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波のあわい

作者: 深海周二
掲載日:2026/03/20

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    冒頭:夢

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 暗い。


 渉は自分が暗い場所にいることを、なんとなく知っていた。

 ただ、恐怖はなかった。床も壁も天井もないのに、落ちていない。浮いてもいない。

 ただ、在った。


 気づくと、光が満ちていた。


 粒子だった。砂よりも小さな、光そのものが粒になって、あたりに漂っている。ひとつひとつが、かすかに揺れていた。揺れながら、それぞれがどこかへ向かおうとしているようだった。


 渉はしばらく、ただそれを見ていた。


 やがて粒子たちがつながり始めた。糸になった。無数の糸が、暗闇の中で光を保ちながら、それぞれ違う方向へ伸びていく。道のように見えた。いや、道ではない。それぞれが、ひとつの行き先だった。


 遠くに、人影が見えた。


 わかった。真央だ、と渉は思った。理由はなかった。それでも確信があった。

 ただ、彼女は一人ではなかった。糸の本数だけ、真央がいた。それぞれの糸の先に、一人ずつ。同じ輪郭で、同じ立ち姿で、少しずつ違う光の中に、立っていた。


 渉は走り出した。


 無数の糸が風のようにそばを過ぎていった。どれも同じように光っていた。どれも同じように、どこかへ続いていた。渉は迷わなかった。一本の糸を、掴んだ。


 目が覚めた。


 朝の光が、カーテンの隙間から差していた。アラームはまだ鳴っていない。渉は天井を見た。夢の感触が、まだ掌の中にあるような気がした。


 今日こそ、言おう。


 そう思った。思ったというより、すでにそう決まっていた。



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 第一章 ライン①

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 渉がゲラの同じ行を三度読んでいることに気づいたのは、午後の二時を回ったころだった。


 文字は目に入っている。意味は入ってこない。赤鉛筆を持ったまま、渉は静かにそれを机の端に置いた。これ以上続けても誤字を見落とす。今日はそういう日だと判断した。


 判断する、ということが渉の癖だった。


 感じるより先に、判断する。感情に気づくより先に、状況を整理する。それがいつからそうなったのか、渉自身にはよくわからなかった。ただ気づいたときには、そういう人間になっていた。職場でそれは長所として機能した。締め切り前の修羅場でも渉は慌てない。慌てても何も変わらないからではなく、慌てる前に優先順位を決めてしまうからだ。


 今日の午後も、渉は整理していた。


 どこで声をかけるか。廊下か、エレベーターホールか、それとも給湯室の前か。人の多い時間帯は避けたい。かといって二人きりになりすぎると、かえって真央が身構えるかもしれない。程よい人の気配、程よい静けさ。退社の五分前が最も自然だという結論は、昨日の帰り道にすでに出ていた。


 最初の一文も決めてあった。「少し、いいですか」。これ以上でもこれ以下でもない。試しに別の言い方を考えてみたことがある。「ちょっとだけ」では軽い。「お時間よろしいですか」では会議の依頼に聞こえる。「少し、いいですか」が最も適切だと渉は結論づけていた。


 その先の言葉も、順序まで決めてある。


 三年前、渉は別の女性に同じことをして、断られた。あのときは感情が先走った。言いたいことを言いたい順番で言った。後から振り返ると、構造がなかった。どこで何を言うかの設計が、なかった。だから失敗した。今回は違う。今回は、準備がある。


 時計を見た。十七時五十五分。


 渉は椅子を引いた。


 廊下に出ると、ちょうど真央が給湯室から出てくるところだった。黒髪を後ろで束ねていた。白いブラウスの袖を肘までまくっていた。左手にマグカップを持って、渉に気づく前の顔をしていた。


 今だと思った。


「夏目さん」


 振り向いた真央が、少し首を傾けた。


「少し、いいですか」


 廊下は静かだった。残業組がパーティションの向こうでキーボードを叩いている音だけが、低く続いていた。


 渉は言った。


 準備してきた言葉を、順番通りに言った。どれだけ考えたかは言わなかった。どれだけ迷ったかも言わなかった。それを言うのは重さの押しつけだと判断していた。過剰な前置きは相手に負担をかける。ただ今の気持ちを、過不足なく。


