第2話 幽霊兵の足音
夜の端が白くほどけるころ、兵舎の前庭に人が集まった。煉瓦の壁に朝霧がくっつき、靴底が濡れる。私とミナは帳簿と算棒を置いた折り畳み机の前に立ち、ユリウスと騎士団長、兵站局の吏員、市井のパン職人までが輪になる。
兵舎の壁には、昨夜急造された張り紙――公開監査の告知。文字は大きく、筆は固い。見物に来た子どもが指でなぞるたび、墨の匂いが空に上がった。
「始める」
ユリウスは短く言い、私に視線を渡した。
私は帳簿の“人件費科目”にしおりを差し、声を出す。
「本日の第一議題、幽霊兵三百二十四名の現物照合を行います。
点呼は団長に。帳簿照合は私が。見物人の諸氏も、耳を貸してください。足音は誰にも誤魔化せませんので」
小さく笑いが起こる。騎士団長は頷き、腹から声を出した。
「第一中隊――」
点呼が始まると、朝の空気は数え歌になった。名を呼ばれ、返事が重なり、鉄の踵が石を叩く。
私は返事と足音のリズムを、算棒の溝に落としていく。棒が小さく震え、青と赤の火が点いた。
青は在る者。赤は、不在。
第一中隊、第二中隊。
数字は律儀だ。人が嘘をついても、数はすぐに寂しさを露わにする。
三百二十四の赤が、どの列に、どの時間に、どう散っているか。私は配列を組む。欠落に癖があるなら、その癖には手口がある。
「第三中隊、出頭!」
団長の声とともに列が進む。
ひとり、返事がなく、しかし足音がひとつ多い。
私は顔を上げる。列の端、背丈の合わない鎧。肩の幅に、布が余っている。
「あなた」
私は声を掛けた。「鎧を外していただける?」
兵はぎくりとし、団長を見た。団長は顎で合図する。
鎧が外されると、中から出てきたのは骨と皮の少年――まだ兵の年にも満たない。素裸の肩に、古い手首の痣。
「名は?」
「……トマ」
「どこから?」
「兵舎の裏。パンの残りをもらいに来て、呼ばれた。『鎧だけ着て立て』って。声は、出すなって」
会場に、静かなざわめき。
私は帳簿に指を置く。赤の火は、強くなった。
「誰が呼んだ?」
少年は目を伏せる。「おじさん。兵站の倉で、箱を運んでるおじさん」
「名前」
「知らない。けど、左手の指が二本、包帯だった」
ユリウスが兵站局の吏員に視線を投げる。吏員は顔をこわばらせた。
「該当者を後ほど――」
「今だ」
ユリウスの声は、朝霧より冷たかった。
やり取りの最中、私は算棒の火を流し、赤の点の並びを眺めた。
第一・第二中隊の欠落は端数。第三・第四に偏り。休暇申請の紙の癖、退勤印の位置。
欠落の山が、週の半ばと満月の前に集中している。
満月前。
パン価格の高騰と、配達量の増大。
――件の小麦連合が、納入量を水増しした日と重なる。
「団長」
私は口を開く。「幽霊兵が多い日は、パンの納入台数が増えていませんか」
団長は眉根を寄せ、指を折る。「確かに……臨時便が出る。兵が多いから、との理由で」
「兵は多くない。紙の上だけ増えて、実際には少年が鎧を着せられる」
私はパン職人の輪に向き直る。「どなたか、納入伝票の複写をお持ちでは?」
最前列の小柄な職人が、手を上げた。
「ありますよ。三ヶ月分。だって、値段が変だもの」
職人が差し出した薄紙は油で透け、手の温度で波打つ。
私は帳簿の余白に伝票を重ね、契約魔法の紋を通して透かした。
数字の裏に、別の数字が滲む。
ひとつの伝票番に、二重の納入記録。時間を三刻ずらして登録し、受領印を別の石で押し直してある。
「石の目が違う」
私は囁いた。「受領印の石目が、日により粗い。局の印章石は一つのはず。印が変わるということは、印が移動している。
