一話 『おはよう世界。今日私は死にます』★★★
4月1日福岡県○○市某所。日差しが立ち上るこの日。春先にしては温度が高く自転車を漕いでいる体には照り付ける日差しが辛く、シャツには汗ばみが浮かび上がりつつある。
この男倉井洛錬はこの春休みを終えると高校二年生となる。最も体力がある年頃であるはずなのだが朝家を出発してから殆ど休むことなく自転車を漕ぎ続けていたせいか肉体は悲鳴を上げている。が、もう少しで目的の場所にたどり着くことができるため最後の力を振り絞り、ペダルにかけた足を次々に回し続ける。
しばらく漕ぎ続けた先には『○○ダムへようこそ』というここが何なのかを示す門があった。そう彼の目的はこのダムへ来ることだった。すぐそばにある看板からダムが山の奥底にあることが分かる。そこに向かうため自転車から降り、近くの駐輪場に自転車を止め、ポケットに入っている財布とスマホを自転車のカゴに投げ入れ何も持ち物を持たないまま裸一貫で山登りを始める。
自転車を漕いでいる間はあれほど足が壊れそうだったが今はもう痛みはどこかに消えており、軽快な足で目的の場所に向かうことができた。眼前にある多くの人間の手によって作られた自然を操るその装置は今日もその力を遺憾なく発揮し、今も変わらず水を放出し続けている。その目いっぱいに広がるサイズ感と力強さから声にならない感嘆が込み上がると同時に申し訳なさを感じる。
それはなぜか
―――俺は今日ここで死ぬからだ。
17歳の身には持て余すほどの心理的負荷を負ってしまった洛錬はその運命を断ち切るためにその行動をとることを決めた。
頭の中を洛錬をここまで追い詰める原因となった人物の顔が頭をよぎる。その人物は戸籍上及び遺伝子上洛錬の『姉』を名乗る人のようなナニカ。そいつのせいで家族はバラバラとなり親は俺のことを見てくれない。洛錬は自分の右手に目線が向く。
思い出されるつい1週間前の出来事。
「ああああああーーー!!!!!!死んでやる!!死んでもいいの!!ねえ!ねえ!!!あああーーー!!!!!!違うって言ってるでしょ!!!!!何で言った通り動いてくれないの!!!!!!もうそうじゃないって言ってるじゃん!!!!ねえ!!!」
耳に残る女の金切り声。床をドンドンと何度も何度も繰り返し踏み続け5歳児のように癇癪を起こす。右手には包丁を下に向けて持っており振ることは無いにしても相当危ない。
「やめなさい!」
制止させようとする母親。
「やめろよ........」
―死ぬ勇気もない癖に暴れんなよ。
洛錬の拳がが思わず女の肩に目掛け放たれ、青い痣を残す。
「何やってるのよ!!洛錬!謝りなさい!」
母親は洛錬からして見当違いの叱責を飛ばす。
「キャーーー!!!暴力!暴力よ!!!殴って来た!!!こいつ弟のくせに殴って来た!!!!ああああああああああ!!!!!!!!!」
「何で何でいつも俺ばっかり.......」
その顔を思い出すだけで胸は締め付けられ瞳孔は開き、頭の中を巡る血液を感じてしまうほど。唇を噛みその痛みから胸に感じる苦しさを忘れようとするがただどちらも痛いだけだった。
これ以上苦しむ位ならば自分で自分の人生にけりを付けよう。そう家を出るときに誓ったその気持ちはこの場所に来ても変わらない。
震える手で柵に手をかける。足は震え呼吸は荒くなるが不思議と頭の中に恐怖心は無い。深呼吸を繰り返し行いながら一つ一つの動作を確実に行う。柵の向こう側には足の置き場が足全体の半分にも満たない程しかなく、少し手が滑るだけでもう向こうの世界に行くことができる。柵にお尻が乗った頃それ以上体が動こうとしない。荒かった呼吸は更に荒さを増しいつの間にか嗚咽へと変わる。
何で俺がこんなことを。あいつのせいだ。何で。どうして。でも俺は。俺に救いはもうどこにもない。救いを。誰か、誰かもう死ぬしかない。死ぬしか。誰かあいつを殺して。いやもう俺を殺してくれ。殺して。殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して
―助けて
「そこの兄ちゃん死にそうな顔しているなぁ」
擦れがかった男の人の声。思いつめていた洛錬の思考の中に一石投じられることによって意識から体までの全てが声の主の方に向かう。
いつ現れたのか。一つのことに頭が囚われていたからだろうか。自分の前に現れるまでその存在に気づかなかった。
目の前にいる人物はボロボロのローブを着ており、顔はフードに隠れていて見えそうにない。が、手に水分が無く乾燥していることからかなり年を取っている人物であることが見て分かる。
「えっと何か用ですか」
「何か用、用か~そうだな。そういえばそんなこともあったな~」
そう一人でボソボソと話す男。
「なあ兄ちゃん。ここじゃないどこかに逃げたいと思ったことはないか?」
「ありますけど、、それが何か」
突然言い出したかと思えば訳の分からない言葉が耳の中を反芻する。
『ここじゃないどこか』
今まさに自分が向かおうとしていた所だ。
「行きたいのなら私が連れて行ってあげよう。ほら手を出して」
「へっ?」
言われた通り手を差し出すと手の平に何か渡される。体に伝わってくるのは金属の冷たさ。日光に反射しその輝きを見事なものとするそれは小さく輪っかの形をした『指輪』のようなもの。結婚指輪などで見るただのリング状のものであり変な装飾はどこにも見受けられない。
「これは指輪ですか?」
「そうそう。左手に付けてみて」
言われた通り左手の人差し指に指輪を付けようとする。不思議なことに指輪はスルスルと指を通り特に詰まることもなく指にはまった。
「良いかいもし君がまだ『人間でいたい』と思うならその指輪の力を使いこなすんだ。具体的には指を擦り合わせる、いわば『指パッチン』をして、、おおっと時間だ」
男が何かに対して焦ったような声で話す。この指輪が何なのか、この人物が何者なのか疑問に思ったことを聞こうとしたが彼の話の勢いが質問をすることを許してくれない。
「じゃあまたね」
「あ、あの」
ドンと鈍い音が鳴ったような気がした。瞬間体は柵の向こう側に投げ出され、体を切るような風は服を大きく揺らし視界は上から下へと下っている。目の前の人物によって突き飛ばされたのだ。さらに体に対して発生する重力がこの世に居続けることのできるタイムリミットを物語っている。下にダムによって放流された水があるがこの高さから落ちれば一たまりもない。それはそうだ。死ぬために適切な場所を選びこの場所にやってきたのだから落ちれば死ぬに決まっている。思考は普段と比べ物にならないほど回っているが助かる方法は見つかりそうにない。
―――助かる?俺は助かりたいのか?本当は死ぬためにここに来たからこのままでも良いんじゃないか。いやそうじゃない助けてほしかったんだ。そう、誰かに俺の人生を変えてくれる誰かに助けて欲しかったんだ。
『指パッチン』
先ほどの老人が言っていた言葉。その言葉が頭の中に浮かんでくる。だがあの老人が適当なことを話すただの頭のねじが外れた人物であればただ地面に叩きつけられるだけで一たまりもない。それでもそれでも助かるのならと左手の親指と中指を目いっぱい擦り合わせ、『パチン』といったはずみのいい音が鳴った。
流れる水の音にかき消されてしまうほど情けない大きさの音であったがこれから始まる彼の冒険を告げる鐘の音としては申し分ないものであった。