第7話 川上監査、黒は水に晒せ
夜明け前の王都を抜け、私たちは川上へ向かった。
壺二号――用途「病者の湯」の帯に翳が太り、受け取り先である療養宿の親方が突然川上へ出立。理由欄は空。空欄は白。白は語る。語らせるには、水がいる。
「川上へは橋が落ちています」
地図を抱えたミナが言う。
「仮橋の入札は明後日。今日はまだ――」
「暫定の橋で行くわ」
「暫定の……?」
「同時刻印の綱」
私は鞄から細い麻紐の束を取り出し、王都の職人から借り受けた印札を結び始める。印札には番号と時間、そして行先。三つを等間隔で結び、両端を濡らしてしごけば、時刻に沿って縮む綱になる。
時間が伸び縮みするなら、橋だって縮む。制度は手の中に入ると、急に素直だ。
川へ着くと、昨夜の雨で水位が上がり、折れた橋脚が白い泡を噛んでいた。対岸には湯気。切り立つ崖の中腹、温泉宿の屋根が見える。
ユリウスは流れを眺め、頷く。「衛士を先に渡す。綱は使えるか」
「一度きり。時刻印が一巡したら、戻らない」
「十分だ」
騎士団長が手袋を締め、「先に行く」と短く言って綱を掴んだ。衛士二名が続き、ミナが息を飲む。
濁った流れの上で、印札がちりりと鳴る。王都の時刻に合わせた綱が、流れの拍を一瞬だけ整え、渡橋の腰に拍を渡す。
人は足と拍で渡る。数字も帳も、結局は拍で動く。
◇
対岸の村は湿った木の匂いがして、人々は私たちを見ると素早く視線を落とした。
よそ者に冷たい目ではない。負い目を隠す目だ。
宿の前には「病者の湯」の札。湯気は濃く、硫黄の匂いは薄い。つまり薪を多く焚いている。壺二号の翳は「遅延」ではなく、過燃の匂い。
「親方は?」
宿の帳場にいた若い女が、指先を握り合わせたまま答える。
「親方は……川上の染場へ。朝早くから」
染場?
ミナが小声で耳打ちする。「この村、黒染めが名物です。喪の衣や、仕事着の黒」
喪の黒は尊厳だ。仕事の黒は蓄えだ。
黒の染料――それは貨幣の陰にも似る。
「壺の帯が翳になったのは、宿の親方でなく染場の親方の印が止まっているから」
私は帳簿の余白に、壺二号―宿―染場の三点を結ぶ小さな線を引いた。「湯と黒は、川で繋がる。黒は川で晒せ」
ユリウスが頷き、宿の湯を覗く。「温度が高すぎる」
「はい。病者の湯は、ぬるいほど良い。熱は気持ちだが、療法は温度」
私は湯の縁に指をつけ、拍を取る。一、二、三、四。
湯加減は拍で覚える。拍が速い日は、たいてい無理が混ざる。
◇
川をさらに上ると、黒布が風に鳴っていた。
黒染めの野――川辺に張られた竹竿、吹きさらしの台、絞りを待つ衣。
染場の親方は骨太の女で、腕に繊維の擦り傷が走っている。
「王都の監査? 聞いちゃいる。紙が来ないから、捺す印がない」
「紙は王都を出ました。同時刻印の押し場所で、止められています」
私は印箱を出し、押印予定表を広げた。押すべき印は「受領」「支払」「用途」。
予定表には押印痕が薄く、紙は川風で乾ききっていない。
「予定は来てる。紙は来てない」
「予定の影だけが来て、紙の実が止まる。影を先に通すのは、たいてい誰かの利ざや」
染場の隅に、黒く濡れた洗い板。
私は板の溝に指を置き、ささくれの摩耗の向きを見る。
溝の半分が上流から下流へ。
もう半分が、逆。
板は逆使いされている。川の流れに逆らって布を擦ると、染めの色は濃く見える代わりに落ちやすい。
