第七話
皿を二枚並べるのは久しぶりだと思いつつ、ジンは食事の支度を続けた。
そしてそれが終わったとき、家の外でぼうっと空を見上げていたその背中に声をかけた。
「おい。飯だぞ」
「―――ん、え?」
こちらを振り返ったまん丸な瞳が、見上げる空と全く同じ色をしていて、ジンは何となく苦笑を浮かべた。
「飯の支度が出来たんだよ。食わないのか、お前」
「めし……めし?」
「猪の肉の燻製だ。後は山菜。文句があるなら食わなくても良いが」
何やら思うところがあるのかと思い、そう言ったのだが、少女は邪気のない顔で首を傾げるだけだった。が、やがて頷きが一つ。
「よくわからないけど、わかった」
家の中に入っていく。
ジンは訳がわからず訝しげな顔をしたが、肩をすくめると、ほこりを被っていた椅子を部屋の隅から持ってきた。それを綺麗にした後、テーブルの元まで運び、その上に腰を下ろした。
「ほら。お前はそっちに座れ」
「うん」
「それじゃ、食べるか」
ジンはいつものように、短い黙礼をし、フォークを手に取ると食事を開始した。しばらく黙々と口と手を動かしていたが、テーブルの向こう側に座る少女がじっと自分を見ているだけなのに気づいた。
「どうした? 気に入らないのか?」
テーブルに並べられたそれらは、料理と呼ぶほどの手間はかけられていない。ジンは森にあるもので自給自足しているため、調味料だの何だのは手に入れられない。煮たり焼いたりはするが、味付けはせいぜい薬草などが主であり、彼が日々口にする食事は決して美味とは呼べなかった。
目の前の猪の肉も、薬草で幾分緩和してあるが、その匂いはやはりきつかった。ジンはもちろん慣れっこだったし、味よりも量を優先する人間だったので、何とも思わなかった。
だが自分とは違い、少女にとっては抵抗があるのかも知れないと、彼はそう考えたのだが。
「うん?」
きょとんとしたその顔を見て、どうやらそうではないらしいと思い直した。
彼はフォークをテーブルに置き、頭をかいた。
「あー、あれか。昔聞いたことがあるが……ひょっとしてお前、人に食べさせてもらう生活をしてきたのか?」
貴族と呼ばれる存在について、ジンは聞かされた事があった。何でも、食事から風呂から、ありとあらゆる全ての事を使用人と呼ばれる者達にやらせ、自分達はほとんど何もしないらしい。ジンはその話を聞いたとき、それをとても気持ちの悪い事だと考えた。そして今、全ての事を自分の手でやっている彼には、貴族とはあまりにも想像がつかない存在だった。
少女もそうなのか、と。彼はそう尋ねた。
しかし。
「ちがう」
首を横に振られる。
ジンはため息をつき、じゃあ具合でも悪いのかと、そう尋ねようとした。しかし、突然部屋の中に鳴り響いたその音に、驚いた顔をした。
それは少女の腹の音だった。
「うわ。なんだろ、これ」
彼よりも驚いた顔をした少女は、空腹を主張する自分の腹をさすっていた。
それを見たジンは、ひどい痛みに襲われたのように、手で額を抑えた。
「……腹減ってんだろ。何で食べないかは知らんが、そのままだと動けなくなるぞ。まあ、お前の自由だろうが」
感情を込めず淡々と呟いた。
そしてこれで話は終わりだと言わんばかりに、フォークを再び手に取り、山菜を口に運ぼうとしたが。
「たべる? それってどうするの?」
引きつった笑顔を浮かべ、フォークをテーブルに戻した。
苛立たしげに、人差し指でトントンとテーブルを叩き始めた。
「手に取る、口に入れる、かみ砕く、飲み込む、終わり。解ったか、解ったよなもちろん」
「てにとる、くちくだく、おわりこむ!」
「手に取るしか合ってないぞ、こら。口砕いたら確かに終わりだろうな、ああ! でも終わり込むってどうするんだ、終わり込むってよ!」
「うん?」
「――――っ! く、お前……俺を怒らせて楽しいのか」
「むね! むね!」
「それは怖いものを相手にした時の話だ!」
噛み付くように叫び返した後、ジンはひどく疲れた顔になった。
それまでの激しさとは打って変わって、乾いた声で喋り始めた。
「……なあ、お前」
「なに?」
「ひょっとして、今まで食事をした事がないのか……?」
「うん。ないよ」
「……そうか」
ジンは否定を期待したのだが、返ってきたのは頷きだった。一瞬色々と言いかけたが、ため息をつくことで全てを放棄し、彼はフォークを手に取ると虚ろな瞳で説明し始めた。
「まずはフォークを手に取る」
「これ?」
「そうだ。そして食べたいもの……まあ、何でも良い。取りあえず山菜にしよう。これをフォークで突き刺す」
「つきさすっ!」
「良いぞ、その調子だ。そして自分の皿まで落とさずに運んできて、必要な量だけを……まずは少しで良い。口に入れる」
「うもっ!」
「そして噛む。歯でこう、すり潰すようにして小さくするんだ。出来るか?」
「うふっ!」
「……噛んでる途中に喋ると、俺みたいな被害者が出るから、止めろ。すり潰している間は口を開くな。首を振るなり、頷くなりして答えろ」
顔に付着した湿った葉っぱを拭いながら、こくこくと頷く少女を見つめた。
「ある程度小さくなったら飲み込む。こう、ごくんと喉を動かせ。解るか?」
少女は少しばかり大げさな動きで、それを飲み干した。
ジンはため息をついた。
しかし、少女が期待に満ちた目で自分を見ているのに気づくと、訳がわからずに首を傾げた。しかしやがて一つの推測を思い浮かべ、おずおずと口を開いた。
「良くできた……?」
半信半疑のジンの目に飛び込んできたのは、満面の笑顔だった。
「うん! できた!」
頬を紅潮させ、嬉しげに頷く少女の姿に、ジンは結局、微笑みを浮かべた。
どこまで本気か解らないが、少なくとも悪いやつじゃないらしい、と。
静かにそう思った。
そして、自分が目の前の少女の名を知らない事に気づき、自分が名乗っていなかった事も同時に思い出した。
何となく姿勢を正すと、ジンは口を開いた。
「俺はジンだ。名字はない、ただのジンだ。お前の名前は何だ?」
にこにこ笑っていた少女は、その問いに首を傾げた。食事をしたことがないと言った時と似たその顔に、ジンは嫌な予感を覚えながら苦笑いを浮かべた。
「おい、まさか名前も知らないなんて事はないよな?」
「ジン!」
「それは俺の名前だ。お前のだ、お前の名前は何なんだ?」
「なまえ……?」
少女は真面目な顔で考え込んだ。
傾げた首が肩にくっつき、このままだと床に落ちてしまうんじゃないかと心配しかけた頃、ようやく少女はジンと目を合わせ、口を開いた。
「なまえ、しらない!」
ジンはテーブルに突っ伏した。