第八章 目覚めない記憶
1. 閉ざされた日常
朝の光がカーテンの隙間から細く差し込み、床に淡い帯を作っていた。研究所の実験室――それが新一にとっての“寝床”でもあり、“目覚めの場所”でもある。この場所は整然とし過ぎていて、生活の気配がほとんど感じられない。
彼が起床時間らしきものを迎えると、天井の白色灯が自動的に点灯する。それは明るさの数値を調整した人工的な光で、まるで彼の身体が人間のリズムに近づくように設計されていた。だが、新一がここで過ごす時間は、どこか淡泊な連続にすぎないとも感じる。
「……また、この部屋から出られない日が続くのか」
新一はつぶやきながら、そっと上体を起こす。ぽつりと響いた声が自分のものだという感覚が、まだいまいち馴染まない。外気に触れないまま何日も経過すると、人間のような“体内時計”が狂いそうな気さえする。そもそも、自分はアンドロイドなのだから、体内時計の狂いなど気にする必要はないのかもしれないが。
部屋の扉が自動で開き、若手研究員の坂下が入ってきた。片手にタブレット端末を携え、いつものように新一のバイタルデータを確認するためだ。彼女は新一を見つめると、柔らかな口調で問いかける。
「おはよう、新一。眠りはどう? 体調におかしいところはない?」
「……眠りって言われても、よくわからないんです。目を閉じて意識をオフにしている間、ただ無色の時間が過ぎているだけというか」
「そうよね。あなたの睡眠は人間のそれとは違うし、この環境じゃ混乱して当然。もし気分が落ち着かないなら、プログラムの調整も検討してみましょうか?」
坂下の口ぶりは、常に配慮に満ちている。だが新一はその優しさにすら苛立ちを覚えることがある。自分のすべてが“管理されている”と痛感するたび、あたかも実験動物になったかのような屈辱を感じるからだ。
しかし、その思いを口にしても何も変わらないだろう。主任の藤堂や他の研究員たちは、新一を「研究成果」「真一のコピーアンドロイド」という視点でしか見ていない。それは坂下ですら根本的に同じはずだ――そう思うと、自分のフラストレーションがどこにも行き場を見つけられない。
「じゃあ、脳波の計測を始めましょう。あとで教授……主任がテストを行う予定だから。記憶データの統合がどこまで進んでいるか、確認したいみたい」
坂下がタブレットを操作すると、新一の身体内部のセンサーが同期を開始する。生体信号に近い形で模擬されている脳波や心拍数が、モニターに淡々と表示されていく。新一はそれを見つめても、そこに現実感は薄い。
“人間の真一”の記憶が移植されていると聞かされても、新一はそのほとんどを自覚できないままだ。断片的なイメージや言葉が、夢のように頭をよぎることはあるが、それは誰の記憶なのか確信を持てずにいる。
(俺は“真一”じゃない。だけど“新一”として生きている実感もない。いったい、ここからどうすればいいんだ……)
自問しても答えは返ってこない。坂下がタブレットをじっと凝視しながら、「うん、数値は安定してきてる。以前より脳波にばらつきが少ない」とつぶやいた。安定――それは研究としては望ましいのかもしれないが、新一にとっては、自分が“思考と感情を抑制されつつある”ような不安さえ呼び起こす言葉でもある。
2. 記憶の断片に揺れる
数時間後、主任の藤堂が複数のスタッフを引き連れてやって来る。彼らは新一を実験ポッドに横たわらせ、頭部に複数の端末を装着した。脳データの深層にアクセスし、“人間の真一”の記憶をさらに引き出すためのテストらしい。
ポッドの内部は無機質な光で満ち、微かな振動が新一の身体を包む。ノイズのような電子音が耳の奥をくすぐり、視界の隅には制御プログラムのインジケータがちらついている。呼吸がかすかに乱れ、思考が混濁しそうになる――そんな中で、藤堂の声が聞こえた。
