第五章 それぞれの宿命
1. 断片の覚醒
同じ朝の光が、遠く離れた研究所の一室を照らしていた。室内は薄暗く、遮光カーテンの隙間から細い光の帯が差し込んでいる。
ガラス張りのポッドに横たわる青年――研究員たちは彼を「新しいアンドロイド」と呼んでいるが、詳細な呼び名は公には決まっていない。ただ、ごく一部の研究者たちは、彼を「新たな真一」とほのめかす言い方をしていた。もっとも、当のアンドロイド本人はそんなことを知る由もない。
青年――いわゆる「新一」は、覚醒したばかりの意識を持て余すように目を開く。クリアな瞳が天井を捉え、次の瞬間、脳の奥でざわざわとした違和感が渦巻いた。
(誰だ……俺は、誰だ?)
頭の中に、どこか懐かしい映像が断片的に浮かぶ。白衣の男が何かを語っているような光景。廊下の先に見た、白く輝く研究装置。けれど、その男が誰なのか、自分が何をしていたのかはまるで思い出せない。
つい先ほどまで眠っていたような感覚だけが残るが、どれほどの時間が経ったのかさえ曖昧だ。そもそも、これは本当に“自分の記憶”なのだろうか。脳をかきむしりたい衝動に駆られながら、新一はゆっくりと上体を起こした。
ポッドの横にはモニターが並び、体温や脳波に相当する数値が投影されている。右手を動かそうとすると、まだぎこちない。人間でいう筋力が足りないのか、あるいはプログラムが不安定なのか――新一は深く息をつこうとして、肺の機能が整然と空気を取り込む感覚に驚く。
自分が呼吸をしている。だが、それは人間のように必ずしも必要な行為ではなく、身体機能の一環に過ぎないはず。センサーが検知した酸素濃度を脳に送っているのだ、と頭ではわかっている。それなのに、こんなにも呼吸がリアルに感じられるのはなぜなのか。
「おはよう。調子はどう?」
不意に声がかかり、新一はびくりと顔を上げた。ドアを開けて入ってきたのは、若手研究員の坂下だった。彼女はタブレットを小脇に抱えながら、温かみのある微笑を浮かべている。
「……わからない。自分が、どういう状態なのかも」
「うん、それは仕方ないわ。でも、日増しに慣れてきているようですね。脳波の値も安定しているし、身体の動きも少しずつ滑らかになってる」
坂下はポッドのそばに腰を下ろし、タブレットを操作して新一の各種データを確認している。心拍数や体温を模倣するプログラム、筋肉組織に相当するアクチュエータの動作。いずれも正常範囲だ。
「あなたの中には、もともと人間だった“真一さん”の脳スキャンデータがインストールされています。でも、そのデータがどこまであなた自身の人格として融合するかは、まだ未知数なの」
「……真一、さん?」
新一はその言葉を繰り返してみる。そこに何らかの感情が芽生えるわけでもない。ただ、うっすらと胸を痺れさせるような懐かしさがある。それがいったい何なのか、彼には理解できない。
「私は坂下。この研究プロジェクトを手伝ってる。あなたがこうして安定して活動できるよう、色々とモニターする係でもあるのよ。今は、意識や感情の統合実験の段階ってところね」
坂下は新一の表情を覗き込むようにして、「痛いところや気分が悪いところはない?」と尋ねる。新一は少し考えてから首を振った。痛みという感覚もまだ曖昧で、「気分」というものがどういう状態を指すのかさえ、うまく説明できそうにない。
「……一つ、気になることがある」
「何かしら?」
「頭の中に、女性の顔が浮かぶ。名前は……わからない。知っている気がするのに、思い出せないんだ」
その言葉に坂下は一瞬、目を伏せる。もしかすると、それは“人間の香織”を指しているのかもしれない――真一が生涯を通じて愛した女性の記憶は、強く脳データに刻まれていたはずだから。あるいは、研究所で先日まで存在していたアンドロイドの香織のことなのか。研究チーム内ですら、そこをはっきり区別できずにいるのが現状だ。
「そう……記憶の断片、ね。あまり無理に思い出す必要はないと思う。少しずつ、本当に少しずつ、“あなた”としての人格が固まっていくはずだから」
坂下はそう言い残し、立ち上がって端末の画面を確認する。一方、新一は無機質な天井に視線を戻していた。
