は少し良くなった」


夫はそう言った。


遥は食卓でノートを開いていた。


「宿題?」


と聞くと、


「うん」


と答えた。


ノートには何も書かれていないように見えた。


「和馬は?」


と聞くと、夫は鍋をかき混ぜながら、


「寝てる」


と言った。


「熱は?」


「朝よりは落ち着いてる」


夫がそう言うなら大丈夫だと思った。


夕飯は三人で先に食べた。


和馬の分は、夫が小さな器に取り分けた。


ラップをかけて、冷蔵庫に入れてくれた。


「起きたら温めよう」


と言った。


カレーは少し余った。


夜、二階へ上がる前に、夫が和馬の部屋のドアを少し開けた。


「寝てる」


小さな声でそう言った。


私は廊下から中を見た。


部屋は暗く、布団が少し盛り上がっていた。


起こすのもかわいそうなので、そのままにした。


雨は夜まで続いた。



遥の自由帳


七月四日


雨。


お母さんは昼から寝ていた。


お父さんはカレーを作った。


和馬は夕飯を食べなかった。


お父さんが和馬の分を冷蔵庫に入れた。


お母さんはそれを見ていた。


夜、お父さんが和馬の部屋を開けた。


お母さんは廊下から見た。


私は下にいた。


カレーは少し余った。


朝顔の土は黒かった。


雨だから当たり前。


第二部


名前だけの子供



十七


母の日記


七月五日


朝、和馬の茶碗を出し忘れた。


夫に、


「美沙、和馬の茶碗」


と言われて気づいた。


食器棚を開けて、青い茶碗を出した。


縁が少し欠けている茶碗。


その奥に、前に見つけた黄色い花の茶碗があった。


私は一瞬そちらを見たけれど、夫が、


「青い方」


と言ったので、青い茶碗を出した。


朝食は三人で先に食べた。


和馬はまだ寝ているらしい。


夫が、


「昨日よりは落ち着いてる」


と言った。


それならよかった。


和馬のパンは小皿に乗せて、ラップをかけておいた。


昼にはなくなっていた。


夫が二階へ持っていったのだと思う。


遥は朝から静かだった。


「学校、大丈夫?」


と聞くと、


「普通」


と答えた。


最近、遥は何を聞いても短く答える。


そういう年頃なのかもしれない。


夕方、夫が和馬の部屋の前に洗濯物を置いていた。


「着替え、ここに置いておく」


と言っていた。


和馬から返事は聞こえなかったけれど、部屋の中で何かが動くような音がした気がする。


起きているのかもしれない。


明日は少し話せるといい。



遥の自由帳


七月五日


お母さんが和馬の茶碗を出し忘れた。


お父さんが言った。


お母さんは青い茶碗を出した。


黄色い花の茶碗も見えていた。


お父さんは青い方と言った。


誰も青い茶碗を使わなかった。


お母さんは気づいていない。


昼、和馬のパンはなくなっていた。


お父さんが片づけた。


たぶん。


和馬の部屋の前に洗濯物が置いてあった。


夕方にはなくなっていた。


お母さんは安心していた。



十八


母の日記


七月七日


七夕。


遥が学校で短冊を書いたらしい。


「何を書いたの?」


と聞くと、


「忘れた」


と言った。


遥らしくない。


前なら、聞いていなくても話してくれた。


でも最近は、少し距離がある。


和馬にも願い事を聞きたかったけれど、今日もよく寝ているらしい。


夫が、


「夏風邪は長引くこともあるから」


と言った。


そういうものなのかもしれない。


夕飯はそうめんにした。


三人で食べた。


そう書いてから、少し変だと思った。


和馬の分も茹でたから、四人分だ。


夫が、


「余った分は明日の昼にしよう」


と言って、保存容器に入れてくれた。


和馬の分は別に取り分けた。


夫が二階へ持っていった。


戻ってきた時、器は空だった。


「食べた?」


と聞くと、


「少しね」


と言った。


少しでも食べられたならいい。


寝る前、階段の下の星のシールが目に入った。


まだ剥がれていない。


あれを見ると、なぜか少し落ち着かない。



遥の自由帳


七月七日


七夕。


願い事は書かなかった。


家ではそうめん。


お母さんは三人で食べたと日記に書いていた。


途中で止まっていた。


そのあと、四人分だと書き直していた。


お父さんがそうめんを保存容器に入れた。


和馬の分は別の器。


お父さんが二階へ持っていった。


戻ってきた時、器は空だった。


お母さんは「少しでも食べられたならいい」と言った。


お父さんは頷いた。


階段のシールがまだある。


誰も剥がさない。



十九


母の日記


七月九日


和馬の洗濯物が少ない。


学校へ行っていないから当然かもしれない。


でも、パジャマもあまり出ていない。


夫に聞くと、


「汗かいてないんじゃないかな。ずっと寝てるし」


と言った。


そういうものだろうか。


私は子供の体調のことになると、すぐ大げさに考えてしまう。


夫は落ち着いている。


今日は和馬のランドセルを探した。


学校のプリントが入っているかもしれないと思ったから。


玄関にない。


リビングにもない。


夫に聞くと、


「二階じゃない?」


と言った。


二階へ行こうとしたけれど、途中で何を探していたのかわからなくなった。


階段の途中で立っていると、夫が下から、


「美沙、無理しないで」


と言った。


私は降りた。


夫があとで見てくれると言ってくれた。


夕方、夫が、


「プリントは特になかったよ」


と言った。


よかった。


遥は夕飯中、あまり話さなかった。


「学校で何かあった?」


と聞くと、


「別に」


と言った。


夫が、


「疲れてるんだよ」


と言った。


たぶん、そうだ。



遥の自由帳


七月九日


お母さんがランドセルを探していた。


途中で忘れた。


お父さんがあとで見ると言った。


ランドセルは玄関の収納の奥にある。


お父さんは知っていると思う。


夕方、お父さんはプリントはなかったと言った。


お母さんは安心していた。


和馬の洗濯物は少ない。


お母さんが気にしていた。


お父さんは汗をかいていないからと言った。


寝ている人は、汗をかかないこともあるらしい。


私は夕飯を食べた。


味は普通。



二十


母の日記


七月十一日


朝顔の支柱が少し傾いていた。


遥が直していた。


和馬に見せたら喜ぶと思った。


でも、和馬はまだ外に出られないらしい。


夫が、


「もう少し元気になったら見せよう」


と言った。


夕方、夫がケーキを買ってきてくれた。


「美沙が最近疲れてるから」


と言った。


チーズケーキ。

ショートケーキ。

モンブラン。


私がチーズケーキ。

遥がショートケーキ。

夫がモンブラン。


和馬の分は、夫が、


「今は重いかもね」


と言った。


確かに、風邪の時にケーキは重いかもしれない。


私は和馬には明日プリンを買ってあげようと思った。


でも、ケーキの箱を見ていると、何か足りない気がした。


「どうしたの?」


夫に聞かれて、


「ううん」


と答えた。


遥はショートケーキの苺を最後に食べていた。


夫が、


「遥、ノートばかり書いてるけど、宿題?」


と聞いた。


遥は、


「うん」


と答えた。


夫は、


「書くのはいいことだよ」


と言った。


遥は何も言わなかった。



遥の自由帳


七月十一日


お父さんがケーキを買ってきた。


三つ。


お母さんは箱を見ていた。


お父さんが「和馬には重いかも」と言った。


お母さんは頷いた。


ケーキは三つで足りた。


お父さんがノートのことを聞いた。


宿題かと聞いた。


私はうんと言った。


お父さんは「書くのはいいことだよ」と言った。


その時、お父さんは笑っていた。


私はショートケーキを食べた。


苺は最後。



二十一


母の日記


七月十三日


夜、夢を見た。


庭に和馬が立っている夢。


背中だけ見えた。


呼んでも振り向かない。


朝起きた時、少し泣いていたらしい。


夫が、


「大丈夫?」


と聞いてくれた。


夢の話をすると、


「和馬のことが心配なんだよ」


と言った。


たぶん、そうだ。


午前中、和馬の部屋の前まで行った。


ノックしようとした時、中で小さな音がした。


起きているのかと思った。


でも、夫が洗面所から、


「今、寝たところだと思う」


と言った。


「見たの?」


「さっき水を替えた時に」


夫はそう言った。


私はそのまま一階へ戻った。


起こすのもよくない。


遥は庭で朝顔に水をあげていた。


「毎日ありがとうね」


と言うと、


「別に」


と答えた。


朝顔はまだ咲かない。


葉だけが少し伸びている。



遥の自由帳


七月十三日


お母さんが和馬の部屋の前まで行った。


お父さんが洗面所から声をかけた。


「今、寝たところだと思う」


お母さんは降りてきた。


私は朝顔に水をあげた。


お母さんがありがとうと言った。


私は別にと言った。


朝顔は伸びている。


花はまだ。


和馬は見ていない。


お母さんは、見たと思っているかもしれない。


お父さんは、見せたとは言っていない。


言っていないことは嘘ではない。



二十二


母の日記


七月十五日


和馬の声を、最近聞いていない気がする。


そう思って、少し怖くなった。


でも、寝ているなら声がしないのは普通だ。


夫に言うと心配をかけそうだったので、遥に聞いた。


「和馬、まだ寝てる?」


遥は箸を止めた。


「たぶん」


と言った。


すぐに、


「寝てると思う」


と言い直した。


夫が麦茶を注ぎながら、


「夏風邪は長引くからね」


と言った。


私は頷いた。


夏風邪。


そう考えると落ち着く。


夕飯のあと、薬を飲んだ。


夫が水を持ってきてくれた。


「今日はちゃんと寝た方がいい」


と言われた。


私は薬を飲んだ。


遥がこちらを見ていた。


「遥も早く寝なさい」


と言うと、


「うん」


と答えた。


その声はいつも通りだった。



遥の自由帳


七月十五日


お母さんが、


「和馬、まだ寝てる?」


と聞いた。


私は「たぶん」と言った。


すぐに言い直した。


「寝てると思う」


お父さんが麦茶を注いでいた。


「夏風邪は長引くからね」と言った。


お母さんは頷いた。


お父さんが水を持ってきた。


お母さんは薬を飲んだ。


お父さんは、お母さんが飲むまで見ていた。


それから薬のケースを食器棚の上に戻した。


私は見ていた。


お父さんも、私が見ていることを見ていた。



二十三


母の日記


七月十七日


和馬の体調がなかなか戻らない。


夫は、


「熱は高くないけど、だるさが残ってる感じかな」


と言う。


私は体温を見ていない。


でも夫が見てくれている。


それで十分だと思う。


午前中、高木さんに会った。


「大丈夫? ご主人から聞いたわよ。和馬くん、長引いてるんですって?」


と言われた。


私は少し驚いた。


夫が話してくれていたらしい。


「はい。夏風邪みたいで」


と答えた。


高木さんは、


「お母さんも無理しないでね」


と言った。


帰宅すると、夫が玄関で靴を揃えていた。


「高木さんに会ったよ」


と言うと、


「心配してくれてた?」


と聞いた。


「うん」


「近所の人が知っててくれると、何かあった時に安心だから」


そう言われて、なるほどと思った。


夫はいつも先に考えてくれる。


夜、和馬の分のうどんを作った。


夫が二階へ持っていった。


戻ってくるまで少し時間がかかった。


「どう?」


と聞くと、


「半分くらい食べた」


と言った。


よかった。



遥の自由帳


七月十七日


近所の高木さんがお母さんに話しかけていた。


和馬のことを知っていた。


お父さんが話したらしい。


お父さんは外の人に話す。


必要なことだけ。


お母さんの体調。

和馬の風邪。

学校への連絡。


みんな、お父さんの話を聞く。


夜、お父さんがうどんを二階へ持っていった。


戻ってくるのが少し遅かった。


器には汁だけ残っていた。


お母さんは半分食べたと聞いて安心していた。


半分。


どの半分かは知らない。



二十四


母の日記


七月十九日


病院の予約を変更した。


私の病院だ。


朝から体が重く、行けそうになかった。


夫が電話してくれた。


「今日は妻の体調があまりよくなくて」


夫の電話の声は、いつも落ち着いている。


私が話すより、ずっと伝わりやすいと思う。


午前中、少し眠った。


起きると、遥がリビングでノートを書いていた。


「宿題?」


と聞くと、


「うん」


と答えた。


「見せて」


と言うと、


「まだ途中」


と言った。


遥がノートを閉じるのが少し早かった。


私は少し寂しくなった。


でも、子供にも見られたくないものはある。


夫に話すと、


「遥も年頃だよ」


と言った。


そうかもしれない。


午後、夫が和馬の部屋から洗濯物を持ってきた。


黄色いTシャツ。


恐竜の絵がついている。


「それ、和馬の?」


と聞くと、


「小さい頃のだけど、寝る時に着たがったんじゃないかな」


と言った。


そういうこともある。


子供は急に昔のものを使いたがる。


洗濯機に入れた。



遥の自由帳


七月十九日


お母さんの病院は行かなかった。


お父さんが電話した。


「妻の体調が」と言った。


お母さんは寝た。


私はノートを書いた。


お母さんが見せてと言った。


閉じた。


お父さんが和馬の部屋から黄色いTシャツを持ってきた。


恐竜の絵。


和馬のものではないと思う。


少なくとも最近は着ていない。


お母さんは洗濯機に入れた。


お父さんは洗面所で手を洗った。


長く洗っていた。



二十五


母の日記


七月二十日


和馬のランドセルが見つからない。


学校が夏休みに入る前に、プリントを確認したい。


夫は、


「俺がこの前見た時は、特になかったよ」


と言った。


「でも、どこにあるんだろう」


「部屋じゃないかな」


夫はそう言った。


和馬の部屋へ行こうとした。


階段を上がると、途中で少しめまいがした。


ちょうど夫が下から、


「美沙、大丈夫?」


と声をかけた。


私は手すりに掴まった。


夫が上がってきてくれた。


「無理しなくていいよ」


と言われた。


私は頷いた。


最近、階段で立ち止まることが増えた。


昔の金具の跡や、星のシールを見ると、少し変な感じがする。


夫は、


「暑さのせいもあるよ」


と言った。


午後、夫がランドセルを探してくれた。


「やっぱり部屋にあるみたい」


と言っていた。


私は見ていない。


でも、見つかったならよかった。



遥の自由帳


七月二十日


お母さんがランドセルを探していた。


階段で止まった。


お父さんがすぐ声をかけた。


すぐ。


お父さんは階段の音に気づく。


午後、お父さんがランドセルは部屋にあると言った。


玄関の収納は開いていなかった。


お母さんは見ていない。


見ていなくても、あることになる。


お父さんがそう言うから。



二十六


母の日記


七月二十二日


朝顔に小さな芽のようなものが出ていた。


本当に朝顔かはわからない。


雑草かもしれない。


でも、和馬が見たら喜ぶと思う。


遥がしゃがんで見ていた。


「出たね」


と言うと、


「うん」


と答えた。


「和馬に教えてあげよう」


と言うと、遥は、


「うん」


と言った。


その返事は普通だった。


夫は昼に一度帰ってきた。


「近くまで来たから」


と言って、アイスを買ってきてくれた。


三本入りの箱だった。


私は冷凍庫へ入れようとして、少し手を止めた。


「和馬の分は?」


と聞くと、夫は、


「冷凍庫にまだ一本あったと思う」


と言った。


開けてみると、奥にソーダ味のアイスが一本あった。


いつ買ったものかわからない。


和馬はソーダ味が好きだった。


「あるね」


と言うと、夫は、


「よかった」


と言った。


夜、夫が和馬に朝顔の芽のことを伝えてくれたらしい。


「喜んでた?」


と聞くと、


「うん」


と言った。


よかった。



遥の自由帳


七月二十二日


朝顔が出た。


雑草かもしれない。


お母さんは和馬に教えると言った。


お父さんがアイスを買ってきた。


三本入り。


お母さんが和馬の分を聞いた。


冷凍庫に一本あった。


ソーダ味。


お父さんは「よかった」と言った。


夜、お母さんが和馬は喜んだか聞いた。


お父さんは「うん」と言った。


和馬の声は聞こえなかった。


お母さんは聞かなくても喜んでいた。



二十七


母の日記


七月二十四日


和馬の部屋の前に、洗濯物が置いてあった。


小さなタオルと、黄色いTシャツ。


この前の恐竜のTシャツだ。


洗ってまた着たのかもしれない。


「和馬、少し起きられるようになったのかな」


と言うと、夫は、


「少しずつね」


と言った。


午後、学校から電話があった。


遥の担任の先生だった。


授業中にぼんやりしていることが増えたらしい。


宿題も一度、白紙で出したと言われた。


電話を切ると、夫がすぐに、


「何だった?」


と聞いた。


遥のことを話すと、


「遥も疲れてるんだろうね」


と言った。


「私のせいかな」


「そうじゃないよ」


夫はすぐに言った。


「家の中が落ち着かないからだよ」


家の中。


私はその言葉を聞いて、少し息苦しくなった。


夜、遥に、


「学校、何かあった?」


と聞いた。


遥は、


「何もない」


と言った。


夫が、


「無理に聞かなくていいよ」


と言った。


そうだ。


無理に聞くのはよくない。



遥の自由帳


七月二十四日


先生がお母さんに電話した。


宿題のこと。


ぼんやりしていること。


