契約婚なのだから契約を守るべきでしたわ、旦那様。
「やっと三年だな。子が出来なかったとして君とは離縁する」
「離縁は構いませんけれど、慰謝料を追加で頂きますわよ。
婚姻続行の場合は待遇の改善及び慰謝料となります」
久しぶりに――具体的には三年振りに顔を合わせた妻、アンネリーナからの言葉に、ダニエルは面食らった。
三年前には慰謝料は持参金全額とその半額分ということで話がついていたはずだ。今になって追加の慰謝料とはどういう話なのか。
その困惑が顔に出ていたのだろう。
アンネリーナは己の纏う質素なワンピースの布地を摘まむ。
「あなたが露骨にわたくしを蔑ろにするものだから、使用人たちもそのように扱ってきました。
ドレスはもう在庫がございません。ぞんざいに扱われて着られなくなりましたのよ。
それで急ぎ実家から連れてきていたメイドにありあわせの金銭で買ってきてもらったのが今着ているワンピースですわね。平民の少し豊かな層が買う既製品ですわ」
「……そう、か。それならばドレス代を」
「装飾品は盗まれ、靴もぼろぼろ。そもそもわたくしには新しいドレスを買うかどうかも聞きませんでしたわね?
わたくしの実家の伯爵家では季節ごとに母は新しいドレスを何着も仕立てておりましたわよ。侯爵家ではその余裕もございませんの?」
ダニエルは沈黙する他ない。
女性の衣類事情など知らない。
しかし、男性とて買い替えくらいはする。
それを新妻であるアンネリーナには聞かず、その費用が発生していないのも見ない振りをしたのは事実である。
それを責められれば沈黙するよりない。
「食事とてそうですわね。愛人――いえ、恋人でしたかしら?その方とだけ召し上がりたいから、わたくしは部屋でということでしたけれど。
一日一度しか食事は届かず、それも使用人の賄いが僅かばかりに運ばれてくるのみでしたわ。
わたくしのメイドが厨房に忍び込んでパンを確保してくれなければ、もっと困窮しておりました」
更にアンネリーナは、恋人であるリンダから嫌がらせを受けていたことも語る。それが余計使用人たちからの迫害につながり、元々態度の悪かった彼ら彼女らは部屋の清掃や入浴用の湯の調達さえしなくなった。
故にアンネリーナの暮らしは実家から連れてきたメイド三人に支えられており、彼女らの賃金とて実家が負担しているのでダニエルの家からはほぼ支えられていなかったことになる。
そういった事情を鑑みた上で追加の慰謝料を要求する、ということだ。
「ここへ来る前に家族と撮影した映写機の写真を見れば一目瞭然なのですが、わたくしずいぶん痩せましたわ。
体調も思わしくありませんの。医者も呼んでもらえませんでしたから離縁となったら実家に戻って医者にかかるつもりでしたの。
ですので、本日ただいまを持ちまして実家に戻らせていただきますわね」
促すまでもなくメイドたちが準備していたトランクを抱えて背後に立つ。
彼女の私物はそんなに少ないのか、とダニエルは愕然とした。
追いすがることも許さず、アンネリーナは出ていった。
屋敷にいる間にちょちょいと手続きをしてお互いにキレイに別れるつもりが、当てが外れてしまった。
というより、まさか使用人たちや恋人のリンダがアンネリーナに辛く当たっていたなど思いもしなかったのだ。
戸籍上の、とはいえど、妻であることに違いはない。
それを完全に蔑ろにしたとなれば大金が出ていくことになるのは予想できた。
アンネリーナは完全にビジネスとして三年を過ごしたに過ぎない。
ならば使用人に虚偽の証言をさせてなんとかうまいこと丸め込む、というのは通用しないだろうと、さすがにダニエルでも予想できる。
彼女は結婚当日、式が終わって自宅に移動した後――両親も領地へ戻るため出発した昼過ぎ頃に白い結婚による離婚を相談した時でさえ冷静だった。
決して体を重ねないこと、貴族女性として最低限の生活を保障すること、アンネリーナの再婚のためにも汚点となるような噂を流さないことを書面として契約したのだ。
思えばそこから彼女はこういった事になると予想していたように感じられる。
しかし悪いのはダニエルである。
体を重ねないという約束は守ったが、それ以外が怪しい、どころか一つは確実に違えている。
しかもだ、もしかするとアンネリーナを置いてリンダとのみ夜会などの場に出ていたことは汚点になり得る。
アンネリーナの解釈次第だが、しかし今更ながら客観的に考えると、夜会に夫婦で出ないのはまずかった。露骨に不仲を強調したようなものだし、リンダと再婚しようものなら元々そのつもりで仮初の婚姻を結んで捨てたという悪評がつく。
事実ではあるのだが、表立って噂となればリンダの評価もダニエルの評価もまとめて落ちる。
本当に今更だが、アンネリーナを伴って夜会に出るか、いっそ潔く夜会を我慢するべきだった。
そんな風に頭を抱えて過ごすダニエルのもとに、アンネリーナからの委任状と慰謝料の詳細を抱えた弁護士が訪ねてきたのは七日後のことだった。
