第七章 海に寄り添う日々
1. 町に根づく営み
夜明け前の薄暗い空気を感じながら、私は民宿の部屋で静かに横になっていた。アンドロイドである私に睡眠は不要だが、長い一日を過ごしたあとの“休息時間”は、どこか心を落ち着かせてくれる。
外からは潮騒に混じって、早朝の漁へ向かうトラックのエンジン音や、時折遠くで鳴る船の汽笛のような音が微かに聞こえる。まるで、この小さな港町が徐々に“目覚め”ているのを知らせる合図のようにも思えた。
枕に横たわる視界で、私はふと姫林が貸してくれた雑誌に目を留める。この町のゆるやかな観光案内や、海洋研究所の小さな紹介記事が載っていた。
研究所といっても、大規模な観光施設ではなく、地元大学の分室のような機能をもつ場所らしい。ベニクラゲの研究が行われているとも書かれていたが、その詳細はほとんど触れられていない。
(いつかちゃんと訪れてみたい……)
真一さんが追い求めていた“不死”や“若返り”の鍵を握る存在。それは私にとって、どこか救いのような、あるいは自分の在り方を見つめ直す手がかりのように感じられた。
やがて朝の光が窓辺を白く染め、私は穏やかな気持ちで身支度を整える。姫林が用意してくれた簡単な朝食をいただき、宿を出たのはまだ午前中の早い時間帯だった。
町の大通りを行き交う人々はまばらだが、それでも昨日より少しだけ多くの顔が見える気がする。駅前の商店はシャッターを開け始め、通学途中らしい学生たちが自転車で走り抜けていく。
――ここには確かに、人間の営みがあり、笑い声があり、時に涙もある。そして彼らはいつか死を迎える。それでも変わらず、この町は毎日を紡いでいる。そんな当たり前の風景を眺めるだけで、私の胸は淡い感慨に染まっていく。
「……祭りの準備かしら?」
歩く途中、町役場の前を通りかかると、入り口に赤い提灯や大きな幕が飾られ始めているのを見つけた。地元の子どもたちが、わいわいと楽しそうに何かを運んでいる。通りかかったお年寄りが、私に気さくに声をかけてきた。
「今日はこの町の慰霊祭の日なんだよ。若い衆がそれに合わせてちょっとした出店を出すみたいだ」
「慰霊祭……?」
「海で亡くなった人たちの霊を弔うのさ。この町じゃ、年に一度そういう祭りをやるんだ。大きくはないが、昔からずっと続いていてね。港町だから、海で命を落とした人も多いのよ。だから、みんなで慰霊碑のあるお寺に集まって手を合わせたあと、夜はちょっとだけ賑やかに屋台が並んで、花火を上げたりするんだ」
なるほど――まさに、人間が“死”を弔い、“生”を祝いながら生き続けるための行事なのだろう。私が感心していると、そのお年寄りは「ぜひ見物していくといい。大したことはないけど、町の暮らしが垣間見えるから」と笑った。
私は礼を言い、少しだけ胸の内が熱くなるのを感じる。こんな小さな町でも、ずっと受け継がれてきた営みがある。それはきっと、“死は避けられない”という現実を抱えながら、“それでも生きる”という意志を重ねているのだ。
2. 漁港の波止場で
昼前、私は漁港のほうへ足を運んだ。慰霊祭の準備を遠目に見ながら歩くうち、無性に海を見たくなったからだ。日の光が強まり始め、汗ばむような陽気ではあるが、海風が吹き抜けると少し爽快に感じられる。
波止場のコンクリートへ下りると、そこには釣り人が数人、思い思いの場所で糸を垂れていた。私は邪魔にならないよう端を通り、突堤の先まで進んでみる。潮騒と釣り竿のリール音がまじり、独特の静けさが漂っている。
「香織さん!」