 言い終えたとき、自分でも悪くなかったと思った。声が震えなかった。順序も崩れなかった。設計通りだった。


 真央は黙っていた。マグカップを両手で持ち直した。


 一秒。


 渉は息を止めていた。返事を待つということが、これほど体に負荷をかけるものだと、渉はいつも忘れている。準備できるのは言葉だけで、相手の返事だけはどう頑張っても設計できない。その事実が、この一秒に、改めて凝縮された。


 二秒。


「……ごめんなさい」


 柔らかい声だった。同時に、はっきりとした声だった。


「渉さんのこと、そういう風には考えられなくて」


 渉はうなずいた。「そうですか」と言った。自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。これは準備していなかった言葉だったが、そう出てきた。


「わかりました。言えてよかったです」


 真央は少し表情を和らげた。「ありがとう」と言った。それからどちらからともなく、エレベーターの方へ歩いた。ボタンを押して、扉が開いて、真央は先に乗った。渉は「お先に」と言って、階段の方へ折れた。


 非常階段のドアを開けると、冷たい空気が流れてきた。


 渉は一段一段、降りた。踊り場で立ち止まって、壁に背をもたれた。


 何が間違っていたのか。


 順序か。最初の一文か。場所の選択か。あるいは言葉そのものか。真央の表情を思い返した。驚いていたわけでも、迷惑そうだったわけでもなかった。ということは感情的な問題ではなく、構造の問題だ。どこかに論理の歪みがあった。それを特定しなければならない。


 怒りがあった。ただそれは、真央に向いていなかった。真央は正直に答えてくれた。誠実な返事だった。怒りが向かう先は、自分だった。あるいは、「間違えた現実そのもの」だった。現実の方に、誤りがある。


 ビルを出ると、夜の空気が冷たかった。


 駅までの道を歩きながら、渉はすでに次を考えていた。場所が悪かった。退社直後の廊下では、真央も気持ちを切り替える余裕がなかったはずだ。もう少し、日常から離れた場所がいい。話す時間もゆっくり取れる場所。それなら喫茶店がいい。会社の近くで、うるさくなく、でも二人きりになりすぎない程度の人がいる、ちょうどいい喫茶店。


 明日の昼休みに探そう、と渉は思った。


 改札を抜けながら、今度の告白の最初の一文を考え始めていた。今日と同じ言葉は使わない方がいい。「少し、いいですか」では、今日の続きに聞こえてしまうかもしれない。別の入り方を探す必要がある。


 ホームで電車を待ちながら、渉はスマートフォンを取り出し、メモアプリを開いた。思いついた言い回しを、三つ書いた。それぞれに短所を書き添えた。帰りの電車の中で、もう二つ追加した。


 窓の外に、夜の街が流れていった。


 渉はそれを見ていなかった。


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 第二章 ライン②

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 昼休みに、渉は一人で喫茶店の下見をした。


 会社から徒歩三分。路地を一本入ったところにある、古い店だった。入り口のドアが木製で、ガラスに手書きのメニューが貼ってある。渉は外から中をのぞいた。混んでいない。かといって、閑散としてもいない。BGMは低く、会話が筒抜けになるほど静かでもない。


 悪くない、と渉は判断した。


 中に入ってみた。カウンターが四席、テーブルが五つ。渉は奥から二番目のテーブルに座った。壁側の席で、入り口が視野に入る位置だ。二人で座ったとき、互いの顔が自然に見える角度になる。店員を呼んでコーヒーを頼んだ。飲み終えるのに十五分かかった。


 問題ない、と渉は思った。


 前回の振り返りは、すでに終わっていた。廊下という場所の選択が誤りだったという結論は、あの夜のうちに出ていた。退社直後の廊下では、真央に「切り替える余裕」がない。仕事モードのまま、突然切り出された感情的な話題には、どんな人間でも身構える。場所が問題だった。場所を変えれば、結果は変わる。