見せかけの黒だ。
「親方。この黒、落ちます」
親方の目が細くなる。「見抜いたか。――急ぎの注文だった。王都の葬列だって言うから、色を急いだ」
「誰の葬列?」
「名は言わなかった。男たちが黒い箱で紙を持ってきて、『今日中に』」
黒い箱。
私は箱の境目に残る粉を指で味わった。炭の粉。石目なし。
黒の箱は帳外の印。
帳外の黒は、川で落ちる。
「箱はどこへ?」
「川舟で下へ。宿の裏の小舟場」
ユリウスが視線を交わす。「追う」
私は頷き、染場に一筆残した。黒落ち補償――壺二号から薄紅で負担。急ぎの“見せかけ”を制度が正直に戻す。
「監査官、黒は恨まないでくれ。葬列の急は祈りだ」
「祈りは恨まない。嘘だけ恨む」
親方はうなずき、濡れた腕で額の汗を拭った。
◇
小舟場は葦の陰。舟の底には黒布の端と、細い石が数本。
石はただの小石ではない。角が削られ、刻みがついている。
「黒石」
ミナが呟く。「貸借の目印石です。市場で時々」
黒石は個人間の内々の貸し借りを刻む目印。紙より匿名、口約束より重い。
石の刻みは三、五、八。
王都の三—五—八の刻みは、エステル商会の下請け同士がよく使う回し目だ。
「石は数。数は道」
私は石を算棒と並べ、刻みを時間に置き換える。舟が出た時刻、折れ橋の下流を抜ける拍、王都に入る水門の開閉。
回転する三—五—八の拍に、水門の棒が一度だけ割り込むと、音が跳ねる。
跳ねた拍の時刻に、城下の洗い張り屋の煙突から煙。
煙は、布を乾かす煙。黒の見せかけを城下で仕立て直す。
「黒は川で晒せ――晒す先は、城下の洗い張り屋」
ユリウスが頷く。「王都へ戻る。洗い張り屋を押さえよう」
「その前に、湯を」
私は宿へ引き返し、「病者の湯」の焚き口に回る。
焚き口には新しい薪、その側に黒い粉。
粉は炭だけではない。舐めると舌に鉄が残る。
「鉄粉……? 湯に混ぜると熱が長持ちする。翳の帯は『遅延』じゃない。過剰給湯のコスト先送り」
親方の不在は、湯守が熱を保つために無理をしている印。
「病者の湯」の遅延は、王都の黒の急ぎを隠すための煙幕だ。
◇
王都。
洗い張り屋は下町の川沿い、干し場に黒が揺れ、屋内は蒸気で白い。
私は戸口に掲示を立て、公開監査を宣言。ユリウスと衛士が周囲を整え、ミナが近所の子らに青い紐を巻いて板書を任せる。
「黒布の受注票、見せてください」
主人は愛想よく笑い、板の箱から札束を出す。受注日と返却日、受取印。
札の返却日が、やたらと早い。黒布は乾きが遅いのに。
私は札の端を鼻に寄せ、匂いを嗅いだ。
灰汁と酢酸、微かな油――染めの匂いではない。上塗りの匂い。
上塗りの黒は水に弱い。川で晒せば落ちる。
「川で」
私は札束をミナに預け、黒布の端を一枚もらって水門横の流れへ。
布を水に浸すと、黒が淡い灰にほどけた。
人だかりがざわめく。
私は布を掲げ、声を出す。
「黒が落ちる。葬列の黒、祈りの黒を薄める商い。
受注札の返却日を早め、上塗りで間に合わせ、壺の薄紅を翳にする」
洗い張り屋の主人の笑顔が薄れ、口が固くなる。
私は箱の隅、小さな石を見つけた。
黒石。
三—五—八。
回し目の石だ。
「石の貸し借りは個人の自由。でも、壺と葬に絡むなら、公開の義務が生じます」
ユリウスが一歩進み、「宣誓を」と静かに言う。
