第1話 婚約破棄は決算期に限りますわ
弦が鳴り、舞踏会の天蓋に金糸の音がほどけてゆく。
王太子が私の前に進み出て、言った。
「レティシア・アルマダ。婚約を破棄する」
歓声は起きなかった。噂は十分に回っていたし、誰もが「今日は誰かが泣く夜だ」と知っていたからだ。
私は礼をとり、滑らかに上体を起こす。吐息一つ、笑顔は小さく。涙の予算は、本日ゼロ。
「では、殿下。慣例に従いまして――先に決算を」
私は腰の薄革の鞘から、一冊の帳簿を引き抜いた。黒革の背に王立監査院の紋章、銀の輪。
名は契約魔法帳簿。真偽は刻印され、虚偽は術式反転して申告者に戻る。
簡単に言えば、嘘をつくと少々痺れる――礼節的な意味で。
「今ここで?」
王太子の眉が跳ねる。
「婚約破棄は人生の期末ですもの。期末には帳を締めるのが王都の作法ですわ」
私は栞を抜いた。空気が変わる。
帳簿の紙面に薄金の紋が浮かび、舞踏会のシャンデリアに応じて微かな鈴音がした。
魔法が働き始めている。数字は音を持つ。嘘は濁り、誠実は澄む。
「まず一件目。王都兵站局の人件費科目より――“幽霊兵”三百二十四名」
ざわり、と絹が揺れ、軍服の胸章が鈍く光った。
帳簿の欄が赤く脈打つ。指先でなぞると、赤が小さく火花を吐く。
「殿下の寵愛なさるエステル商会からの“徴募代行”伝票。署名は……こちらの伯爵。可憐な封蝋。中身は循環取引。入っていない兵の給金が、書類上だけ行軍して王立倉に戻る。結果、倉は空で、帳は満ちている」
赤が強く瞬いた瞬間、伯爵は真っ青になり、口を開け、そして閉じた。
反転呪が小さな静電気のように彼の舌先を撫でたのだろう。会場の空気はひり、と甘い砂糖菓子を焦がした匂いに。
「ば、馬鹿な。誰の差し金だ、それは」
「伯爵。ご自分の印章の陰影は唯一無二ですわ。
――続きまして二件目。王都パン価格の談合。王都小麦連合の納入単価が三ヶ月で一七%上昇。石臼は同じ速さでは回らないのに、数字だけが踊っている」
ざわめきが一段深く沈む。貴婦人たちの扇が一斉に止まり、楽師の指は弦上で宙に迷った。
私はページを繰る。金の紋が青に変わる。青は誠実。扉の影に立つ一人のパン職人の証言が、音符のように行間へ縫い込まれていく。
「これは……どこで手に入れた」
王太子が低く問う。
「公示伝票と、現場ですわ。数字には靴底の匂いが必要。侍女と一緒に午前四時から焼き窯に並びましたの。小麦袋の重さ、紐の締め方、目方の癖。机上の数字は、それらの背中から立ち上がる影です」
甘く、確信的な静けさ。
私は帳簿を掲げ、ホール中央の大理石に置く。契約魔法は、公開された場所でよく働く。嘘は光を嫌い、真実は光に住む。
「レティシア」
背後から落ち着いた声。第二王子――殿下の実弟、ユリウスが一歩出た。
彼は噂通り寡黙で、言葉に装飾をつけない。紺の礼服。襟に王家の古い小紋。
好きな人種だ。余白に余白以外を描かない人。
「監査権限の範囲は?」
「このホールにいる者の、今日の発言に限定。
書を置きます。各自、反論と証明をこのページに重ねてください。誠実なら青、欺瞞なら赤。色は私ではなく、契約が決めます」
ユリウスは短く頷いた。王太子は顔を引きつらせ、エステル商会の若旦那は足元の大理石を見つめている。
私は一歩進み、殿下へ視線を合わせた。
「婚約破棄――承りました。
ただ、赤字は私に残され、黒字は殿下が持ってゆく。そういう帳合は王立帳簿が許しませんの」
「出過ぎた真似を――!」
王太子は扇を握りつぶした。金の紙片が指の間から舞う。
音が、した。
ぴしり。
帳簿の背を通し、ホール全体へ薄い衝撃が広がる。
嘘を装った言葉の、細い骨が折れる音。
「殿下。
“出過ぎた真似”ではなく“出番”ですわ。王家が公開決算に立ち会う初日。歴史に残ります」
私は踵を返し、伯爵の前に帳簿を差し出す。伯爵は震える手で羽根ペンを取り、印章を押す。墨が滲み、赤の紋が、すっと薄れた。
誤りを認めたとき、反転呪は鎮まる。
数字は復讐しない。是正する。
だから私は数字が好きだ。人間より時に慈悲深い。
「……た、確かに“徴募代行”の書式に、穴があった。だが、わしだけではない。兵站局の誰かが――」
「責任の割賦、承りましたわ」
私はページ下段にさらりと欄を足し入れる。魔法は、正しい様式に甘い。新しい欄が生まれれば、事実は自動的に並び替わる。
名前が、二つ、三つ。青と赤が混ざり、やがて赤が多い方に傾く。
そのとき、ホールの扉が開いた。
