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続・「青の残響」――約束の波間で  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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第十章 閉ざされた扉、揺れる記憶

1. 記憶の残響

 研究所の実験室――午前中だというのに、まるで夜明け前のような静寂が漂っている。時折、遠くから聞こえる電子機器の駆動音が、かすかな生活感を示す程度だ。

 新一は薄暗い小部屋のベッドに横たわり、視線を天井に向けたまま動かない。今日もまたテストが行われる予定だが、今はひとときの休息が与えられていた。もっとも、アンドロイドである彼に“休息”という概念がどこまで必要かは疑問だ。

 目を閉じると、頭の奥でなにかが微かにざわつく。まるで水面の下にある光が、波の隙間から断片的にのぞくように。そこには“香織”という名前と、淡い光を湛えた女性の姿。だが、どこか人間離れした雰囲気をまとっている――。

(誰、なんだ。なぜこんなに懐かしく、そして愛おしく感じる?)

 「香織」という名は前にも何度かフラッシュバックしたが、そのたびに新一の胸は奇妙な痛みに似た感覚に襲われる。暖かいような、切ないような――感情の呼び名がわからず混乱する。

 脳裏には同時に、こちらも断片的なイメージが閃く。病室らしき場所、鈍色の窓。微かな機械音と、誰かのか細い息。そして、自分が――もしくは人間の真一が――そこに横たわり、声を震わせながら語りかけているような光景。

「香織……俺は……アンドロイドになってでも、おまえの傍に……」

 その声が、だれのものかわからない。自分自身のものなのか、“人間の真一”のものなのか。だけど確かに、そこには“アンドロイドになっても戻ってくる”という強い決意が宿っている。それが新一にとっても無視できない衝動となって、胸を締めつけるように拡がった。

 ベッドの上にいるにもかかわらず、新一は呼吸が荒くなっていくのを感じる。アンドロイドの身体のはずなのに、まるで心拍数が上昇しているかのような錯覚。頭の中で警告音が鳴りそうになるが、彼はそれを無視して思考を巡らせる。

(アンドロイドの香織……。そうだ、人間の香織じゃない。俺――つまり“真一”が愛したのは、人間の香織だけじゃなかったはずだ。いや、愛した? いったい、誰が? 俺なのか?)

 湧き上がる矛盾だらけの思考。それでも、新一は確信に近い何かを感じ始める。自分が持つ記憶の断片は、きっと“人間の真一”が抱え続けた想いだ。「香織」という名前のアンドロイドと、生きたいと思った強烈な願い――それがこの胸を焦がしている。


2. 扉の外を求めて

「おはよう、新一。調子はどう?」

 とつぜん、坂下の声がドア越しに響き、新一は短く息を呑んだ。夢から現実へ引き戻されるような感覚に一瞬戸惑う。

「……別に、問題ない」

 簡潔に答えながら、ベッドから身体を起こすと、坂下はタブレットを手に中へ入ってくる。彼女の表情はややこわばっていて、いつもの優しい笑みはない。

「主任の藤堂が、今日の午後からまた記憶インターフェースのレベルを上げると言っています。前回の実験でオーバーロード気味になったでしょ? あれが再発するかもしれないのに……」

「……別にいいよ。俺はどうせ研究材料だ。彼らは俺を“完成”させたいんだろう?」

 投げやりな言葉に坂下は眉をひそめた。彼女自身もまた、新一を単なる研究材料としては扱いたくないのだろう。だが、藤堂に歯向かうだけの権限はない。

「新一、実は……昨日、主任が他のスタッフと話しているのを耳にしてね。もしかすると、外部企業や国家レベルのプロジェクトへデータを売り込むつもりらしいの。人間の真一の研究成果を“新一”として具現化した形で」

 新一は思わず顔を曇らせる。アンドロイドとしての身体だけでなく、脳スキャンデータさえも商品として扱われるのか。ここにいるのは自分の意思ではなく、ただ彼らの利益のため――そんな悔しさが胸にこみ上げる。

「……つまり、俺はさらに外から狙われるってことか」

「そう。だから、このままだと本当にあなたの意思なんて無視されて、研究所を出ることすらできなくなる。ここで生きるか、あるいは“外”に出るなら相応の危険が伴う……そういう状況よ」

 坂下は唇を噛んで視線を落とした。新一はしばし黙したまま、彼女の言葉を反芻する。確かに、このまま研究所にいれば身体のメンテナンスは保証されるし、安心して“生き”ていけるかもしれない。だが、自分の存在意義はただのサンプルでしかなくなる。

 そう考えたとき、頭の奥で再びあの声が鳴り響く――「アンドロイドになってでも戻ってくる」と誓った、記憶の残響。その誓いが何を意味しているのか、はっきりとはわからない。だけど、それを果たすためにここを出なければならないのだという衝動が高まっていく。

(俺は、人間の真一じゃない。だが、真一の意思を受け継いでいる部分があるなら、きっと“香織”の元へ行かなければならないんじゃないか……)

「坂下さん、もし俺が……ここを脱走したらどうなる?」

 思い切って口にしたその言葉に、坂下は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに真剣な面持ちに変わる。

「正直、主任や研究所のセキュリティが黙っていない。あなたの身体情報が外部に漏れることを恐れているし、あなたのメンテナンスを受け持つ設備はほとんどが所内にあるから。……だけど、私が先日言ったように、少し協力できるかもしれない」