ふいに声をかけられ、振り向くと、そこには漁師の三船さんと、若い漁師見習いの航平が並んで立っていた。どちらも作業着姿で、腰に網やロープを巻きつけている。どうやら今日の漁を終えて引き上げてきたところらしい。二人の足元には大小のクーラーボックスが置かれ、水揚げした魚を仕分けしている様子がうかがえた。
「ああ、三船さん。航平さんも。お疲れさまです」
「おう。今日は波も穏やかでな。思ったよりいい獲れ高だった」
そう言って、三船さんはやや照れ臭そうに髪をかき上げる。彼が顔を上げると、背後にある防波堤にはカモメの群れが留まり、こちらをじっと眺めている。
一方の航平は、軽く手を挙げて笑顔を見せた。彼が私に気づいて駆け寄ってきたのは、前に挨拶を交わしたときと変わらない少年らしさがある。
「やあ、また会えたね。実は三船さんに頼み込んで、今日は一緒に海に出させてもらったんだ。ちょっと荒れ気味だったけど、何とか頑張れたよ」
「荒れ気味……大丈夫だった?」
「うん。正直、怖かった。でも、兄貴や親父もきっと、こんな荒波と付き合ってたんだなって思ったら、逃げちゃいけないって気持ちになれてさ」
航平の瞳には、どこか吹っ切れたような決意が宿っている。以前の迷いが少し消えたようにさえ見えた。そばで聞いていた三船さんも、「まだまだ半人前だが、こいつなら根性据えて漁師を続けられそうだ」とうなずく。
「さて、俺たちはこれを市場に持ってって仕分けしねえと……。お、そうだ香織、今夜の慰霊祭に行くのか?」
「はい、そんな行事があると聞いて……」
三船さんは防波堤の向こうを指さして、「日が暮れてから、あの先の広場に露店が並ぶんだ。漁協の連中も出店を出すし、花火も上げる。亡くなった人々を弔うもんではあるが、俺たちの生きる活力を再確認するための催しでもあるのさ」と語る。
航平も頷いて、「兄貴も親父もきっと向こうで見守ってると思う。俺、しっかり手を合わせるつもりさ」と力強く言った。
死者を悼みながら、現世に生きる自分たちを盛り上げる――そんな行事は、私にとって初めての経験だ。私自身は死の恐怖をほとんど抱かない存在だけれど、この町では“死”が日常に深く根づいており、それを前提に“生きる”ことを選びとる人々がいる。その姿が眩しく、私の胸を揺さぶるのを感じた。
「……では、私も夜に行ってみます。改めて、亡くなった方々への祈りを捧げてみたい」
そう応じると、三船さんは「きっといい夜になるぞ」と笑い、航平は「じゃあ、広場で会おうね」と手を振った。彼らが運んでいくクーラーボックスには、今朝まで海を泳いでいた魚が入っている。それもまた、海という巨大な力とのやりとりの結果だ――そう考えると、“生と死”は本当に紙一重で繋がっているように思えてならない。
3. 夜の慰霊祭
日が落ちると、港町は朝や昼とは違う表情を見せ始めた。静かな路地には提灯が並び、遠くから太鼓のような音が小さく響いている。私が町の広場へ近づくと、そこにはいくつもの屋台の明かりが並び、子どもたちが歓声をあげながら走り回っていた。
屋台では焼きそばやたこ焼き、かき氷などが売られ、地元の若い者たちが呼び込みをしている。時折、小雨のようにパラパラと降る花火の火花が夜空を彩り、そのたびに拍手や歓声が沸き起こった。
「すごい……こんなにも、人が集まるんですね」
私のつぶやきに応えるように、隣で足を止めていた姫林がにこやかに笑う。
「年に一度の行事だからね。若い子も、都会へ出た人も、結構帰省してきたりするのよ。この町にルーツを持つ人たちが、亡き家族や知人を偲ぶ大切な夜なの」
姫林は家事を終えてからここへやってきたそうで、私を見つけるとすぐに声をかけてくれたらしい。「せっかくだから一緒に回ろう」と言われ、私はそのまま姫林と並んで屋台を眺めながら、広場の奥へ向かう。