『倉庫に保管』ではなく、外に出ている」
吏員のひとりがうっすら汗を浮かべ、目を逸らした。彼の左手――二本の指に、白い包帯。
「名前」
ユリウスが言う。吏員は口を開いて閉じ、やがて小さく吐き出す。
「……ハルト・フェグナー、補助吏員」
団長が一歩踏み出す。吏員は反射的に後ずさる。
私は手を上げて制した。「暴力は、費用がかかりすぎますわ。
彼の帳簿を見せてもらいましょう。吏員の帳簿は清潔であるほど、美しい」
ハルトは青ざめた顔のまま、胸元から小さな手帳を取り出した。紐で綴じられ、表紙に**“借”**と雑に書いてある。
私は受け取り、ページを開いた。
出納ではない。
借り。
小さな文字で、母の薬代、妹の学費、病んだ父の工具代。数は正直だ。彼は不正をして、己の家の赤字を埋めた。
不正は、不幸からまっすぐに伸びていることがある。
「ハルト・フェグナー」
私は手帳を閉じる。「あなたは、誰の命令で印章を持ち出したの?」
彼は、黙る。それは否認ではない、沈黙の予算計上だ。
団長が足を踏み出す。私は首を横に振る。
「では、方法を変えましょう。
――責任の割賦」
算棒に触れ、帳簿のページに新しい欄を生み出す。被害額の速報、関与者の層、動機の種別。
私の声は事務的になり、同時に柔らかくなる。
「関与を認めた者は、赤から薄紅へ。薄紅は、償い可能の赤。
逃げる者は、深紅。深紅は、容赦の対象外。
――ハルト。あなたの家の“借”は、薄紅で再計上できる」
彼は顔を上げた。
「償える……のか」
「できます。ただし、あなたひとりではない。印章の管理者、保管責任者、代替印を作った石工――連結です。
あなたの口が、あなたの家を救う。数字のために、話してください」
空気が乾いた。
ハルトは唇を噛み、そして吐き出すように名を挙げた。
保管責任者、印章管理官、石工の名。
名前が三つ、帳簿に並び、赤が薄紅に和らいだ。
人は、救えると知ると喋る。
ざまぁは愉快だが、救いは持続可能だ。
◇
午前の終わり、兵舎裏の倉で現物照合が始まった。
扉を開ければ、麦袋の山。だが、山の下段に中身の軽い袋が混じっている。底に古布。重量は目方で合わせたはずなのに、湿りが違う。
私はミナに頬杖をつかせ、袋の結び目、紐の摩耗、指の癖を確認させる。
「この結びは、パン屋の結び方じゃないわ」
「違います。兵站局の紐は、こう。これは……港の倉方の癖」
「港」
ユリウスが低く繰り返す。「外貨流出の線と繋がる」
倉の隅で、古い木箱が見つかった。蓋の裏に、薄い石板――印章の偽物。
石目は粗く、しかし遠目には本物に見える。
私は石板を光にかざし、本物の印と重ねた。契約魔法の紋が、一瞬だけ白く点滅する。
白は、偽物。
白は、無。
「石工の名」
ユリウスが問う。
ハルトは震えながら答える。「ルーウェン。――エステル商会の工房の下請けです」
人々の視線が一度に鋭くなる。昨日の舞踏会で名の出た商会。
団長の拳が固く音を立てた。
私は深く息を吸い、吐いた。
「焦りは費用です」
団長はこちらを見る。「まだ剣を抜く時ではない、ということか」
「剣は今を守るために。
帳はこれからを直すために。
――剣を抜く前に、数字で“逃げ道”を塞ぎましょう」
ユリウスが頷く。「ルーウェンの工房に捜査を。王家名義だ。エステル商会にも照会を」
「承知」
団長は踵を返し、配下に指示を飛ばす。その背は、ひどく疲れているのに、まっすぐだった。
◇
午後。
兵舎の前庭に戻ると、子どもたちの輪の真ん中で、ミナが小麦袋を差配していた。
「一つ、二つ。重さを覚えて。軽い袋は、音が乾いてます」
