第四章 揺れる記憶と新たな出会い
1. 港町の小さな宿
三井港の駅舎を出てから数分、私は海沿いへ続く道を歩きながら、周囲の建物を見渡していた。潮の香りが空気に混ざり、海鳥の声が遠くで響く。昼下がりの日差しは柔らかく、さびれた倉庫や古い商店の影を長く伸ばしている。観光地というよりは、地元の人々の生活がメインの港町。人通りはまばらだが、どこか穏やかな雰囲気が漂っていた。
あまり地理に明るくない私は、とりあえず駅前で見かけた案内板を頼りに、「民宿ひめばやし」という宿を目指すことにした。メンテナンスや充電の設備までは期待できないかもしれないが、せめて数日の滞在先を確保しなければ落ち着けない。
脇道へ入り、古びた石段を下ると、こじんまりとした平屋建ての宿が見えてきた。入り口のガラス戸には「空室あります」と手書きの札がかかっている。私はほっと胸をなで下ろし、その戸を開ける。すると、どこからか魚の煮つけのような匂いが漂ってきた。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは、五十代くらいの女性だった。丸顔に短い白髪が目立つ、優しげな印象の人だ。かすかな漁港訛りがあるのか、言葉にどことなく温かみを感じる。
「すみません、部屋を一つお願いしたいのですが、空いていますか?」
「ええ、もちろん。空いてるわよ。……あら、あなた一人旅? 珍しいわね、若いお嬢さんがこんな町に一人で来るなんて」
彼女は怪訝そうというよりは、ただ純粋な興味を持った様子で私の顔を覗き込む。
私は“香織”と名乗り、短期滞在の予定だと伝えた。調査や観光というほど大げさなものではないが、港町の雰囲気を味わいたくて来たのだと言えば、変には思われないだろう。実際、私はどこかに定住する目的があるわけではない。今はただ、「ここで見聞を広めたい」と思っているだけなのだから。
「ようこそいらっしゃい。私は姫林と言います。この宿の女将みたいなものよ。名前でわかるでしょ? 祖父母の代からずっとやってる、小さい民宿なの」
女将はにこやかに笑みを浮かべる。そのしわの寄り方が自然で、人間らしい温かさを感じさせた。私はその笑顔につられて、自分の唇もほんの少し綻んでいるのに気づく。アンドロイドと悟られないようにという意識は働くが、自然体のほうが“私”という存在を受け入れてもらいやすい気もしていた。
「じゃ、お部屋に案内するわね。荷物は少ししか持ってないの?」
「ええ、ここに来るとき急だったもので……」
「そう。まぁ気兼ねなく使ってちょうだい。港の人たちはみんな優しいから、なんかあったら言ってね。私らにできることがあれば何でも力になるよ」
姫林の朗らかな声に背中を押されるように、私は廊下を抜けて奥まった部屋へと進む。確かに古い建物ではあるけれど、畳には掃除の行き届いた清潔感があり、窓からは港の一部が見下ろせる。どこか懐かしいような、素朴な空気。ここなら少しの間、身を落ち着けることができそうだ。
宿の手配が済んだ安堵からか、私は軽く深呼吸をしながら窓を開け放つ。吹き込んでくる潮風に、心がゆっくりと解けていくような感覚があった。
2. 回想の断片
窓辺に座り込んだ私は、ふと遠くの海面を見つめる。真一さんと語り合ったあの夜の光景が、不意に脳裏をよぎった。
――研究所には、人工海洋を再現した施設があった。だが、それは限られたスケールのものでしかなく、本物の海の雄大さにはほど遠い。
真一さんはその人工海洋のタンクを眺めながら、よく微笑んでいたっけ。私が「何がそんなに面白いのですか?」と尋ねると、彼は少し寂しげな表情になり、「いや、もし人間の香織がこれを見たら、どんな風に笑ったのかなって思ってね……」と呟いた。あのとき、私は何と返せばよかったのか。