お父さんがすぐ聞いた。


何だった、と。


お母さんは話した。


お父さんは「家の中が落ち着かないから」と言った。


お母さんは黙った。


夜、お母さんが学校のことを聞いた。


お父さんが無理に聞かなくていいと言った。


お母さんはそれ以上聞かなかった。


聞かれないなら、答えなくていい。



二十八


母の日記


七月二十六日


和馬の咳が聞こえた気がした。


昼過ぎ、廊下を歩いている時。


一度だけ。


私は部屋の前で立ち止まった。


ノックしようとしたけれど、また眠っているかもしれないと思ってやめた。


夫に話すと、


「空気が乾いてるのかな」


と言って、加湿器を二階へ持っていった。


夏なのに加湿器は変かと思ったけれど、喉にはいいのかもしれない。


夫は和馬の部屋の前で少し立ち止まっていた。


それからドアを開けた。


私は下から見ていた。


しばらくして、夫が降りてきた。


「寝てた」


と言った。


「咳、大丈夫そう?」


「うん。たぶん乾燥」


そう言われて安心した。


夜、遥が階段に置いてあったタオルを拾っていた。


「誰の?」


と聞くと、


「知らない」


と言った。


洗濯機に入れてくれた。



遥の自由帳


七月二十六日


お母さんは咳が聞こえたと言った。


私は聞いていない。


お父さんが加湿器を二階へ持っていった。


和馬の部屋に入った。


降りてきて、寝てたと言った。


お母さんは安心した。


階段にタオルが落ちていた。


拾った。


階段に物を置かない方がいい。


お父さんは二階に行く時、手袋をしていた。


加湿器を運ぶからかもしれない。



二十九


母の日記


七月二十八日


三人で外食へ行った。


駅前のファミリーレストラン。


和馬はまだ本調子ではないので、家で休ませた。


私は少し心配だったけれど、夫が、


「一時間だけにしよう」


と言った。


遥も、


「すぐ帰ればいい」


と言った。


和馬の分には、お粥を置いてきた。


夫が作ってくれた。


「冷めても食べられるようにしてある」


と言っていた。


ファミレスでは、久しぶりに外の空気を吸った気がした。


和馬の小さい頃の話をした。


スーパーで迷子になって、魚売り場でサンマを見ていた話。


「お魚、目がある」


と言ったこと。


夫は懐かしそうに笑った。


遥も少し笑った。


帰宅すると、家は静かだった。


夫が二階へ様子を見に行った。


すぐに戻ってきて、


「寝てた」


と言った。


和馬のお粥の器は台所に置かれていた。


少し残っていた。


「少しは食べたんだね」


と言うと、夫は、


「うん」


と答えた。



遥の自由帳


七月二十八日


三人でファミレスに行った。


お母さんは和馬の小さい頃の話をした。


魚の話。


お父さんは笑っていた。


私は少し笑った。


帰ってきて、お父さんが二階へ行った。


すぐ戻った。


「寝てた」


お粥の器は台所にあった。


少し残っていた。


行く前は、器にどれくらい入っていたか見ていない。


お母さんは少し食べたと思っていた。


お父さんは何も直さなかった。



三十


母の日記


八月一日


夏休みに入った。


それだけで少し安心した。


学校を休んでいることを、毎日気にしなくてよくなる。


和馬はまだ部屋で過ごすことが多い。


夫は、


「夏休みの間にゆっくり戻せばいい」


と言う。


その言い方がとても落ち着いていて、私もそう思えた。


遥は宿題をしている。


自由研究はまだ決めていないらしい。


「朝顔にしたら?」


と言うと、


「和馬のだから」


と答えた。


「そうだね」


私は言った。


夫が、


「二人でやってもいいんじゃない?」


と言った。


遥は返事をしなかった。


昼、夫が仕事の資料をリビングで広げていた。


その横に、遥のノートがあった。


夫がそれに手を伸ばしかけた。


遥がすぐに取った。


「宿題」


と言った。


夫は笑って、


「見ないよ」


と言った。


その声は優しかった。


でも遥はノートを持って、自分の部屋へ行った。



遥の自由帳


八月一日


夏休み。


学校に行かなくていい。


和馬が家にいても変じゃない。


お母さんは少し安心していた。


自由研究の話をされた。


朝顔は和馬のだからと言った。


お父さんは二人でやればと言った。


違うと思った。


でも言わなかった。


お父さんがノートに手を伸ばした。


見ないと言った。


見ない人は、見ないと言わなくていい。


私は部屋に持っていった。



三十一


母の日記


八月三日


古い写真を整理した。


和馬の幼稚園の運動会の写真が出てきた。


赤い帽子をかぶって、口をへの字にしている。


走る前から嫌そうな顔だった。


写真の裏に、私の字で、


「最後まで走った」


と書いてあった。


懐かしくなった。


和馬に見せたいと思ったけれど、今は寝ているかもしれない。


夫に写真を見せると、


「懐かしいな」


と言った。


「和馬に見せようかな」


と言うと、


「体調が戻ってからでいいんじゃない?」


と言った。


確かに、今見せても疲れるかもしれない。


写真を棚に立てかけた。


夜には、夫がアルバムへ戻してくれていた。


「埃かぶるから」


と言っていた。


夫は本当に細かいところに気づく。



遥の自由帳


八月三日


お母さんが写真を見ていた。


和馬の運動会。


赤い帽子。


お母さんは泣きそうだった。


お父さんが写真をアルバムに戻した。


埃かぶるからと言った。


写真は埃をかぶっても写真。


でも戻した方がきれい。


お父さんは、出ているものをしまう。


コップも、写真も、茶碗も、食べ物も。



三十二


母の日記


八月五日


高木さんが桃を持ってきてくれた。


「お子さんたちに」


と言われた。


ありがたく受け取った。


遥は桃が好きだ。

和馬は桃より梨が好き。


でも皮をむいて出すと、結局食べる。


夕飯のあと、桃をむいた。


三人で食べた。


和馬の分も切って、皿に入れた。


夫が、


「冷やしておこうか」


と言って、ラップをかけて冷蔵庫に入れてくれた。


夜、喉が渇いて冷蔵庫を開けると、桃の皿はなかった。


夫に聞くと、


「色が変わってたから、あとで出そうと思って別にしてる」


と言った。


私はそういうことに気づかない。


果物はすぐ色が変わる。


夫は本当に丁寧だ。


遥はリビングでテレビを見ていた。


笑う場面でも、あまり笑っていなかった。


「眠い?」


と聞くと、


「普通」


と言った。



遥の自由帳


八月五日


桃を食べた。


お母さんは和馬の分も切った。


お父さんが冷蔵庫に入れた。


夜、お母さんが桃を探した。


お父さんは色が変わってたから別にしたと言った。


別にしたものは見ていない。


お母さんは納得した。


テレビは面白くなかった。


お母さんは笑っていた。


お父さんは笑うところで笑った。


私は笑わなかった。



三十三


母の日記


八月七日


遥が熱を出した。


三十七度八分。


高熱ではないけれど、顔色が悪い。


和馬の風邪がうつったのかもしれない。


夫は早めに帰ってきた。


遥の額に手を当てて、


「少し熱いね」


と言った。


「病院行く?」


と聞くと、


「明日の朝まで様子を見よう」


と言った。


和馬の時と同じだ。


そう考えると少し安心した。


遥は自分の部屋で寝た。


夫が水と体温計を持っていった。


「遥は?」


と聞くと、


「寝てる」


と言った。


その言葉を聞いて、私は少しおかしくなった。


最近、家の中に寝ている人が多い。


私も。

和馬も。

遥も。


夫だけが起きている。


夫は、


「美沙も寝た方がいい」


と言った。


私は薬を飲んだ。



遥の自由帳


八月七日


熱が出た。


お父さんが額を触った。


水と体温計を持ってきた。


お母さんは心配していた。


お父さんは明日まで様子を見ると言った。


和馬の時と同じ。


お母さんはそれで安心したように見えた。


お父さんは私の部屋に来た。


「ちゃんと寝てなさい」


と言った。


それから、


「ノートは?」


と聞いた。


「知らない」


と言った。


机の引き出しに入れてある。


お父さんは引き出しを見なかった。


今日は。



三十四


母の日記


八月九日


遥の熱は下がった。


よかった。


朝、リビングへ降りてきたので、


「大丈夫?」


と聞くと、


「大丈夫」


と答えた。


少し痩せたように見えた。


和馬のことも、そろそろ病院へ連れていった方がいいのではないかと思う。


夫に言うと、


「そうだね。タイミング見て一度行こう」


と言った。


反対されると思っていたわけではないけれど、少し安心した。


「明日?」


と聞くと、


「明日の朝の様子で決めよう」


と言った。


夫はいつも、急に決めない。


ちゃんと様子を見る。


夜、夫が和馬の部屋の前で長く立っていた。


私は階段の下から、


「どうしたの?」


と聞いた。


夫は振り返って、


「寝息が少し静かだと思って」


と言った。


「大丈夫?」


「大丈夫」


夫はそう答えた。


その声が少し低かった。


疲れているのだと思う。



遥の自由帳


八月九日


熱は下がった。


お母さんは安心していた。


お父さんは和馬を病院に連れて行く話をした。


明日の朝の様子で決めると言った。


夜、お父さんが和馬の部屋の前に立っていた。


長かった。


お母さんが聞いた。


お父さんは寝息が静かだと言った。


寝息。


ドアが閉まっていても聞こえるのかもしれない。


お父さんなら聞こえるのかもしれない。



三十五


母の日記


八月十一日


朝顔が伸びてきた。


つるが支柱に巻きついている。


和馬に見せたい。


夫にそう言うと、


「もう少ししたら外に出られると思う」


と言った。


「長いね」


「夏風邪は長いこともあるよ」


夫はそう言った。


私は頷いた。


遥は庭で朝顔を見ていた。


「和馬、見たかな」


と聞くと、


「見たんじゃない」


と言った。


見たよ、ではない。


少し気になったけれど、深くは聞かなかった。


昼、夫が和馬の部屋のカーテンを洗うと言った。


「ずっと閉めっぱなしだとよくないから」


と言っていた。


夫はカーテンを外して、洗濯機に入れた。


和馬はその間、布団にいたらしい。


私は下で洗濯機の音を聞いていた。


カーテンは夕方には戻されていた。


部屋は少し明るくなったのだと思う。



遥の自由帳


八月十一日


朝顔が伸びた。


お母さんが和馬は見たかなと言った。


見たんじゃないと言った。


お父さんが和馬の部屋のカーテンを洗った。


お母さんは下にいた。


お父さんは一人で外して、一人で戻した。


カーテンは濡れている時、重い。


お父さんは何でも一人でやる。


一人でやった方が早いから。



三十六


母の日記


八月十三日


お盆。


夫の実家へ行く予定だったけれど、やめた。


和馬の体調が戻らないし、遥も本調子ではない。


夫が義母へ電話してくれた。


「美沙も少し疲れていて」


と言っていた。


電話のあと、


「お義母さん、何て?」


と聞くと、


「無理しないでって」


と言った。


義母は優しい人だ。


午後、夫が買い物へ行った。


私は少しだけ二階へ上がった。


和馬の部屋の前に立つ。


中は静かだった。


ドアノブに手をかけた。


その時、リビングから電話が鳴った。


降りると、夫からだった。


「買い忘れある?」


それだけだった。


「牛乳くらいかな」


と答えた。


電話を切ると、遥がこちらを見ていた。


「どうしたの?」


と聞くと、


「別に」


と言った。


夫は牛乳を買って帰ってきた。



遥の自由帳


八月十三日


お父さんが買い物に行った。


お母さんが二階へ行った。


和馬の部屋の前。


電話が鳴った。


お父さんだった。


買い忘れがあるか聞いただけ。


お母さんは降りた。


私は見ていた。


お父さんは牛乳を買って帰ってきた。


買い忘れはなかった。


電話しなくてもよかったと思う。


でも、電話した。



三十七


母の日記


八月十五日


終戦記念日のテレビを見た。


「記憶」という言葉が何度も出てきた。


記憶。


私は最近、自分の記憶に自信がない。


和馬の声を、いつ聞いたのか。

遥と最後にちゃんと話したのはいつか。

薬を飲んだのは朝か夜か。


日記を読み返すと、和馬の名前はたくさん出てくる。


朝顔。

茶碗。

お粥。

アイス。

桃。


でも、和馬が何を話したかは少ない。


具合が悪いのだから、当然かもしれない。


夜、夫に、


「和馬の声、最近聞いてない気がする」


と言った。


夫はしばらく黙った。


それから、


「美沙、ずっと心配してるから、余計にそう感じるんだと思う」


と言った。


「そうかな」


「そうだよ」


夫は私の手を握った。


「大丈夫。和馬はいるよ」


その言葉を聞いて、少し泣いた。


夫がそう言うなら、大丈夫だと思った。



遥の自由帳


八月十五日


お母さんが日記を読み返していた。


和馬の声を聞いていないと言った。


お父さんは少し黙った。


それから、大丈夫と言った。


和馬はいるよ、と言った。


お母さんは泣いた。


お父さんは手を握った。


いる、という言葉は便利。


場所を言わなくていい。


生きているとも言わなくていい。


いる。


それだけで、お母さんは安心する。



三十八


母の日記


八月十七日


朝顔につぼみがついた。


小さくて固い。


和馬に見せたい。


「もうすぐ咲くね」


と言うと、遥は黙っていた。


「遥?」


「うん」


返事はしたけれど、こちらを見なかった。


私は少し苛立ってしまった。


「最近、どうしたの?」


遥は、


「何が?」


と言った。


「ずっとぼんやりしてる」


「普通」


普通。


またその言葉。


夫がコンビニから帰ってきた。


サンドイッチとヨーグルトを買ってきてくれた。


「何の話?」


と聞かれた。


「遥が最近元気ないねって」


と言うと、夫は遥を見た。


「疲れてる?」


遥は、


「別に」


と答えた。


夫は少しだけ目を細めた。


でもすぐに笑って、


「今日は早く寝な」


と言った。


遥は頷いた。



遥の自由帳


八月十七日


朝顔につぼみ。


お母さんが和馬に見せたいと言った。


お母さんに、最近どうしたのと聞かれた。


普通と答えた。


お父さんが帰ってきた。


サンドイッチとヨーグルト。


お父さんは私を見た。


疲れてる? と聞いた。


別に、と答えた。


お父さんは少しだけ違う顔をした。


すぐ戻った。


戻すのが早い。



三十九


母の日記


八月十八日


遥があまり話さない。


気になる。


でも、聞こうとすると夫が、


「今はそっとしておこう」


と言う。


そうかもしれない。


私はつい聞きすぎるところがある。


午後、夫が和馬の部屋に入った。


長く出てこなかった。


何をしているのか気になったけれど、洗濯物を畳んでいたので、そのままにした。


しばらくして夫が降りてきた。


手に小さなゴミ袋を持っていた。


「何?」


と聞くと、


「ティッシュとか。部屋に溜まってた」


と言った。


「和馬、起きてた?」


「少し」


「何か言ってた?」


夫は一瞬だけ考えた。


「朝顔、もうすぐって言ったら、うんって」


和馬らしい。


短い返事。


夜、夫が薬のケースを確認していた。


白と青の蓋を一つずつ開けていた。


「何か違う?」


と聞くと、


「残りを見てただけ」


と言った。


私は頷いた。



遥の自由帳


八月十八日


お父さんが和馬の部屋に長くいた。


ゴミ袋を持って降りてきた。


ティッシュと言った。


袋の中は見えなかった。


お母さんは見なかった。


お父さんは薬のケースを見ていた。


白と青。


明日のところを開けていた。


お母さんが聞いた。


残りを見てただけ、と言った。


お父さんは最近、私を見る回数が増えた。


見ていないふりはしない。


前より下手になった。



四十


母の日記


八月十九日


朝顔が咲いた。


青い花だった。


一輪だけ。


朝、カーテンを開けた時に見つけた。


「咲いた」


思わず声が出た。


遥も窓辺に来た。


夫も後ろから覗いた。


「和馬、喜ぶね」


と言うと、夫は、


「そうだね」


と言った。


私は今日こそ和馬に見せたいと思った。


夫に言うと、


「うん。見せよう」


と言った。


二階へ上がった。


夫が先に和馬の部屋のドアを開けた。


「和馬、朝顔咲いたよ」


優しい声だった。


私は廊下から中を覗いた。


カーテンは半分閉まっていた。


布団が盛り上がっていた。


夫は部屋に入り、少しだけカーテンを開けた。


「まだ眠そうだな」


と言った。


「起こす?」


と聞くと、


「無理に起こさなくていいかも。後で写真見せよう」


と言った。


私は頷いた。


スマートフォンで朝顔の写真を撮った。


少しぼやけた。


遥は階段の下にいた。


「遥も撮る?」


と聞くと、


「いい」


と言った。


夫が、


「じゃあ俺が送っておくよ」


と言った。


誰に送るのか聞かなかった。


たぶん、和馬に見せるという意味だと思う。



遥の自由帳


八月十九日


朝顔が咲いた。


青。


お母さんは嬉しそうだった。


お父さんが和馬の部屋を開けた。


お母さんは廊下から見た。


お父さんは中に入った。


布団は盛り上がっていた。


お母さんは写真を撮った。


少しぼやけていた。


お父さんは「送っておく」と言った。


誰にとは言わなかった。


