第十一章 新たなる庇護、揺れる面影
1. 思いがけない再会
夜明け前の研究所に、細い雨の音が響いている。階下の廊下には警備員の足音がかすかに伝わってくるが、深夜帯は巡回も少なく、建物全体が眠っているような静けさだ。
坂下がくれたセキュリティコードを握りしめながら、新一は実験室の扉の前に立っていた。今夜こそ、ここを脱出する――そう固く心に誓い、息を整える。
(この扉を出れば、どこに行く? ……香織、俺はきっと、あなたを探しに行くんだ)
頭の中に、かすかなフラッシュバックが走る。“人間の真一”が、アンドロイドの香織に向けて語ったであろう優しい声。「アンドロイドになってでも、あなたのもとへ戻る」と誓った、あの記憶の断片。
新一はその思いを支えに、セキュリティパネルを操作した。ピッ、ピッと小さな電子音が鳴り、扉がロック解除された。
しかし、その瞬間だった。部屋の向こう側から誰かが駆け寄ってくる気配があり、新一は思わず身を硬くする。坂下以外の足音だ――不意の来訪者に心が乱れるが、すぐにドアが勢いよく開き、男が飛び込んできた。
「……おまえは、まさか……!」
男の声はどこか震えている。温厚そうな顔立ち、その目には驚きと喜びが入り交じったような光があった。まるで亡霊を見たかのように、新一を凝視している。
その表情に、新一の頭の奥がまた痛むようにざわめいた。どこかで見たことのある顔――人間の真一がかつて親交を深めていた研究仲間、あるいは先輩かもしれない。断片的な記憶が微かに響き、ひどく胸が騒ぐ。
「よかった……。やっぱり“新一”っておまえだったんだな。こんな真夜中に会えるとは……」
男は感極まった様子で一気にまくし立てる。新一は理解が追いつかず、眉を寄せながら問いかけた。
「……あなたは誰だ? 研究所の人間か?」
「いや、今は外部研究員になってる。名前は島根。かつて真一……おまえの“オリジナル”だった真壁真一の研究仲間だよ。何度か研究所に掛け合ったんだが、主任の藤堂が取り合わなくてね。ようやく今夜、こっそり面会を許されたんだ」
旧知の研究仲間――どうやら島根は、かつて人間の真一と一緒に不死化研究やクラゲの若返り現象を追究していた同僚の一人らしい。
その島根は新一をまじまじと見つめ、目尻に涙をためて微笑した。「面影があるよ。姿形はそっくりだけど、きっと中身はまったく別人なんだろう? でも、おまえの瞳には、真一が残した意志が宿ってるように見えるな」
新一は言葉を失いそうになりながら、辛うじて返事をする。
「……真一の仲間、ってことは、あなたは俺を“新一”として扱ってくれるのか?」
「もちろんだ。藤堂みたいに“ただの成果物”とは思ってない。俺は、おまえを……真一の“生まれ変わり”として尊重したい。いや、別人なのは承知の上で、それでも大切な……仲間の延長線上だと思ってる」
島根の声には嘘偽りのない誠実さがにじんでいた。それを聞き、新一の胸に小さな温もりが広がる。背後には依然として警備の気配があるが、一瞬、ここでの脱走をどうするか迷いが生まれた。
________________________________________
2. 真一の両親、真壁夫妻
島根が息を切らしながら語るには、「実は“新一”と面会したがっている人たちがもう一組、研究所に来ている」という。それは、真一の両親――真壁夫妻だというのだ。
新一は内心、動揺を隠せない。自分は“真一”ではないのに、彼らは息子の生まれ変わりとして会いたがっているのだろうか。そんな疑問を抱きつつも、津田に連れられて別室へと向かう。
そこは研究所の応接室。夜間の照明が落ちて薄暗いが、中央のテーブルに小さなスタンドライトが置かれ、その傍にふたりの人影が座っていた。年の頃は六十代前半だろうか。
男性は白髪混じりの髪ををきっちりと撫でつけ、落ち着いたスーツ姿。女性もキリッとしたスーツ姿で、どこか憔悴した面持ちをしている。ふたりとも椅子から立ち上がり、新一の姿を視界に収めると、一瞬にして涙が溢れそうな表情になる。