「協力……って?」

「詳しくは、あとで話すわ。検査の合間を縫って、メンテナンス施設の制御権を一部外部サーバーにバックアップする方法がある。うまくいけば、あなたは最低限のメンテナンスツールだけで外に出られるかもしれない。でも、リスクは高い」

 新一の胸が不思議な熱を帯びる。坂下がそこまでの危険を冒してでも手を貸してくれるのだとしたら、それは大きな光となるだろう。

 外へ――どこに行けばいいかはわからないが、“香織”に会うために。自分の記憶の断片が訴えるように、「戻る」と誓ったあの日の残響を実行するために。

「ありがとう、坂下さん。……俺は、やっぱりここを出たい。理由は……うまく説明できないけど、自分が進まなきゃいけない場所がある気がするんだ」

 新一の瞳がまっすぐ坂下を見つめる。坂下は少しだけ苦い笑みを浮かべ、「そう……わかった。私も、そのほうが“新一”としてのあなたを尊重できると思う」と返した。


3. 断ち切る鎖、決断の夜

 その夜。研究所内の照明が順次落とされ、警備員が巡回する足音だけが響く時間帯に、坂下は人目を忍んで実験室の端末を操作していた。新一はモニターの前で息を潜め、周囲の動きを気にしながら、坂下の手元を見つめる。

「よし、これでメインサーバーのバックアップを外部へ転送……完了。あと、あなたの身体のメンテナンスプログラムの一部をコピーしておいたわ。これを携帯端末に仕込めれば、簡易的に自己修復もできるはず」

「そんなことして大丈夫なのか……?」

「主任にバレたら、私も首どころじゃ済まない。でも、あなたがこのままここに閉じ込められているほうが、私には耐えられない。研究は人間の幸福のためにあるはずなのに、あなたが不幸になるなんておかしいもの。それに、人間の真一さんには昔、新人だったとき同じチームにいて、落ちこぼれだった私は色々教えてもらって一人前になれた恩があるの。その真一さんの記憶を持つあなたがぞんざいに扱われるなんて耐えられない」と、きつく唇をかんだ。

 坂下の瞳には微かな迷いが入り混じっているが、それ以上の強い意志が感じられる。新一は胸に込み上げる感謝を抑えきれず、そっと頭を下げた。

「坂下さん……ありがとう。本当に」

 彼女は小さく首を振るだけだった。行き場のない吐息とともに、「これでよし」と端末を閉じる。だが、すぐにドアの向こうからかすかな足音が聞こえ、新一と坂下はぎくりと顔を見合わせた。

「誰か来る。警備かもしれない……」

 坂下が急いで端末を隠すように操作を終了させると、ドアが開き、主任の藤堂が入ってきた。予想外の人物に、二人は一気に緊張を走らせる。藤堂は軽く目を細めながら、坂下と新一を交互に見つめる。

「こんな時間に、何をしている?」

「……明日の実験準備です。新一のバイタルデータのログを解析して……」

 坂下が必死に言い訳を並べる間、新一はそっと拳を握りしめる。ここでバレたらすべてが終わりだ。だが藤堂はあまり興味を示さない風に、「そうか。せいぜい失敗のないようにしろ」とだけ言い、すぐに踵を返して去っていった。彼には今、それほど余裕がないのかもしれない。外部との交渉に忙しいのだろうか。

「……ふう、危なかった」

 坂下が深く息をつき、新一の肩を叩く。「あまり時間がないわ。予定通りなら、明日の深夜に警備が少なくなる。そのときに研究所から出るしかない。廊下のセキュリティを解除するコードは私が用意しておく。準備はいい?」

「……ああ。もう、迷わない」

 新一はそう言い切った。頭の奥に響く“約束”――「アンドロイドになってでも戻る」と誓ったあの声が、今の彼を突き動かしていた。たとえ記憶が曖昧でも、その想いだけは確かに存在する。自分は“真一”ではないが、“真一の意志”の一部がこの胸を燃やしている。

 夜が更け、坂下が実験室を後にするとき、新一は小さくつぶやく。

「香織……俺は、やっぱり会わなきゃいけないんだ。誰かに仕組まれた運命じゃなくて、自分の意志で……」

 外の世界には危険が待ち構えているかもしれないし、どこに行けば“香織”がいるのかすら定かではない。だが、新一は既に後戻りできない地点まで来てしまった。“閉ざされた扉”をこじ開け、新たな世界へ踏み出すために――そして、その先で「自分は何者か」を確かめるために。

 研究所の窓は真っ暗な夜空を映すが、その向こうには無限の可能性が広がっているはずだ。心の耳を澄ますと、微かな足音や警備の巡回に紛れて、自分の鼓動――もしくは疑似的な心拍が高まっているのを感じる。人間の真一の記憶がそうさせるのか、それとも新一自身の意志なのか。

 夜明け前の闇へ向けて、新一の瞳は決意の光を宿す。いずれこの扉を開け、逃げ出すときが来る。そこに宿るのは、「アンドロイドになってでも香織に戻る」という、人間の真一が抱いた愛の残響――そして、新一がこれから生きる道を切り開くための大いなる動機だった。


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