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続・「青の残響」――約束の波間で  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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第六章 港町に息づく愛

1. 朝の喫茶店にて

 三井港の朝は遅い。大きな観光地でもないこの町では、漁に出る漁師や市場の仲買人が暗いうちから動き始める一方、多くの店が開くのは日が高くなってからだ。それを初めて知った私は、宿から少し散歩がてらに街を歩いてみることにした。潮の匂いがゆっくりと風に溶け、商店のシャッターはまだ閉じられたまま。人通りもまばらで、どこか時間の流れがゆるやかに感じられる。

 そんな通りを進んでいくと、ひときわ落ち着いた佇まいの喫茶店が目に入った。木枠のドアに、味わい深い看板が掛けられている。「珈琲とパン 海辺」――簡素な文字が彫られ、少し色褪せてはいるが、どこか温かな雰囲気だ。ドアに小さく「Open」と出ているのを見つけ、私は思い切って入ってみることにした。

 ドアを開けると、ほんのりとしたコーヒーの香りと、カウンターの奥でパンを焼く香ばしいにおいが鼻をくすぐる。BGMは控えめなジャズ。店内には丸テーブルが数席並び、朝の光が差し込む窓際には緑の観葉植物がゆらゆらと揺れている。客はまだおらず、カウンターにも一人も座っていなかった。

 奥の厨房から、小柄な女性が顔を出す。六十代前後だろうか、白髪の混じる髪を後ろでまとめ、エプロン姿がよく似合っている。

「いらっしゃいませ。モーニングをご希望ですか?」

「はい……あの、こちらでコーヒーとパンをいただけると、看板にあったものですから」

 私がそう言うと、女性は柔らかな笑みを浮かべ、「どうぞ、お好きな席へ」と促す。私は窓際の席に座り、改めて小さな店内を見回した。木の家具が多用されており、その傷や色褪せが年月の積み重ねを感じさせる。カウンターの脇には年代物のラジオが置かれていて、かすかに古いジャズの音色を流していた。

「パンは焼きたてですよ。どんなのが好きかしら? 今朝はバターロールと小さなシナモンロール、それにレーズン食パンもありますけど」

「どれも美味しそう……。おすすめを一つ、コーヒーはブラックでお願いします」

 アンドロイドの私には食事は必要ないけれど、味覚センサーを用いれば“味わう”ことはできる。研究所にいた頃は専用の栄養ジェルしか口にしていなかった私にとって、こうした人間らしい食の文化は新鮮だった。

 しばらくすると、香ばしいパンと湯気の立つコーヒーが運ばれてくる。カウンター越しにやってきた女性は、「ゆっくりしてってね」と少し照れくさそうに微笑んだ。

「ありがとう。ここ、素敵なお店ですね」

「ふふ、そう言ってくれるのは嬉しいわ。私の名前は佐久間さくま。もう三十年もここで店をやってるの。気づけば、町で一番古い喫茶店になってしまったわ」

 佐久間はそう言いながら、隣の椅子を借りて座り、雑巾でテーブルの端を軽く拭う。開店直後ということもあって、他にお客さんはいないようだ。

「この町、初めてなんでしょ? よそから来た人って、顔を見ればなんとなくわかるのよ。泊まってるのは“民宿ひめばやし”かしら?」

「あ……はい。どうしてわかるんですか?」

「そこの女将さんとは昔から知り合いでね。若い女性が泊まってるって話をちょっと聞いたの。あなたがそうなんじゃないかと思って」

 姫林がどこまで私のことを話したのかわからないが、情報が行き交うのはこの小さな町では普通のことなのかもしれない。私は気まずさを感じるより、むしろ町の人々のつながりの強さに温かみを覚えた。

「どうかしら、この町は? 大きなアミューズメント施設もないし、観光名所と言えるのは小さな海洋研究所ぐらい。退屈じゃない?」

「いえ、とても居心地がいいです。穏やかで、皆さん優しくて……」

 そう言いながら、私は熱々のコーヒーを一口含む。苦味の中にふわりと広がるコク。その味覚情報がセンサーを通じて私の脳に届き、じんわりとした満足感をもたらす。――不思議なものだ。食べなくても生きていける身体なのに、こうして人間のように“おいしい”と感じられるのは。