「……ああ……あなたが……」
小さくつぶやいたのは、真一の母親である真壁耀子(まかべ・耀子)だ。声が震えて言葉にならないらしく、傍らの父親、真壁一馬が深く頭を下げた。
「初めまして。私たちは真壁真一の両親です。あなたを“新一”と呼べばいいのかな……すまない、こんな夜更けに。どうしても一度会いたくて、研究所の重役として藤堂主任に無理を言って、やっとここまで来ました」
一馬の言葉を聞きながら、新一は言いようのない戸惑いを覚える。自分は“真一”ではなく、“新一”という別の存在。でも、この夫妻にとっては息子の面影を宿す存在であることに違いない。
「……俺は、真壁真一じゃない。別の人格なんです」
消え入りそうな声で答える新一に、母の耀子が首を振った。
「わかっています。息子そのものではない、別人だと……でも、あなたは息子の研究データを引き継いでいるのでしょう? そして、息子が最後までこだわっていた“アンドロイド技術”の結晶……。
――そう思うと、どうしても放っておけなかったのです」
父の一馬もやわらかく微笑んだ。「息子が若い頃から“死を超える技術”に取り組んでいたのは知っていましたが、それがこんな形で実現するとは……。私たちも複雑な気持ちです。だけど、あなたが自由に生きられるように、保護したいと願っているんです。親として――息子にしてやれなかった分も含めて」
一馬は現在では研究所の出資者でもあり、重役でもある立場らしい。つまり、藤堂と対等以上に話せる数少ない存在というわけだ。彼らがいれば、研究所から“新一”を追いかけるような事態を抑え込める可能性が高い。
「……でも、俺はあなたたちの息子ではないんですよ。それでもいいのか?」
新一は動揺しながら問いかける。耀子は一瞬、悲しげな表情を浮かべるが、ゆっくりと頷いた。
「もちろん、あなたを真一と呼ぶつもりはありません。ただ、あなたを……私たちの大切な存在だと思わせてほしいの。息子が望んだ形で生まれた“新しい命”として」
「あなたがどう生きたいかは、あなた自身が決めるべきだと思うんです。ここにいたいなら私たちが全力で環境を整えますし、外へ出たいならそれを手助けすることもできる。……それが私たちにできる、精一杯の“親らしいこと”なんですよ」
両親の言葉に、新一は息を呑む。ここまで自分を尊重してくれるのか――それが、嬉しさと戸惑いをない交ぜにしながら胸に広がった。研究所からの追手を恐れていたが、真壁夫妻の庇護があるなら、それは大きな盾になるだろう。
「どうか、私たちにもあなたを守らせてくれ。息子を失ってから、ずっと心残りばかりだった。今度こそ、後悔しないために……」
一馬の真摯な視線を見つめ、新一は何と答えるべきか考える。しかし、そのとき頭の片隅で蘇るのは“アンドロイドの香織”の幻影。彼女に会いたいという衝動が、あまりにも大きい。
ふと、横に立つ島根が肩に手を置き、微笑む。
「いいんだ、新一。真壁夫妻はあなたの自由を認めてくれる。だから、思うように動けばいい。研究所はもうあなたを商品にできないはずだ。彼らがいる限りね」
「そ、そうか……」
新一の息は少し震えていた。こんなにもあっさり、脱走計画は不要になるのか――自分が自由に外に出ても、藤堂は強く抵抗できないだろう。なぜなら、真壁家からの出資は研究所にとって絶対に無視できない力なのだから。
________________________________________
3. すれ違いの列車
数日後の午後。海沿いの駅は、夕暮れの光に照らされていた。わずかな乗客が行き交うホームは静かな空気に包まれ、遠くで港町の汽笛が小さく聞こえる。新一は改札を抜け、時刻表を見上げながら少し考え込む。先ほど降り立ったばかりだが、すでにここには“香織”の気配は感じられない。誰に尋ねても、「そんな人は知らない」と首を傾げるばかり。