お母さんは聞かなかった。


私は階段の下にいた。


階段のシールが見えた。


まだ剥がれていない。



四十一


母の日記


八月二十日 朝


朝顔は二輪咲いていた。


昨日よりも、少し開いている。


青い花。


和馬に直接見せたい。


朝食の時、そう言った。


夫は、


「今日は少し起きられるかもね」


と言った。


「本当?」


「昨日よりはよさそうだった」


夫が言うと、安心する。


遥はトーストを半分残した。


「食べないの?」


と聞くと、


「いらない」


と言った。


夫が、


「遥」


と名前を呼んだ。


遥は夫を見た。


二人は少しの間、黙っていた。


それから遥は、


「あとで食べる」


と言った。


夫はそれ以上何も言わなかった。


今日は夜、和馬も一緒に食べられるといい。


カレーの残りはもうないので、肉じゃがにしようと思う。


夫が好きな味付け。


遥も、前はよく食べていた。


和馬はじゃがいもを崩して食べる。


夕飯までに、少しでも元気になっているといい。



遥の自由帳


八月二十日 朝


朝顔が二つ咲いた。


お母さんは和馬に見せたいと言った。


お父さんは今日は起きられるかもと言った。


お母さんは安心した。


朝ごはん。


トーストを残した。


お父さんが名前を呼んだ。


私はあとで食べると言った。


お父さんはそれ以上言わなかった。


今日は肉じゃがらしい。


お父さんが好きな味。


お母さんは和馬も一緒に食べられるといいと言った。


お父さんは「そうだね」と言った。


私は頷かなかった。



四十二


母の日記


八月二十日 夜


夕飯は肉じゃがだった。


夫が好きな味付け。


遥はあまり食べなかった。


夫は仕事の話を少しした。


私は和馬のことが気になって、何度も二階を見た。


食卓には三人分の箸が並んでいた。


私は途中で気づいて、立ち上がった。


「和馬の箸」


夫が、


「美沙」


と呼んだ。


少し低い声だった。


私は食器棚を開けた。


青い星模様の箸が見つからなかった。


「和馬の箸、どこ?」


夫は何も言わなかった。


遥も何も言わなかった。


私は急に不安になった。


「和馬、起こしてくる」


そう言って二階へ上がろうとした。


夫が椅子から立った。


「待って」


「どうして?」


「今は」


「今は?」


夫は答えなかった。


遥が箸を置いた。


音が大きく聞こえた。


「もういいんじゃない」


遥が言った。


声は静かだった。


私は遥を見た。


「何が?」


遥は私ではなく、夫を見ていた。


夫の顔が、今まで見たことのない顔になっていた。


疲れているような、怒っているような、泣きそうな顔。


「遥」


夫が名前を呼んだ。


遥は、


「だって、もういないじゃん」


と言った。


それが何を意味しているのか、すぐにはわからなかった。


私は二階へ走った。


和馬の部屋のドアを開けた。


部屋は暗かった。


布団が盛り上がっていた。


私は布団に手を伸ばした。


そこから先は、よく覚えていない。


ただ、布団の中がとても軽かったことだけ覚えている。



遥の自由帳


八月二十日 夜


肉じゃが。


三人分の箸。


お母さんが和馬の箸を探した。


青い箸はなかった。


お父さんは何も言わなかった。


私は箸を置いた。


もういいんじゃない、と言った。


お父さんが私の名前を呼んだ。


声が低かった。


お母さんは二階へ行った。


ドアが開く音がした。


少しして、お母さんが叫んだ。


お父さんは目を閉じた。


それから立った。


私は肉じゃがを見ていた。


じゃがいもは崩れていた。


第三部


庭の下



四十三


母の日記


八月二十日 夜・続き


布団の中は軽かった。


最初、それが何を意味しているのかわからなかった。


布団は人の形に盛り上がっていた。


けれど、めくったそこには、和馬はいなかった。


毛布が丸められていた。


枕と、タオルケットと、黄色いTシャツ。


それだけだった。


私はしばらく、それを見ていた。


部屋は暗かった。


カーテンが半分閉まっていて、外の街灯の光が細く入っていた。


和馬の机の上には、鉛筆が一本あった。


削られていない鉛筆。


ランドセルはなかった。


青い靴もなかった。


私は部屋の中で立っていた。


何かを言った気がする。


でも、自分の声ではないようだった。


階段を上る音がした。


夫が来た。


「美沙」


そう呼ばれた。


私は振り返った。


夫はドアのところに立っていた。


遥はその後ろにいた。


廊下の明かりが二人の背中から差して、顔がよく見えなかった。


「和馬は?」


私は聞いた。


夫は答えなかった。


「和馬はどこ?」


遥が先に言った。


「いない」


夫が、


「遥」


と低く呼んだ。


遥は夫を見なかった。


「もう、いない」


その声は静かだった。


泣いていなかった。


怒ってもいなかった。


ただ、言った。


私は夫を見た。


「どういうこと?」


夫は何か言おうとした。


でも、口を開いただけで、声は出なかった。


私はもう一度聞いた。


「和馬はどこ?」


夫は下を向いた。


しばらくして、


「庭」


と言った。


庭。


その一文字が、部屋の中に落ちた。


私は階段を駆け下りた。


足元がふらついた。


途中で手すりにぶつかった。


リビングを通って、掃き出し窓を開けた。


夜の庭は湿っていた。


昼間の雨はもう止んでいたのに、土は黒かった。


朝顔は、暗い中でも青く見えた。


二輪。


私は裸足のまま庭に出た。


土が冷たかった。


朝顔の根元にしゃがんだ。


手で土を掘った。


最初は指が入らなかった。


土は固かった。


でも、掘らなければいけないと思った。


どこを掘ればいいのか、なぜかわかった。


夫が後ろから来た。


「美沙、やめて」


私は振り返らなかった。


「やめて」


夫の声は震えていた。


「何をやめるの」


自分の声が低く聞こえた。


夫は答えなかった。


「和馬、ここにいるの?」


夫は答えなかった。


答えないことが、答えだった。


私はまた土を掘った。


爪が痛かった。


土が爪の間に入った。


朝顔のつるが揺れた。


遥は窓のところに立っていた。


裸足ではなかった。


スリッパを履いていた。


そのことを覚えている。


なぜか、そこだけははっきり覚えている。



四十四


遥の自由帳


八月二十日 夜


お母さんが布団をめくった。


中は毛布だった。


お母さんはすぐには叫ばなかった。


しばらく見ていた。


お父さんは何も言わなかった。


私は「いない」と言った。


お父さんに名前を呼ばれた。


お母さんは庭へ行った。


裸足だった。


窓を開けたまま出た。


お父さんは追いかけた。


私はスリッパを履いた。


庭の土は濡れていた。


お母さんは手で掘った。


爪が割れていた。


お父さんは止めた。


止める声だった。


でも、遅いと思った。


遅い時に止めても、止まらない。


朝顔は二つ咲いていた。


青。


夜でも青に見えた。



四十五


母の日記


八月二十日 夜


私は土を掘っていた。


夫は何度も、


「やめて」


と言った。


それから、


「俺が悪い」


とも言った。


その言葉を聞いた瞬間、私は手を止めた。


「何が?」


夫は私を見ていた。


顔がひどく疲れていた。


「全部」


夫は言った。


「全部って何?」


夫は答えない。


私は立ち上がった。


足の裏に土がついていた。


指が震えていた。


「あなたがやったの?」


そう聞いた。


夫はすぐに否定しなかった。


すぐに否定してほしかった。


違う。

俺じゃない。

和馬は生きている。


そう言ってほしかった。


でも夫は何も言わなかった。


遥が窓のところから、


「お父さんは埋めただけ」


と言った。


埋めた。


その言葉で、胃の中のものが上がってくるようだった。


夫が振り返った。


「遥、黙ってなさい」


その声は、私が知っている夫の声ではなかった。


低くて、硬かった。


遥は黙らなかった。


「お父さんが決めたんじゃん」


「遥」


「言わないって決めたの、お父さんじゃん」


夫が遥へ近づいた。


私は二人の間に立とうとした。


けれど、足が動かなかった。


庭の土に、足の裏が貼りついたようだった。


「和馬は」


私は言った。


「いつから?」


夫が目を閉じた。


遥が答えた。


「七月」


夫が、


「遥!」


と叫んだ。


初めて聞く声だった。


夫が叫ぶところを、私はほとんど見たことがない。


遥は少しも驚かなかった。


「七月四日」


そう言った。


七月四日。


雨の日。


カレーの日。


私が眠っていた日。


朝顔の土が黒かった日。


遥がノートを開いていた日。


夫が和馬の分を冷蔵庫に入れた日。


私の中で、日記の文字がばらばらに浮かんだ。


和馬は寝ている。

熱は落ち着いている。

お粥を少し食べた。

桃を冷やしておこう。

朝顔を見せよう。


全部、夫の声だった。


和馬の声ではなかった。


「どうして」


私は夫に聞いた。


「どうして言わなかったの」


夫は答えようとした。


その時、遥が笑った。


大きな笑いではない。


息が少し漏れただけ。


でも私は聞いた。


夫も聞いた。


夫は遥を見た。


その顔は、恐怖に近かった。



四十六


遥の自由帳


八月二十日 夜


お母さんはお父さんに、


「あなたがやったの?」


と聞いた。


お父さんはすぐ答えなかった。


答えればよかったのに。


お父さんはいつも答えを用意している。


今日は遅かった。


私は、お父さんは埋めただけと言った。


お父さんに黙っていなさいと言われた。


私は黙らなかった。


七月四日と言った。


お父さんは大きな声を出した。


お母さんは変な顔をしていた。


たぶん、いろいろ思い出していた。


お父さんは私を見た。


怖い顔だった。


でも、怖がっている顔でもあった。


大人も怖がる。


お父さんも怖がる。


知っている。



四十七


母の日記


八月二十日 夜


夫は遥をリビングへ入れた。


私もついていった。


庭の窓は開いたままだった。


湿った空気が入ってきて、カーテンが少し揺れていた。


リビングのテーブルには、食べかけの肉じゃがが残っていた。


三人分の皿。


三人分の箸。


青い箸はない。


私はそれを見て、また息が苦しくなった。


夫は遥に向かって、


「座りなさい」


と言った。


遥は座らなかった。


「もういいじゃん」


遥は言った。


「ばれたんだから」


ばれた。


その言い方が、私にはわからなかった。


和馬が死んでいたことを、ばれたと言ったのか。


父が埋めたことを、ばれたと言ったのか。


それとも、もっと別のことか。


夫は手で顔を覆った。


「遥、お前は」


そこで言葉を切った。


「何?」


遥は聞いた。


「何なの?」


その声は本当に不思議そうだった。


夫は答えなかった。


私は遥を見た。


遥は肉じゃがの皿を見ていた。


じゃがいもが崩れていた。


箸でつついた跡がある。


「遥」


私は名前を呼んだ。


遥は私を見た。


「和馬に何があったの?」


遥は少し首を傾げた。


答えを探しているようには見えなかった。


「転んだ」


それだけ言った。


「どこで?」


「庭」


「どうして?」


遥は少し考えた。


「朝顔」


「朝顔?」


「和馬が、うるさかったから」


夫がテーブルを叩いた。


大きな音がした。


私はびくっとした。


遥はびくともしなかった。


「やめろ」


夫が言った。


「もうやめろ」


遥は夫を見た。


「お父さんが始めたんじゃん」


夫の顔が赤くなった。


怒りなのか、泣いているのか、わからなかった。


「俺はお前を守ろうとした」


遥はすぐに言った。


「知ってる」


その声は冷たかった。


「でも、もういい」


夫は何かを言おうとした。


その前に、遥が言った。


「お父さん、最近うるさい」


うるさい。


私はその言葉を聞いて、遥が和馬にも同じことを言ったのではないかと思った。


でも、その考えはすぐに消えた。


次の瞬間、夫が遥の腕を掴んだから。



四十八


遥の自由帳


八月二十日 夜


リビング。


肉じゃが。


庭の窓は開いたまま。


お父さんが座りなさいと言った。


座らなかった。


お母さんが和馬のことを聞いた。


転んだと言った。


庭。


朝顔。


和馬はうるさかった。


お父さんがテーブルを叩いた。


大きな音。


お母さんは驚いた。


私は驚かなかった。


お父さんは私を守ったと言った。


知っている。


守った人は、あとでそのことを何度も言う。


守ったのに。


守ってやったのに。


そういう顔。


最近のお父さんは、その顔が多かった。


お父さんが腕を掴んだ。


痛かった。


痛いのは嫌い。



四十九


母の日記


八月二十日 夜


夫が遥の腕を掴んだ。


「明日、警察へ行く」


そう言った。


警察。


その言葉で、部屋の温度が変わった気がした。


遥は夫を見た。


「何で?」


「もう無理だ」


「何が?」


「全部だ」


また全部。


夫はいつも、肝心なところで全部と言う。


私は何が全部なのかわからなかった。


和馬のこと。

庭のこと。

遥のこと。

私のこと。


夫は言った。


「美沙にも話した。もう終わりにする」


遥は少しだけ笑った。


「お母さん、壊れるよ」


夫は黙った。


「前みたいに」


前。


その言葉で、頭の奥に何かが触れた。


階段。


星のシール。


小さな茶碗。


白い靴下。


私はその場で座り込みそうになった。


夫が私を見た。


「美沙、聞かなくていい」


聞かなくていい。


またその言葉だった。


私は夫に言った。


「何を?」


夫は答えなかった。


遥が代わりに言った。


「覚えてないなら、いいんじゃない」


その声が、あまりに普通だった。


私は遥を見た。


遥は私を見返していた。


目が乾いていた。


夫が遥の腕を強く引いた。


「やめろ」


遥は夫の手を振り払った。


その後のことは、途切れている。


テーブルの角。


肉じゃがの皿。


落ちた箸。


夫の声。


遥の声。


私の手。


庭から入る湿った風。


それから、何かが倒れる音。



五十


遥の自由帳


八月二十日 夜


お父さんが警察と言った。


明日行くと言った。


今じゃなくて明日。


お父さんはいつも、明日にする。


お母さんが前という言葉に反応した。


やっぱり少し覚えている。


でも全部ではない。


全部覚えたら困るのは、お父さん。


たぶん。


お父さんが腕を強く掴んだ。


痛い。


振り払った。


テーブルに当たった。


皿が落ちた。


お父さんが何かを踏んだ。


滑った。


違うかもしれない。


お母さんが叫んだ。


お父さんが倒れた。


頭のところから、赤いのが出た。


お母さんはお父さんを見ていた。


私は包丁を見た。


台所の方。


肉じゃがを作った時の包丁。


お母さんも見た。


お父さんは動かなかった。


私はその時、少しだけ困った。


明日、警察に行く人がいなくなった。



五十一


捜査資料


事件現場概況


一階リビングにて、佐藤誠司の遺体を発見。


頭部に強い打撲痕。

リビングテーブルの角および床面に血痕あり。


台所付近から包丁一本を押収。

刃部および柄に血痕付着。


長女・佐藤遥はリビング奥、庭へ通じる掃き出し窓付近で発見。

出血多量により死亡したとみられる。


母・佐藤美沙は現場におらず。

同日午後十一時五十六分、付近の児童公園にて発見。


発見時、裸足。

両手および爪間に土。

衣服に血痕。

応答は不明瞭。


発見時の発言。


「和馬を探していました」


その後、


「私は、母親です」


と述べた。



五十二


取調室


八月二十一日


白い机があった。


美沙はその机の角を見ていた。


角。


テーブルの角。


リビングのテーブル。


夫の頭。


そこまで考えて、吐き気がした。


刑事が言った。


「佐藤さん。八月二十日の夜のことを、もう一度話してください」


美沙は手を膝の上で握った。


爪の間は洗われていた。


それでも、まだ土が入っている気がした。


「庭を掘りました」


「なぜですか」


「和馬が、そこにいると思ったから」


「誰かにそう言われましたか」


美沙は黙った。


夫が言ったのか。

遥が言ったのか。

自分でわかったのか。


わからない。


「夫が、庭と」


「ご主人が言った?」


「たぶん」


刑事はメモを取った。


「和馬くんは、いつ亡くなったと聞きましたか」


「七月四日」


「誰が言いましたか」


「遥」


刑事の手が止まった。


「遥さんが?」


「はい」


「遥さんは、何と言いましたか」


美沙は口を開いた。


転んだ。

庭。

朝顔。

うるさかった。


その言葉が順番に浮かぶ。


でも、そのまま言っていいのかわからなかった。


遥は死んでいる。


夫も死んでいる。


言葉だけが残る。


「転んだ、と」


「誰が?」


「和馬が」


「誰かが押したという話はありましたか」


美沙は首を振った。


「覚えていません」


「ご主人は和馬くんの死亡に関与していましたか」


美沙は刑事を見た。


関与。


その言葉は便利だった。


殺したのか。

埋めたのか。

隠したのか。

嘘をついたのか。


全部、関与と言える。


「夫は」


美沙は言った。


「埋めたんだと思います」


刑事はさらにメモを取った。


「ご主人は自分がやったと言いましたか」


美沙は長く黙った。


夫の声。


俺が悪い。


全部。