煙。油の匂い。
鎧の軋みを連れて、騎士団長が現れた。剣の柄に手をかけたまま、私をまっすぐに見据える。
「アルマダ嬢。
監査の話は耳に入っている。だが公の場で隊の名誉を貶めるなら、剣で応えるのが我らの作法だ」
「剣は今を守る。帳はこれからを守ります」
私は深く礼をした。「隊の汗には敬意を。
――だからこそ、三百二十四の“幽霊”に、汗を支払うのは侮辱ですわ」
騎士団長の眼がわずかに細くなる。
彼は一歩近づき、帳簿を覗き込む。赤の紋、青の紋。指先で軽く紙端を撫でた。
「これは……本物か。魔法の帳は、王の前でしか」
「王令第七号。国家財務の緊急監査は、王の代理権限を持つ監査官に付与される。
――本日、王は持病でご欠席。代理権限は、第二王子と私に」
私は視線だけでユリウスを見る。彼はうなずき、胸の小紋を少し外へ見せた。
騎士団長は浅く息を吐いた。
剣から手を離し、拳を胸に当てる礼をする。
「ならば作法に従おう。帳に名を記す。
王都兵站局の支出は、明朝、兵舎での現物照合を許可する」
「感謝いたします。
パンの数と、靴底の穴は嘘をつきませんもの」
会場に、乾いた笑いが生まれた。
恐れと痛みの間に、ほんの少しの救いが混ざったときの笑いだ。
王太子はその音に耐えられないらしく、声を張り上げる。
「舞踏会を監査室に変えるつもりか! 礼節というものが――」
「礼節は、順序でございますわ、殿下」
私は微笑む。「踊る前に、数える。
一、支出。二、収入。三、予算。四、責任。
この四拍子が整いましたら、いくらでも踊れます。ワルツも、国家も、足を踏まないのが一番ですから」
誰かが控えめに手を叩いた。最初は一人。続いて二人、三人。
拍手は大合唱にはならなかったが、青い紋が帳の上にいくつも灯り、ホールは静かな星空のようになった。
「レティシア」
ユリウスが私の名を呼ぶ。
呼び捨ては、王家の特権であり、監査の責任でもある。
「今日のところは、ここまでにしよう」
彼の声は低く、よく通る。「続きは明朝、兵舎で。公開だ。市井からも立会人を入れる」
「承知いたしました」
「それから」
ユリウスはわずかに視線を落とす。「婚約破棄の宣言は、形式上は有効だ。だが君の名誉は、王家が引き受ける。
――どうか、敵にならないでほしい」
敵。
その言葉は面白い。数字には敵味方がない。ただ、整合と不整合があるだけ。
私は小さく会釈して答える。
「陛下の帳簿に、我が名が控除ではなく寄与として残るなら――私は喜んで」
王太子はそれ以上何も言えなかった。
私は帳簿を閉じ、銀の栞を差し込む。金糸の音が戻り、楽師たちの指が再び弦を拾い上げる。
舞踏会は続く。
けれど、今夜の踊りは、明朝の数字に責任を持つ踊りだ。
◇
馬車へ戻る廊下。私の侍女、ミナが待っていた。
小柄で、すばしこく、怒ると頬が桃になる。今その桃は見事に赤い。
「お嬢様、あの王子、ほんと、ほんっとに失礼で――」
「ミナ。怒りは費用、使いどころを選びましょう」
「費用……?」
「未来を良くするために払うなら、投資。
ただ噴き上がるなら、浪費。
――私は、あなたの怒りを“投資”させていただきたいわ。明朝の兵舎で、靴底の穴をぜんぶ数える。足音の分だけ、声が強くなるの」
ミナは鼻をすすり、こくりと頷く。
彼女は籠から小包を差し出した。麻ひもが十字に掛けられた、小さな箱。
「ユリウス殿下からです。『必要になるだろう』って」
開けると、中には白金の算棒が入っていた。
古い式の計算具。でも、王城のどの扉よりも、私はこれが好きだ。
指先で撫でると、棒はかすかに震え、小さく青く光った。
「……いい趣味ね」
私は笑う。笑うことは、時々、最善の仕訳だ。
◇
夜が薄まる。
王都の東、兵舎の前庭で、パンの匂いが空を温める。
私は帳簿を広げ、算棒を置く。騎士団長が来る。兵站局が来る。市井のパン職人たちが来る。
そして、ユリウスも。
「始めよう」
彼は簡潔に言う。
「本日の議題は三つ。
一、人件費の現物照合。
二、納入単価の逆算。
三、責任の割賦計画」
私は頷き、帳簿の余白に小さく書く。
――監査メモ。
・幽霊兵三二四。現場の足音で照合。
・パン一斤の“重さ”と“値段”は、朝の空気が知っている。
・赤字は悪ではない。粉飾こそ悪。
ページが風でめくれる。
紙の鳴る音は、剣の鍔鳴りよりも好きだ。
数字は、今日も真実を歌うだろう。
婚約破棄?
――その前に、決算ですわ。
(つづく/次回「幽霊兵の足音」)