3、宿
「あめふりそー」
レッドベル滞在2日目の朝は空は少し雲行きが怪しい淀んだ曇りだった。
夜のうちに少し雨が降ったのか、湿気が肌にまとわりついて、服が少し張りつく感じがする。
アベルが部屋の窓を開けると、外で忙しそうに走る王都兵が見え、そして涼しくなくて、生ぬるい風が入ってくる。
なんとなく息がしづらく、雨がもう近くまで来ている、そんな気にさせる天気。
「アベルの寝癖を治しやすくなるから嬉しいけどな」
シオンは窓の外を見るアベルの髪に櫛を入れると結び目をといていく。
ほどくたびに、絡まりは静かに解けていって、髪は素直に肩へ落ちた。
最後に手のひらでならすと、湿気を含んだ空気の中でも、きちんと落ち着いた。
アベルはシオンが持ってきた鏡をのぞいて、髪を左右に揺らすとふしゅーと息を漏らして満足そうに笑った。
「今日は何するの?」
「せっかくだし、広場にある願いの木を見に行こうと思う。そのあとは街をぶらぶらしよう」
「アイスはー?」
「アイスも食べよう」
「さんせー!」
アベルは嬉しそうにベッドに飛び込み、アイスの名前を連呼しながらベッドの上で跳ね始める。それを横目にシオンは必要最低限の物をバッグに詰め、服についた埃を叩き、窓を閉め、昨晩張っておいた結界を解いて出発の準備を整える。アベルが散らかして散乱したゴミを拾うことも忘れない。
そしてある事に気づく。
木製の扉の下が、ネズミに食われたかのように一部破損していた。その傷跡はナイフの様な刃物で無理やり削りあげたかのような荒々しい物だった。
傷跡はなにやら湿っていて、真下には少量の液体がその場に留まっていた。
サラサラはしているがどこか粘り気がある。
「これは……唾液か」
例えようもない不気味な感覚がシオンを襲う。
「どうしたの?」
そんな空気を察したのか、アベルは不安そうにシオンの顔を覗き込んだ。
「いや、なんでもない」
シオンはすぐに部屋に置いてあった私物を取りに行くと革のトランクに全て入れ始めた。
自分は何があっても大丈夫。しかし、アベルに何かあればそれは大丈夫ではないと、シオンは荷物をまとめる。
「せっかくだし、他の宿に泊まってみないか?」
「他の宿?」
突然の提案にアベルは首を傾げる。しかし、新しい宿でまた新しいごはんが食べられると言う考えにすぐに至るとアベルはノリノリで賛同した。
「でも、どこに行くの?」
「あぁ、1つ心当たりがある」
「ここがお兄ちゃんたちの部屋だよー!!」
鼻にそばかすをつけ、褐色肌の少年『ルイ』は自慢のものを見せつける様に部屋の前で胸を張る。
どうもこの宿舎で1番上質な部屋の様だ。
「あぁ、いい部屋だな」
シオンは胸を張るルイの横を通り過ぎると机の上に荷物を下ろした。
この少年ルイはリリィと言う中年の女性が経営する宿で面倒を見てもらっている里子だ。シオンは昨日ルイが入って行った家の前に、宿舎の看板がかかっていたことを思い出してここへとやってきた。
「どうだこの部屋ぁ!」
「んっまぁまぁね!」
「まぁまぁじゃなくてすごいんだ!」
「まぁまぁ!」
「なにをー!」
シオンの予想通り、アベルとルイの相性はよく、出会って十数分にも関わらず仲良く部屋の中を元気に走り回っていた。
ルイの年齢は11歳で、アベルの年齢の倍以上でかなり上ではあるが、上手くアベルと関わってくれている様だった。
アベルは常にシオンと共に行動し、ほとんどの時間をシオンという1人の人間としか過ごしたことがない。
近い歳で、同じ様な価値観、テンションで関われる関係も必要なのではないかと思うところがあったシオンにとってルイの存在は嬉しいものだった。
「このっ、ぶすっ!」
部屋にはキングサイズのベッドが二つ並んで置いてあり、壁には色褪せたタペストリーが一枚飾ってある。床は厚い木板でベッド脇には手織りの敷物が備え付けてあった。チェスやトランプといった娯楽も整っている。
その部屋の真ん中でシオンは左手で泣きそうになっているアベルの頭を撫で、右手でルイの頭蓋骨をミシミシと潰す。
「いぎゃぁああ!!」
ルイの悲痛の叫びがアベルを少し元気にした。
するとその時、コンコンとドアをノックして1人の老人が部屋に入ってきた。
歳は80歳ほどだろうか。頬は痩せこけ、小柄で足を軽くこついたらそのまま崩れ落ちてしまいそうな風貌だった。
「おぉ、またルイが失礼を働いたのですかな」
老人はルイの姿を見るや否やケラケラと笑いながらベッドに座った。
「わしはこの宿のオーナーのリリィの父、イフチップ。イフさんと呼んでください」
イフチップは右手を前に出すとシオンに握手を求めた。シオンはそれに応える様に自身も名を名乗ると、ルイを離し、イフチップの手を握った。
「おぉこれはこれは。なかなかに」
すると、イフチップは興味深そうにシオンの手を見つめる。
「さぞかし数多の戦場をくぐり抜けてきたのでしょう。魂の強さを感じますぞ」
そう言って、次にシオンの横にいるアベルに視線を移す。
「綺麗な髪の毛のお嬢ちゃん、お名前は?」
「……あべる」
シオンの服に顔をうずくめながら消え去りそうな声でアベルは答えた。
「アベルか。いい名前ですなぁ。歳は?」
「………ご」
「五つか。色々見たり聞いたりしたい年頃ですな。願いの木はもう見ましたかな?」
イフチップはそう言ってアベルから視線を外し、シオンの方に顔を向ける。
シオンは軽く首を振り、これから行くのだと伝えた。
とその時、その言葉にルイはピクリと反応し、不安そうな顔をシオンに向ける。
「……どうした」
思わず反応したシオンに続いて、アベルも顔をずらしてルイを見る。
「た、タルト兄___」
「なに、大したことではないのです」
ルイが口を開き、何かをシオンに伝えようとしたその時、イフチップが割り込む形でそれを遮った。その顔はどこか怒りを含んでいる。
「一週間ほど前、この宿に泊まっていた青年が願いの木を見に行って以来、ここに帰ってこなかったのです。彼は旅人、次の旅に行ったと言うだけなのに、ルイは何かあったのだと思い込んで……」
「で、でも!あの時荷物だって全部部屋の中に残してたし、……また夜に旅の話を聞かせてくれるって、約束だって」
そう言ってうつむくルイの目には涙が溜まっていく。アベルはいつの間にかシオンの側を離れ、ルイの元へ行くと雑にルイの頭をクシャクシャと撫でた。
「すまんのぉ。ずっとこれの一点張りで」
眉を下げ、困った顔をするイフチップの顔からは疲れが見える。
子供を側に置き、共に生活すると言うのは想像するよりずっと難しい。そのとこをシオンはよく知っている。
「ルイ、帰ってきたらまた話そう」
そう言い残し、シオンは麻の鞄を肩にかけるとアベルと共に部屋を出た。
外に出ると、シオンが昨日見たリリィ、アリーという2人の中年の女性が宿の前でまた何やら世間話をしていた。しかし、リリィの方は眠れていないのか、目にクマを残し、体調も優れていない様だ。
そして、その視界のさらに奥でシオンはこちらの方を見る青年と目が合った。