「全部、俺が悪いと」


「それは、和馬くんを殺したという意味ですか」


美沙は答えられなかった。


刑事は待っていた。


美沙は小さく言った。


「わかりません」



五十三


新聞記事


八月二十二日


横浜市青葉区の住宅で会社員の佐藤誠司さん、長女の遥さん、長男の和馬くんが死亡した事件で、県警は二十二日、妻の佐藤美沙容疑者を殺人の疑いで送検した。


捜査関係者によると、和馬くんの遺体は自宅庭から発見されており、死亡時期は事件当日より前である可能性があるという。


美沙容疑者は取り調べに対し、


「和馬は庭にいると思った」

「夫が埋めたのだと思う」


などと供述しているが、内容には曖昧な点が多い。


近隣住民によると、和馬くんは七月上旬から姿を見せておらず、父親の誠司さんが「夏風邪が長引いている」と説明していた。


学校にも同様の連絡が入っていたという。


一方、誠司さんは近所では献身的な夫、父として知られていた。


近所の女性は取材に対し、こう話した。


「奥さんの体調が悪いことも、ご主人がよく話していました。和馬くんのことも、ご主人が全部説明されていました。だから誰も疑いませんでした」


県警は、和馬くんの死亡経緯と、遺体が庭に埋められた経緯について調べを進めている。



五十四


留置場の手記


一日目


紙をもらった。


書いていいと言われた。


何を書けばいいのかわからない。


私は日記を書いていた。


毎日ではないけれど、できるだけ書いていた。


書けば、その日があったことになる気がした。


でも今は、書いたことが怖い。


私の日記には、和馬がいる。


和馬の茶碗。

和馬のパン。

和馬のお粥。

和馬のアイス。

和馬の桃。

和馬の朝顔。


でも和馬の声はない。


七月四日から、ほとんどない。


私はどうして気づかなかったのだろう。


和馬は寝ているらしい。


私はそう書いていた。


らしい。


自分の子供のことを、私は「らしい」と書いていた。


夫が見てくれている。


夫が言っていた。


夫が持っていった。


夫が片づけた。


私の日記に出てくる和馬は、ほとんど夫の言葉の中にしかいない。


それでも私は、和馬がいると思っていた。


夫がそう言うから。


私は信じた。


信じたかった。



五十五


取調室


八月二十三日


「ご主人を殺したのは、あなたですか」


刑事が聞いた。


美沙は机の角を見た。


テーブルの角。

夫の頭。

血。


「わかりません」


「覚えていない?」


「倒れたのは覚えています」


「誰が倒したのですか」


「夫が、滑ったのかもしれません」


「あなたが押した可能性は?」


美沙は目を閉じた。


夫が遥の腕を掴む。

遥が振り払う。

皿が落ちる。

私が叫ぶ。

夫が倒れる。


「あります」


「包丁は?」


包丁。


台所の包丁。


肉じゃがを作った時の包丁。


私は持ったのだろうか。


遥が持ったのだろうか。


夫が持ったのだろうか。


「覚えていません」


「遥さんについては?」


美沙の指が震えた。


遥。


スリッパ。

窓。

冷たい声。

痛いのは嫌い。


「遥は」


そこで言葉が止まった。


「遥さんに、あなたは危害を加えましたか」


「覚えていません」


「覚えていないことが多いですね」


刑事は責めるようには言わなかった。


でも、その言葉は責めるより痛かった。


「はい」


「都合よく忘れているということはありませんか」


美沙は刑事を見た。


都合よく。


それは、そうかもしれないと思った。


思い出したくないことを忘れているのなら、それは都合がいい。


でも、忘れていた間に人が死んでいた。


それは、都合がいいと言えるのだろうか。


「わかりません」


美沙は答えた。


刑事は少しだけ息を吐いた。


「遥さんは、和馬くんの死亡について何か言っていましたか」


「転んだ、と」


「それだけ?」


「庭で」


「他には?」


美沙は唇を噛んだ。


朝顔。

うるさかった。


その言葉を言いたくなかった。


遥の声が、あまりにも普通だったから。


「朝顔のことで」


「喧嘩をした?」


「わかりません」


「遥さんが何かした可能性は?」


美沙は黙った。


刑事は待った。


美沙は、小さく言った。


「夫は、遥を守ろうとしていたのだと思います」


「何から?」


美沙は答えなかった。


刑事が続けた。


「あなたからですか」


美沙は首を振った。


違う。


たぶん違う。


夫は、私から遥を守ろうとしていたのではない。


遥から、何かを守ろうとしていた。


家族を。

自分を。

私を。

和馬を。


でも、もう何も守れていなかった。



五十六


遥の自由帳


押収品・抜粋


七月四日以降の記述には、長男・和馬の体調に関する直接的な描写が少ない。


一方で、父・誠司の行動に関する記述が多い。


以下、抜粋。


お父さんは二階へ行った。

戻ってきて、寝てたと言った。

お母さんは安心した。


お父さんが電話した。

先生はお父さんの話を聞いた。

お母さんは隣にいた。


お父さんは食べ物を持っていく。

戻ると器は空。

お母さんは少し食べたと思う。


お父さんは見ている。

お母さんが見ないところを見る。

私が見ているところも見る。


八月二十日の記述には、以下の一文がある。


明日、警察に行く人がいなくなった。


この一文の意味については、現時点で不明。



五十七


留置場の手記


三日目


遥の自由帳を、少しだけ見せられた。


全部ではない。


刑事さんが必要なところだけを読んだ。


遥の字は、思っていたよりきれいだった。


丸くて、小さい。


あの子は、あまり感情を書いていなかった。


お母さんは安心した。

お父さんは電話した。

和馬の器は空だった。

お父さんは見ていた。


それだけ。


私は、遥が苦しんでいたのだと思っていた。


和馬のことで。

父に黙らされて。

私に言えなくて。


でも、読まれた文章の中の遥は、苦しんでいるようには見えなかった。


ただ見ている。


誰が何を言ったか。

誰が何を見なかったか。

誰がどこへ行ったか。


まるで、家族の外にいる人みたいに。


それが怖かった。


でも、遥は子供だ。


十一歳の子供だ。


子供が何も感じていないはずはない。


そう思いたかった。



五十八


司法解剖鑑定書・要旨


佐藤和馬


佐藤和馬。

推定年齢七歳。


遺体は自宅庭の土中から発見。


死後経過日数は、発見時の状態、埋没環境、気温、土壌条件から、八月二十日の死亡とは考えにくく、少なくとも数週間以上が経過していた可能性が高い。


頭部に外傷あり。


転倒、または鈍的外力による損傷の可能性。


刃物による損傷なし。


明確な防御創なし。


死因は頭部外傷に伴う頭蓋内損傷と推定される。



五十九


司法解剖鑑定書・要旨


佐藤誠司・佐藤遥


佐藤誠司。


頭部外傷あり。

リビングテーブル、または床面への強打によって生じた可能性。


刃物による損傷も確認。

ただし、頭部外傷との前後関係については慎重な検討を要する。


佐藤遥。


刃物による損傷あり。

出血多量により死亡した可能性。


傷の部位から、他者による加害の可能性、自傷または揉み合いの中で生じた可能性の双方が考えられる。


詳細については追加鑑定を要する。



六十


取調室


八月二十六日


「和馬くんが亡くなった時、あなたはどこにいましたか」


刑事が聞いた。


美沙は答えた。


「寝ていました」


「薬を飲んで?」


「はい」


「誰が薬を用意しましたか」


「夫です」


「いつも?」


「はい」


「七月四日も?」


「たぶん」


「たぶん?」


「夫が用意してくれていたので」


刑事はメモを見た。


「あなたの日記には、七月四日昼過ぎに薬を飲んだとあります」


「はい」


「その後、夕方まで眠っていた」


「はい」


「その間に、和馬くんが死亡した可能性があります」


美沙は頷いた。


その事実を聞いても、もう驚かなかった。


ただ、体の中に冷たい水が入ってくるようだった。


「ご主人があなたを眠らせたと思いますか」


刑事が聞いた。


美沙は顔を上げた。


「わかりません」


「薬を多く飲まされた可能性は?」


「わかりません」


「ご主人を疑っていますか」


美沙は答えられなかった。


夫は優しかった。


夫は薬を持ってきた。


夫は水を渡した。


夫は見ていた。


夫は和馬を埋めた。


夫は遥を守ろうとした。


夫は私に、大丈夫と言った。


どれも本当。


「疑うというより」


美沙は言った。


「夫の言葉で、私は何も見なくなっていました」


刑事は少しだけ眉を動かした。


「それは、ご主人に支配されていたという意味ですか」


美沙は首を振った。


「わかりません」


また、わかりません。


そればかりだ。


でも、本当にわからなかった。


私は夫に支配されていたのか。


それとも、支配されることを選んでいたのか。



六十一


留置場の手記


五日目


刑事さんは、夫を疑っている。


たぶん。


和馬を殺したのか。

私に薬を飲ませたのか。

庭に埋めたのか。

遥を黙らせたのか。


そういう聞き方をする。


私は、夫を庇っているのだろうか。


それとも、夫を疑いたくないだけだろうか。


夫は和馬を埋めた。


これはたぶん本当だ。


でも、和馬を殺したのかはわからない。


遥は、和馬は転んだと言った。


庭で。


朝顔のことで。


うるさかったから。


私はその言葉を何度も思い出す。


遥の声には、震えがなかった。


泣いてもいなかった。


怒ってもいなかった。


それが怖い。


でも、それを怖いと思う自分を、私は責めたくなる。


母親が娘を怖いと思うなんて。


だから私は、夫を疑った方が楽なのかもしれない。


夫が全部やった。


夫が隠した。


夫が悪い。


そう思えば、遥を見なくて済む。


でも、遥は言った。


お父さんは埋めただけ。


その言葉を、私はまだどこにも置けない。



六十二


捜査資料


学校関係者聞き取り


長男・和馬について。


七月二日以降、欠席。

欠席連絡は主に父・佐藤誠司より電話で行われていた。


担任証言。


「夏風邪が長引いていると説明を受けていました。お母様は体調が不安定なので、連絡は自分がするとお父様から言われました」


長女・遥について。


七月中旬以降、授業中にぼんやりする様子あり。

宿題未提出、白紙提出が一度ずつ確認されている。


担任証言。


「遥さんはもともとしっかりした子でした。急に反抗的になったというより、反応が薄くなった印象です」


「家庭のことを聞くと、『普通です』と答えました」


「和馬くんについて聞いた時も、『寝てると思います』と答えました」



六十三


留置場の手記


七日目


普通です。


遥は先生にそう言ったらしい。


普通。


遥はよくそう言った。


学校どう?

普通。


具合悪い?

普通。


何かあった?

普通。


私はそれを思春期だと思った。


子供が親に何も話したがらない時期。


でも、遥の普通は、普通ではなかった。


普通と言えば、話が終わる。


それ以上聞かれない。


遥はそれを知っていたのだと思う。


夫も知っていた。


大丈夫。

普通。

寝てる。

疲れてる。

夏風邪。


この家には、話を終わらせる言葉が多すぎた。



六十四


誠司の手帳


押収品・抜粋


七月四日


・雨

・カレー

・美沙 薬

・遥

・庭


七月五日


・高木さんには夏風邪

・学校連絡

・美沙 様子

・遥 見ている


七月十一日


・ケーキ三つ

・美沙 様子

・遥 ノート


七月十五日


・美沙 不安

・薬

・和馬の声?


八月十三日


・買い物

・電話

・美沙 二階


八月十八日


・ゴミ袋

・薬確認

・遥 限界か

・明日?


八月二十日


・朝顔 二

・話す

・警察

・美沙 薬なし

・遥から目を離さない



六十五


留置場の手記


九日目


夫の手帳を見せられた。


七月四日。


雨。

カレー。

美沙 薬。

遥。

庭。


和馬の名前はなかった。


庭、とだけあった。


七月五日。


高木さんには夏風邪。

学校連絡。

美沙 様子。

遥 見ている。


遥 見ている。


夫は、遥が見ていることに気づいていた。


八月二十日。


朝顔 二。

話す。

警察。

美沙 薬なし。

遥から目を離さない。


遥から目を離さない。


夫は、何を見ていたのだろう。


遥が逃げないように?

遥が話さないように?

遥が何かしないように?


私は今まで、夫が私を見ていると思っていた。


私の薬。

私の記憶。

私の体調。


でも夫は、遥も見ていた。


七月五日から。


もしかすると、もっと前から。


夫は遥を守っていたのだと思っていた。


でも、手帳の文字は少し違って見える。


守る人は、目を離さないとは書かない。


見張る人が、そう書く。



六十六


取調室


八月二十九日


「ご主人は、遥さんを警戒していたと思いますか」


刑事が聞いた。


美沙は、すぐには答えなかった。


警戒。


夫と遥。


思い返すと、夫は遥をよく見ていた。


食卓で。

階段で。

ノートを書いている時。

和馬の話になる時。


でもそれは、父親として心配していたのだと思っていた。


「わかりません」


また、その言葉。


刑事は少し資料をめくった。


「ご主人の手帳には、『遥から目を離さない』とあります」


「はい」


「なぜそう書いたと思いますか」


「わかりません」


「遥さんが和馬くんの死亡に関わっていた可能性は?」


美沙の胸が締めつけられた。


関わっていた。


その言葉なら、まだ耐えられる。


殺した。


その言葉は、まだ無理だった。


「事故だったのかもしれません」


美沙は言った。


「誰の事故ですか」


「和馬が転んだ」


「それを遥さんが見ていた?」


「たぶん」


「遥さんが何かした可能性は?」


美沙は黙った。


刑事は待った。


美沙は唇を噛んだ。


「遥は、十一歳です」


「はい」


「子供です」


「はい」


「子供が、弟が死んだのに、何も感じないなんて」


そこまで言って、声が止まった。


刑事は何も言わなかった。


美沙は続けた。


「ないと思いたいです」


刑事は少し間を置いてから言った。


「思いたい、ですね」


美沙は頷いた。


「はい」



六十七


留置場の手記


十日目


私は、遥を見ていなかった。


和馬だけではない。


遥も見ていなかった。


遥は泣いていなかった。


和馬がいなくなっても、泣いていなかった。


夫が倒れても、泣いていなかった。


私が庭を掘っても、泣いていなかった。


遥は、見ていた。


いつも。


でも、見ている人が一番わかっているとは限らない。


もしかすると、遥は本当に何もわかっていなかったのかもしれない。


死ぬということ。

いなくなるということ。

戻らないということ。


それを理解していなかったのかもしれない。


そう考えると、少し救われる。


でも、すぐに別の声がする。


十一歳なら、わかる。


紬の時も。


私は、今、何を書いたのだろう。


紬。


この名前を、私は書いた。


誰。


私はこの名前を知っている。


紙の上の文字を見ていると、頭の奥で階段の音がした。


小さな体が転がる音。


私はペンを落とした。



六十八


留置場の手記


同日・夜


紬。


思い出そうとすると、吐き気がする。


でも、名前を書いた。


書けた。


その名前は、どこから出てきたのだろう。


遥の妹。


和馬の下。


小さな黄色い茶碗。


星のシール。


階段の柵。


裏返しの写真。


私は子供を二人産んだと思っていた。


遥と和馬。


でも、それは違う。


私は、もう一人産んでいる。


小さな女の子。


紬。


名前の由来は、夫が考えた。


「人と人をつなぐ子になりますように」


そんなことを言っていた気がする。


顔は思い出せない。


声も。


でも、白い靴下だけ思い出せる。


階段の下。


救急車の音。


夫の声。


遥の顔。


遥は泣いていなかった。


そのことを、私は思い出した。



六十九


捜査資料


追加確認事項


佐藤家には、死亡した長男・和馬の下に、もう一人子が存在していた。


氏名、佐藤紬。

死亡時年齢、一歳。


三年前、自宅階段から転落し死亡。


当時の捜査では、事故として処理されている。


母・美沙はその後、強い精神的不調を呈し、通院を開始。

睡眠障害、記憶の混濁、抑うつ症状あり。


父・誠司が主に通院付き添い、服薬管理を行っていた。


長女・遥は、事故当時自宅にいた。

ただし、幼年であり、直接的な事情聴取は限定的。


当時の記録では、転落時に誰が近くにいたかは明確ではない。


再確認の必要あり。



七十


留置場の手記


十一日目


紬。


私は一日中、その名前を見ていた。


書いて、消して、また書いた。


紬。


紬。


紬。


娘の名前なのに、私は忘れていた。


忘れていたのではない。


閉じ込めていたのだと思う。


夫が閉じ込めてくれた。


薬で。

病院で。

大丈夫という言葉で。


私はその中で眠っていた。


紬が死んだ時、私は壊れた。


そう聞かされていた。


だから、紬のことは思い出さなくていい。


夫はそう言った。


先生も、無理に触れなくていいと言った。


私はそれでよかった。


忘れていれば、生きられたから。


でも、忘れていた間に、和馬も死んだ。


私は二度、子供を失った。


一度目は階段。


二度目は庭。


どちらの時も、私はそこにいなかった。


どちらの時も、遥はそこにいた。


第四部


見ていた子



七十二


新聞記事


九月三日


横浜市青葉区の住宅で父親と長女が死亡し、長男の遺体が庭から見つかった事件で、県警は三日、三年前に同じ住宅で発生した女児転落死事故についても、改めて関係資料を確認していることがわかった。


