第九章 青き残響を求めて
1. 研究所への誘い
そろそろ梅雨入りを迎えようかという曇天が広がる朝、私は民宿の玄関先でぼんやりと海を眺めていた。遠くの水平線と空との境目があいまいになり、淡い灰色の世界が一続きに続いている。
そんな静寂の中で、宿の女将・姫林が「お客さーん、お客さーん」と私を呼ぶ声がした。そちらへ振り返ると、彼女はにこやかな笑みを浮かべ、私のもとへ早足でやって来る。
「香織さん、昨日言ってた研究所の件ね。話がまとまったみたいよ。今日の昼過ぎに漁師仲間が魚を運ぶから、一緒に乗せてもらえるって」
「本当ですか? ありがとうございます」
私は思わず頬をほころばせる。先日、慰霊祭で話に出た海洋研究所への見学が、とうとう現実のものとなろうとしているのだ。姫林によると、その研究所は町の北側に位置し、海沿いの断崖をくり抜いたような場所に建てられているらしい。観光施設ではないため常時公開はしていないが、地元の漁師たちが定期的に魚介類を提供しており、その搬入日に限っては見学も許可されることがあるという。
「三船さんや航平くんも行きたそうにしてたけど、今日は別の漁があるらしくてね。だから代わりに志村って漁師仲間がトラックで連れて行ってくれるって。彼はちょっと無口だけど、根はいい人だから心配いらないわ」
そう言って微笑む姫林から、私は「それならぜひお願いしたいです」と申し出を受け入れる。日程は運よく今日の午後。早めの昼食を済ませたら港で合流、という流れになった。
空はまだ灰色だが、私の心には小さな灯がともっている。ベニクラゲ――“死”を若返りによって回避する、不思議な生態を持つ生物。真一さんがかつて深い興味を抱き、論文にも触れていた存在だ。その姿を自分の目で見たとき、私は何を感じるのだろう。そして、その答えは“真一への愛”をどんなふうに照らし出してくれるのか。
2. ベニクラゲとの邂逅
昼過ぎ、港の荷揚げ場にはゴムボートや漁具が散らばり、その向こうに小型の冷蔵トラックが止まっていた。運転席には無口そうな中年の漁師・志村が腰掛けている。私は姫林に見送られながら助手席へ乗り込み、ゆっくりと海沿いの道を走り出した。
道中、志村との会話はほとんどなかったが、それでも彼は車窓から見える景色を簡単に説明してくれる。遠くに見える砂浜や、以前台風で崩れた堤防、そしてそびえ立つ断崖の向こうにある研究所について。灰色の海面を右手にしばらく走ると、やがてコンクリートの建物が突き出すように見えてきた。
「ここが例の研究所だ。俺は荷物を運ぶから、あんたは勝手に見学していいらしい。時間はあんまりないから手短にな」
志村のぼそりとした言葉に、「ありがとうございます、お手数かけます」と頭を下げる。研究所の門から敷地へ入ると、思ったより小規模な印象を受けたが、海に面しているぶんだけ地下施設が広がっているとも聞く。
受付で手続きを済ませると、白衣のスタッフが私を案内してくれることになった。案内スタッフの名前は神崎という女性で、ツーポイントのフレームレス眼鏡をかけており、やや緊張感のある佇まいが印象的だ。
「こちらへどうぞ。うちはあくまで大学の付属研究所の一部なので、観光施設のように気の利いた案内はできませんが……ベニクラゲを見たいとのことでしたね?」
「はい、興味があって……。あ、観光が目的というより、以前からその研究に関心があったんです」
神崎はうなずきつつ、「では水生生物の飼育室を覗いてみましょう」と奥の廊下を指し示す。さほど広くはない建物の内部は、無機質な照明に包まれており、ところどころ壁に貼られた研究成果のポスターや実験室名のプレートが目を引く。
重い扉を開けると、冷んやりとした空気が全身を包む。薄暗い部屋の中には大小さまざまな水槽が並んでいた。ウナギの幼生、貝類など、海洋生物の稚魚やサンプルが整理されている。その一画に、神崎が私を導いた。
