エピローグ
男は闇を睨んでいる。
照明の光に照らされ、部屋の片隅に追いやられた小さな闇を、無表情に睨み付けている。瞬きすらしない。重大な使命であるかのように、男は闇を睨む事に没頭していた。
「天主様。あのお方がおいでになりました」
突如、声が響く。
男に対する呼びかけである。しかし男は闇から目を逸らさぬまま、表情を変えず、出来の悪い人形のように口だけを動かした。
「そうか。いつものところで待たせておけ。すぐに行く」
「御意」
声が去り、静寂が満ちる。
いや。
その部屋の中に、静寂が入る余地はない。何しろ男がいる部屋は、扉や窓というような、外界と中とを行き来するためのものはなく、どこを向いても壁しか存在しない。密閉された箱。その中に存在するものと言えば、男と男が座る椅子、その前に鎮座する机、机の上に置かれたいくつかの筆記具と照明、後は光と闇くらいのものだった。故に静寂は訪れる事もなく、去る事もない。箱の中は常に停止しており、不変を余すところなく体現していた。
箱同様、男もまた、変化を知らぬ存在だった。
「……あの男、か」
闇をまた一つ。
その口から吐き出した。
「信用が出来ない男だ。腹の底が見えない……いや、その表層すらうかがい知ることが出来ぬとは。あれは誠に人間か……」
吐き出された闇は光から逃げ、そして部屋の隅の同族の元まで行き着いた。そこで男の視線に串刺しにされる。
「……あの男は私以上にあれの事を知っている。その思惑は私の遥か先を行っている……神であるこの私よりも。利用しているつもりだが、どうにも踊らされているような気がしてならない」
二つ三つと、男は闇を吐き出し続ける。
部屋の片隅で大きくなる闇を、にらみ続ける。
「関係を断ち切るべきだ。殺すべきだ――――だが、あの男なしでは状況を変える事は出来ない。むしろ魔界の連中に先を越されてしまう……それに、やつが寄こしてくる隷王の力は捨てがたい。上手く使えば多くの問題を一度に片づける事が出来る……だが、それにしてもあの男は何を考えているのか。どういうつもりで私の元までやってくるのか………」
男は口を閉じ、奥歯を噛みしめた。
喉から腕を伸ばしてくる、殊更に大きなその闇を、必死で磨り潰そうしていた。だが、闇の力は強く、男の口を無理矢理開かせた。
「――――放浪者め。一体何を考えているのだ…………」
男の口から勢いよく飛び出したそれは、光を一瞬で飲み干した。
そして闇だけがただ、静かに箱を満たした。