 あとは、切り出し方だ。


 前回は直接すぎた。「少し、いいですか」と廊下で呼び止めて、そのまま告白した。唐突だったかもしれない。今回は違う。まず「近くに良さそうな喫茶店を見つけたので」と誘う。仕事の話でも、雑談でも、自然な流れの中に溶け込ませる。告白はその末尾に来る。着地点を最初から見せない。それが正しいやり方だと渉は判断した。


 帰り際に声をかけたのは、木曜日の夕方だった。


「夏目さん、少し時間ありますか。近くに良さそうな店があって」


 真央は鞄を肩にかけながら、渉の顔を見た。


「いいですよ」


 それだけ言って、真央はエレベーターのボタンを押した。


 店に入って席についたとき、渉は気づいた。真央の髪が、おろされていた。前に見たときは後ろで束ねていたはずだ。今日は片側だけ、耳にかかっていた。


 かわいいな、と思った。


 それだけだった。渉はメニューを手に取った。


 二人分のコーヒーが来た。真央はカップを両手で包んで、少し身体を傾けた。「ここ、いい店ですね」と言った。「前から気になってたんです」と渉は答えた。本当のことだった。ただ今日初めて入ったのが渉の方だということは、言わなかった。


 しばらく、仕事の話をした。来月の新刊のこと、先週の編集会議で揉めた件のこと。真央はよく笑った。話すとき、渉の方を見ずに、少し斜め上を向く癖があった。何かを思い出しているような目だった。渉はそれを観察していた。観察していながら、同時に自分が今この会話の中で過剰に分析していることにも気づいていた。ただそれを止める理由が見当たらなかった。


 真央はコーヒーをひと口飲んで、「渉さんって、校正してるとき何が一番楽しいんですか」と聞いた。


 渉は少し考えた。「論理の歪みを見つけたとき」と答えた。「文章が正しく見えるのに、構造のどこかに無理がある。それを探して、直す瞬間が好きです」


「なんか、パズルみたいですね」と真央は言った。


「そうかもしれないです」


 真央はまた笑った。渉も笑った。悪くない、と渉は思った。ただその「悪くない」は、手応えの確認だった。流れは設計通りだ、という確認だった。


 これでいい。頃合いはもうすぐ来る。


 渉は頃合いを見て、言った。


 今回の言葉は、前回とは違う入り方にしてあった。「あなたのことが気になっています」から始めた。「好きです」という言葉は、もう少し後に来るように設計した。真央が受け取りやすい順序を、渉は何度も考えていた。


 言い終えたとき、前回より静かな手応えがあった。


 真央はカップを置いた。窓の外を、少し見た。


「……少し、考えさせてください」


 渉はうなずいた。「もちろんです」と言った。


 二人で店を出て、駅で別れた。渉は改札を抜けながら、今の返事の意味を整理していた。「ごめんなさい」ではなかった。「少し考えさせて」だった。この違いは大きい。前回と今回の差は、明らかだった。場所を変えたことが効いた。切り出し方を変えたことも効いた。方向性は正しかった。あとは返事を待てばいい。


 結果は、変わっていた。前回よりずっと、良い方向に。


 一週間が過ぎた。


 その間も、渉は真央と普通に話した。廊下で、給湯室で、会議の前後で。真央は変わらなかった。おおらかで、よく笑い、話しかければ話してくれた。あの夜のことが、どこにも滲んでいなかった。渉には、それが何を意味するのか判断できなかった。


 返事を保留している人間はどんな振る舞いをするものか。渉は思い返そうとしたが、比較できる経験が少なかった。三年前の女性は、二日後にメッセージで断ってきた。丁寧な文章だった。だから今回のこの沈黙が何なのか、渉には参照する記憶がなかった。


 真央は普通に出社して、普通に仕事をして、普通に渉に話しかけた。例の喫茶店の話も、あの夜の話も、一度も出なかった。出なかった、というより、存在しないかのように振る舞われていた。渉には区別がつかなかった。真央が返事を忘れているのか、考えている最中なのか、それとも何か別の事情があるのか。


