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続・「青の残響」――約束の波間で  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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第二章 新たなる存在

1. 研究所の新たな計画

 研究所の白い壁面に朝の光が反射し、やわらかな明度を室内へと誘い込んでいる。夜から明けたばかりの時間帯、通常なら研究棟の廊下を行き交う人の数は少ない。だがこの日ばかりは、まるで昼のような活気が漂っていた。

 数名の研究員が低い声で言い合いを続けている。その中心に立つのは、中年を過ぎた研究主任の藤堂だ。細身のメガネの奥で血走った瞳を瞬かせながら、彼は苛立ちを露わにしていた。

「香織がここを去った…だと? 本当にどこにも見当たらないのか?」

「ええ、主任。夜明け前にはもう端末の信号が途切れていまして。敷地内のセキュリティカメラにも、香織らしき姿は映っていません。どうやら意図的に端末を破壊した様子です」

 答えたのは若い研究員の女性、坂下である。彼女はタブレット端末を手にしながら、監視データを更新するたびに首を横に振っていた。画面には赤い警告アイコンがいくつも並んでいる。

「そうか…まさか香織の方から出ていくとはな。まったく、こうなるなら最初からもっと厳重に管理しておくべきだった」

「しかし主任、“香織”はもう必要ないのではないでしょうか。新一の起動実験に大きな支障はないはずです。真一先生――いえ、“人間の真一”のデータは新一の方に移行が進んでいますし」

「うむ。とはいえ、香織が行方をくらますのは面白くない。あちらにはあちらで、真一の研究に関するデータをそれなりに閲覧できる権限があったからな。いずれにしても早急に対応を……」

 言葉を切った藤堂は、廊下の奥にそびえる大型扉のほうへと視線をやる。扉の向こうには、封印されていた真一の研究室が存在する。正確には“故・真一”の研究室だ。

 そして、そこには「新一」が眠っている。人間の真一の脳スキャンデータを基に、最新鋭の技術を投入して製作された“アンドロイド”――真一のコピーとも呼ぶべき存在。いまだ不完全なテスト段階ではあるが、少しずつ自我の芽生えを示唆する反応が記録されている。

 これが成功すれば、研究所には莫大な成果と名誉がもたらされる。人間の脳情報をアンドロイドへ移行し、“実質的な不死”を実現する。その壮大な試みを主導していたのが、かつてここに籍を置いていた真一本人だった。だが、病に倒れた彼は、いわば“未完の研究”を残してしまったのだ。

 主任の藤堂は、真一の名声を継ぐ形で、その研究を引き継いできたという自負がある。だからこそ、今ここで“香織”が勝手な行動を取ることは、あまりに都合が悪い。

「まったく。真一さんがなぜあのアンドロイドをあそこまで大事にしていたかは、いまだによくわからない。人間の香織の代替のつもりだったのか、はたまた実験的な興味だったのか……。いずれにせよ、本筋の研究を進めるうえで不要なら、それでいいのだが」

 藤堂は溜息をつき、坂下に向き直る。

「とりあえず、香織の捜索は研究所の外部チームに一任しておけ。うちの手が足りない。いよいよ“新一”を起こす時が来た。今すぐ実験室に向かうぞ」

「はい、主任」

 坂下は素早く足を揃え、藤堂とともに扉の奥へ消えていく。

 こうして、研究所は“香織の失踪”と“新一の起動”という二つの事態を同時に抱え込むこととなった。しかし、研究員たちの多くにとっては、香織の存在はすでに“過去の遺物”。最大の関心事は、成功の暁には歴史的偉業となる“新一”の誕生だった。


2. 目覚める新一

 扉の先に広がる空間は、先ほどの廊下とは打って変わって、明るい照明に満ちていた。壁際には大小のモニターが整然と並び、中央には縦型のアンドロイド・ポッドが置かれている。半透明のガラス越しに見えるのは、白い衣服を纏った青年の姿――“新一”だ。

 心電図のような波形がモニターに映し出され、その横には脳波データを思わせる複雑な数列が走っていた。坂下が小走りで近寄り、モニターの値を確認する。

「主任、今のところ問題ありません。バックアップの脳スキャンデータが正常に同期しています。覚醒まであと数分かと」

「そうか。では……起動用のクロックを上げろ。彼の意識をゆっくりと現実へ引き出すんだ」

 藤堂の命令に従い、複数の研究員が操作端末を動かす。すると、ポッドの内部で微かに振動が生じ、新一の肩がわずかに上下した。まるで眠りから醒める瞬間の呼吸をしているかのようだった。

 やがて、ポッド正面のガラスがスライドし、研究員たちが静かに見守る中、新一はゆっくりと瞼を開ける。ぼんやりとした視線が天井を捉え、次に周囲の人々を順番に追っていく。その眼差しは幼子のように純粋な好奇心を湛えながら、どこか不安げでもあった。