関係者によると、死亡していたのは佐藤家の次女・紬ちゃん。

当時一歳だった。


紬ちゃんは三年前、自宅階段から転落し、搬送先の病院で死亡した。

当時は家庭内での不慮の事故として処理されていた。


今回死亡した長男・和馬くんの遺体が庭から発見されたことを受け、県警は、佐藤家で過去に起きた事故との関連も慎重に調べている。


母親の佐藤美沙被疑者は、紬ちゃんの死後に精神的な不調を訴え、通院していたという。


近隣住民は取材に対し、こう語った。


「あの家は、前にも本当に気の毒なことがあったんです。小さいお子さんが亡くなって。それから奥さんは少し変わってしまって、ご主人がずっと支えていました」


別の住民は、長女の遥さんについてこう話した。


「遥ちゃんは、昔からしっかりした子でした。泣いたり取り乱したりするところは、あまり見たことがありません。小さい妹さんが亡くなった時も、ずいぶん静かな子だと思いました」


県警は、和馬くんの死亡経緯に加え、佐藤家の過去の事故についても、家族内でどのような認識があったのか調べている。



七十三


留置場の手記


十二日目


新聞に紬の名前が出た。


紬。


活字になった名前を見て、私はまた少し思い出した。


小さな手。


やわらかい髪。


黄色い茶碗。


白い靴下。


階段の下。


それだけ。


顔はまだぼんやりしている。


写真を見れば思い出すのだろうか。


それとも、写真の中の子を見て、


この子が私の娘です


と、誰かに説明されるだけなのだろうか。


私は怖い。


和馬を見なかったことも怖い。


遥を見なかったことも怖い。


でも、紬を思い出せないことが一番怖い。


母親なのに、顔が浮かばない。


名前だけが戻ってきた。


紬。


私はあなたの母親だった。


そう書いても、まだ嘘みたいに見える。



七十四


捜査資料


三年前の転落事故記録


発生日、三年前の十月二十六日。


午後六時四十分頃、佐藤家自宅階段下にて、次女・佐藤紬が倒れているのを母・美沙が発見。


父・誠司が一一九番通報。

搬送先病院で死亡確認。


死因は頭部外傷。


当時の状況。


母・美沙は台所にいたと証言。

父・誠司は帰宅直後。

長女・遥は二階子供部屋にいたとされた。

長男・和馬はリビングにいたとされた。


事故当時、階段上部に設置されていたベビーゲートは開いていた。


母・美沙は事故後、強い混乱状態となり、詳しい事情聴取は困難。


父・誠司は、


「少し目を離した隙に、階段を上ってしまったのだと思う」


と説明。


長女・遥については、年齢を考慮し、簡単な聞き取りのみ実施。


聞き取り記録。


問:紬ちゃんは階段にいた?

答:いたと思う。


問:誰か一緒にいた?

答:わからない。


問:紬ちゃんは泣いていた?

答:うるさかった。


問:うるさかった?

答:泣いてた。


問:そのあとどうなった?

答:落ちた。


問:誰かが押した?

答:見てない。


問:遥ちゃんはどこにいた?

答:上。


問:階段の上?

答:部屋。


以上。


当時、事件性を示す明確な証拠なし。



七十五


留置場の手記


十三日目


紬は、うるさかった。


遥はそう言っていた。


三年前の記録に残っていた。


うるさかった。


和馬の時も、遥は同じことを言った。


和馬が、うるさかった。


その言葉が頭から離れない。


泣く赤ん坊。

朝顔にこだわる和馬。

父に叱られる遥。

私が何度も同じことを聞く夜。


遥にとって、私たちはみんなうるさかったのだろうか。


でも、十一歳の子供にそんなことを思ってはいけない。


遥は子供だった。


そう書くと、少し安心する。


でも、すぐに別の声がする。


紬が死んだ時、遥は八歳だった。


和馬が死んだ時、遥は十一歳だった。


二度とも、同じ言葉。


うるさかった。


偶然だろうか。


私は、偶然であってほしいと思っている。


思っている時点で、私はもう遥を疑っている。



七十六


取調室


九月五日


「紬さんの事故について、思い出したことはありますか」


刑事が聞いた。


美沙は椅子に座っていた。


机の上に、古い写真のコピーが置かれている。


そこには、五人の家族が写っていた。


夫。

私。

遥。

和馬。

そして、紬。


紬は夫に抱かれていた。


頬が丸い。


小さなピンクの靴下を履いている。


私は写真の中で笑っていた。


この写真を見ても、まだ夢のようだった。


「少しだけ」


美沙は答えた。


「階段の下に、紬がいました」


「誰が最初に見つけましたか」


「私だと思います」


「遥さんは?」


「二階にいたと聞いていました」


「聞いていた?」


「はい」


「誰から?」


美沙は写真を見た。


夫が写っている。


若い。

今より少し太っている。

紬を抱いている。


「夫からだと思います」


刑事は頷いた。


「当時の記録では、遥さんは『上にいた』と答えています。その後、『部屋』と言い直しています」


美沙は顔を上げた。


言い直した。


たぶん。


寝てると思う。


遥はいつも、言い直す。


「その時、和馬くんは何か言っていませんでしたか」


「和馬は小さかったので」


「当時四歳です」


「はい」


「四歳なら、何か見ていた可能性はあります」


美沙は息を止めた。


和馬。


お魚、目がある。

ここが、ぼくの場所。

待つ。


和馬は、静かな子だった。


静かな子は、何も見ていないわけではない。


「覚えていません」


美沙は言った。


「和馬くんが、紬さんの事故について、後に何か言ったことは?」


美沙は首を振りかけた。


そして、止まった。


昔、和馬が階段のシールを見て、


「これ、まだあるんだ」


と言ったことがある。


いつだったかは思い出せない。


そのあと遥が、


「剥がせばいいのに」


と言った。


夫が、


「そのままでいい」


と言った。


それだけ。


「大したことではありませんが」


美沙はその話をした。


刑事はメモを取った。


「大したことかどうかはこちらで判断します」


そう言われた。



七十七


遥の自由帳


押収品・古いノート


三年前・十月二十七日


お母さんは病院に行った。


お父さんも行った。


和馬は高木さんの家にいた。


私は家にいた。


階段のシールはそのまま。


お父さんが剥がさなくていいと言った。


お母さんは泣いていた。


昨日も泣いていた。


今日も泣いていた。


大人は泣くと長い。


紬の茶碗は食器棚の下にある。


もう使わない。


使わないなら、しまえばいい。


お父さんは、


「しばらく触らないでおこう」


と言った。


しばらく、がどれくらいなのかは知らない。



七十八


遥の自由帳


押収品・古いノート


三年前・十一月一日


お母さんはずっと寝ている。


薬を飲むと寝る。


お父さんが水を持っていく。


お母さんは飲む。


和馬は静か。


和馬は階段を見ない。


私は見ても平気。


階段は階段。


落ちる人がいるだけ。


お父さんは私に、


「何も見ていないんだよな」


と言った。


私は頷いた。


見ていない。


近くにはいたけど、見ていない。


これは違う。


たぶん違う。



七十九


留置場の手記


十五日目


古い自由帳を見せられた。


遥の字は、今より大きかった。


でも、文章は似ていた。


泣いている。

寝ている。

薬を飲む。

茶碗がある。

もう使わない。


それだけ。


紬が死んだ翌日の文章なのに、遥は紬のことをほとんど書いていない。


悲しい。

寂しい。

怖い。


そういう言葉がない。


階段は階段。

落ちる人がいるだけ。


私はその一文を見て、気持ちが悪くなった。


でも、それを書いたのは八歳の子供だ。


八歳の子供の文章に、私は何を求めているのだろう。


それでも、私は思ってしまう。


遥は、紬が死んだことを、どこか他人事のように見ていたのではないか。


そして和馬のことも。


父のことも。


私のことも。



八十


捜査資料


父・誠司の手帳


三年前の記録


十月二十六日


・救急車

・紬

・美沙 病院

・遥 確認

・和馬 高木さん

・階段


十月二十七日


・美沙 薬

・遥 もう一度聞く

・和馬 泣かない

・ベビーゲート処分?


十月三十日


・遥 見ていない

・同じことを言う

・美沙 夜中

・写真は裏


十一月二日


・先生

・美沙 無理に思い出させない

・遥 普通すぎる


十一月五日


・階段シール

・剥がすか

・美沙が見る

・残す



八十一


留置場の手記


十六日目


夫は、三年前から遥を見ていた。


遥 確認。

遥 もう一度聞く。

遥 見ていない。

同じことを言う。

遥 普通すぎる。


普通すぎる。


夫は気づいていた。


紬の時から。


遥が普通すぎることに。


では、なぜ言わなかったのか。


なぜ警察に話さなかったのか。


なぜ私に言わなかったのか。


答えは簡単だ。


私が壊れていたから。


夫はそう言っただろう。


美沙には無理だ。

和馬も小さい。

遥は子供だ。

事故だったのかもしれない。


そうやって、全部を家の中にしまった。


階段のシールを残したまま。

茶碗を棚の奥に戻したまま。

写真を裏返したまま。


夫は、見なかったのではない。


見て、しまった。


私よりもずっと、夫は見ていた。


だからこそ、隠した。



八十二


起訴状


被告人 佐藤美沙。


被告人は、八月二十日午後十時頃から同日午後十一時頃までの間、自宅一階リビングにおいて、夫・佐藤誠司に対し暴行を加え、さらに刃物により加害し、同人を死亡させた。


また、同時間帯、長女・佐藤遥に対し、刃物により加害し、同人を死亡させた。


よって、刑法所定の殺人罪に該当するものとして公訴を提起する。


なお、長男・佐藤和馬の死亡については、被告人による直接的関与を示す証拠は現時点で認められない。


佐藤和馬の遺体遺棄については、死亡した佐藤誠司による関与が強く疑われるが、被疑者死亡のため不起訴相当。


佐藤遥の関与については、死亡により刑事責任を問わない。



八十三


留置場の手記


起訴の日


私は起訴された。


夫と遥を殺した罪。


和馬のことは入っていない。


紬のことも、もちろん入っていない。


紙の上では、私は二人を殺した女になった。


夫。

遥。


和馬は庭から出てきた子。

紬は階段から落ちた子。


誰も、もう裁かれない。


夫は死んだ。

遥も死んだ。

和馬も死んだ。

紬も死んだ。


裁判に立つのは、私だけ。


それは正しいのかもしれない。


生き残ったのは私だけだから。


でも、私だけが生き残ったことが、時々、不公平に思える。


私は一番見ていなかった人間なのに。



八十四


初公判


十一月十二日


法廷は思っていたより明るかった。


美沙は被告人席に座っていた。


傍聴席には記者がいた。


知らない人たち。


誰も、佐藤家の台所の匂いを知らない。


和馬の朝顔を知らない。


遥の赤いヘアゴムを知らない。


夫が魚の皮を食べていたことも知らない。


裁判長が起訴状の内容を確認した。


夫・誠司に対する殺人。

長女・遥に対する殺人。


「被告人は、起訴事実について、どう述べますか」


美沙は立ち上がった。


足が震えた。


弁護人が少しこちらを見た。


美沙は言った。


「夫を死なせたことは、間違いないと思います」


声が自分のものではないようだった。


「でも、殺そうと思ったかは、覚えていません」


法廷が静かだった。


「遥のことも、覚えていないところがあります」


少し息を吸った。


「遥を殺そうと思ったとは、今も思えません」


検察官がこちらを見ていた。


美沙は最後に言った。


「でも、遥が死んだのは、私のせいです」


裁判長が頷いた。


それ以上は求められなかった。



八十五


検察側冒頭陳述


検察官は、淡々と話した。


佐藤家は、外から見る限り、穏やかな家庭であった。


しかし、内側には深刻な問題があった。


三年前、次女・紬が階段から転落し死亡。


その後、母・美沙は精神的不調を呈し、夫・誠司が服薬や通院を管理するようになった。


七月四日頃、長男・和馬が死亡。


遺体は自宅庭に埋められた。


父・誠司がその遺体遺棄に関与した疑いが強い。


しかし、八月二十日夜、被告人は和馬の死と遺体遺棄を知り、激昂した。


その結果、夫・誠司および長女・遥に対して暴行、刃物による加害を行い、両名を死亡させた。


検察官は言った。


「長男の死亡と遺体遺棄という異常な事情は存在します。しかし、それは被告人が二名の生命を奪った事実を消滅させるものではありません」


美沙はその言葉を聞いていた。


二名の生命。


夫と遥。


その通りだと思った。


でも、そこに和馬と紬がいないことが、少しだけ不思議だった。


佐藤家で死んだ子供は、二人ではない。


三人だった。



八十六


弁護側冒頭陳述


弁護人は、ゆっくり話した。


「本件は、単純な母親による一家殺傷事件ではありません」


弁護人は、佐藤家に起きた出来事を時系列で並べた。


三年前、次女・紬が死亡。

母・美沙は精神的不調を発症。

父・誠司が家庭内の情報、服薬、通院、学校連絡を管理するようになった。


七月四日頃、長男・和馬が死亡。

その死亡について、被告人が関与した証拠はない。

むしろ、被告人は和馬が生きていると信じ込まされていた可能性が高い。


父・誠司は、和馬の欠席連絡を学校へ行い、近隣にも夏風邪と説明し、食事や洗濯物、部屋の状態を管理していた。


弁護人は続けた。


「被告人は、夫の言葉を通してしか、長男の存在を確認していませんでした」


そして、父の手帳に触れた。


・遥から目を離さない

・警察

・美沙 薬なし


「八月二十日、誠司氏は何らかの形で真実を明らかにしようとしていました。その場で何が起きたのかは、被告人の記憶だけではなく、物証からも慎重に見る必要があります」


弁護人は遥の死について言った。


「長女・遥さんの死亡について、被告人に明確な殺意があったとは言えません。混乱、制止、揉み合いの中で生じた可能性があります」


最後に、弁護人はこう言った。


「この裁判で問われるべきは、被告人の責任です。しかし同時に、佐藤家で一か月以上、そして三年以上、何が隠され、誰が何を見なかったのかも、避けて通ることはできません」



