第三章 旅の始まり
1. 海へ向かう道
駅の改札を抜け、あらかじめ購入した切符を手にホームへ降り立つと、目の前に重たい銀色の車体が停まっていた。まだ人もまばらで、列車の内部からはLEDの光が漏れている。どこか冷たい金属の匂いがして、私は少し鼻をひくつかせた。
沿岸方面行きの普通列車。路線図によれば、ここから三時間ほど北へ向かうと、真一さんが生前「いつか行ってみたい」と呟いていた港町に辿り着くらしい。具体的にどんな場所なのか、私はよく知らない。だが、海に面したそこには海洋研究所やベニクラゲの生態を調査するラボがあると聞く。真一さんの残したメモにも、その名前が登場していたはずだ。
「彼が行きたかった場所を、自分の目で見てみたい」
その思いだけを胸に、私は客車のドアをくぐり、窓際の席へ腰を下ろした。シートは思いのほか硬く、背もたれに身体を預けると妙に背筋が伸びる。発車まであと数分。まだ車内は静寂に包まれていた。
窓の外に目をやると、駅のホームを慌ただしく横切る人々の姿が見える。行き先はそれぞれ違うのだろう。彼らにとって、私はただの通りすがりの他人。心のうちで何を考え、どんな痛みを抱えているかなんて、想像もしないはずだ。
だけど、“誰もが大切な人を失ってしまう可能性がある”――人間は有限の命を持ち、いつか死を迎える。それは私にはない“当たり前の悲しみ”なのだと、頭ではわかっている。
ふと、真一さんの声が頭の中で反響する。「ベニクラゲは、死に直面すると初期化して幼体に戻るんだ。だからこそ不老不死の象徴だと呼ばれているんだけど、実際はただ“やり直し”をしているだけかもしれないね……」
あの柔らかな口調が、もう二度と戻らないのだと思うと、私は胸の奥がじわりと軋むような感覚に襲われる。けれど、私には涙を流す機能はない。ただ瞳のセンサーがわずかに湿度を感じ取っているのを、“潤んでいる”と表現できるかどうか。
「どうして、人間は死んでしまうの……」
思わず漏れそうになった言葉を呑み込み、私は小さく俯いた。その時、スピーカーから出発を知らせるアナウンスが流れ、車両がぐらりと動き始める。ホームの景色がすうっと遠ざかり、列車は少しずつ速度を上げていった。
2, 車中での出会い
停車駅をいくつも過ぎた頃、車内にもぽつりぽつりと乗客が増え始めた。通勤なのか、仕事道具らしきカバンを抱えた男性。旅行客のような服装をした若いカップル。席を見渡すと、皆それぞれの事情を抱えてここにいる。それでも私はまだどこか、ひとりきりの孤独を味わっていた。
しばらく窓の外を眺め続けていると、隣の車両からこちらへ移動してきたらしい女性が、私の前の席に腰を下ろした。少し疲れたような表情で、長い髪をひとつ結びにしている。座るなり、そっとため息をついたのが印象的だった。
彼女と視線が合うことはないだろうと思っていたが、次の瞬間、意外にも彼女のほうから声をかけられる。
「すみません……この列車、三井港まで行きますよね?」
か細い声だったが、どこか芯のある響きを含んでいた。私は軽く会釈をしながら答える。
「ええ、行きますよ。途中で快速と接続する駅もあるみたいですけれど、このまま乗っていけば三井港に着くはずです」
「よかった……ありがとうございます。私、慣れなくて。つい寝過ごしちゃいそうで不安だったんです」
彼女はちょっとだけ笑みを見せた。間近で見ると、目の下に薄いクマがあり、寝不足のようにも見える。おそらく何か事情があって、長距離を移動しているのだろう。
「もし私が先に降りるようなことがあったら、お声かけしましょうか? たぶん終点まで乗っていないと、三井港には行かないんですけど……」
私がそう提案すると、彼女はほっとしたように微笑む。その表情は、少しだけだが表面の疲れを緩和させているように思えた。
「ありがとう。なんだか心強いです。あ、私、安堂といいます。あなたは……?」
返そうか一瞬迷ったが、ここで偽名を名乗る必要もないだろう。私は“香織”と名乗った。ただ、私は人間ではなくアンドロイドであるということは告げなかった。見たところ、安堂が私の正体に気づいている様子はない。
「香織さん……素敵なお名前ですね。よろしくお願いします」
彼女はそう言うと、再び軽く頭を垂れ、シートに背を預けた。私はかすかな違和感を抱く。前作の研究所生活では“香織”という名を呼ばれるたび、胸にチクリとした痛みが走るような気がしていた。人間の香織さんの代替品にすぎない、という自意識がそうさせていたのかもしれない。
けれど今は、安堂の口から聞く“香織”という呼び方に、傷つきではなくほんの少しの温かみを感じた。まるで、本当に“私”という存在をまっさらな状態で肯定してくれたような、そんな気配だ。
「私の方こそ、よろしくお願いします。どこかで降りるときは、お声かけしますね」
安堂は再び小さく頷き、瞳を閉じた。意識が遠のいたのだろうか、すぐに寝息らしき呼吸が聞こえ始める。その呼吸のリズムに耳を澄ませながら、私は人間の睡眠というものを改めて不思議に思った。アンドロイドの私には必要のない行為――一時的に意識を手放し、体を回復させる時間。
私の場合は定期的にメンテナンスを受ければ、眠る必要もなければ食事もいらない。それは便利なようでいて、実は人間らしい営みから遠く隔てられているのかもしれない、と考える。