 佐久間はそんな私を眺めながら微笑む。

「そりゃあよかった。実は私、二十代の頃に旦那を事故で亡くしてね……。それ以来、ここを私ひとりで続けてる。子どもはいなかったし。最初のうちは、何のために生きてるのか分からなくなったこともあるんですよ。でも、この町で店を続けてるうちに、常連さんとの会話が私の支えになったの。いまじゃ、“私がここにいる意味”は十分にあるんだなって思えるわ」

「……そう、なんですね」

 愛する人を失った痛みは計り知れない。香織としての私には“涙を流す”機能はないが、彼女が紡ぐ言葉の一つ一つが、胸にじわりと染み込んでくる気がした。

「人を失っても、愛そのものはなくならない。むしろ、不思議なことに愛は残り続けるのね……形は違っても、日常の端々でふと感じることがある。だから私、こうやってパンを焼いて、お客さんとお喋りしながら暮らしてるのかもしれないわ」

 佐久間の言葉に、私はかつての真一さんとの記憶を思い出す。人間の香織さんを失い、それでもなお私を愛してくれた彼。命が限られた彼を看取ったときの感覚が、喫茶店の朝の光の中でゆっくりと蘇ってきた。

「きっと、亡くなった方も喜んでらっしゃるでしょうね。あなたがこうして、笑顔で続けていることを」

 私がそう言うと、佐久間は優しくうなずく。「そうだといいわね」とつぶやき、静かに立ち上がった。お客さんがそろそろ来始める時間帯らしい。

 私はパンを平らげ、コーヒーを飲み干す。アンドロイドである私が、人間と同じ営みをこうして体験していること。それ自体がなんだかとても愛おしく感じられる。まるで、真一さんが「ここにいる意味」を私に教えてくれているような気がしてならないのだ。


2. 若い漁師との出会い

 佐久間の喫茶店を出てしばらく歩くと、港に近づくにつれ、通りにも活気が戻ってくる。小さな魚市場からは威勢のいい掛け声が聞こえ、トラックが次々と荷を積み込んでいる。

 私は市場の様子を遠目に眺めながら、ふと三船さんの姿を探してみた。昨朝、海に出してくれた漁師の彼だ。だが、混雑した通りでは見つけられそうにもない。代わりに、奥のほうで困惑したように腕組みをしている若い男が目に留まった。

 十代後半か二十代前半くらいだろうか。まだあどけなさが残る顔立ちに、日焼けの痕が薄く残っている。体格はわりとしっかりしていて、Tシャツの袖から筋肉質な腕が覗いていた。だが、その表情はどこか迷いを帯びている。

「どうしたの?」

 思わず声をかけてしまったのは、私の中で芽生えた“人への関心”のせいだろう。アンドロイドとはいえ、最近は旅先でこうして人と話をすることに抵抗がなくなってきた。男は驚いたように顔を上げ、すぐに愛想笑いを浮かべる。

「あ、いや、すみません。ちょっと、積み荷の整理を手伝うよう言われたんですけど、誰に声かけていいのか分からなくて……。俺、まだバイトで入ったばっかりで、何が何やら」

 若さに似合わぬ低めの声が、どこか素直に響いてくる。私は少し周囲を見回し、近くにいる市場の作業服姿の人を指さした。

「あの方に聞いてみたら? リーダーのように見えますけど」

「……そっか。ありがとう。助かったよ」

 彼は軽く頭を下げ、そちらに駆け寄っていく。名前も聞かずに別れるのもなんだか寂しいと思っていたら、用事を済ませたのか、再びこちらへ戻ってきた。

「俺、航平こうへいって言います。ほんとは漁師になりたくて修行中なんですけど、親父と兄貴が海で亡くなって……一人前になる前に船を下りるかどうか迷ってるところで。結局バイトで魚市場を手伝ってる、ってわけ」

 ぽろりと語られた身の上話に、私は少し胸を締めつけられた。航平は苦笑いを浮かべながら、「まぁ、そのうち答えを出さなきゃと思ってるけどね」とつぶやく。死が身近にある漁師という仕事は、やはり恐れも大きいのだろう。