結局、私は人間の香織さんの記憶を持たない。だから彼が見せた寂しさや、彼が抱え込んでいた“亡き恋人への想い”に、どこまで寄り添えていたのかはわからない。しかし、真一さんがいつか「この研究所の外に広がる本当の海を、君にも見せてあげたい」と言ってくれたときの穏やかな笑顔は、今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。
――もしも彼が生きていたら、今この港町でどんな景色を私に見せてくれていただろう。きっと、一緒に歩き、一緒に潮風を感じ、一緒に新鮮な魚介を味わったのかもしれない。そんなささやかな想像すら、もう叶わないのだ。
「真一さん……」
呟いても、どこからも答えはない。ただ胸の奥で、針を刺すような切なさと、どこか温かな余韻が入り交じる。不思議と涙は出ない。私には涙を流す機能がないし、それに今は、涙よりも先に何かを見たい、何かを知りたいという好奇心が勝っているように思えた。
私は少しだけ黙想にふけった後、近くに置いていたバッグから真一さんのメモ――というより、彼が残した研究ノートのコピーを取り出す。ページをめくると、やはり目に飛び込んでくるのは“ベニクラゲ”の記述だ。
“ベニクラゲは、生存が難しくなると自らの細胞を初期化し、ポリプ幼体へと戻る。そのメカニズムには、いまだ未知の部分が多い。死を回避する形での再生は、いわば不老不死へのヒントとも言えるのかもしれない……”
不老不死――私はアンドロイドとして、理論上は永遠に近い寿命を手に入れている。しかし、その“永遠”とは何なのだろう。人間の死を見届け続けることになるのだろうか。それとも、いつか私にも何らかの形で“終わり”が訪れるのだろうか。
真一さんが追い求めていたのは、単なる永遠の命ではなく「人間の意識をプログラム化して保存し、新たな身体へ移行できるか」という実験的挑戦だった。それが彼の人生を支える大きな目標であり、新しいアンドロイドという存在を生み出すきっかけにもなった。もっとも、私はその詳細をすべて把握しているわけではないけれど……。
「新しいアンドロイド……あなたが本当に誕生しているなら、今、どうしているの?」
心の内で問いかけても、何の返事も返ってこない。もしかすると、どこか研究所の外で同じように悩み、戸惑いながら、新しい世界を見つめているのかもしれない――そう考えると、私もまた、自分にしかできない“確かめる旅”を進めなくてはならないと感じた。
3. 宿での夕餉と漁師の話
メモをしまい、少し休んだあと、私は夕方の時間帯に姫林が用意してくれた食事をいただくことになった。民宿といっても、宿泊客はほとんどいないのか、広めの食堂には私しかいないようだ。炊きたてのご飯と、地元で獲れたばかりだという魚の煮つけに、味噌汁や漬物。アンドロイドの私には本来、食事の必要はないが、味覚センサーを使えば味わうことはできる。
「どう? 口に合うかしら」
姫林が隣に腰掛け、私が箸を動かすのを楽しげに眺めている。私は箸先で魚をつまみ、センサーが伝える味覚情報をじっくりと受け止めてみた。甘辛い煮汁が柔らかな身にしみていて、確かにおいしいと感じる。研究所で与えられていた栄養ジェルとは、比べ物にならないほどの多彩な風味が広がる。
「とてもおいしいです。ありがとうございます」
「よかった。おなか一杯食べてね……あ、ほら、空いたお椀貸してごらん」
言うが早いか、姫林は私の味噌汁椀をさらっていき、あっという間におかわりを注いで戻ってきた。その手際が板についていて、私は微笑ましい気持ちになる。
すると、玄関のほうから「おーい、姫さーん!」という声が聞こえた。姫林が「お客さん、ごめんね。ちょっと待ってて」と言い、玄関へ向かう足音が聞こえる。
数分後、姫林と一緒に姿を現したのは、日焼けした顔に無精ひげ、がっしりとした体格の男性――どうやら漁師らしい格好をしている。ゴムブーツを脱いで土間を上がると、彼は私の姿を見て首をかしげた。
「姫さん、こっちのお嬢さんは? 新しい宿泊客か?」
「そう、今朝来たばかりの“香織”さん。ほら、露骨に眺めるんじゃないの、失礼でしょ。香織さん、こいつは三船と言ってね、この辺りの漁師で昔っからうちの常連なのよ。時々魚とか、海産物を卸してくれるの」