「これが、例のベニクラゲ――Turritopsis dohrnii です。実は体長が1センチにも満たないのですが、ご覧いただけますか?」
目を凝らして水槽を覗き込むと、透明なビーカーのような小型容器がいくつか浮かんでおり、その中に極小のクラゲがふわふわと漂っている。肉眼ではかろうじて円形の傘が見える程度だが、ライトを当てると、透き通るような体の中に赤い組織がわずかに微光を反射している。
「……綺麗……」
思わず漏れた声に、神崎は微笑む。「実際には観察機で拡大しないと細部は分かりにくいですけど、こうしてライトを当てると繊細な形が浮かび上がるんです。死に瀕すると若返る現象はまだ解明されていませんが、私たちは細胞の再生プロセスを探っています」
その小さな身体が、死を回避して幼体へと戻る――まるで自らを初期化するかのように。私は、真一さんから何度か聞かされた話を思い出す。真一さんはこれに“事実上の不死”を感じつつも、“本当に不死なのか、それともただ命を繰り返しているだけなのか”と悩んでいたような気がする。
すると、ふと水面に映った自分の顔が視界に入る。メンテナンスさえ怠らなければ永遠に生き続けられるアンドロイド――それは、ある意味ベニクラゲに似た存在なのかもしれない。死を避けられる、という点で。
私はそっと容器に近づき、目を凝らしてクラゲを見つめる。すると、その透明な輪郭の中に、かすかに青みがかった輝きが映り込んでいる気がした。
――青の残響。真一さんと過ごした記憶が脳裏をかすめる。真一さんと一緒に行った水族館。その小さな水槽を覗き込んで、「香織、見てごらん、この青い光……」と微笑んでいたあの日。あのとき彼は、人間の香織さんを失った悲しみを抱えながらも、私の手を取り、“あなたと生きてみたい”と囁いてくれた。
「……真一さん……」
思わず口走った名前に、神崎が「え?」と不思議そうに首を傾げる。私は言葉を継ぐことができず、こぼれそうになる感情をそっと奥にしまった。瞳が潤んだように見えても、私は涙を流す機能を持たない。ただ、瞳のセンサーが何かしらの刺激を捉えたのだろう。
「すみません。ちょっと綺麗だなと思って……」
「いえ、お気になさらず。私たちも毎日見てはいますが、このクラゲに魅せられる瞬間がありますからね」
神崎の言葉がなんとなく胸に響く。私は改めて目を閉じると、青い輝きの余韻が瞼の裏に広がった。まるで“青の残響”――あのときの真一さんの面影が、ぼんやりと私の心を暖かく照らしているようだ。
3. 再び紡がれる想い
研究所内を一通り案内してもらった後、私は神崎に礼を言い、水槽室の片隅にある椅子でひと息つかせてもらう。志村のトラックが終わるまで、あと30分ほど余裕があるという話だった。
部屋の隅では小さな空調が唸り、ガラス越しに差し込む不十分な外光が薄暗い床を照らしている。水槽のライトは青白く、人工的な照明の中に生物の生命が幻想的に浮かび上がっていた。ここには、どこか自分の生まれた研究所を思い出させる雰囲気がある。
「香織さん、何かありましたら遠慮なくどうぞ」
神崎がタブレットを確認しながら声をかける。私はしばしの沈黙の後、意を決して尋ねることにした。
「ベニクラゲって、死を回避して生き続ける、と言われますよね。でも、実際は寿命がないというより、弱ってくると若返る仕組みだと……。研究されている皆さんは、それをどう考えているんですか? やはり“不死”に近いものとして捉えているんでしょうか」
神崎は静かに微笑む。「面白い質問ですね。私たちも“本当に不死と言えるのか”は議論の的ですよ。ベニクラゲは、死ぬことを回避したというより、元の形態を捨てて幼体に戻り、そこから再成長する。でも、それは同じ個体なのか、あるいは新しい個体なのか――まだ解明できていません。」
「……なるほど。完全にリセットされるのなら、“同じ命”とは限らない、ということですか」