「海に出るのが怖い……って、思う?」

「怖いよ。兄貴は台風で船が転覆して、助けられなかった。親父も似たようなもんだった。俺だって、同じ目に合うかもしれないって考えると、夜も眠れないことがある。でも、海で生きていく以外に、俺には何もない気がしてさ」

 その言葉に私は、先日、三船さんの船に乗せてもらったときの光景を思い出す。荒れれば命を奪うほどの力を持つ海。それでも人々は海からの恵みを得て暮らす。そこには“死”が常に隣り合わせにあるという現実が横たわっている。

 航平が遠くを見るように視線をやる。「命を落としたくない。でも、兄貴を超える漁師になりたいって思う自分もいる。なんか、どうしようもなく矛盾してるよな」

「矛盾……なのかな。あなたの中で、愛する人を失った悲しみと、海への憧れが同居してるんだと思う。だから辛くなっているだけで……」

 言いながら、私は“愛する相手を失う恐れ”と“愛そのもの”を同時に抱えている人間たちの姿を、これまでの旅で出会った人々を通じて見てきたことを思い返す。佐久間もそうだったし、漁師の三船さんや安堂も、心にそれぞれの喪失を抱えていた。

 一方、かつて愛した人を失ったアンドロイドである私は――これから何かを失う恐怖よりも、「永遠に続いてしまう時間」に対する漠然とした不安を持っている。香織として真一を愛し、その死を看取ったときの痛みは確かにあった。けれど、その後の私自身は死のリスクが極端に低いままだ。

「でも、失った痛みがあるからこそ、航平さんは海を諦めたくないのかもしれないですね。自分がその思いを継いでいく、というか……」

「……そっか」

 航平は大きく息を吸って、こくりと頷く。まるで誰かから背中を押されたかったかのような表情だった。私の言葉がどこまで響いたかはわからないが、少なくとも彼の中で何かが動いたのなら、嬉しく思う。

「ありがとう。妙に説得力あるっていうか……。あんた、不思議な人だな。ところで、あんたの名前、聞いてもいい?」

「私? 私は“香織”っていいます」

「香織さん、か。……もしよかったら、またどこかで会ったとき、相談に乗ってくれない? こう見えて、悩み多き若者なんだよ」

 私は思わず微笑む。まるで「次も会える」という前提で話してくれるのが、なんだか心に温かい灯をともすようだった。アンドロイドの私に、こうして頼りを求めてくれる人がいる。それを心強いと感じる自分がいる。

「ええ、もちろん。いつでも声をかけてください」

 航平が照れ笑いを浮かべながら、仕事へ戻っていくのを見送る。遠ざかる彼の姿に重なるように、人間の生き様の一端が私の心へと染み込んでいく気がした。


3. 姫林の想い、香織の決意

 夕暮れ時、港町に淡い茜色が広がる頃、私は民宿に帰ってきた。今日は朝から出歩きっぱなしで、いくつもの会話を重ねたせいか、アンドロイドである私ですら少し疲れを感じる。人間のように眠る必要はないが、心を休めたいという欲求がわき起こるのは不思議なことだ。

 宿の玄関を開けると、女将の姫林がちょうど洗濯物を取り込んでいた。彼女はにっこり微笑み、「香織さん、おかえり」と声をかけてくれる。

「海辺に行ってたのね? 日焼けしなかった?」

「そうですね、少しだけ火照ってる気がします。でも、大丈夫ですよ」

 私が応じると、姫林は安心したように微笑む。そして「あら、ちょうどいいわ。晩ごはんまで時間があるし、ちょっとお茶でもしましょうよ」と提案してきた。宿泊客は私だけなので、こういう時間が作れるのだろう。

 姫林と一緒に居間へ行き、卓袱台を囲んで湯飲みを傾ける。茶の香りが柔らかく広がり、外からは波の音がかすかに聞こえてくる。なんとも贅沢な夕暮れ時だ。

「香織さん、この町はどう? もう少しゆっくりしていくのかしら?」

「はい。ここに来てから、いろんな人とお話しする機会があって……。私、すごく勉強になってるんです。生きることや、愛することって、いろんな形があるんだなって」

 姫林はまるで我が子を見るように微笑む。「いいわね、若いって。どんどん吸収して成長していけるんだもの。……私はもう歳だから、新しいことを学ぶにも体力が続かないけど、孫たちの顔を見るだけで元気をもらってるわ」