「この度、奥方との離縁の話し合いにおいて全権を委任されましたイアンと申します。
こちら、委任状となります。ご確認ください」
いかにも司法に通じたようなその男性から差し出された委任状を確認し、返却する。
「まず慰謝料の額をお伝えします。
持参金の金貨五百枚とその半額の二百五十枚は確定となります。
こちらは婚姻当日に交わした契約書に準拠しております。
そして追加の慰謝料ですが、こちらは契約に反した行いの清算と盗難被害の清算として金貨五千枚の請求となります」
「ごっ……!?」
「三年間に渡る契約違反。それによる使用人ぐるみでの虐待。
アンネリーナ夫人は健康を損ないましたし、貴族夫人としての尊厳も踏みにじられた状態にあると判断しました。
同様の例で考えますと金貨一万枚に達することもございますが、今回の契約違反では三千枚と換算いたしました。
残り二千枚は装飾品及び衣類の盗難及び損壊に関する慰謝料となります」
金貨一千枚ともなれば、家としての年収一年分にも該当する。
利益ではない。収入である。
この要求を聞いて、アンネリーナの怒りが深いのはよくわかった。分かってしまった。
「侯爵家との婚姻とのことで、資産と収入を計算した上で計算を行っております。
領地の切り売りをなさらずとも、現在ある資産を切り崩し、その充当もあなたの代が倹約すれば行える範囲の額に収まっていると判断されました」
弁護士イアンは淡々と語り、資料となる計算関係の書類を机へと置く。
ダニエルは恐る恐るで手に取り、その計算が間違っていないことを知る。
アンネリーナとイアンが推測した通りで、金貨五千枚は大枚だが支払えなくはないのだ。
しかも、確かにダニエルの代で充当し終わる。
その期間は決して短くはない。二十年は掛かるだろう。その上、その間は蓄財が難しくなる。何かあった時には借金をする可能性もある。
しかし、それでアンネリーナが納得してくれるのなら、と、ダニエルも判断せざるを得ない。
「分かりました、支払います」
「承諾ありがとうございます。
ではこちらが離縁の書類です。それでこちらが銀行の振込依頼書です。
離縁の書類は当方が持ち帰って奥方の確認を頂き、振り込みの確認ができ次第提出の運びとなります。
振込依頼書に関しましてはご自身が確認、サインなさってから銀行にお持ちください。そのまま受付に提出いただけます。
繰り返しになりますが、慰謝料の振込が終わり次第離縁となりますので、あまり振込までに時間を置かないことをお勧めいたします」
仕事は終わりとばかりにイアンは仄かに笑んだ。
静かに離縁届にサインし、返したところでイアンはすっと立ち上がる。
「ではお時間ありがとうございました」
颯爽と立ち去る弁護士の背中を見送り、ダニエルはふー……と息を吐いた。
「平和に終わったと思っておいでかしらね」
「さすがにそれは太平楽が過ぎるわねぇ」
母子は屋内でお茶をしながらほのぼのと語り合っていた。
アンネリーナは痩せた体を少しずつ健康にするためもあり、母親よりも少し多く茶菓子を準備されている。
「つつがなく愛人様と再婚できるだなんてまだ考えておられるのかしらねぇ」
「そうじゃないかしら?でないと、離縁届にサインなんて出来ないわよ。
社交界でのご自身の評判を知っていたらアンネリーナに縋り付いていたと思うわぁ」
「あら、縋り付かれても振り払って出ていきましたわよ?
生まれて初めて「ひもじい」とはどういうものか知ったのがあの家なのですもの」
母親である夫人は娘を悲し気に見る。
伯爵家令嬢であったアンネリーナには今まで衣食住で不自由をさせたことがない。
それが嫁いだ先で三年間も厳しい暮らしを送ったというのだから彼女自身も怒り心頭だ。
なので母親は娘が出戻り、離縁が確定するまでの一月ほどという短い期間で参加した社交の場で、結婚生活の全容を涙ながらに語って広めてしまった。
口止めに関してはアンネリーナが社交の場で語らないという一点のみである。
家族に話すことは契約に入っていない。
その家族が社交の場で話すのは契約の範囲外なのだ。
その効果はあらたかで、口の軽い夫人がたがその時不在だった夫人がたにその話を広めてまたその夫人が、と連鎖していっているところだ。
「わたくし、しばらくは痩せたままがよろしいのかもしれませんわね」
「あら。そうなると、次の結婚に差し支えてよ?」
「と、言いましても嫁ぎ先はあるのかしら……」
ほう、とアンネリーナは頬に手を添えてため息を吐く。
しかし夫人は涼やかに笑む。
「ほんの五歳ほど年上だけれど、奥方を亡くして独り身に戻ったお方がいらっしゃるから心配しないでちょうだい。
この方そのものに瑕疵はないし、打診してみたのだけれど相性がよければというお返事いただいてるわ」
「前妻の方を想っておられるのではなくて?」
「それがねえ、家格の問題で解消もできなかったそうよ?