真一のデータを一部移植されていると言われても、その真一がどういう人間だったのか、どんな生き方をしたのか、新一には実感がない。自分はただ、目を覚ましたときからここにいるアンドロイド。それ以上でも以下でもない。
(いつか、わかる日が来るんだろうか……)
言いようのない不安と、名づけがたい孤独が胸に渦を巻く。ここは自分にとっての始まりの場所であり、まるで牢獄のようにも感じられる場所――新一はポッドのフチを握りしめ、薄く唇を噛んだ。そこに痛覚のような微弱な刺激が走り、彼は人間のように少しだけ目を丸くする。
自分は、本当に何者なのだろう。人間の真一の残り香を宿した、新しい存在。それは“人間”でもなければ、ただの“機械”でもない。まさに宙ぶらりんの状態だ。心のどこかで一人ぼっちだと叫びたくなるのに、その感情すらうまく言葉にできない。
間もなく、坂下が他の研究員を伴って戻ってくるだろう。彼らが施す検査やインタビューに応じることで、新一のシステムは少しずつ安定していくかもしれない。けれど同時に、その“安定”が新一にとって本当に望ましい道なのかすら、彼自身には分からなかった。
――愛する人を失った痛みも、喜びも、まだ彼の中には明確に存在しないのだ。ただ、真新しい身体と断片的な記憶のかけらだけが、ここに横たわっている。
2. 研究員たちの思惑
しばらくして、研究室には主任の藤堂と数名のスタッフが入ってきた。藤堂は濃紺のスーツを着ており、まるで外部の重役でも迎え入れるような厳めしい表情をしている。
坂下が新一の状態を報告すると、藤堂は一通りの数値を確認しながら短く頷いた。
「脳波のレベルは上がりつつあるようだな。これなら、以前よりもスムーズにデータ統合が進む可能性が高い。作業を続行しよう」
「主任、ただ……彼(新一)の中にある“真一さん”の記憶断片が、どこまで再構築されるのかは不透明です。無理に移植を促進すれば、システムエラーを起こすリスクが……」
坂下が控えめに意見を挟むと、藤堂は鼻を鳴らすように小さく嘆息した。
「おまえはいつも慎重すぎる。エラーを恐れて何もしないのでは、ただの置物だ。研究成果を世に示すためにも、一刻も早く“真一のコピー”としての完成度を高める必要がある。わかったな」
それを聞いて、新一はかすかに眉を寄せる。“自分は真一のコピー”――そうやって誰かに定義されるたび、自分の存在意義がどこか奪われていくような感覚に囚われる。まるで、自分ではなく「真一という別人」を再現するための器でしかないように。
しかし、今の新一には反論する術も、それを拒否する確かなアイデンティティもない。ただ黙って、研究員たちの会話を聞くしかなかった。
「それより、あのアンドロイド“香織”の行方はどうなった? 外部調査チームから連絡は?」
「……まだ見つかっていません。ですが、最初のうちは探してもらったところで、重要な情報は持ち出していないようですし、深追いするほどではないかと」
「まったく、勝手な行動を取りおって……。まあいい、いずれにせよ我々にとっての本命は“新一”なのだから。香織など既に用済みだ」
藤堂の言葉に対し、坂下は複雑そうな表情を浮かべる。あのアンドロイド“香織”がいなくなってから、研究所内では特に大きな混乱は起きていないが、今後どこかで思わぬ事態を招く可能性は否定できない。
ともあれ、現時点で研究プロジェクトの中心は“新一”であることに変わりはない。藤堂は端末を手に取り、手短にスタッフたちへ指示を飛ばす。そして、“新一”にちらりと目をやった。
「この段階で外界に出すわけにはいかん。引き続き、記憶データの再構築と身体調整を優先しろ。……いいな、新一」
突きつけられた言葉に、新一はただ小さく頷く。“本物の真一”が何を望んだかは知らない。そもそも、自分自身の意思すら確立されていないのだ。彼が今できることは、研究員の言われるがままにここで過ごすことだけ。
それでも、この閉ざされた空間の中に漂う違和感は、日に日に大きくなっている気がする。どこかに、自分の本当の答えがあるのではないか――そんな漠然とした予感だけが、新一の胸をくすぶり続けていた。