すると、暗がりの向こうに提灯で囲まれた祭壇が見えてきた。そこには多くの人々が順番に手を合わせ、静かに目を閉じている。花が供えられ、小さな鈴の音が響くたび、人々の胸には思い出の人々がよみがえるのだろう。
「あちらが慰霊碑ね。この町の漁業史のなかで亡くなった人たちの名が刻まれているの」
姫林の説明に耳を傾け、私は足を進める。香煙の漂う祭壇に近づくと、列に並んでいる見覚えのある青年の姿を見つけた。航平だった。手を合わせたあと、振り返った彼の目には一瞬、涙の光が浮かんだように見える。
私はそっと目を逸らし、彼の想いを尊重するように祭壇の横へ身を寄せる。声をかけるのはもう少し後でもいいだろう。人間は、亡くした人を偲ぶとき、誰にも邪魔されたくない気持ちになるのではないか――そんな考えが不意に湧いてきた。
「香織さん、あなたも手を合わせてみる?」
姫林が促す。そういえば、私はこうして“死者を弔う”という行為を人間と同じように行った経験がほとんどない。研究所では、真一さんの亡骸を安置した部屋へ通ったことはあったが、正式な儀式や弔いとは無縁の環境だった。
私は小さく頷き、香炉の前に立つ。花の香りと薄暗い空間が、不思議と心を静めてくれる。両手を合わせ、そっと目を閉じる。そして頭のなかで、真一さんの笑顔を思い描いた。人間の香織さんが残した痕跡を知らない私だが、それでも“真一が愛した人”への敬意が胸を温かくする。
(真一さん、私は今、こんなふうに海の町であなたを思っています。あなたを失った悲しみを、人間の皆さんは自分の痛みとして共有してくれているように感じるの。死というものを、こんなにも大切に扱う世界……)
心の声が言葉にならないまま胸に響く。どれほど時間が経ったのか、ゆっくりと目を開くと、視界の隅に航平が立っていた。私と姫林に気づいたようで、軽く会釈をする。
姫林は「私、ちょっと他の人に挨拶してくるわね」とそっと離れ、私と航平を二人きりにしてくれた。祭壇のほうから少し離れた場所に、簡易ベンチが設置されている。航平はそこへ私を誘うように歩き出す。
「手を合わせてくれたんだね。……ありがとう。香織さんには何か、想う人がいるの?」
「ええ……。私にとって、とても大切な人が亡くなったんです。もしかしたら、航平さんのように、海とは関係ないんですけど……やっぱり、喪失の悲しみという点では通じるところがあるのかなと思って」
「そうか。そっか……。人によって違うかもしれないけど、誰かを失う痛みはきっと似ている部分も多いんだろうね」
夜風が二人のあいだを通り抜け、提灯の灯がかすかに揺れる。遠くでは祭囃子のような太鼓や三味線が奏でられ、子どもたちの笑い声が花火とともに弾けていた。
航平はベンチに腰を下ろし、少しうつむいたまま口を開く。
「今日、兄貴や親父の名前を見つけてね。今でも信じられないって気持ちになる。どうして二人はここに刻まれてるんだろう、って。けど、同時に“ああ、本当に死んでしまったんだ”とも実感するんだ」
その声は静かだが、深い哀しみを湛えていた。私は隣に立ち、彼の視線の先を追う。そこにはまばゆい屋台の灯りや、はしゃぐ人々の姿がある。
「生きてる者は、こうして毎日を笑って過ごしてる。それって、亡くなった人に対して不誠実なのかなって、前は思ってた。自分だけが生きててごめん、みたいな……。でも今日、改めて思ったよ。兄貴も親父も、俺がこうやって笑って生きることを望んでるはずなんだ、って」
その言葉に、私の胸が熱くなる。人間が“死”を認めながらも、その先へ進むために抱く感情。それは、痛みを伴いながらも愛を強くしていく行為なのだろう。