主人は口を開きかけ、閉じ、そして私を見る。
「監査官、黒は、客の願いだ。間に合わせろと言う。私は――」
「わかっています。薄紅です」
私は札束の上に算棒を置き、割賦是正の欄を開く。
「黒落ち補償を壺二号から。上塗りの追加工賃はあなたの負担で二割――薄紅の利息は軽く。
代わりに、黒の工程を掲示してください。『三日で黒は祈りだけ』『五日で黒は町まで』『八日で黒は国まで』。
黒は時間の投資で濃くなる。時間を、客に返しましょう」
主人は肩を落とし、深く礼をした。「……受けます」
そのとき、戸の外からゆっくりと拍を踏む足音。
聞き覚えの、居心地の悪さを抱えた拍。
王太子が現れた。
彼は私と布と水門を見、わずかに口角を動かす。「川で晒す、か」
「はい、殿下。黒は川で晒すと真価が見えます」
「……私の黒も、晒せるか」
私は一瞬だけ黙り、頷いた。「白も、黒も。薄紅も」
王太子は短く息を吐き、洗い張り屋の掲示板に銀貨を置いた。「八日の黒を」
主人が目を見開き、うなずく。
彼は王都の人々に向き直り、声を張った。
「黒は時間です! 『三・五・八』、掲げます!」
◇
夕刻、広場の水晶板。
壺二号の帯の翳は細くなり、「病者の湯」も温度が青に近づく。
掲示には新しい欄――「黒の工程」が加わり、三・五・八の目安と、上塗り禁止の印が灯る。
ブラントが腕を組んで満足げに頷く。「三線は気持ちいいな」
ヴァーレが紫のかごを肩に、「早耳の続報」と囁く。
「内陸の支店、橋の手前の渡し守が黒石を預かってる。回し目の中心は渡し場」
「橋が落ちると、渡しが儲かる」
私は掲示台に仮橋入札の予告を貼り、「渡しの公開収支」欄を増やす。
「渡し守には青の道を。仮橋には薄紅の帯を。深紅は、逃げる者だけに」
ユリウスが横で小さく笑い、声だけを落とす。「今日も講義だった」
「講義は無料。ただし復習は必須」
「わかった。復習は明朝だ。仮橋の木材入札」
「殿下」
私は少しだけ躊躇し、それから言った。「中間配当、いただきました」
「なら、期末は――」
彼は言いかけて、言葉を飲み、視線を掲示板へ戻した。
期末は遠い。遠いからこそ、拍を数える。
◇
夜。宿の灯の下で、匿名の羊皮紙を広げる。
――「白は海で洗え/黒は川で晒せ」
その下に小さな追記があった。
「赤は火で鍛えよ」
赤。
赤字。深紅。薄紅。
火。
鍛冶。
私の心のどこかで、古い鈴が鳴った。
王都南の鍛冶街。剣の音。
剣は今を守る。
――次は火だ。
私は銀の栞を挟み、今日の監査メモを書く。拍をとる。一、二、三、四。
眠りは浅く、数字の夢は長い。
◇
監査メモ/#07「川上監査、黒は水に晒せ」
・壺二号の翳は「遅延」ではなく過剰給湯(鉄粉+過燃)=コストの先送り。
・黒染めは工程時間が色の濃度。上塗りは水で落ちる→川で晒して検証。
・黒石(三・五・八)=下請け回し目の目印石。舟路・水門・煙突で三点連結。
・洗い張り屋:割賦是正(薄紅)+工程掲示(三・五・八)+上塗り禁止で黒の真価を回復。
・王太子、自発的「八日の黒」発注=恥の自走力が始まる。
・渡し守の黒石センター化→公開収支で青に誘導/仮橋は薄紅で実施。
・匿名書簡の追記:「赤は火で鍛えよ」=次の監査対象は鍛冶街(火と赤字)。
・次回:鍛冶の赤、剣の今/炉の温度と王国の耐用年数。