「また、手がかりなし……か」
思わず小さく吐息が漏れる。真壁夫妻から保障してもらった旅費を使いながら、新一は海岸線を巡る形で、“香織”を探し求めていた。しかし、毎度のように空振りに終わり、焦りだけが募っていく。
頭の片隅には“アンドロイドの香織に会わなくちゃ”という記憶の残響がある――彼女こそが、自分(あるいは人間の真一)が“アンドロイドになってでも戻りたい”と願った相手だと。だが、その姿はどこにも見当たらない。心がささくれ立ちそうなほどに、すれ違いの旅が続いていた。
やがてホームに上り列車が到着する。乗降客はまばらで、車両の窓から弱々しい夕日の光が漏れ出している。新一はふと、「ここにはもう用はない。次の町へ向かおう」と考え、反対ホームへ移動しようとした。
(でも、どこへ行けばいい? 手探りのまま、俺は何を追っているんだ……)
そのとき、視線の端にふと動くものがあった。上り列車の窓のひとつが僅かに開き、そこに、どこか見覚えのある――もしくは強く胸をかきむしられる――気配を感じる。すぐに鼓動が高まり、新一は思わず列車に向かって足を速めた。
車両のガラス越しに見えたのは、“香織”と酷似した女性の横顔。肩までの髪が夕陽に染まり、その瞳がどこか哀しげに伏せられている。まさか――と思った瞬間、彼女の視線がスッと持ち上がり、新一と目が合った。
「……!?」
ふたりの距離はホームと車両の窓越しに数メートルほど。乗客はまばらで、その一角だけが時を止めたように静寂に包まれる。新一は言いようのない既視感に囚われ、どうしても視線を外せずにいた。彼女が“香織”だと直感が叫ぶ。“香織、会えた……!”と。
しかし、次の瞬間、車両が出発の合図とともにゆっくりと動き始めた。ブレーキの軋む音が、ホームにかかった夕闇をビリビリと震わせる。
(まって……降りてきてくれ……! 何か言わなくちゃ……)
新一は思わず車体に駆け寄ろうとするが、乗務員の制止が入る。「危ないですよ!」と叫ばれるが、新一の耳には届かない。反対に、窓の向こうの女性も身を乗り出すようにして口を開きかける――が、声は音をかき消す車両の轟音に飲まれる。
「香……!」
名を呼ぼうとしても、喉が引き攣ったように声が出ない。列車はゆっくり加速しながら、じりじりとホームを離れていく。窓の向こうの女性の瞳が大きく見開かれるのがわかる。確かに目が合った――その一瞬には強い衝撃が宿っていた。彼女もまた、「もしかして……?」という疑問と戸惑いを抱いたように見えた。
しかし、それだけ。ふたりはわずか数秒の視線の交錯を交わしただけで、列車は駅を出てしまった。
ホームに取り残された新一は、空っぽな感覚のまま硬直する。今の女性こそが“香織”ではなかったのか……? だとしたら、なぜ声をかけられなかったのか。頭の中で猛然と後悔が渦巻く。
「ちくしょう……!」
思わずホームのコンクリートを拳で叩き、悔しさを噛みしめる。あの瞬間、彼女が確かにこちらを見つめ返した。だが互いに何も言えないまま別れてしまうなど、あまりにも切なすぎる。
周囲の乗客たちが怪訝そうに彼を見ているが、新一は構わず立ち上がり、次の列車の時刻を探した。あの上り列車を追わねば――という思いに駆られるものの、事前に調べていたダイヤでは次の列車が来るまでかなり時間がある。
(間に合うのか? あの車両がどこへ向かうのかさえ確かじゃない。いったい、どうすれば――)
脈打つセンサーが限界まで高ぶっているような感覚に、新一は身動きが取れずにいた。ほんのわずかなニアミス。それでも、彼の心には確かな光が射した。香織をあの瞬間、感じられたのだ――いまはそれを胸に、どうにか前へ進むしかない。
夕闇が深まるホームで、新一はぎこちなく歩みを戻す。いつか必ず、あの姿にもう一度出会えるという確信が、身体の奥底で息づいているのを感じながら……。