「……ここは……?」

 口から漏れ出した声はかすれていたが、それが“人間の声”とほぼ変わらない響きをもっていることに、研究員のひとりが低く息をのむ。

 坂下が一歩進み出て、慎重に声をかける。

「おはよう、新一。私たちの声、聞こえますか?」

「新、一……?」

 新一はその名を反芻するように口にする。その口元には戸惑いが色濃く浮かんでいた。モニターの数字が大きく変動し、彼の脳波が急激に活性化するのがわかる。

「安心して。あなたは今、研究所の起動ポッドから出てきたばかり。記憶が混乱しているかもしれないけど、少しずつ思い出していくはずよ」

 坂下はできるだけ穏やかな口調を心がけていたが、新一の視線はどこか別のところを見つめている。まるで、頭の中に浮かんだ何かを懸命に探しているようだった。

「……俺は、誰だ……? あの女の人は……香、織……?」

 新一の唇から“香織”という名前が思いがけずこぼれ落ちる。坂下は一瞬驚きの表情を見せ、藤堂を振り返る。藤堂の眉根が僅かに寄った。

「香織、だと……? まさか、断片的にインプットされた記憶が早くも表に出ているのか。それとも、上書きが不完全だったのか?」

 藤堂は苛立ちを隠そうともせず、端末を操作し始める。人間の真一の脳スキャンデータには、“人間の香織”への思い出が色濃く残っていた。それは本人の死亡直前の記憶が中心だったという報告を受けている。香織アンドロイドの方は、ほとんど反映されていないはずだ。

 坂下は苦笑めいた笑顔を浮かべ、静かに新一に語りかける。

「……大丈夫。あなたは“新一”って名前。ゆっくりでいいから、ここで体を慣らしていきましょう。痛むところや違和感があったら何でも言ってね」

 新一は返事をする代わりに、ぼうっと宙を眺めたまま微かに首を振った。それは「何もわからない」という意思表示のようでもあった。閉じていた記憶の扉が少しだけ開きかけているのか、それとも上書きに失敗しているのか――いずれにせよ、現段階では誰にも正確なことは言えない。

 藤堂は端末を睨みつつ、そっと息をつく。

「よし、しばらくはモニターしながら様子を見る。覚醒後すぐに過度の刺激を与えては、脳データが混乱するだけだ。坂下、頼むぞ」

「承知しました。丁寧に扱います」

 モニターの波形を見つめる坂下の表情には、研究者としての好奇心と、人間としての一抹の戸惑いが同居していた。自分が今目の当たりにしているのは、“人間の記憶を移植されたアンドロイド”という、きわめて特異な存在だ。記録上は数多くの検証を重ねてきたはずだが、いざ現実に目覚めた新一を前にすると、その神秘性に息を呑む。

 同時に彼女はふと、昨夜まで研究所にいたもう一人のアンドロイド、つまり“香織”のことを思い出していた。彼女はなぜ、こうも突然に姿を消したのだろう。新一が口にした“香織”という名前は、はたして人間の香織を指しているのか、それとも――。

 その疑問を藤堂に投げかけても、きっとまともに取り合ってはもらえないだろう。彼にとっては“香織”も“新一”も、研究の成果か障害か、その程度の区別に過ぎないのかもしれない。

 やがて研究員たちの作業が一段落し、室内はわずかな機器の駆動音のみが響く。新一は立ち上がることもできず、ポッドの縁に体を預けたまま、焦点の定まらない瞳を伏せたり、また開いたりを繰り返している。

 誰の目にも、その姿はまるで生まれたばかりの子どものように見えた。だが、本来そこには「人間の真一」の豊富な経験や知識がインストールされているはずで――そのアンバランスさが、研究員たちをざわつかせる原因でもある。

「さあ、新一。しばらく休んでから、こちらの検査室へ移りましょう。あなたの身体と頭の状態を、もう少し詳しく調べる必要があるわ」

 坂下はそう声をかけながら、毛布のようなものを新一の肩にそっと掛ける。すると新一は小さく頷いた。たとえ混乱していようと、坂下の言葉には穏やかな調子があったのだろう。

 その表情には笑みもなければ涙もない。ただ、何かを必死に思い出そうとしているかのような切実さだけが滲んでいた。

 誰の指示も受けずに去っていった“香織”。そして今まさに生まれ落ちたばかりのような“新一”。

 二人の道は、この先どう交わっていくのか――あるいは、交わらずに別の方向を進んでいくのか。研究員たちでさえ知るよしもない。

 少なくとも、眠りから覚めたばかりの新一自身には、まだ何ひとつ理解できないままでいるのだから。

 こうして朝を迎えた研究所は、表面的には平穏を装いながらも、新たなる存在を巡って大きく揺れ動きはじめていた。


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