子どもたちは真剣だ。未来の会計監査官は、たいてい泥の上で育つ。
「お嬢様」
ミナが駆け寄る。「パン屋のカールさんが、石臼の粉を持ってきてくれました。混ぜ物があるか、わかるかもしれないって」
私は粉を指に取り、舌に乗せる。
石臼で挽いた粉は、舌に重さがある。混ぜ物が多いと、舌に細かな砂が残る。
――砂の残り。
私は吐き出し、粉の袋の口を閉じた。
「砂が混ざってる。量は少ない。おそらく、目方合わせ」
「食わせるもんじゃねえ」
カールが怒る。
「怒りは費用。けれど、これは投資にしましょう」
私は笑い、帳簿を開く。
健康被害の予測額を積む。数字の怒りは、制度を動かす。感情より長持ちする。
◇
夕刻。
ユリウスが戻ってきた。団長も。顔に煤、肩に粉。
ユリウスは短く報告する。「工房、摘発。偽印章石三面、鋳型二つ。書類は焼かれていたが、ルーウェンが帳合を吐いた。背後はエステル商会の副支配人だ」
舞踏会で静電気を舐めた伯爵の顔が、頭に浮かぶ。
私は算棒を弾き、赤い火を三つ四つ、深紅へ送る。
副支配人、その上の取締役、そして――
帳簿の火がためらう。
ためらいは、証拠の不足。
私はページを閉じ、見物人にも聞こえるように言った。
「公開決算は続きます。
明日、王城にて。王家立会い。
議題はふたつ。
――偽印章事件の連結、そして小麦連合の談合。
証人は市井からも立てます。恐れずに声を。数字はあなたの味方です」
人々の間に、緊張と同時に、どこか誇りのようなものが波打った。
数字の側に立つというのは、たぶん、誇りに似ている。
ユリウスが私の横に並ぶ。「疲れていないか」
「疲れは費用。必要経費。明日の配当で回収します」
「配当?」
「信頼ですわ。信頼は利息を産みます」
彼は微かに笑う。「老成した若さは、たまに心配になる」
「老成は減価償却が早いだけ。資産耐用年数は自分で延ばせます」
私が肩をすくめると、ミナが薄い毛布を持ってきて私の肩に掛けた。
「お嬢様、少しお休みを」
「休憩は投資。ありがとう、ミナ」
◇
夜。
兵舎の灯が消え、私は机の前で一人、帳簿の余白に今日の勘定を書き足した。
薄紅の名前が五つ。深紅が二つ。
救える赤と、救えない赤。
その境目に、いつも風が吹く。
足音がした。
振り向くと、ハルトが立っていた。彼は深く頭を下げ、小さな布包みを差し出す。
「母の薬代の領収書です。今日、返済の第一回を……」
「受け取ります。ただし条件を」
「……条件」
「見張りになって。
あなたの目が一番よく知っている。どこに、誰が、どう嘘を置くかを。
あなたが見て、私に知らせて。報酬は、あなたの家の赤字の繰延と、薄紅の利息」
ハルトの目に、何かが灯った。
「できます。やります。――お願いします」
「契約成立」
私は手を差し出し、彼の掌を握る。契約魔法が小さく青く鳴った。
遠くで鐘が鳴る。
明日の朝は王城。公開決算。
私はページを閉じ、銀の栞を差しこむ。
数字の眠りは浅い。いつでも呼べば起きる。
私は目を閉じ、呼吸を数えた。一、二、三、四。
――ワルツの拍は、帳簿の拍だ。
◇
監査メモ/#02「幽霊兵の足音」
・幽霊兵は少年の鎧で補われていた。点呼の“足音”照合が有効。
・偽印章石は石目で見抜く。白は“無”。偽は本物の周縁から滲む。
・赤字=悪、ではない。薄紅=償い可能の赤を設け、責任を割賦で回収。
・パン価格談合は満月前に動く。納入台数と欠落兵の山が一致。
・次回、王城で公開決算:偽印章事件の連結/小麦連合の談合。
(つづく/次回「公開決算、扇は数字より軽い」)