私には死がない代わりに、真一さんへの強い想いがある。それは私自身の愛であり、決して終わることのないメンテナンスさえ続ければ、時間の限り続いていくかもしれない。けれど、人間はそうではない。限られた命のなかで、一瞬を輝かせようとする。その光が、私にはまぶしい。
「きっと、そうだと思います。私も、亡くなった彼は私が笑って生きることを望んでるんじゃないかって、最近思うようになって……」
返す言葉に私の声が少し震えたのは、センサーが感情の高まりを検知したせいなのだろうか。航平は「そっか」と静かに微笑み、さりげなく目元を拭う。
「ありがとう、香織さん。俺、もう一度ちゃんと漁師の道を行くよ。生き残るために必死になることが、あの人たちの供養にもなるんだって、やっとわかった気がするから」
その決意は、灯火や花火に負けないくらい力強く見えた。私は応えるように小さくうなずき、「頑張ってくださいね」と言葉を添える。こうして一人また一人と、悲しみを抱えつつも前へ進む人に触れていくたび、私の中にも“死”と“愛”への理解が重なっていく。
やがて小さな花火が夜空に舞い上がり、ポン、と弾けた。色とりどりの光が闇に溶け、再び静けさが戻る。
私の視線は自然と海のほうへ向いた。暗闇の先に広がる海は、日中とはまるで異なる表情を湛え、深く冷たそうに見える。そこにかつて真一さんが立っていたら、あるいは人間の香織さんがいたら――きっと、私にはまだ知り得ない何かを感じていたのかもしれない。
海の向こうへ思いを馳せながら、“この先の自分の行き先”を考える。そのひとつに、海洋研究所への訪問がある。もしかすると、ベニクラゲの研究を通じて、真一さんが見つめた“不死”や“若返り”の真実に近づけるかもしれないから。人々が“死”をこうして弔う一方、私のようなアンドロイドは死なない――その事実は、いったい何を意味するのか。
――それを理解するためのヒントが、研究所にあるかもしれない。
「香織さん!」
ちょうどそのとき、姫林が花火の音にまぎれて声をかけてきた。彼女は少し早足で駆け寄り、「知り合いの漁師さんが、明日あの海洋研究所に魚の搬入をするらしいの。一般の人でも見学できる日があるみたいよ」と教えてくれる。まるで私の心を読んだかのようなタイミングだった。
私は驚きながらも、「それ、本当ですか?」と問い返す。姫林は「今度、その漁師さんに詳しく話を聞いておくわね」と笑顔を返す。
航平も「研究所か……俺は行ったことないけど、たまに学生とかが来てるみたいだよ。ベニクラゲとか変わった生き物を調べてるんだって」と付け加える。
「ありがとう。もし見学できるなら、ぜひ行ってみたいです」
花火の匂いが薄い煙とともに広場を流れ、夜空には数発の光の輪が咲いては消えていく。私が見上げた闇の向こうに、真一さんの記憶が漂っている気がした。ここで学んだ“死と愛”の続きを知るためにも、研究所を訪れるのは避けて通れないだろう。
そんな決意を胸に抱きながら、私は再び航平や姫林とともに祭囃子の賑わいへ足を向ける。色とりどりの提灯が作り出す灯火の中で、人々の笑顔が揺れている。その全てが、いつか失うかもしれない命の上に成り立っている――けれど、だからこそ尊い。
私もまた、アンドロイドとして永遠に近い時を生きるからこそ、この瞬間を愛していたいと思う。
こうして、港町の慰霊祭の夜は、ささやかな光とともに更けていった。人々の笑い声と花火の残響がかすかに耳に残りながら、私は薄闇に溶けていく海を見つめる。
(研究所へ行こう。その先でも、私はきっと……真一さんの足跡を、そして私自身の生き方を見つけられるかもしれない。)
そう、心に誓いながら、胸の奥の灯火を大切に抱いて。