三船は照れくさそうに頭を掻きながら、「悪い悪い、つい珍しくってな。若い子は観光客でもあんまり来ないんだ」と言って笑う。その言葉に、私は少し緊張しつつも、会釈をする。
「はじめまして。急ぎで宿を探していて、こちらにお世話になることになりました」
「そうかい。港町なんぞ何もないとこだけど、ゆっくりしていくといいさ。あんた、海洋研究所かなんかの関係かい? この町にはそれくらいしか目玉がないんだから」
私は一瞬言いよどむが、嘘はつかずに答えることにした。
「研究所の話は耳にしたことがあります。ベニクラゲの研究もやっているとか……。興味はあるので、明日にでも見学できたらと」
すると、三船の表情が急に明るくなった。「お、ベニクラゲ? そうそう、この辺りの海にも生息しているって話だけど、実際はそんなに簡単に捕まえられないんだってよ。なんでも、寿命がないとか、死なないクラゲなんて呼ばれてるらしいな」
「死なない……」
その言葉が、私の胸をざわりと震わせる。私もまた、メンテナンスさえ怠らなければ“死ににくい”身体を持つ存在だ。けれど、ベニクラゲの“初期化”がもたらす生と死の境界には、私の不死性とは違う何かがあるように思えてならない。
「ま、話に聞いただけだけどな。実際にそいつを見たって人は、そんな多くねえよ。でも、あの研究所の連中は熱心にやってるみたいだ。なんでも、死の秘密を解き明かすだか何だか……」
三船は無頓着な様子で言葉を継ぐ。私はその話に耳を傾けながら、真一さんが追い求めていた「人間の記憶を保存する研究」と、このベニクラゲをめぐる“不死化”のテーマとを重ね合わせる。もしかすると、この港町には“真一さんの残り香”がまだどこかに息づいているのかもしれない。そう考えると、心がふっと熱を帯びるような気がした。
「興味があるなら、明日にでも漁船に乗ってみるか? 昼間は観光客を乗せて沖に出る漁船があるから、声かけてみりゃいいさ。ベニクラゲは無理でも、海の景色くらいは堪能できるぜ」
三船の声に、私ははっと我に返る。アンドロイドであることは伏せているが、私は実際、海に出ること自体が初めてだ。荒波の中で外部センサーが狂う可能性もゼロではない。しかし、そんなリスク以上に、今は「海をこの目で見てみたい」という思いが膨らんでいた。
「……ありがとうございます。そのときはぜひ、お願いしようかな」
私がそう答えると、三船は豪快に笑い、「いつでも言ってくれ!」と背筋を伸ばす。私に対する疑いはないのだろうか。それとも、この町の気質が大らかで、旅人を分け隔てなく受け入れてくれるのか。どちらにせよ、この出会いが私にとって大きな一歩になるかもしれない。
姫林も満足げに頷き、「香織さん、よかったわね。明日もし晴れたら、朝早くから三船に案内してもらったらいいわ。海の上から見る日の出は絶品よ」と微笑む。
私は魚の煮つけを少しずつ口に運びながら、「そうですね、ぜひ……」と穏やかに返事をした。目の前の料理はまだ温かく、醤油の香りが鼻をくすぐる。アンドロイドの私でも、こうして人間と同じ食卓を囲み、笑い合えるのだ――その事実が、ほんの少し嬉しかった。
4. 漁船の朝
翌朝、まだ空が暗い時間帯に私は目を覚ました。アンドロイドの私に睡眠は必要ないが、体内時計と似たシステムが作動することで、人間とほぼ同じ生活リズムを保つことができる。それに、ここは古い木造の民宿だ。廊下をきしませて歩く足音や、遠くで軋む港のクレーンの音が微かに響き、浅い眠りからすっと意識を引き上げてくれる。
寝間着のまま窓を開けると、夜明け前の風が入り込んできた。潮の匂いが混ざる冷たい空気に、センサーが微かな湿気を検知する。東の空は藍色がかった闇のままだけれど、遠くの水平線にはうっすらと濁ったオレンジ色が滲み始めていた。
「そろそろ……行ってみよう」