八十七


証人尋問


近隣住民・高木幸子


高木さんは、背中を丸めて証言台に立った。


検察官が聞いた。


「佐藤誠司さんは、どのような方でしたか」


「優しい方でした。本当に。奥さんのことも、子供たちのことも、よく見ていました」


「奥さんの様子は?」


「ぼんやりしていることはありました。でも、ご主人が一緒にいるので、大丈夫だと思っていました」


「和馬くんについては?」


「七月に入ってから見かけなくなりました。ご主人が、夏風邪が長引いているとおっしゃっていました」


「それを疑いましたか」


「いいえ。ご主人が言うなら、そうなんだと思いました」


弁護人が立った。


「高木さん。三年前、佐藤家で次女の紬さんが亡くなったことはご存じでしたか」


高木さんは小さく頷いた。


「はい。とても気の毒な事故でした」


「その時、遥さんの様子を覚えていますか」


高木さんは少し考えた。


「静かでした」


「泣いていましたか」


「私は見ていません」


「取り乱していましたか」


「いいえ」


「そのことを、当時どう思いましたか」


高木さんは困ったような顔をした。


「しっかりした子だなと。お母さんが大変だったので、我慢しているのだと思いました」


弁護人は少し間を置いた。


「和馬くんが見えなくなった七月以降、遥さんを見かけましたか」


「何度か」


「様子は?」


「やっぱり静かでした」


「泣いていましたか」


「いいえ」


「しっかりしているように見えましたか」


高木さんは、今度はすぐに答えなかった。


「今思えば」


高木さんは言った。


「しっかりしているというより、何もないみたいに見えました」


法廷が少し静かになった。



八十八


美沙の手記


公判後


高木さんは悪くない。


高木さんは、見えるものを見ただけだ。


夫が優しい。

私は不安定。

遥はしっかりしている。

和馬は夏風邪。


それが、外から見た佐藤家だった。


でも、高木さんの言葉が刺さった。


何もないみたい。


遥は、何もないみたいだった。


紬が死んだ時も。

和馬がいなくなった時も。


私はそれを、しっかりしていると思っていた。


我慢していると思っていた。


子供が泣かない時、大人は都合よく解釈する。


強い子。

いい子。

しっかりした子。


本当は、ただ何も感じていなかったのかもしれない。


そう書くと、私は娘を怪物にしている気がする。


でも、見ないことの方が、もっとひどいのかもしれない。



八十九


証人尋問


元担任教師・三浦理恵


三浦先生は、遥と和馬の担任ではなかったが、二人を知っていた。


和馬の担任でもあり、遥の学年も見ていた。


検察官が聞いた。


「和馬くんは、どのような子でしたか」


「静かな子でした。自分からたくさん話すタイプではありません。でも、観察する力がありました」


「朝顔については?」


「大事にしていました。『ぼくの場所に植える』と言っていたと、お母様から聞きました」


弁護人が聞いた。


「七月以降、和馬くんの欠席連絡は誰からありましたか」


「主にお父様です」


「お母様からは?」


「一度だけ、お母様から問い合わせのようなお電話がありました。ただ、途中で混乱された様子で、その後お父様が折り返してくださいました」


「その時、お父様は何と?」


「妻は体調が不安定なので、連絡は自分にしてほしいと」


「遥さんについてはどうですか」


三浦先生は少し表情を曇らせた。


「七月半ばから、反応が薄くなりました。宿題を白紙で出したこともありました」


「何か聞きましたか」


「家庭のことで困っていることはないか、と」


「遥さんは何と答えましたか」


「普通です、と」


普通。


法廷の中で、その言葉だけが妙にはっきり響いた。


弁護人がさらに聞いた。


「三年前の紬さんの事故について、学校側で何か把握していましたか」


「当時、遥さんの様子を注意して見るよう共有はありました」


「遥さんの様子は?」


「静かでした。泣かない。話さない。ただ、言われたことはする」


「印象に残っていることはありますか」


三浦先生はしばらく考えた。


「一度だけ、遥さんが図工の時間に階段の絵を描いたことがあります」


美沙は顔を上げた。


「階段の絵?」


弁護人が聞いた。


「はい。家の階段のようでした。人は描かれていませんでした。ただ、階段と、下に小さな星のようなものが描いてありました」


「それについて、遥さんは何か言いましたか」


「いいえ。何を描いたのか聞いても、『階段』とだけ」



九十


美沙の手記


階段。


星。


遥は絵に描いていた。


でも人は描かなかった。


紬を描かなかった。


自分も描かなかった。


階段だけ。


落ちる人がいるだけ。


遥の古いノートの言葉が戻ってきた。


階段は階段。


落ちる人がいるだけ。


もし遥の中で、本当にそうだったのなら。


紬は、落ちる人。


和馬は、転ぶ人。


父は、倒れる人。


私は、泣く人。


遥は、見ている人。


そういうことだったのだろうか。



九十一


証拠調べ


遥の古い自由帳


検察官が、遥の古い自由帳の一部を朗読した。


三年前、紬が亡くなった後の記述。


お母さんはずっと寝ている。

薬を飲むと寝る。

お父さんが水を持っていく。

お母さんは飲む。

和馬は静か。

和馬は階段を見ない。

私は見ても平気。

階段は階段。

落ちる人がいるだけ。


法廷の空気が、少し変わった。


検察官は言った。


「この記述は、被告人の犯行そのものを示すものではありません。しかし、佐藤家では三年前から、家族が死と向き合えない状態にあったことを示しています」


弁護人が立った。


「この自由帳は、長女・遥さんの内面を示す重要な証拠です」


弁護人は別の箇所を示した。


お父さんは私に、何も見ていないんだよなと言った。

私は頷いた。

見ていない。

近くにはいたけど、見ていない。

これは違う。

たぶん違う。


弁護人は裁判長を見た。


「遥さんは、紬さんの転落時、近くにいた可能性があります。そして父・誠司氏は、それを知っていた、あるいは疑っていた可能性がある」


検察官が異議を申し立てた。


「推測です」


裁判長は、


「断定的表現は避けてください」


と言った。


弁護人は頷いた。


「可能性として述べています」


美沙は、遥の言葉を聞いていた。


近くにはいたけど、見ていない。


それは、見ていた人の言葉なのか。


見ていない人の言葉なのか。


私にはわからない。



九十二


証拠調べ


遥の自由帳・八月二十日


弁護人は、八月二十日の自由帳を朗読した。


お父さんが警察と言った。

明日行くと言った。

今じゃなくて明日。

お父さんはいつも、明日にする。

お母さんが前という言葉に反応した。

やっぱり少し覚えている。

でも全部ではない。

全部覚えたら困るのは、お父さん。

たぶん。


続けて、


お父さんが腕を強く掴んだ。

痛い。

振り払った。

テーブルに当たった。

皿が落ちた。

お父さんが何かを踏んだ。

滑った。

違うかもしれない。

お母さんが叫んだ。

お父さんが倒れた。

頭のところから、赤いのが出た。

お母さんはお父さんを見ていた。

私は包丁を見た。

台所の方。

肉じゃがを作った時の包丁。

お母さんも見た。

お父さんは動かなかった。

私はその時、少しだけ困った。

明日、警察に行く人がいなくなった。


朗読が終わっても、誰もすぐには動かなかった。


美沙は、最後の一文を何度も頭の中で繰り返していた。


少しだけ困った。


夫が死んだことではない。


警察に行く人がいなくなったことに、困った。


遥。


私はあなたを、どう見ればいいの。



九十三


被告人質問


弁護人


弁護人が聞いた。


「美沙さん。あなたにとって、誠司さんはどのような人でしたか」


美沙は答えた。


「優しい人でした」


「今もそう思いますか」


「はい」


「では、誠司さんを恨んでいますか」


美沙は少し黙った。


「恨んでいます」


傍聴席が少し動いた。


「でも、優しい人だったとも思っています」


弁護人は頷いた。


「誠司さんは、和馬くんを殺したと思いますか」


美沙は首を振った。


「わかりません」


「では、和馬くんの遺体を庭に埋めたと思いますか」


「はい」


「なぜそうしたと思いますか」


美沙は手元を見た。


「遥を守るためだと思っていました」


「今は?」


「今は」


美沙は言葉を探した。


「遥を守るためでもあり、遥を隠すためでもあり、遥を見張るためでもあったのかもしれません」


「遥さんを見張る?」


「夫は、遥を怖がっていたのだと思います」


弁護人は少し間を置いた。


「あなたは、遥さんを怖いと思ったことがありますか」


美沙の喉が詰まった。


母親が娘を怖いと言う。


そのことが、法廷で形になる。


「あります」


声は小さかった。


「いつですか」


「八月二十日です」


「どの場面ですか」


「夫が倒れた時、遥が」


美沙は目を閉じた。


「少しだけ困った、と言ったことを、ノートで知った時です」


「その時、どう思いましたか」


「私は、遥が悲しんでいたと思いたかったんです」


美沙はゆっくり言った。


「でも、そうではなかったのかもしれないと思いました」


「それでも、あなたは遥さんを憎んでいますか」


美沙はすぐには答えられなかった。


遥。

赤いヘアゴム。

ショートケーキの苺。

ノートを閉じる手。

普通。

別に。

もういないじゃん。


「憎んでいると思います」


法廷が静かになった。


美沙は続けた。


「でも、娘です」


「矛盾しますか」


「します」


「それでも?」


「それでも、どちらも本当です」



九十四


被告人質問


検察官


検察官は静かに立った。


「被告人。あなたは今、長女の遥さんを怖いと思ったと述べました」


「はい」


「憎んでいるとも述べました」


「はい」


「その感情が、八月二十日の夜、遥さんへの加害につながったのではありませんか」


美沙はすぐには答えられなかった。


検察官は続けた。


「あなたは、遥さんが和馬くんの死に関与した可能性を知った」


「はい」


「三年前の紬さんの死にも、遥さんが関与していた可能性を感じた」


「その時は、はっきりとは」


「しかし、階段、前みたいに、という言葉で何かを思い出しかけた」


「はい」


「あなたは、遥さんに怒りを向けたのではありませんか」


美沙は手を握った。


「向けたと思います」


「遥さんを殺したいと思いましたか」


「わかりません」


「また、わからない」


検察官の声は少し強くなった。


「都合の悪いことは、いつもわからないのですか」


弁護人が立った。


「異議あり。誘導的かつ侮辱的です」


裁判長が検察官に注意した。


検察官は少し頭を下げた。


それから、改めて聞いた。


「遥さんに対する怒りはありましたか」


「ありました」


「憎しみは?」


「ありました」


「では、その憎しみが刃物を取らせた可能性はありますか」


美沙は、長く黙った。


包丁。

台所。

肉じゃが。

遥の腕。

夫の血。

私の手。


「あります」


弁護人が美沙を見た。


検察官は言った。


「では、あなたが遥さんを殺した可能性を認めるのですね」


美沙は顔を上げた。


「可能性は認めます」


「殺意は?」


美沙は首を振った。


「それは、わかりません」


検察官がまた何か言おうとした。


美沙は続けた。


「でも、私は遥を見ました」


「見た?」


「はい」


「どういう意味ですか」


「私は最後まで、遥をちゃんと見ていませんでした。でも、あの夜、初めて見たのかもしれません」


検察官は眉をひそめた。


「質問に答えてください」


美沙は小さく頷いた。


「すみません」


でも、私は本当にそう思った。


私はあの夜、初めて遥を見た。


娘としてではなく。


かわいそうな子としてでもなく。


しっかりした子としてでもなく。


私の子供であり、紬と和馬を死なせたかもしれない一人の人間として。


見た。


その時、私は壊れた。



九十五


美沙の手記


公判後


今日、私は法廷で言った。


遥を憎んでいる。


その言葉を書いた今も、手が震える。


母親が娘を憎んでいる。


でも、嘘ではない。


私は遥を憎んでいる。


紬を死なせたかもしれない遥を。

和馬を死なせたかもしれない遥を。

父が倒れた時に、少しだけ困ったと書いた遥を。


でも同時に、遥の髪を結んだ日のことを覚えている。


赤いヘアゴム。

入学式。

熱を出した夜。

ショートケーキの苺を最後に食べる癖。


それも全部、遥だ。


どれか一つだけを選ぶことはできない。


かわいそうな娘。

怖い娘。

憎い娘。

私の娘。


全部、遥。


私は今まで、都合のいい遥しか見ていなかった。


いい子。

しっかりした子。

我慢している子。


でも、遥はそれだけではなかった。


私はそれを見ないことで、遥を守っているつもりだったのかもしれない。


違う。


見ないことは、守ることではない。


夫も、私も、同じ間違いをした。



九十六


証人尋問


司法解剖医


司法解剖医は、和馬、誠司、遥の死亡について説明した。


検察官が聞いた。


「長男・和馬くんの死因は?」


「頭部外傷に伴う頭蓋内損傷です」


「事故でも起こり得ますか」


「起こり得ます」


「他者に押された場合でも?」


「起こり得ます」


「どちらか断定できますか」


「断定は困難です」


弁護人が聞いた。


「刃物傷や継続的虐待を示す痕は?」


「認められません」


「つまり、一回の転倒または衝突による可能性がある?」


「はい」


「庭での喧嘩や揉み合いの中で起きた可能性は?」


「医学的には否定できません」


次に、誠司について。


「頭部外傷は、転倒によるものですか」


「リビングテーブルまたは床面への強打で生じ得ます」


「刃物傷は?」


「複数あります。ただし、致命傷との前後関係については慎重な判断が必要です」


「頭部外傷だけで死亡し得た?」


「はい」


遥について。


「死因は?」


「失血死と考えられます」


「刃物によるものですか」


「はい」


「自傷の可能性は?」


「完全には否定できませんが、傷の位置、深さから、他者関与の可能性が高いと考えます」


「揉み合いの中で生じた可能性は?」


「あり得ます」


「明確な殺意をもって繰り返し刺したと断定できますか」


「断定はできません」


美沙は、医学の言葉を聞きながら思った。


医学は、最後までは決めてくれない。


和馬が自分で転んだのか。

遥が押したのか。

夫が滑ったのか。

私が押したのか。

遥が自分から刃物に触れたのか。

私が刺したのか。


体は答えを残している。


でも、心までは残していない。



九十七


誠司の手帳


未公開ページ・証拠採用


弁護人は、父・誠司の手帳の未公開ページを示した。


日付は八月十九日。


遥と話す

反応なし

「別に」

和馬のことを聞いても同じ

紬のことを出すと黙る

美沙にはまだ無理

でも明日

警察

遥を一人にしない


検察官は、この手帳について、


「誠司氏が真実を明らかにしようとしていたことはうかがえるが、被告人の犯行を否定するものではない」


と述べた。


弁護人は、


「誠司氏は遥さんを保護対象としてではなく、危険な存在として見ていた可能性がある」


と述べた。


裁判長は、両者の意見を記録した。


美沙は、そのページを見つめていた。


遥を一人にしない。


その言葉が、父親の心配にも、監視にも見えた。


どちらだったのだろう。


たぶん、どちらでもあった。


夫は遥を愛していた。


そして、恐れていた。



九十八


遥の自由帳


未公開ページ・証拠採用


弁護人は、八月十九日の遥の自由帳を読み上げた。


お父さんに聞かれた。

和馬のこと。

覚えてるかと聞かれた。

覚えてると答えた。

どこまで、と聞かれた。

全部、と答えた。

お父さんは黙った。

紬のことも聞かれた。

覚えてると答えた。

お父さんは顔を触った。

疲れている時の顔。

「お前は何とも思わないのか」と聞かれた。

何とも、とは何。

思うことはある。

面倒だと思う。

怒られるのは嫌だと思う。

お母さんがまた寝るのは嫌だと思う。

お父さんが最近うるさいと思う。

それは、何とも思わないとは違う。

お父さんは泣いていた。

大人はすぐ泣く。


法廷の中で、誰かが息を飲んだ。


美沙は、何も考えられなかった。


何とも思わないのか。


面倒だと思う。

怒られるのは嫌だと思う。

お母さんがまた寝るのは嫌だと思う。

お父さんが最近うるさいと思う。


遥の中に、感情はあった。


でもそれは、私が想像していたものとは違った。


悲しみではなかった。

罪悪感ではなかった。

後悔でもなかった。


自分が困ることへの感情。


それだけだったのかもしれない。



九十九


美沙の手記


私は、ずっと間違えていた。


遥は無感情だったわけではない。


遥には感情があった。


ただ、その向きが違っていた。


紬が死んで悲しい。

和馬が死んで怖い。

お父さんが倒れて苦しい。


そういう感情ではなく、


怒られるのが嫌。

面倒になるのが嫌。

お母さんが寝るのが嫌。

お父さんがうるさいのが嫌。


遥は、遥のことでいっぱいだった。


子供だから。


そう言いかけて、私は止まる。


子供だから許されることと、子供でも許されないことがある。


でも、遥はもう死んでいる。


私はもう、あの子を叱れない。


抱きしめることもできない。


「あなたは悪いことをした」と言うこともできない。


それが一番、苦しい。


夫は言った。


遥は悪くない。


三年前も、きっとそう言ったのだろう。


和馬の時も、そう言ったのだろう。


でも、遥には必要だったのかもしれない。


悪くない、ではなく、


悪いことをした。


そう言ってくれる大人が。




最終弁論


検察側


検察官は、被告人の責任を強く主張した。


「佐藤家には、痛ましい過去がありました。次女の死亡、長男の死亡、そして父親による遺体遺棄の疑い。これらの事情は、被告人にとって極めて強い心理的負荷となったことは否定しません」