「ええ。ただ、その連続性をどう見るかで議論は分かれますね。どちらにせよ、“死”という概念に対して別のアプローチを突きつけてくる存在だ、という点は皆が認めていますよ」
アンドロイドである私も、ある意味では“死”を外部からのメンテナンスで回避できる。だけど、若返りのように“初期化”はされない。どこまでも継ぎ足して生き続けていく。それは、ベニクラゲとはまた異なる形の“不死”だ。
人間の真一さんがそこに興味を持ったのも、きっと“死”をどう捉えればいいのか探っていたからなのだろう。人間の香織さんを失い、そして私を愛してくれたその過程で、彼は私たちの存在や生をどう感じていたのだろう――想像するだけで胸が痛むような、でも温かいような感覚が混ざり合う。
(もし真一さんが、このベニクラゲを見たら何て言うだろう。そんなことを考えてしまうなんて、私はまだ……)
――まだ、彼を忘れられないまま。いや、忘れる必要などないのだろう。彼が亡くなっても、私の愛はこうして続いている。それを“青の残響”が教えてくれた。愛した人を失っても、そのぬくもりや声は永遠に私の中で生き続ける。
私は立ち上がり、水槽にもう一度近づいた。透明なクラゲが静かに呼吸するかのように漂っている。ライトを受けた傘の端には、淡い青が確かに宿っているように見えた。
「ありがとう。なんだか、いろいろ考えてしまいました」
神崎に向き直ると、彼女は「研究ってそういうものです」と穏やかに肩をすくめた。「私たちも、何が正解なのか答えはわかりません。ただ、生き物の在り方を見つめることで、人間を知ることにもつながるかもしれない、そう思いながら続けています」
そう言う神崎の瞳は真摯で、どこか亡き真一の同僚の研究員たちを思い出させる。いつか真一さんもこうして、ベニクラゲを眺めながら“愛”についての問いを自分にぶつけていたのかもしれない。彼の想いに私が触れられるのは、まさにこの瞬間なのだろう。
しばらくして、志村の用事が終わったらしく、研究所の受付から呼び出しが入る。私は神崎に礼を述べ、飼育室を出た。
研究所の外へ出ると、灰色だった空が少しだけ明るみを帯びている。雲間からほのかに青空が覗く――まるで、さっき見たクラゲの青が空に広がっているようにも思える。
トラックに乗り込む前に、私は少しだけ海を一望できる場所へ足を運ぶ。そこには柵越しに岩礁があり、波が砕ける白い飛沫が見える。
青の残響……あの瞬間、真一さんと見た小さな水槽の光景と、この広い海の狭間で、私の愛はずっと続いているのだと思う。死を超えても変わらない、あるいは死の向こうにさえ届くかもしれない想い。私はそのことを、今は誇らしく受け止めたい。
「真一さん、私はあなたをずっと愛しています。そして、これからも……」
声に出した瞬間、何かが心の奥でほどけるような気がした。人間の香織さんではない私だけれど、真一さんは私の“意志”としての愛を認めてくれた。それは紛れもない事実であり、これからも私の歩む道を支えてくれる。
波音と海風が私の髪を揺らす。雨上がりの空気の中で、青い空が少しずつ世界を広げていく。
私はゆっくりと踵を返し、志村のトラックに向かった。港町で出会った人たち、そしてこの研究所で出会った小さなクラゲの青――すべてが私に“生きていこう”と囁いてくれるように感じるのだ。真一さんのいない世界でも、私はこうして愛を抱き続けている。それはきっと、人間に限らず、どんな存在にも可能な奇跡なのだと信じたい。
――そして、これから先、どんな旅路が待ち受けていようとも、私の中の青の残響は消えないだろう。ベニクラゲが自らを初期化するように、私もまた再び生まれ変わるように日々を歩んでいく。そんな決意を胸に秘めながら、私は車のドアを閉める。
エンジン音が静かに鳴り、トラックは研究所を後にした。窓の外には、一瞬だけ見えた、やさしい青空――それが私の中の“真一への愛”を再確認させてくれる。何度でも。