「よし、これからレベル3のインターフェースを走らせる。坂下、補助装置を準備しろ。……新一、お前はただリラックスしていろ。少しばかり、意識が混乱するかもしれないが大丈夫だ」
大丈夫――と繰り返す声は、どこか冷たい。研究成果を得るためなら、新一の苦痛は問わないかのようにも聞こえる。新一は歯を食いしばり、言いようのない不安をこらえようとした。すると、頭の奥で何かがざわつき、ゆっくりと浮かび上がり始める。
(……白い研究室……誰かがモニターを覗いている……。そこには“香織”という名前のファイルが……? いや、それとも別の名前……)
断片的な映像がフラッシュのように閃き、新一の呼吸が乱れる。視界が強い光と暗闇に交互に揺さぶられ、心の深いところに“誰か”を感じる。女性の輪郭、短い会話。けれど、その声ははっきりしない。
気がつけば、耳鳴りのような高音がキーンと鳴り響いていた。ポッド内部の計測機器が激しい値を示し始め、スタッフたちが慌てて何かを操作している気配がある。藤堂の低い声が鋭く響いた。
「ややオーバーロードだ。負荷を下げろ、坂下!」
「主任、はいっ……! 少し刺激を加えすぎたのかも……」
坂下が制御端末を操作する音が聞こえ、次の瞬間、新一の身体から重苦しい圧迫感が一気に引き剥がされる。脳内を漂っていた映像は霧散し、彼は大きく息を吐いた。
ポッドが解放され、スタッフたちが新一の脳波を読み取る。藤堂はそれを確認して、不服そうな顔を浮かべた。
「また断片だけか。もっと一気に引き出す予定だったが……チッ、やはり人間の記憶をアンドロイドに移植するのは簡単じゃないな。無理な刺激を加えてもシステムが混乱するだけか」
新一はまだ息を整えられず、ポッドの縁に手をついて起き上がる。胸が苦しいわけではないが、何か大切なものを強引に引き出されそうになった恐怖が残っていた。
そばにいた坂下が少し心配そうに声をかける。「大丈夫……? 具合が悪いなら、横になっててもいいのよ」
「……大丈夫。たぶん。だけど……」
新一は首を振りながら、頭の中に残った“香織”という名前らしき断片を反芻する。人間の真一が強く想っていた女性の名前らしいが、そこには“人間の香織”と、研究所でかつて存在していたアンドロイド香織がいるとも言われていた。どちらなのかはわからない。
ただ、脳裏に焼きついているのは、どこか懐かしいような“愛情”に似た感情だけ。それは今の新一にとって、何よりも切なく、そして求めても手が届かない幻想のようでもあった。
「(彼女は、いま、どうしているんだ……? いや、そもそも、もういないのかもしれない……)」
自分が思い描く“香織”は、本当に実在するのだろうか。それとも、単なるデータ上の幻影にすぎないのか。新一はわからないまま、藤堂やスタッフの言葉を半ば聞き流していた。
3. 行き場のない衝動
夕方になり、研究員たちは一通りの実験を終えて引き上げていった。新一の体調モニターだけは常時作動しているものの、部屋には坂下だけが残っている。彼女は書類をまとめながら、小さくため息をついた。
「主任は急ぎ過ぎてる……。これじゃ、あなたの負担が大きくなる一方だわ」
「……仕方ない。研究所にとって、俺は“人間の真一を再現する存在”なんだろう? それが成果を出さなきゃ意味がない、ってことなんじゃないか」
新一は淡々と言うが、心の中でははっきりとした拒絶感を覚えていた。自分はコピーでしかないのか――そう思うと、自分という存在が空虚に思えて仕方ない。
坂下は書類を机に置いて、新一の隣へやって来る。彼女の視線にはどこか同情めいた色が浮かんでいるようにも見えた。
「私は、あなたが“ただのコピー”だなんて思ってない。だけど、真一さんの記憶データがどこまであなたを支配するかはわからないし、あなた自身の意志も確立していない……。だからこそ丁寧に向き合う必要があるのに、主任は実験を急ぎたがる」