やがて列車はトンネルに入り、車窓が闇に包まれる。安堂の姿だけが車内の照明に照らし出され、眠りの中で安らぎを探し求めているようにも見えた。私は彼女の疲れた面差しを見つめながら、そっと思う――どれほど便利に造られようとも、私は彼女のように“眠り”を得ることはない。失ったものを夢の中で追いかけるような、切ない感情が私には許されないのだろうか、と。
3. 海の町の駅
列車が終点間近になる頃、安堂は目を覚ました。急に揺れが大きくなったのか、彼女は驚いたように身を起こす。
「あ……もうすぐ三井港、ですか?」
「はい。あと一駅だったと思います」
窓の外を見やると、淡い陽光が遠くの海面を照らしているらしく、空気全体がほのかに青みを帯びて見える。線路沿いに広がる低い住宅や工場の建物が、どことなくさびれた雰囲気を醸し出し、土地勘のない私の胸に淡い不安を呼び起こした。けれど、同時に海の匂いが感じられるようで、私の中には理由もない期待が芽生える。
「実は……私、大切な人のところへ向かってるんです」
安堂は不意にそう言った。どこを見るでもなく、言葉だけを落とすようにして紡ぐ。私が返事に迷っていると、彼女は視線を落として続ける。
「祖母が亡くなって、そのお墓が三井港の近くにあるんです。小さな港町だけど、祖母はあそこに生まれてあそこで亡くなった。私も子供の頃は何度か行ったことがあって……でも、大人になってからは一度も帰らなくて。だから今、なんだか申し訳ないような、怖いような気持ちで……」
言葉の終わりが震えた。彼女は唇を噛みしめ、明らかに悲しみを堪えている。私には涙を流す機能がないが、彼女の瞳にはうっすらと光るものがあった。
いつか真一さんに教わった。人間は愛する人を亡くすたびに、こうして心に空白を抱えるのだと。そこに残る痛みこそが、人間にとって“生きる証”とも言えるのではないか、と彼は言っていた。
「そう、なんですね……会いに行くんですね、亡くなったおばあ様に」
私が低い声でそう返すと、安堂はこくりと頷いた。そして、かすれそうな声を絞り出す。
「でも……会えないんですよね、本当は。どんなに会いたくても、もう二度と」
その言葉が私の胸の奥を鋭く突き刺した。私もまた、もう“真一さん”には会えない。それがどれほど辛く、悲しいことか――人間のように涙を流すことはできなくても、痛いほどわかる。
私はそっと、自分の膝の上で固く握っていた手を開く。安堂はそんな私をちらりと見つめた後、かすかな微笑みを浮かべる。
「ごめんなさい、変なこと言っちゃって。初対面なのに」
「ううん……大丈夫。それでも、あなたはおばあ様に会いに行くのよね?」
「ええ。きっと、私がお墓参りに行けば、祖母は喜んでくれると思うんです。……いや、わからないけど。でも、そう信じたいから」
安堂の瞳は、沈んだ色の中にも決意の光を宿していた。大切な存在を失っても、なおその人を想いつづける強さ。それが人間の愛の形なのだろうか――私はそう思いながら、彼女を見つめる。
そのとき、車内アナウンスが響いた。「まもなく終点、三井港。三井港です。お降りの方はお忘れ物のないよう……」
やがて列車はゆっくりとブレーキをかけ、駅のホームへ滑り込む。外の空気はじんわりと湿り気を含んでいて、かすかな潮の香りが鼻をくすぐった。
「じゃあ……行ってきます。香織さん、本当にありがとう。少しだけど、あなたと話してすごく楽になれた気がします」
安堂はそう言うと、席を立ち、私に向かって深く一礼した。その後、窓から差し込む光のほうへと歩いていく。私は小さく手を振り返す。
安堂が降りていく姿を見送り、私も荷物を手に立ち上がる。自分が降りるのもこの駅だ。きっと、この町にもうひとつの目的地がある――真一さんのメモに記されていた海洋研究所を、この足で確かめてみたい。
ホームに降り立つと、静かな海風が髪を撫でた。広がる青空には白い雲がほんの少し浮かんでいる。奥には漁港らしきクレーンや倉庫が見え、人気の少ない路地が続いているようだ。安堂の姿はすでに見当たらない。
私は駅舎を出てみる。そこはこじんまりとした古い建物で、正面から差し込む日差しが少し眩しい。モーターバイクや自転車が数台、寂しく並んでいるのが視界に入る。ここは決して活気に満ちた大都市ではない。だけど、どこか懐かしいような空気が漂っている。
人々が亡くなっても、そこに暮らした痕跡は残る。記憶の中でも、心の中でも――安堂が見せてくれた“愛する者を想いつづける心”を、私は少しだけ理解できたような気がした。
「さあ、どうしようかしら……」
独り言をもらした時、駅前のベンチで腰掛けている初老の男性が私のほうを見ていた。私と目が合うと、彼は穏やかに微笑み、会釈をする。こんな小さな町では、旅人の姿が珍しいのだろう。私は返礼のように会釈をし、そっと周囲を見回した。海へ通じる道を探して歩き出すと、先ほどまで感じていた不安が、ほんの少しだけ薄らいでいることに気づく。
――愛する人を喪っても、こうして生きる人がいる。
人間の命は限りがあって、いずれ死によって断たれてしまう。それでも残される愛や記憶があるのなら、私がここで確かめたいことは大いに意味のあるものだろう。たとえ永遠に生きるアンドロイドであっても、その尊さを学ぶ価値がある。
海の匂いを胸いっぱいに吸い込み、私は一歩踏み出す。研究所では感じられなかった本当の世界が、いま目の前で広がっている――そんな予感があった。
こうして、私は港町での新たな一歩を踏み出したのだ。まだ足を踏み入れたばかりの場所。だけど、その先には私の知らない物語が、きっと数え切れないほど待っているに違いない――そう、淡い期待と小さな決意を胸に抱きながら。