検察官は資料を置いた。


「しかし、本件で裁かれるのは、夫・誠司氏と長女・遥さんを死亡させた行為です」


誠司の死。


遥の死。


「被告人は、長男の死を知り、強い怒りと混乱に支配されました。その怒りは、夫のみならず、長女にも向けられました。被告人自身も、遥さんへの怒りと憎しみを認めています」


検察官は結んだ。


「いかなる事情があっても、二名の生命を奪った結果は重大です。被告人には厳正な刑事責任が問われるべきです」


求刑、懲役十八年。



百一


最終弁論


弁護側


弁護人は、深く頭を下げてから話し始めた。


「本件は、被告人一人の悪意によって生じた事件ではありません」


三年前の紬の死。

その後の美沙の精神的不調。

誠司による服薬、通院、家庭内情報の管理。

和馬の死。

遺体の庭への埋却。

一か月以上にわたる虚偽の生活。


「被告人は、自分の子供が死亡していることを知らされず、夫の言葉を通してのみ、和馬くんの存在を確認していました」


弁護人は、遥の自由帳に触れた。


「遥さんの記述からは、長男・和馬くんの死、さらに次女・紬さんの死について、遥さんが何らかの重要な事情を知っていた可能性が強くうかがえます」


検察官は異議を示したが、裁判長は弁護人に表現を慎重にするよう求めただけだった。


弁護人は続けた。


「八月二十日夜、誠司氏は警察へ行くことを決めていました。誠司氏の手帳にも、『警察』『遥を一人にしない』とあります。その場で生じた争いは、単なる被告人の一方的攻撃ではなく、家族全員が抱えていた隠蔽と恐怖が一気に噴き出したものです」


弁護人は声を少し落とした。


「被告人が夫の死亡に関与したことは否定しません。しかし、計画性はなく、殺意については重大な疑問があります。遥さんの死亡についても、混乱と揉み合いの中で生じた可能性があり、明確な殺意を認めるには合理的疑いが残ります」


最後に、弁護人はこう言った。


「庭に埋められていたのは、和馬くんの遺体だけではありません。佐藤家の真実そのものが、三年以上にわたり、家の中に埋められていました」



百二


最終意見陳述


佐藤美沙


美沙は立ち上がった。


紙は持たなかった。


何を書いても、結局その通りには読めないと思ったからだ。


「私は、夫を死なせました」


最初にそう言った。


「遥のことも、私の責任です」


法廷は静かだった。


「私はずっと、自分は弱い母親だと思っていました。夫に支えられていると思っていました。実際、夫は優しい人でした。私を病院に連れて行ってくれて、薬を用意してくれて、子供たちのことも見てくれていました」


夫の顔が浮かんだ。


魚の皮を食べる夫。

プリンを買う夫。

和馬の分のカレーにラップをかける夫。

庭に和馬を埋めた夫。


「でも私は、その優しさの中で、自分で見ることをやめていました」


美沙は続けた。


「和馬がいなくなっていたのに、私は夫の言葉で安心しました。寝ている。夏風邪。食べた。大丈夫。そう言われて、私は何も見ませんでした」


少し息を吸った。


「紬のことも、私は忘れていました。忘れることで生きていました」


遥のことを話す時、声が震えた。


「遥は、私の娘です」


その言葉だけで涙が出そうになった。


でも泣かなかった。


「私は遥を、しっかりした子だと思っていました。いい子だと思っていました。苦しんでいる子だと思いたかった。でも、裁判で遥のノートを読んで、私は初めて、遥を見た気がします」


検察官がこちらを見ていた。


裁判長も見ていた。


「遥は、怖い子だったのかもしれません。紬のことも、和馬のことも、本当にどう思っていたのか、私はもう聞けません。でも、もしあの子が悪いことをしたのなら、私は母親として、それを見なければいけなかった」


美沙は手を握った。


「夫は遥に、悪くないと言ったのだと思います。私も、そう思いたかった。でも、悪いことをした子に、悪くないと言い続けることは、守ることではなかったのかもしれません」


最後に言った。


「私は、母親でした。でも、母親でいられませんでした」


声が途切れた。


「和馬、紬、遥、誠司さん。ごめんなさい」



百三


判決


判決の日。


美沙は被告人席に座っていた。


裁判長は、まず主文を後回しにした。


法廷が静かになった。


裁判長は事実認定を読み上げた。


長男・和馬の死亡について。


七月四日頃、庭で頭部外傷により死亡した可能性が高い。

その場に遥がいた可能性は高い。

しかし、和馬が自ら転倒したのか、遥の行為により転倒したのかは、証拠上断定できない。


ただし、遥の自由帳の記述、父・誠司の手帳から、誠司が和馬の死亡について遥の関与を疑っていたことは認められる。


次女・紬の死亡について。


三年前の階段転落事故は、当時事故として処理されている。

今回新たに提出された自由帳や手帳から、遥が転落時に近くにいた可能性、誠司がその点に疑念を持っていた可能性はある。


しかし、紬の死亡について、遥の故意または過失を法的に認定することはできない。


父・誠司について。


誠司は、和馬の死亡後、遺体を庭に埋めた可能性が極めて高い。

また、一か月以上にわたり、和馬が生存しているかのように装い、学校、近隣、妻に対し虚偽の説明を続けた。


裁判長は少し声を落とした。


「誠司氏の行為は、家族を守るという主観的意図があったとしても、被告人および長女・遥さんを長期にわたり異常な心理的状況に置いたものであり、強い非難を免れない」


しかし。


「それは、被告人の行為によって二名が死亡した事実を消滅させるものではない」


誠司の死亡について。


被告人が争いの中で誠司に暴行を加え、転倒または衝突を生じさせた可能性が高い。

その後の刃物傷についても、被告人の関与が認められる。


ただし、計画性はなく、極度の混乱状態にあったこと、誠司自身が長男の遺体遺棄および隠蔽に関与していたことを踏まえると、殺意は未必的なものにとどまる。


遥の死亡について。


遥は刃物による失血で死亡した。

被告人が刃物を手にしていた可能性は高い。


一方で、当時の状況は極度に混乱しており、遥が制止しようとした、あるいは揉み合いの中で傷を負った可能性も否定できない。

遥に対する明確な殺意を認定するには、合理的疑いが残る。


したがって、遥に対しては殺人ではなく、傷害致死に近い態様として評価する。


裁判長は最後に言った。


「本件は、家族の中で、真実を見ないこと、言わないこと、先送りにすることが積み重なった結果、取り返しのつかない破局を迎えた事件である」


そして、主文。


懲役十二年。


美沙は、頭を下げた。


十二年。


和馬は七歳のまま。

紬は一歳のまま。

遥は十一歳のまま。


十二年経っても、三人はその年齢のまま。


私だけが歳を取る。



百四


判決後の手記


懲役十二年。


長いのか、短いのか、私にはわからない。


和馬は戻らない。

紬は戻らない。

遥は戻らない。

夫も戻らない。


十二年で何が変わるのだろう。


私は控訴しないことにした。


もう一度、遥のノートを法廷で読ませたくない。


和馬の遺体の話をさせたくない。


紬の階段の話をさせたくない。


夫の手帳を、また人前で読み上げさせたくない。


それは、逃げなのかもしれない。


でも、もう十分だと思った。


私は、遥を怖いと言った。


遥を憎んでいると言った。


娘に向かって、悪いことをしたのなら、それを見なければいけなかったと言った。


それ以上、何を言えばいいのかわからない。


夜、夢を見た。


庭に朝顔が咲いていた。


和馬がいた。


紬もいた。


遥もいた。


夫もいた。


でも、誰も私を呼ばなかった。


私は庭の外に立っていた。


塀の向こうから、四人を見ていた。


朝顔は青かった。


私は中へ入ろうとした。


でも、門がなかった。


第五部


咲かなかったもの



百六


刑務所の手記


一年目・春


刑務所の朝は早い。


決まった時間に起きる。

決まった時間に食べる。

決まった時間に作業をする。

決まった時間に眠る。


最初、その決まりが怖かった。


でも、しばらくすると、少しだけ楽になった。


自分で決めなくていいからだ。


今日は何を食べるか。

薬を飲んだか。

子供の体調を見るか。

学校へ連絡するか。

階段のシールを剥がすか。

写真を見るか。


何も決めなくていい。


そう思った時、私は自分がまだ同じ場所にいることに気づいた。


あの家でも、私は決めなくなっていた。


夫が決めた。


薬。

病院。

学校。

和馬の体調。

遥への声かけ。

紬の記憶。


私はその中で、安心していた。


ここでは、刑務所の規則が決めてくれる。


あの家では、夫が決めてくれた。


違うようで、少し似ている。


だから怖い。


私はまた、自分で見なくなるかもしれない。


ここには和馬も紬も遥もいない。


それでも、見ないことはできてしまう。



百七


青柳弁護士からの手紙


佐藤美沙様


先日は面会ありがとうございました。


ご依頼の件について、誠司さんの遺品整理に関する資料の一部を確認しました。


裁判では証拠として提出されなかった手帳のページが、数枚残っています。


内容は主に日常的なメモです。


買い物、子供たちの予定、通院、学校連絡などです。


事件に直接関係するかどうかは判断が難しいですが、美沙さんが希望されるなら、写しをお送りします。


読むかどうかは、美沙さんが決めてください。


無理に読む必要はありません。


青柳



百八


刑務所の手記


手紙を読んだ日


読むかどうか。


その言葉で、しばらく止まった。


私は、今までどれだけのものを読まなかったのだろう。


日記を書いていたのに、読み返さなかった。

遥の顔を見ていたのに、読まなかった。

夫の優しさを受け取っていたのに、その裏を読まなかった。

和馬の不在を、読まなかった。

紬の名前を、読まなかった。


もう読みたくないと思った。


夫の手帳を読めば、また夫が増える。


優しい夫。

嘘をついた夫。

和馬を庭に埋めた夫。

遥を恐れていた夫。

私を眠らせた夫。

魚の皮を食べる夫。


これ以上、夫を増やしたくない。


でも、読まなければ、また同じことになる。


私は青柳先生に返事を書いた。


送ってください。


短く、それだけ書いた。



百九


誠司の手帳


六月一日


・和馬 朝顔

・支柱

・美沙 味噌汁

・遥 水

・鮭


余白。


和馬、場所にこだわる。

「ぼくの場所」

変なやつ。

でも嬉しそう。


遥、少しむっとしていた。

「お姉ちゃん係」は言わない方がよかったかもしれない。


美沙、味噌汁の火。

気づいて戻る。

今日は調子悪くなさそう。



百十


刑務所の手記


夫は覚えていた。


和馬の「ぼくの場所」を。


遥の顔も。


私の味噌汁の火も。


夫は、何も見ていなかったわけではない。


むしろ、よく見ていた。


見すぎるくらいに。


だから、夫の罪はもっと重いのかもしれない。


見えなかった人ではなく、見えていた人だから。


遥がむっとしたことに気づいていた。

「お姉ちゃん係」がよくなかったかもしれないと書いていた。

それなのに、遥に何を背負わせていたのだろう。


いい子。

しっかりした子。

お姉ちゃん。

黙っていられる子。


私も同じだった。


遥は大丈夫だと思っていた。


大丈夫な子ほど、見なくて済む。



百十一


誠司の手帳


六月十五日


・病院

・薬そのまま

・先生 以前の話

・美沙 少し不安定

・帰りプリン


余白。


先生、紬の話を出しかける。

美沙、反応あり。

まだ無理。


遥が最近よく見ている。

薬のケース、置き場所変えるか。

美沙が自分で触らない方が安心。



百十二


刑務所の手記


美沙が自分で触らない方が安心。


その一文を、何度も読んだ。


夫に悪意があったのかはわからない。


本当に、私のためだったのかもしれない。


私が薬を飲み間違えないように。

忘れないように。

混乱しないように。


でも、私は自分の薬にも触らなくなった。


自分の眠りにも。

自分の記憶にも。

自分の子供にも。


夫が管理してくれる。


その安心の中で、私は少しずつ母親ではなくなっていった。


夫は私を守った。


でも、守られる私は、何もしなくてよくなった。


それは、楽だった。


この楽さを、私は責めなければいけない。


夫だけを責めれば済む話ではない。


私は、守られることに甘えた。



百十三


誠司の手帳


三年前・十月二十六日 裏ページ


表。


・救急車

・紬

・美沙 病院

・遥 確認

・和馬 高木さん

・階段


裏。


遥、泣かない。

何度聞いても同じ。


「見てない」

「上にいた」

「落ちた」


美沙には言えない。

和馬も小さい。


事故。

事故でいい。

事故にする。


そうしないと、家が終わる。



百十四


刑務所の手記


事故にする。


私は、そこで手が止まった。


三年前、夫はそう書いていた。


事故だった、ではない。


事故にする。


夫はその時、もう選んでいた。


紬の死を、家の中で処理することを。


遥を守るため。

私を守るため。

和馬を守るため。

家を守るため。


きっとそう言う。


でも、その時に夫が守ったのは、真実ではなかった。


そして真実を守らない家は、誰も守れない。


紬。


あなたは事故だったのだろうか。


それはもう、誰にもわからない。


遥が押したのか。

手を離したのか。

ただ見ていたのか。

本当に何も見ていなかったのか。


わからない。


でも、わからないままにしてしまった大人がいた。


夫と、私。


私は壊れていた。


それは事実。


でも、壊れていたことは、免罪符ではない。


母親でいられなかったことの説明にはなる。


言い訳にはならない。



百十五


誠司の手帳


七月四日 裏ページ


表。


・雨

・カレー

・美沙 薬

・遥

・庭


裏。


和馬

救急車

もう

遥 動かない

美沙 起こす?

だめ

紬の時

また

どうする

ごめん



百十六


刑務所の手記


夫は、一度は救急車と書いていた。


救急車。


その四文字を見て、私は泣いた。


呼ぼうとしたのだ。


呼ぶべきだと、わかっていたのだ。


でも、次に「もう」と書いている。


もう。


和馬は、その時にはもう動かなかったのだろうか。


それでも呼ぶべきだった。


死んでいても、呼ぶべきだった。


医者を。

警察を。

私を。


でも夫は書いた。


美沙 起こす?