 渉は催促しなかった。


 するべきではないと判断していた。催促することで、かえって真央に負担をかける。返事を急かすのは圧力だ。待つことが、今の渉にできる最善の選択だった。


 二週間が過ぎた。


 三週目に入ったとき、渉はようやく認めた。返事は、来ない。


 ただしそれは、断りでもなかった。「ごめんなさい」という言葉は、まだ聞いていない。つまり可能性はゼロではない。ゼロでないなら、方法の問題だ。どこかにまだ、見落としがある。今回は場所と言葉を変えた。次は何を変えるべきか。


 渉はまた、考え始めていた。


 窓の外で、木の葉が揺れていた。


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 第三章 ライン③

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 渉は今日、何も考えていなかった。


 考えていない、というより、考えようとして、できなかった。

 朝から頭の中に靄がかかっていた。ゲラを開いても、文字が点として見えた。意味の束として見えなかった。赤鉛筆を握ったまま、渉は一時間で三ページしか進まなかった。いつもの半分以下だった。


 昼を食べた。何を食べたか、夕方には思い出せなかった。


 定時を過ぎて、渉はまだ席にいた。帰る理由が見当たらなかったというより、立ち上がるのに力がいった。肩が重かった。首も重かった。最近そういう日が増えていた。帰りの電車でメモアプリを開く習慣も、いつからかやめていた。


 次に何を変えるべきか、という問いには、まだ答えが出ていなかった。


 場所を変えた。言葉の順序を変えた。それでも結果は変わらなかった。変わらなかったというより、結果すら出なかった。返事がないことを渉は「可能性がゼロではない」と解釈していたが、今となってはその解釈自体が正しかったのかどうかもわからなかった。判断の根拠が、少しずつ溶けていく感じがあった。


 廊下の向こうに、真央が見えた。


 ジャケットを羽織って、鞄を持っていた。帰るところだった。薄いグレーのジャケットで、前に見たときとは違う色だった。ただ渉は、それを「違う」とは思わなかった。今日の真央だ、と思った。それだけだった。


 渉は立ち上がった。


 特に決めていたわけではなかった。計算もなかった。ただ、立ち上がっていた。体が先に動いた、というのとも少し違う。「言わないと終わらない」という感覚だけが、かろうじて渉を動かしていた。消耗の底から、最後の一押しのように。


「夏目さん」


 真央が振り向いた。


 今日の真央は、イヤリングをしていなかった。それとも普段からしていないのだったか。渉にはわからなかった。


「ちょっといいですか」


 真央は渉を見た。何かを言おうとした渉の口が、開きかけた。


 そのとき、真央の鞄の中でスマートフォンが鳴った。


 真央は一瞬だけ渉を見て、「ごめん、ちょっと待って」と言いながら電話に出た。仕事の電話だった。声のトーンが変わった。相槌を打ちながら、真央は廊下を少し歩き、窓の方に向いた。背中が見えた。


 渉は立ったまま、その場にいた。


 言葉が、喉のあたりで止まっていた。止まったというより、行き場をなくしたまま、そこにあった。渉は自分の喉のあたりに手をやりそうになって、やめた。


 電話は長くなりそうだった。


「先に行ってて」


 真央が振り向かずに言った。片手を軽く上げた。渉は「はい」と言った。廊下を歩いて、非常階段のドアを開けた。


 冷たい空気が、顔に当たった。


 渉は一段降りて、踊り場の壁に背をもたれた。以前もここに立ったことがあるような気がした。ただそれがいつだったか、渉には思い出せなかった。コンクリートの冷たさだけが、どこか馴染んでいた。


 しばらく、そのままでいた。


 怒りがなかった。前回も、前々回も、怒りはあった。向かう先が自分だとしても、それは確かな熱量だった。今日はそれがなかった。熱量がないということが、渉にはかえって奇妙に感じられた。怒れないほど消耗しているのか。それとも何か別のことが起きているのか。判断できなかった。


 踊り場の窓から、夕方の空が見えた。


 橙色でも灰色でもない、どちらでもない色だった。渉はしばらく、その色を見ていた。特に何も考えずに、見ていた。こういう時間は久しぶりだった、ということに、少し後から気づいた。


 自分はそもそも、真央の何が好きなのだろう。


 その問いが、ふいに浮かんだ。


 渉は驚いた。これまでの失敗の分析の中で、一度もこの問いは出てきていなかった。場所が悪かった、言葉の順序が悪かった、タイミングが悪かった——それは問いではなく、判断だった。最初から答えを決めて、そこへ向かうための修正だった。


