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第八話

 少女は何も覚えていなかった。

 ものの食べ方、名前。自分がなぜここにいるのか、ここはどこなのか、今まで何をしていたのか、何一つ解らない。

 試しにあれはなんだと空を指さして見たところ、「あおくておおきいの」という答えが返ってきた。

 ジンは思わず頭を抱えたが、しかし同時に一つの疑問を持った。

 それは言葉である。

 ジンが使っているのは大陸語であり、最も広く使われている言葉だと、彼にそれを教えた者から聞いていた。世界には様々な言葉があり、それを使う様々な種族がいる、と。同じ言葉でも訛りの違いによって、それを用いる者がどの地方の出身かもある程度解るのだと、そう聞いていた。

 ジンが知っているのは大陸語だけだし、複数の訛りについて教えられた事もない。だから少女の言葉からはほとんど情報を得られなかった。だが彼が違和感を抱いたのは少女の話す言葉ではなく、その話し方である。

 まるで子供のようだと、ジンはそう思った。

 一応会話になってはいるが、ほとんど語彙を持っておらず、ジンが言った単語をオウム返しに口にする事が多い。

 いや。

 言葉だけではない。

 真っ直ぐなその青い瞳は無邪気としか呼べないものだったし、身体の動きもひどく危なっかしい。良く転び、その度に目に涙をにじませている。ジンは最初、ただ単にそそっかしいだけで、子供っぽいのは性分なのだろうと、そう考えていた。だが一日が終わる頃にはその考えを疑い始め、二日三日と共に過ごすうちに、やがて一つの確信を抱いた。

 こいつは死ぬ。

 放っておけば間違いなく死ぬ、と。そう思った。

 ここは森である。

 安全で豊かな町の中ならともなく、保証されたものなど何一つない、過酷な世界である。気を抜けば死ぬし、例え気を抜かなくとも死ぬ。どれだけ経験を積み、感覚を磨こうが、確実な生など手に入れることは出来ない。

 ジンだってそうだ。

 優秀な狩人として生きている彼だって、死の息吹をすぐ側に感じている。今でこそ毎日食事にありつけているが、昔は絶えず空腹だった。何かを口に入れられるのは十日に一回という事だってざらにあった。食あたりで腹が痛くなり、何日も動けなくなった事だってある。死にかけた回数を数えたことはないが、きっと両手の指でも足りない。その度に生き延びてこられたのは、日頃培った体力と、薬草などの知識、そして何より運である。それを強く自覚しているからこそ、ジンは生きる上で最大限の努力をしながら、しかしそれに過信する事なく、常に死ぬ覚悟をしている。ジンが特別なのではない、森に生きるもの全てがそうなのだ。

 しかし、この少女は違う。

 何の覚悟も持っていないばかりか、自分が誰かすら解らず、全ての拠り所となる記憶を失っている。危険を危険と理解できず、うっかり足を踏み入れて取り返しのつかない状況に陥ってしまう。

 生まれたての赤ん坊だ。

 安全な巣から落ちた鳥の雛のような、母親と兄弟の姿を見失った猪の子供のような、ひどく弱い存在。それらは容易く他の獣に食われ、その糧とされる。惨いとは決して言えない。当たり前のことなのだ、それは。良くも悪くもない、ただ弱いやつが生き残れないというだけ。それは森だろうと街だろうと変わりはしない。この世界に真理と呼ばれるものがあるとすれば、それがきっと真理だ。

 ジンはそれを既に受け入れている。

 人に教えられたからでも、衝撃的な出来事があったわけでもない。森で生きてきた十何年の時間が、それをジンの心と身体に刻みつけたのだ。だから彼は、巣から落ちた雛も、母親とはぐれた猪の子供も、一切の容赦なく捕まえて食べる。弱者を嘲ることなく、自分の行いに胸を痛ませることもなく、ただ己の血肉とする。今までそうして来たし、これからもそうして行く。生きるためにたくさん奪っていく。

 そして、少女は弱者だった。

 間違いなく弱い存在だった。

 ジンは最悪の状況にでもならない限り人間など食べたりしないが、他の獣は彼とは違う。二足歩行する人間は大きく見えるのでほとんどの獣は手を出さないが、大型の獣や、群れた獣たちは人を怖れたりはしない。森は豊かではあっても、全ての生き物たちを賄う事は出来ない。人を襲える獣たちの大部分は常に腹を空かせている。もし彼らの前に、柔らかそうな肉を持った少女が現れれば、彼らはあっという間にその無力な獲物を、鋭い牙と爪で骨まで喰らい尽くすだろう。ジンが放り出せば、少女はきっと一日生きている事すら出来ないはずだった。自分が生きるだけで精一杯のジンは、そうするべきだった。余裕など、ほとんどありはしないのだから。

 だが彼はそうしなかった。

 そうしていない。

 それどころか、少女を放り出すかどうか、自問自答する事すらなかった。少女が弱い存在だと知った瞬間から、彼は少女の世話をしようと決めていた。

 頭で考えた事ではない。

 感情的な、衝動的な何かが、彼をそう思わせた。

 無邪気なその横顔を見つめながら、彼はただ、静かに決意を固めた。

 

 生きる術を教え、生き残る力を与えよう。

 一人で生きる事が出来るようになるまで、ずっと一緒にいてやろう。

 それまでは何としてでも守る。

 自分の命を賭けてでも。


 その時。

 彼の瞳に、一つの変化が現れた。

 光だ。

 黒く鋭かっただけの瞳の奥に、一点の光が生じた。

 小さなそれはすぐに消えてしまいそうなほど儚かった。だが同時に、生まれたての命の炎のような、過酷な世界に立ち向かう力強い意志に満ちていた。

 きっと、そうだ。

 ジンという少年は今まさに。


 二つ目の生を手に入れたのだ。

 



  

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