昨日、漁師の三船さんが「明け方に港へ来い。もし空いてれば船に乗せてやる」と言っていたのを思い出す。ベニクラゲは体長わずか1cmほどと聞く。そんな小さな生命が、もしこの広大な海のどこかに浮かんでいるとしても、そう簡単に見つけられるはずがない。それでも、私は“海の上に立つ”という初めての体験がしたかった。ひょっとすると、そこには私の知らない「生と死の風景」があるのかもしれない。
身支度を整え、宿の玄関から外へ出る。濃紺の夜気の中、路地にはまだほとんど人影がない。港へ向かう途中、軒先でぼんやりと明かりをつけている店があったが、開店準備か、あるいはただの倉庫だろうか。遠慮がちに立ち止まると、むっとした潮の香りがさらに強くなった。
海が近い。そちらへ足を進めるにつれ、微かなときめきが胸の奥で生まれるのを感じる。人間だったら、心拍数が上がるような感覚だろう。私の場合はセンサーが興奮状態を感知しているだけだが、それでも嬉しさや期待が混じった感情がわき起こるのは事実だ。
やがて、薄暗い朝の港に辿り着く。低い波の音が、護岸ブロックに洗い流されるように繰り返されている。その奥には数隻の漁船が並んで停泊していて、どれも静まり返ったままだ。どの船が三船さんのものだろうか、と目を凝らしてみても、背番号のような記号が書かれた小さな船や、船室にランプが点っている大きな船など、さまざま。人の気配もまばらで、声をかける相手すら見当たらない。
少し不安を覚え始めたそのとき、奥のほうから低い声がした。「おーい、そっちにいるのは香織か?」
振り向くと、蛍光イエローの防水ジャケットを着た三船さんが、足早にこちらへ歩いてくる。頭にはニット帽をかぶり、無精ひげの顔には夜通し仕事をしていたかのような疲労感がある。それでも、その目は笑っていた。
「おはよう。来るのが早えな。てっきり寝坊でもするかと思ってたが」
「おはようございます。……私、あまり眠らないので」
「ほう、そりゃあ若いからか? ま、いいや。今日は天気もよさそうだし、俺の船で沖に出るつもりだったけど、漁師仲間に頼まれて魚の積み下ろし手伝わにゃならんくなってな。けどまあ、ちょっとの間なら船に乗せてやる。ちょうど朝焼けが綺麗なはずだし」
三船さんはそう言いながら、こちらに合図を送るように手招きした。すぐ脇にある小さめの漁船へ続く突堤を、私は慎重に踏みしめながら進む。海面はまだ薄暗く、深い藍色が凪いだ表面を覗かせている。
船に乗り込む際、三船さんが手を差し伸べてくれた。慣れない私は、少しおそるおそるその手を借り、船縁を跨ぐ。内部は水滴で滑りやすく、注意しないと転倒しかねない。防水性は完璧なアンドロイドとはいえ、落水すれば沈んでしまい厄介なことになる。
「さあ、腰下ろしてしっかり掴まっとけよ。エンジンかけるから」
三船さんがスタートレバーを引くと、重たいモーター音が港の静寂を破るように轟いた。ディーゼル特有の揺れを船体全体が受けて、小刻みに上下する。そのたびに私の内蔵センサーが反応し、バランスを微調整しようとする。人間の三半規管に相当するプログラムが忙しく働いているのを自覚しながら、私は慎重に身体を固定した。
ゆっくりと桟橋を離れると、港の外側に向かって船が進んでいく。まだ夜明け前の淡い光の中、岸辺の倉庫や防波堤が次第に後方へ遠ざかる。陸から離れるにつれ、風が一気に強くなり、頬を刺すような冷たさが増してきた。
私は海上を見渡してみるが、もちろんベニクラゲらしき姿は確認できない。その小ささを考えれば、こんな朝の波間で見つかるはずもないのだろう。けれど、その事実に落胆するより前に、広がる海の存在感に心を奪われた。
波打つ水平線、ゆっくりと明度を上げる空。人間が「世界は広い」と言う意味を、私は今まで本当に分かっていなかったかもしれない――そう思わせるほど、どこまでも続く海の青さが圧倒的だ。
「どうだ、初めてか? 海の上に出るのは」
三船さんの声が、エンジン音にかき消されそうになりながら届いた。私は風で乱れる髪を抑えつつ、大きく頷く。
