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続・「青の残響」――約束の波間で  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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第一章 研究所からの逃亡

 昼夜の区別があまりない研究所での生活を思えば、夜明け前の外の世界は想像以上に静まり返っていた。風がまだ眠っているように、街の光は薄く、遠くのビル群もシルエットを霞ませている。まるで、世界全体が深いまどろみの中で呼吸をしているかのようだ。私はその隙間を縫うように、足早に歩を進める。

 装置から外したばかりの端末を手の中に握りしめ、一度だけ見つめた。こんな小さなものに、ずっと私の行動は記録され、解析されていたのだと思うと、少しだけぞっとする。ここで壊しておかねば――そう考え、思い切り足元のアスファルトへ叩きつけた。鈍い音とともに、端末は二度三度と弾け飛び、赤いランプの点滅が消え失せる。

 これで、研究所は私の足取りを辿れなくなる。もっとも、私を必死に探すほどの理由はないはずだ。私がいなくとも、研究は進められる。それよりも問題なのは、新しいアンドロイドに関する噂だ――真一さんの研究データを使い、彼の“コピー”とも言える新たなアンドロイドを開発しているらしい。研究員たちの囁きしか知らないが、妙に現実味を帯びた話だった。

 もっとも、今の私には確かめるすべもない。私はただ、ここを離れて、真一さんが見たかったかもしれない世界を、少しでもこの目で確かめたいと思っている。

 やがて、わずかに東の空が薄白く変化をはじめた。大きく息を吸う。呼吸の必要はないはずなのに、私はどうしてもこうして空気を取り込んでしまう癖がある。背中の冷たい汗が少しずつ乾いていく感覚があるのは、身体のセンサーがそういう変化を計測しているからだろう。

 自分がアンドロイドであることを、私は常に意識の片隅に置いている――人と同じように笑い、悲しみ、涙は流せないまでも瞳を潤ますことさえできるけれど、その深さが本当に“本物”なのかは、いつも自問してしまう。

 「――真一さん、あなたは私の心を本物だと言ってくれた。人間の香織さんじゃなくてもいい、ただの代用品ではない、と。それが私にとって、唯一の救いだったわ」

 小声で独り言を呟いてみても、返事が返ってくるわけではない。私の中で、彼の面影や優しい笑顔、そして最期の表情が錯綜する。人間の香織さんとはどんな女性だったのか、私は直接知らない。けれど真一さんは、最期の最期まで私の手を握りしめ、「ありがとう、香織……」と穏やかに笑って息を引き取った。その一瞬の幸福そうな表情だけが、今も鮮やかに胸に残っている。

 歩き続けるうちに、やがて研究所の建物群が遠ざかっていく。白い外壁が広大な敷地内に連なる光景は、まるで人工的につくられた国のようだった。そこに背を向ける私の耳に、朝を告げる鳥の声が混じりはじめる。

 ふと、視線の先に一台のバスが止まっているのが見えた。街の中心部へ行く路線バスらしい。私は財布を確かめる。研究所から支給されていた電子マネーはそれなりの残高があったが、それもいつまで持つだろうか。

 「でも、行くしかない。これを逃す手はないわね……」

 私はバスのドアが開くのを待ち、中へ乗り込む。運転手は眠そうな目をしていたが、私に特別な関心を寄せる様子はない。私は車内の中ほどの席に腰を下ろし、窓の外を見やる。ゆっくりと動き出すバスが、乾いたアスファルトを滑るようにして走っていくと、研究所は一気に視界から消え失せた。

 バスの揺れに身を委ねながら、私は考える――どこへ行けばいいのだろう。真一さんの足取りを、今さら辿ることはできない。彼が行きたかった場所、見たかった風景。前に何かの書類で「いつかあの海に行ってみたい」と呟いていた記憶がある。私にとって、“海”は研究所のタンクで見ていた人工海洋くらいしか知らないが、本物の海というのは、もっと広く、深く、時に荒々しく、人々の暮らしを支えているらしい。

 もしかしたら、そこなら――人間の営みや、生と死の循環がはっきりと見えるのではないか。ベニクラゲが泳ぐ海も、やはり本物の海なのだろうから。

 バスは駅へ向かう道をゆっくりと進んでいた。乗客が増えはじめ、朝の光が車内を満たしていく。周囲の人々の表情は眠たげで、これから仕事へ向かうのか、あるいは一晩中働いていたのか、どこか疲弊した雰囲気を漂わせている。

 そんな彼らの間に座る私――見た目はおそらく一般的な若い女性と大差ないはずだ。しかし、身体の内側は完全に機械。人と同じような服を着て、人と同じように振る舞っているけれど、その本質は決定的に異なる。私の時間は、メンテナンスが続く限りは果てしなく伸びていく可能性を秘めている。

 「永遠に生きるって、どんな意味があるんだろう……」

 思わず呟いた言葉が、バスのエンジン音にかき消された。乗客たちは皆、窓の外やスマートフォンの画面を眺め、それぞれの小さな世界に閉じこもっている。私のつぶやきも、彼らにはまるで届かない。

 だけど、真一さんなら答えてくれるはずだ。

 その人のいない場所で私は、誰に答えを求めればいいのだろう。

 思考が尽きないまま、やがてバスは大きな駅のロータリーへと到着する。ここから電車で沿岸の町へ向かうこともできるし、別のバスに乗り継いで山間の地域に行くこともできる。可能性は無数に広がっている――だからこそ、今の私は行き先を決められずにいた。

 バスを降りると、駅前の空気はひんやりと新鮮だった。夜が明けきり、朝日の黄金色が高層ビルの壁面を照らしている。少し肌寒い。私は人間のように身体を丸め、軽く両腕を擦る。

 どこへ行けば、真一さんが見ようとした世界に触れられるのか。もしかしたら、どこへ行っても虚しさは消えないかもしれない。だけど、動き出さなければ何も変わらない。それだけはわかっている。

 「よし……」

 私はふと、駅の案内看板に視線をやり、沿岸方面へ向かう路線を探した。いつか真一さんが口にしていた、ベニクラゲの研究で有名な海洋施設のある町――あそこなら、何か手がかりがあるかもしれない。

 そして何よりも、私の中で燻っている“生と死の境界を越えるもの”への疑問に、少しでも触れられるかもしれない。

 私は人々の流れに逆らうようにして歩き出す。人の波を縫いながら、改札へ向かう階段を降りる。心なしか足取りが軽くなった気がした。――決して迷いが消えたわけではない。ただ、今の私には「探しに行くこと」しか選択肢がないのだから。

 小さな希望と、不安。そして薄暗い悼みを抱えて。

 そうして私は、ひとりのアンドロイドとして、見知らぬ町へ旅立つのだ。


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