 しかしこの問いには、答えが用意されていなかった。


 真央のどこが好きか。渉は思い浮かべようとした。コーヒーを両手で包む癖。話すとき斜め上を向く目。よく笑うこと。笑い方が、どこか遠いところを見ているような笑い方であること。


 それは、好きというものなのか。


 渉にはわからなかった。わからないということが、これほど正直に浮かんだことも、最近はなかったかもしれない。


 答えが出ないまま、渉は階段を降りた。


 ビルを出ると、さっきまで見ていた空の色は、もう少し暗くなっていた。渉は駅の方向へ歩いた。今日は、メモアプリを開かなかった。電車の中でも、窓の外を見ていた。何を考えているというわけでもなかった。ただ、街が流れていた。


 次に何を変えるべきか、という問いは、まだそこにあった。


 ただ今日は、その問いに答えようとする気力が、渉の中のどこにも見当たらなかった。


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 第四章 ライン④

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 その日、渉はよく働いた。


 午前中にゲラを十二ページ進めた。昼は近くの蕎麦屋で食べて、午後も続けた。誤字が三つ、表現のぶれが一箇所、論理の飛躍が段落をまたいでひとつ。それぞれに赤を入れて、余白に理由を書き添えた。いつもの仕事だった。


 真央のことは、考えていなかった。


 考えていなかった、というより、考えようとしたとき、するりと滑った。掴もうとした感触がなかった。前回まではそういうことがなかった。つねに何かが引っかかっていた。今日は引っかからなかった。それがなぜかは、渉にもわからなかった。ただ、仕事が進んだ。


 夕方になって、西日が差し込んできた。


 渉は顔を上げた。


 窓際に、真央がいた。


 腕を組んで、窓の外を見ていた。何かを考えているようでも、考えていないようでもあった。ただ、そこにいた。西日が横顔に落ちていた。


 渉は、見ていた。


 声をかけようとは思わなかった。何か言おうとも思わなかった。シャープペンシルを持ったまま、ゲラの上で止めたまま、ただ見ていた。


 好きだな、と思った。


 それだけだった。


 前にも「好き」と思ったことはあった。あの感覚とは、少し違った。前のものは、どこかに手がついていた。どうすれば、とか、だから、とか、何かが後ろからついてきた。


 今日のそれには、何もついていなかった。


 ただ、きれいだと思った。ただ、好きだと思った。それで終わった。


 真央が窓から視線を外した。


 振り向いた。渉と目が合った。


 真央は、少し笑った。


 渉も、少し笑ったかもしれない。


 真央は自分の席に戻った。


 渉もゲラに戻った。赤鉛筆を動かした。次の行を読んだ。


 オフィスに、夕方の音が続いた。キーボードの音。電話の音。誰かが立ち上がる音。


 渉はゲラを読んでいた。


 何かが変わった、とは思わなかった。

 何かが変わったのかもしれない、とも思わなかった。

 ただ、仕事の続きがあった。渉はそれをやった。


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 エピローグ

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 翌日の午後、渉はゲラを見ていた。


 昨日の続きだった。昨日の赤が入った箇所の前後を、もう一度確認していた。直した部分が、文脈の流れを壊していないか。そういう確認だった。


 足音がした。


 渉は顔を上げなかった。オフィスの中を誰かが歩く音は、一日中している。


 机の端に、コーヒーカップが置かれた。


 見ると、真央が立っていた。もう一つのカップを、自分で持っていた。


「昨日、窓のとこにいたでしょ」


 真央は言った。


 渉は真央を見た。


「なんか好きだなと思って」


 真央はそう言って、渉の机の前の椅子を引いた。許可を求めるでもなく、ごく自然に。


「珈琲、飲む?」


 渉は答えた。


 真央は椅子に座って、自分のカップをひと口飲んだ。それから窓の方を、少し見た。昨日と同じ窓だった。今日は西日ではなく、白みがかった午後の光が入っていた。


 渉はコーヒーを飲んだ。


 温かかった。


 二人はしばらく、そのままでいた。


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