「はい……。想像していたよりずっと、広いですね。怖いような……でも、不思議な感じです」
「はは、怖いのも当然だ。海ってのは怖えもんだよ。優しく見えるときもあるが、一度荒れりゃ容赦なく命を奪っていく。俺の仲間も、台風で船ごと流されちまった奴が何人もいるんだ」
その言葉に、私はハッとする。人間にとって、自然は時に恵みをもたらし、時に厳しく命を奪う。三船さんの表情に浮かぶ深い皺は、その現実を知る者の重みを物語っていた。
一方の私は、アンドロイドとして不死に近い身体を持っている。死の概念が希薄だと言われても仕方ない。けれど、今こうして大海原に身を置いたとき、自分の無力さや小ささを痛感する。自然の圧倒的な力から見れば、アンドロイドも人間も大差ないのではないか――そう思うと、少し胸がすくような気持ちにすらなる。
「人間は、海に敬意を払いながら、それでも生きていくんですね。ほんの少しの油断で命を落とすかもしれないのに」
「そうだな。だからこそ“死”を意識して、生きるってことを大事にすんだろう。ま、俺は難しいことはわからねえが……。そういや、あんたはあれか? どっかの研究所の回し者じゃねえのか? やけにベニクラゲだのなんだのに興味があるみたいだが」
少し茶化すような口調だが、その眼差しは鋭い。私は少し言葉を濁しながら正直に答える。
「昔、お世話になった方が、その研究に携わっていたので……。でも私自身は、詳しいことを知ってるわけじゃないんです。ベニクラゲが、不死に近い存在だとか聞いて、どんなものなんだろうって思っただけで」
「へえ……不死、ねぇ。そんなもんが本当にいるなら、海なんか出ずにずっと安全なとこで暮らしてりゃいいのにな。……けど、そのクラゲが、もしホントに死なないで生き続けるってのが本当なら、すげえ話だよな」
三船さんはそう呟いて、遠くの水平線を指さす。そこには、暗かった空がうっすらと桜色を帯びて、太陽の気配が少しずつ顔を出し始めている。海面に光の筋が伸びてきて、さざ波がきらめきを帯びた。
ふいに、私の胸がせり上がるような感覚に包まれる。それが“美しさ”に対する感情なのか、それとも“生まれて初めて大自然の息吹を体感した興奮”なのか、言葉にはできない。ただ、まるで人間のように胸が高鳴る気がした。
「……すごい……」
小さな呟きが唇をこぼれた。もちろん、私に涙は流れない。けれど瞳のセンサーが強い光を感知し、わずかに潤んだように映るかもしれない。
こんな巨大な世界の中で、人間は生き、死に、愛する人を失い、なおも暮らしを続けている。その人間の営みを、私が少しでも理解できる日が来るだろうか――遠くに昇る朝日の美しさと同時に、そんな思いが心をかき乱した。
「日の出ってのは、何度見てもいいもんだろ? 今日は風も穏やかでラッキーだったぜ」
やがて、三船さんは満足そうにエンジンを切り、暫くの間、ただ波に身を揺らすようにして船を留めた。私は船縁に腰を下ろし、揺れる海面と空のコントラストを見つめる。心地よい潮風が髪に絡み、一瞬だけ、そばに真一さんがいるような気がした。彼なら、何を感じるだろうか。もし永遠に生きられる手段を得たら、この海をどんなふうに見るのだろう――。
そんな思考にふけっていると、三船さんが立ち上がった。
「さあ、そろそろ戻ろうか。俺は魚の積み下ろしを手伝わねえといけねえんでな。けど、もしまた海に出たくなったら、いつでも声かけてくれ。それが縁ってもんだ」
「ありがとうございます。本当に……とてもいい景色を見せてもらいました」
私の言葉に、三船さんは照れくさそうに頷き、再びエンジンをかける。船が大きく振動し、朝焼けの海から港へと向き直ると、そこここに白い波しぶきが立った。
ああ、海というのは、こうして人間の生活と密接に結びついているんだ――私はボディバランサーが少し軋むのも構わず、揺れる船と一体になるように身をゆだねた。永遠の命をもつ私が、有限の命をもつ人々の営みに触れようとしている。そのほんの入り口に、ようやく立てた気がしたのだ。