だから気持ちはないけれど大事には扱っていたと伺ってるわ。
亡くなられた原因も元々病弱だったからという話だし。
これは裏取りも済んでいるから確かな話ね」
夫人はきちんと調査もした上でアンネリーナのきちんとした結婚を整えようとしてくれている。
一度目は政略を重んじた夫のせいで口出しが難しかったが、それで失敗したのだからという負い目から今度は完全に夫人が手綱を握っているのだ。
男性目線と女性目線で良物件というものは違ってくる。
また、貴族当主としての目線と、夫人であり母親の目線も違う。
一度は政略を果たしたのだから、二度も政略である必要がないというのもある。
アンネリーナは焼き菓子を摘まみ上げ、柔らかなバターの味を楽しむ。
あの家での三年間で、バターの味も忘却の彼方となってしまったから、仄かに使われるだけでも滋養を感じられて美味だ。
療養食が終わったのが先週のことで、それからは普通に食事をしているが、あの家での冷え切った食事とは比べるべくもない。
そんな、菓子を心底から楽しむ娘の様子を慈母の如き眼差しで見つめていた夫人は、そっと微笑んだ。
「どちらにせよ、母はあなたの幸福を最大限に応援していてよ。
国内がダメでも国外に目を向ければ良縁はいくらでも転がっているもの。それにまだあなたは花の盛りなのだから自信をお持ちなさい?」
結局。ダニエルは先代となる両親に全てが露呈して厳しい叱責を受けることになった。
その上で弟夫妻に当主の座を奪われ、家を除籍という扱いになった。
本来、家を除籍し出されるとなればいくらかは手切れ金を持たされるところだが、アンネリーナとの離縁のための慰謝料がそれに該当するとして手切れ金は渡されなかった。
ただし私物を現金化はしてくれたので、少しばかりは金銭が手元にある状態ではある。
リンダも同じくで、実家の子爵家から除籍された上で追放された。
彼女は私物の現金化さえなく、まさしく無一文で着の身着のまま追い出された形だ。
そこまで厳しかった理由として、よもや定められた婚姻に割り込んでいたとは思っておらず、子爵家はただの放蕩だと思わされていたからである。
元々リンダは真面目な令嬢ではなかった。
故に、どこぞの遊び相手の家を渡り歩いているものと思っており、そのうちどこぞで落ち着くだろうと判断されていたのだ。
婚姻を考えなくてはならない年齢に差し掛かれば、その手管で純情な青年でも捕まえて嫁ぐと考えていただけに、とてつもない醜聞の元となった彼女を家に置いておくわけにもいかず、また置いておく義理もないと判断したのである。
ダニエルはリンダとすれ違いになり、子爵家からはリンダを追放したのは三日前になると聞かされ王都中を探した。
しかし、ダニエルが予想もしていないところにリンダはいた。
二十歳間近になっても愛らしい容貌だったリンダは人さらいに遭い、場末の娼館に売り飛ばされていたのだ。
そもそも純潔でなかったリンダは安く買いたたかれた。
しかし貴族として整えられた容姿は人気となり、連日開店から閉店まで途切れなく客を迎える羽目になる。
彼女が娼館から出られるのは、年季が終わるか、あるいは彼女を買い取る人間が現れるか、どちらかまで。
出られたとして、娼館での売り上げは雀の涙ほどしか渡されないだろうことは想像に難くない。
そして、ダニエルは。
商売をしたくとも資金は足りず、かと言って労働は探すのが難しい。
元貴族だが悪行により除籍されて追放されたという情報はデスクワーク系の勤め先には速やかに知れ渡ってしまった。
故に残されているのは肉体労働のみなのだが、本人がそれに気付くまでにずいぶんかかった。
気付くまでの間にずいぶん手持ちの金銭を使い込んでしまい、しかもやっとありついた仕事は一日で音を上げた。
やってられっかと酒を飲んで酔っ払ったダニエルは、その安い店がどんな店か知らなかった。
安い店の客層など知れているし、店主や店員も多少のこと――店内での殺人行為だの、店に対する攻撃行為でなければ銀貨一枚も握らせれば黙ってくれる。
故に、酔い潰れたダニエルは安価で回転率のいい男娼のみが所属する娼館に連行されたわけだ。
リンダと同じく整った容姿で若い男ともなれば客は山ほど来る。
その娼館の主はダニエルの情報を掴んで以来、彼をさらう機会を待っていたというわけだ。
こうなればダニエルもリンダと同じ。薄暗い将来と、過酷な現在を背負って生きていく他ない。
さて、アンネリーナはと言えば。
夫人に紹介された男性と見合いをし、文句もないということで嫁いでいった。その後は情熱こそ燃え上がることはなかったが平凡な幸せを手に入れて平凡に暮らした。
ダニエルも、リンダは妾としてアンネリーナとは円満な夫婦関係を築く努力をしていれば不幸にはならなかった。リンダもそうだ。
結局のところ、最初の最初から間違えていたのだから、こうなるのは必然だった。
その後、アンネリーナは勿論のこと、夫人でさえダニエルとリンダのことはかけらも思い出すことはなかった。