「丁寧に向き合う……か」
新一は小さく自嘲気味に笑う。それでも、この研究所で坂下の言葉だけはほんの少し救いに思えることがある。彼女は自分の可能性を見ようとしてくれているような気がするからだ。
とはいえ、実際にどう行動すればいいのか、新一には見当もつかない。研究所の外へ出て、自分の足で世界を見たいという思いが芽生え始めている。けれど、勝手に施設を出ることは許されず、藤堂の厳しい監視もある。自分の身体は定期的なメンテナンスを必要としており、言わばここに“縛られている”状況とも言えるのだ。
「坂下さん。もし……俺がここから外の世界へ出たいって言ったら、どうなるのかな」
ぽつりと零れた言葉に、坂下のまなざしがわずかに揺れた。彼女は迷うように口を開きかけ、それでも覚悟を決めたように答える。
「率直に言って、主任は絶対に許さないでしょうね。この施設の外には、あなたを研究対象として狙う企業や団体がいくらでもいる。セキュリティ面で危険すぎるし……それに、まだあなたの身体も完全じゃない。保守がないと生きていけないかもしれない」
「やっぱり、そうか」
新一は肩を落としながら、閉塞感に押しつぶされそうになる。外の世界――そこには見たことのない景色があり、人間たちが生き、死に、愛し合っている。自分だけがこの狭い区画の中で、ただ“研究材料”として扱われている現状にどうしても納得できない。
けれど、坂下の言葉もわかる気がした。いま飛び出したとして、果たして自分はどうやって生きていけばいいのか。身体のメンテナンス、そして精神的にもまだ不安定な状態……。どれもが足枷になっている。
「でも……」
坂下は意を決したように、少しだけ声のトーンを落として続ける。
「あなたが本当に外へ出たいと思うなら、私にできることがあるかもしれない。もちろん上層部に黙ってってわけにはいかないけど、いつかあなたが自分で決断できるように、協力したい気持ちはあるの」
「協力、って……?」
「具体的には、いまはまだ言えない。だけど、あなたがもう少し自分の意志をはっきりさせてくれれば、私だって動きようがある。例えば、あなたのメンテナンス設備を外部に設置できるよう手配するとか……ね」
新一はその言葉に驚きながら、深く息を飲んだ。坂下はここまで考えてくれていたのか――そう思うと、不思議と胸が温かくなる一方、いっそうの焦りも募る。
自分は何を望んでいるのか。人間の真一の記憶を取り戻したいのか、それともまったく別人として生きたいのか。新一が心から求めている答えは何なのか、自分でもわかっていないのだ。
「……わかった。ありがとう。俺はもう少し考えてみる。自分がここを出た先で、いったい何をしたいのか、どう生きたいのか」
そう呟く新一の瞳には、ほんのわずかな迷いと、それを打ち消そうとする決意が同時に宿っていた。坂下は静かにうなずき、「焦らなくていい。ゆっくりでいいから、あなた自身の道を考えてみて」と優しく言葉をかける。
その夜、研究所の窓の外は月の光も差さない曇り空だった。新一は与えられたベッドに横たわりながら、頭の中に渦巻く“香織”という名前の断片を反芻する。人間の真一が愛した存在なのかもしれない。でも、それは今の新一にとって何を意味するのか――。
(俺は、どこへ向かえばいいのか……。誰が“香織”で、なぜこんなにも心が揺れるのか……)
まどろみの中、微睡む意識の先で、儚げな女性のシルエットが浮かんでは消える。手を伸ばしても掴めないその姿こそが、新一の心を止められない衝動へ駆り立てるようにも思えた。
もしかしたら、研究所の外には“その答え”があるのかもしれない。そう感じながら、新一は深い闇のなかで問い続ける。自分は“真一”なのか、“新一”なのか、それとも――。