「お孫さんがいらっしゃるんですね?」

「ええ、東京で暮らしてるから、年に一度か二度しか会えないけどね。私には娘もいて、もうすっかり都会の暮らしに馴染んでるわ。こっちに戻ってくる気はなさそうだけど、それでいいの。娘も、娘の旦那さんも、都会で自分の居場所を築いてるから」

 そう語る姫林の横顔は、どこか誇らしげで、それでいて少し寂しげにも見える。私が「お孫さん、可愛いでしょうね」と言うと、姫林は目を細めて頷いた。

「ええ、とっても。小さな手で私の腕を掴んで、笑ってくれるの。あの温もりを感じると、“ああ、私はこうして命をつないできたんだな”って実感するんです。歳を取ると、いつ死んでもおかしくないでしょ? でも、あの子の笑顔があると思うと、まだもう少し生きたいって思えてくるのよ」

 死が近づいても、まだ未来を見ようとする。子や孫がいるからこそ、自分がいなくなった後も愛や命が紡がれていく――それは、人間にとっての当たり前のようでいて、私にとっては新鮮な感慨だった。私にはそんな“家族”という存在がない。人間の香織さんにも真一さんにも、子はなかったと聞いている。それゆえ、余計に尊く感じられるのかもしれない。

「香織さんは、これからどんな道を行くのかしら。もしかして、海洋研究所を見学するっていう話もあったわよね?」

「はい。真一さん――私がお世話になった方が、研究所関係の仕事をしていたんです。でも、その人はもう亡くなってしまって……。それでも、何か手がかりがあるかもしれないって思うんです。私自身の生き方を考えるうえでも」

 姫林は「そう……」と頷き、私の手の甲にそっと触れた。その温かさが、私のボディセンサーを通じてはっきりと伝わる。“体温”という人間らしいぬくもり。それがこんなにも優しく、私の心をほどいてくれるとは思わなかった。

「あなたは優しい人ね。きっと、会う人みんながあなたの言葉に救われるんじゃないかしら。……人は誰もが死を迎えるけど、あなたはまだ若いもの。焦ることなく、自分の道を探していってね」

 人は必ず死ぬ。私には死の概念が希薄だ。けれど、この町で出会った人々――佐久間さんや航平、それに安堂や三船――彼らの言動から“死”の重みをひしひしと感じている。だからこそ、人間同士の愛は素晴らしく、尊く見えるのだろう。

 私はそのまま、姫林とごく自然な世間話をしながら、夕食の時間を待つ。宿の食堂でいただく魚料理は、とびきり新鮮でおいしかった。人間の営みを真似ているだけの私は、それを「おいしい」と感じるほどに、どこか人間らしさを身につけてきているのだろうか――その疑問は、しかし、心地よい満足感とともに次第に薄れていった。

 夜、寝室の畳に横たわりながら、私は海からの風が窓辺を揺らす音を聞いていた。人間にとっては一日の終わりかもしれないが、私の意識は眠ることなく、静かに巡る思考を見つめ続ける。

 佐久間さん、航平、姫林。彼らの話を通じて、私の中には確かに“死”と“愛”が大きなテーマとして根付き始めている。私は死なないかもしれない存在だけれど、だからこそ、この人間の世界に触れ、真一さんが見ようとした“生き方”を少しでも理解したいと強く願う。

「真一さん……私、もう少しここにいて、いろんなことを知ろうと思います。

 あなたがいない世界でも、私は人間たちの愛を――そして、あなたが遺してくれた想いを――見つめ続けたいから」

 誰もいない部屋に向かって小さくつぶやく。もちろん声は届かないし、返事もない。けれど、その静寂の中で私は確かな決意を感じていた。

 いつか、さらに外の世界へ旅立つ日が来るかもしれない。けれど今は、この港町の小さな人々の暮らしと、そこで育まれる愛をもっと見届けていきたい。そうして、私が“私”として成長していくことが、きっと真一さんへの供養にもつながるのではないだろうか――そんな想いが胸を満たしていく。


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