だめ

紬の時

また


私がまた壊れると思ったのだろう。


遥がまた問われると思ったのだろう。


家がまた終わると思ったのだろう。


でも、その時に終わらせるべきだった。


七月四日に。


庭へ行き、和馬を抱いて、警察を呼び、遥に向き合い、私を起こすべきだった。


そこで終わっていれば、夫も遥も死ななかったかもしれない。


私はその夜、寝ていた。


薬を飲んで。


夫が用意した水で。


それでも、私は母親だった。


起こされるべきだった。


壊れても。



百十七


刑務所の作業記録


二年目・梅雨


今年から、花壇の係になった。


職員棟の横に、小さな花壇がある。


季節の花を植える。


名前は知らない。


白い花。

黄色い花。

紫の花。


最初、土に触るのが怖かった。


手袋をしても、爪の間に土が入る気がした。


和馬を掘った夜のことを思い出す。


土は冷たかった。

湿っていた。

朝顔の根元は黒かった。


でも、花壇の土は違った。


乾いていて、軽い。


水をやると、ゆっくり染み込んだ。


土は、何も言わない。


誰が埋められたか。

誰が嘘をついたか。

誰が泣いたか。


何も言わない。


だから人間は、土に隠すのかもしれない。



百十八


刑務所の手記


二年目・八月二十日


今日は、夫と遥が死んだ日。


和馬が見つかった日。


私は朝、花壇に水をやった。


水は普通に染み込んだ。


それだけで少し息ができた。


去年の今日は、一日中、何もできなかった。


今年は水をやった。


たったそれだけ。


花壇には白い花が咲いている。


名前は知らない。


和馬なら、図鑑で調べただろうか。


紬なら、花をちぎっただろうか。


遥なら、


「知らないなら調べれば」


と言ったかもしれない。


夫なら、


「綺麗ならいいんじゃない」


と言ったかもしれない。


想像の中の家族は、現実より優しい。


そこでは、誰も階段から落ちない。


誰も庭に埋まらない。


誰も包丁を見ない。


それは都合のいい想像だ。


でも、想像の中でくらい、四人ではなく五人を並べてもいいだろうか。


紬の顔はまだ曖昧だ。


でも、名前は書ける。


佐藤紬。


私の娘。



百十九


青柳弁護士 面会記録


三年目・春


青柳弁護士は、少し言いにくそうに封筒を出した。


「遥さんの自由帳の件です」


美沙は手を止めた。


「まだ、あるんですか」


「正確には、以前は判読不能とされていた部分です。画像の解析で、一部読めるようになったそうです」


「裁判では?」


「証拠として出すには遅すぎましたし、判決後でした。内容も、事実認定を大きく変えるものではありません」


美沙は封筒を見た。


「読みますか」


青柳は聞いた。


美沙はしばらく黙った。


また、読むかどうか。


選ばなければいけない。


「読んでください」


美沙は言った。


青柳は紙を開いた。


「八月十九日の夜と思われるページです。最後の方に、一文だけ」


青柳は少し間を置いてから読んだ。


お母さんは、私を見ない方が楽だと思う。

見たら、たぶん嫌いになる。

でも、見ないなら母親じゃない。


美沙は、何も言えなかった。



百二十


刑務所の手記


面会後


遥は、わかっていた。


私が見ないことを。


見れば、嫌いになるかもしれないことを。


それでも、見ないなら母親じゃない、と書いていた。


遥は母親に見つけてほしかったのだろうか。


それとも、私を責めたかっただけだろうか。


どちらでもあるのかもしれない。


遥は、自分がしたかもしれないことを後悔していたわけではない。


少なくとも、私が想像していた形では。


でも、遥は見られることを恐れていた。


嫌われることを知っていた。


自分が母親に嫌われるかもしれない子供だと、知っていた。


それは、何も感じていないこととは違う。


遥は、愛されたい子だったのだろうか。


私はその言葉に逃げそうになる。


愛されたい子。


かわいそうな子。


そう言えば、少し許せる気がする。


でも、それだけにしてはいけない。


遥は、愛されたい子だった。


そして、紬と和馬を死なせたかもしれない子だった。


どちらも本当。


私は、その二つを同じ紙の上に置かなければいけない。



百二十一


刑務所の手記


三年目・梅雨


今日は、初めてこう書いた。


遥。

あなたは、悪いことをしたのかもしれない。


書くまでに、ずいぶん時間がかかった。


悪い子だった、と書こうとして止めた。


人間を丸ごと悪い子にするのは、簡単すぎる。


でも、悪いことをしたかもしれない。


これは書ける。


紬の時も。

和馬の時も。

父の時も。


あなたは、近くにいた。


見ていた。


手を出したかもしれない。


離したかもしれない。


押したかもしれない。


何もしなかったかもしれない。


それでも、あなたはそこにいた。


私は、あなたをそこから逃がしてはいけなかった。


夫も。


私は母親として、あなたに言うべきだった。


遥。

悪いことをしたなら、悪いことをしたと言いなさい。


でも、私は言わなかった。


私は、何も聞かなかった。



百二十二


刑務所の花壇記録


三年目・七月


朝顔の種を植えてもよいか、職員に聞いた。


「花壇の端なら」


と言われた。


配られた種は、小さな茶色の封筒に入っていた。


和馬が学校から持ち帰った封筒に似ていた。


私は、日当たりの良い場所ではなく、花壇の端を選んだ。


少し日陰になる場所。


職員が、


「そこ、日当たり悪くない?」


と言った。


私は、


「ここがいいんです」


と答えた。


言ってから、和馬の声を思い出した。


ここが、ぼくの場所っぽい。


私は土を掘った。


今度は、何かを隠すためではない。


種を置くために。


土をかぶせて、水をやった。


水は、ゆっくり染み込んだ。



百二十三


刑務所の手記


七月四日


雨。


朝顔の芽はまだ出ていない。


私は花壇の前に立った。


今日は、和馬が死んだ日。


たぶん。


裁判では、七月四日頃と言われた。


でも、私の中では七月四日だ。


雨。

カレー。

薬。

庭。


和馬。


私は声に出した。


「和馬」


返事はない。


「紬」


返事はない。


「遥」


返事はない。


「誠司さん」


返事はない。


返事がないものを、それでも呼ぶ。


返事がないものを、それでも見る。


私はそれを、少しずつ覚えなければいけない。


母親だったなら、最初からできなければいけなかったことを。



百二十四


誠司の手帳


日付なし


買い物メモの裏。


・牛乳

・卵

・食パン

・薬局

・遥 ノート

・美沙 夜


余白。


美沙はすぐ自分を責める。

和馬は黙る。

紬は泣く。

遥は我慢する。


俺がちゃんとしないと。


少し間を空けて。


ちゃんとするって何だ。


さらに下。


わからない。

でも俺しかいない。



百二十五


刑務所の手記


俺しかいない。


その言葉を見て、夫のことが少しわかった気がした。


そして、やっぱり許せないと思った。


夫は、自分しかいないと思っていた。


だから、私から薬を取り上げた。

記憶を閉じた。

紬を事故にした。

和馬を庭に埋めた。

遥を守り、見張り、最後には警察へ連れて行こうとした。


全部、自分で決めた。


俺しかいない。


その言葉は、責任感にも見える。


でも、家族から声を奪う言葉でもある。


私は、私しかいないと言えなかった。


母親なのに。


夫は、俺しかいないと言いすぎた。


父親だから。


その間で、子供たちはどこへ行けばよかったのだろう。


和馬は庭の端に「ぼくの場所」を作った。


遥は自由帳に場所を作った。


紬は、まだ言葉を持たなかった。


私は、どの場所にも行かなかった。



百二十六


刑務所の花壇記録


四年目・夏


朝顔が咲いた。


青ではなかった。


紫だった。


朝、花壇へ行くと、一輪だけ開いていた。


小さな紫の花。


私はしばらく見ていた。


和馬の朝顔とは違う。


そのことに、少し救われた。


同じ花は咲かない。


同じ朝は来ない。


同じ子供は戻らない。


ここで咲いたのは、和馬ではない。


紬でもない。


遥でもない。


夫でもない。


ただの朝顔。


紫の朝顔。


私は綺麗だと思った。


綺麗だと思ったことに、少し罪悪感があった。


でも、綺麗なものを見て思い出すことも、罰の一部なのだと思う。


忘れないために、綺麗なものがある日もある。



百二十七


手紙


美沙から青柳弁護士へ


青柳先生


朝顔が咲きました。


青ではなく、紫でした。


和馬の朝顔とは違いました。


そのことが、少しだけ救いでした。


同じものが咲いてしまったら、私はたぶん見られなかったと思います。


最近、私はよく考えます。


もし七月四日に戻れたら、私は和馬の部屋へ行けるのか。


もし三年前に戻れたら、私は階段の上にいる遥を見られるのか。


もし六月一日に戻れたら、和馬に聞けるのか。


どうしてそこがいいの。

ぼくの場所って何。

咲かなかったらどうするの。


たぶん、戻っても私は完璧にはできません。


でも、聞くことはできたかもしれません。


見ることはできたかもしれません。


今さら、そんなことを考えています。


佐藤美沙



百二十八


青柳弁護士からの返信


佐藤美沙様


お手紙ありがとうございます。


朝顔が咲いたとのこと、読みました。


同じ花を咲かせ直すことはできません。


けれど、違う花を見続けることはできるのだと思います。


人は、すべてを見ることはできません。


だからこそ、聞くのだと思います。


問い続けることは苦しいことです。


答えが返ってこない相手に問い続けることは、なおさら苦しい。


それでも、美沙さんが問いを持ち続けることは、美沙さんが母親であろうとすることと矛盾しないと思います。


青柳



百二十九


刑務所の手記


五年目・秋


他の受刑者に、手紙の書き方を聞かれた。


謝罪の手紙だった。


何を書けばいいかわからないと言う。


私は少し考えて、


「謝ることと、説明することは分けた方がいい」


と言った。


自分で言って、少し驚いた。


私はずっと、それができなかった。


薬を飲んでいた。

夫に隠されていた。

紬の記憶がなかった。

和馬が死んでいると知らなかった。

遥が何をしたのかわからなかった。


それらは説明になる。


でも、謝罪の代わりにはならない。


和馬、ごめん。

紬、ごめん。

遥、ごめん。

誠司さん、ごめん。


この言葉は、どれだけ説明しても軽くならない。


軽くならないまま、持つしかない。



百三十


刑務所の手記


六年目・冬


最近、夢を見ない。


よく眠れる。


そのことが怖い。


眠れるようになっていいのだろうか。


笑っていいのだろうか。


花を綺麗だと思っていいのだろうか。


食事をおいしいと思っていいのだろうか。


生きていていいのだろうか。


この問いに、誰も答えてくれない。


和馬も。

紬も。

遥も。

夫も。


でも、死ぬことが償いではないと思う。


少なくとも、私には。


私が死ねば、楽になるのは私だけかもしれない。


生きて、覚えていること。


忘れたくても、覚えていること。


それが私に残された罰なのだと思う。


忘れないとは、毎日泣くことではない。


魚の皮を見て夫を思い出すこと。

黄色い茶碗の絵を見て紬を思い出すこと。

青い箸を見て和馬を思い出すこと。

赤いヘアゴムを見て遥を思い出すこと。


何度も、小さく刺されること。



百三十一


刑務所の花壇記録


八年目・夏


朝顔の種を取った。


小さな黒い種。


封筒に入れた。


一瞬、封筒に「さとうかずま」と書きそうになった。


でも、これは和馬の種ではない。


和馬は種ではない。


花でもない。


比喩にしてはいけない。


和馬は子供だった。


紬も子供だった。


遥も子供だった。


私は、何度も花に逃げる。


咲かなかった命。

踏まれた花。

庭に埋められた種。


そう言えば、少し綺麗になる。


でも、本当は違う。


和馬は花ではない。


紬は花ではない。


遥も、毒の花でも、枯れた花でもない。


子供だった。


人間だった。


それを忘れると、また私は見ないことになる。



百三十二


仮釈放審理前の手記


十年目


仮釈放の話が出た。


外へ出るかもしれない。


十二年より少し早く。


その言葉を聞いても、嬉しいとは思わなかった。


怖かった。


外には、庭がある。


階段がある。


スーパーの魚売り場がある。


ケーキ屋がある。


学校帰りの子供がいる。


青い花がある。


私はそれらを見るたびに、立ち止まるだろう。


佐藤家の家は、もう売られたと聞いた。


取り壊されたのか、建て替えられたのかは知らない。


庭も、もうないのかもしれない。


家の前には行かないつもりだ。


でも、あの児童公園には行きたいと思っている。


私が裸足で見つかった公園。


あの夜、私はそこへ逃げた。


逃げたのか。

探しに行ったのか。

迷ったのか。


わからない。


ただ、一度、靴を履いて座りたい。


今の私として。



百三十三


仮釈放後


児童公園


十一年目の秋。


美沙は外へ出た。


青柳弁護士が迎えに来た。


刑務所の門を出た時、空が広すぎて、少し怖かった。


車の窓から見る街は、知らない街のようだった。


コンビニの看板。

自転車の親子。

横断歩道。

花屋。


全部が普通だった。


普通という言葉は、まだ少し怖い。


青柳は、佐藤家の前は通らない道を選んでくれた。


何も言わなかった。


児童公園は、記憶より小さかった。


滑り台。

砂場。

ベンチ。

低いフェンス。


あの夜、私はここにいた。


裸足で。


土のついた足で。


「私は、母親です」と言った場所。


美沙はベンチに座った。


靴を履いたまま。


しばらく何も起きなかった。


涙も出なかった。


叫びたくもならなかった。


何も思い出さなかった。


それが、少し悲しかった。


そして、少し安心した。


記憶は罰だと思っていた。


でも、思い出せない場所があることも、罰なのだと知った。


砂場の端に、花の咲いていない草があった。


雑草なのか、何かの芽なのかはわからなかった。


美沙は、それをしばらく見ていた。



百三十四


その後の手記


公園では、何も起きなかった。


私は泣かなかった。


許された気もしなかった。


罰が終わった気もしなかった。


ただ、ベンチに座った。


靴を履いていた。


それだけ。


でも、それでよかったのかもしれない。


事件の場所に戻れば、何かが起きると思っていた。


和馬の声がする。

紬を思い出す。

遥の顔が浮かぶ。

夫に謝れる。


そんなことはなかった。


戻らないものは、戻らない。


でも、戻らないものを、戻らないまま持つことはできるのかもしれない。


庭はもうない。


でも、庭のことを忘れないことはできる。


朝顔はもう咲いていない。


でも、咲かなかった時間をなかったことにはしない。



百三十五


青柳弁護士の記録


面会後


佐藤美沙氏は、仮釈放後の面会で落ち着いた様子だった。


児童公園へ行ったことについて、


「何もありませんでした」


と述べた。


こちらが、


「行ってよかったと思いますか」


と尋ねると、しばらく考え、


「わかりません。でも、行かなかったら、また見ないことになる気がしました」


と答えた。


帰り際、美沙氏はこう言った。


「私は、母親だったんでしょうか」


こちらは、少し迷った。


法的な答えではない。

心理的な答えでもない。


私はこう答えた。


「母親であろうとし続けている人だと思います」


美沙氏は頷いた。


納得したようには見えなかった。


ただ、その答えを持って帰ることにしたようだった。



百三十六


美沙の最後の手記


私は、母親だったのか。


今も答えは出ない。


母親なら、和馬の部屋へ行くべきだった。

母親なら、紬の階段から目を離すべきではなかった。

母親なら、遥の「普通」をそのままにするべきではなかった。

母親なら、夫の大丈夫に全部を預けるべきではなかった。


そう思う。


でも、私は覚えている。


和馬が魚の目を見ていたこと。

紬の黄色い茶碗。

遥が苺を最後に食べたこと。

夫が鮭の皮を食べたこと。


忘れていたものもある。


見なかったものもある。


それでも、今は書く。


和馬。


あなたは、庭に咲かなかった花ではありません。


あなたは、和馬です。


静かに笑う子。

黄身を残す子。

朝顔の場所を自分で決めた子。


紬。


あなたは、階段から落ちた子ではありません。


あなたは、紬です。


小さな茶碗を使っていた子。

泣き声を持っていた子。

私が顔を思い出せなくなってしまった子。


遥。


あなたは、悪いことをしたかもしれない。


私はあなたを怖いと思った。


憎いとも思った。


でも、あなたは私の娘です。


怖い娘。

憎い娘。

見なければいけなかった娘。


いい子だけではなかった。

かわいそうな子だけでもなかった。

怪物だけでもなかった。


遥。


私はあなたを、今も見ようとしている。


誠司さん。


あなたは優しい人でした。


そして、取り返しのつかないことをした人でした。


私はあなたを愛していました。


私はあなたを恨んでいます。


どちらも本当です。


花は、ただ咲く。


咲かないこともある。


人間がそこに意味を埋める。


私は、土を見る。


花を見る。


咲かなかったものを見る。


咲いてしまったものも見る。


もう、目をそらさない。


それが、私に残された母親の形なのだと思います。



終章


庭に咲かない花


事件から十二年が過ぎた。


佐藤家があった場所には、別の家族が住んでいる。


表札は変わり、外壁も変わった。


庭の形も、以前とは違う。


低い塀が作られ、花壇の位置も少し移った。


夏になると、誰かが植えた花が咲く。


近所の人たちは、もう佐藤家の話をほとんどしない。


新しく越してきた人たちは、その家で何があったのかを知らない。


知らないまま、洗濯物を干す。

子供を叱る。

夕飯の匂いを外へ流す。

花に水をやる。


それでいい。


土は、何も言わない。


誰がそこに立っていたか。

誰が嘘をついたか。

誰が死んだか。

誰が見なかったか。


土は、何も語らない。


ある夏の朝、庭の隅に小さな芽が出た。


誰かが植えたものではなかった。


風が運んだのか。

鳥が落としたのか。

以前の土に混じっていたのか。


誰にもわからない。


芽は少しずつ伸びた。


細いつるが、低い柵に巻きついた。


家の人は、それをしばらく抜かなかった。


何の花が咲くのか、少し気になったからだ。


けれど、その年、そのつるに花は咲かなかった。


夏が終わり、秋になった。


つるは茶色く乾いていった。


ある朝、家の人がそれを抜いた。


根は浅かった。


土は柔らかかった。


そこには、もう何も埋まっていなかった。


ただ、花が咲かなかっただけだった。



完結



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