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第五十一話

 暗い藪の中。

 遠くに虹色の光が僅かに見えるその場所で、身を低く構え、じっと合図を待ち続けるエドガーの心は、その身体を覆う静寂とは正反対に、ざわざわと騒がしい音を立てていた。

 緊張ではない。

 確かに彼がこれから為すべき事は、無茶を通り越して無謀と呼ばれる類の、ほとんど自殺行為に近いそれである。しかし彼は生来の負けず嫌いであり、その手の状況ではむしろ、精神は高揚し肉体は熱く躍動する。かつてないほどの困難を前にした彼は、緊張を抱くどころか、合図が来るその時をまだかまだかと待ち続けているくらいだった。

 彼が見据えているのが現実であり、焦がれているのがその後に訪れる未来であるとするならば、彼の心を波立たせるのはまさしく過去に違いなかった。それもついさっきと呼べるほど近い、その過去である。


     × × × × ×


 少年の苦笑を見やる。

「―――待て。待ってくれ」

 傍らに立つ女が制止を放つ。

 身体を操られているため、自分よりも一歩前に出たその表情を捉えることは出来ないが、その泡立つ気配、動揺が色濃いその声から、予想は容易くつく。

 きっと女は、寝起きに頬をはたかれたような、そんな顔をしていたに違いない。

「君の言ってる事が良く解らない。彼女自身にどうにかさせる? ディプロスの源衝動を抑える必要がないとは、どういう事だ?」

「そのままの意味だ」

 説明するのも面倒だという風な顔をして、少年はやれやれと首を振った。

「衝動だかなんだか知らないが、それはあんたや俺が手を出すべき話じゃない。手を出したところで、何も変わらない。それだけの話だろ」

「何を言ってるんだ、彼女は我を忘れて己の力に振り回されて―――」

「そこが既に間違ってるんだよ、あんたは」

「……何?」

 浅いため息を一つ。

 眠たげな瞳、しかし芯のある黒い瞳が、女をじっと見上げた。

「あいつは別に我を忘れちゃいない。力に翻弄されてるわけじゃないさ。あいつを振り回してるものがあるとすれば、それはあいつ自身を置いて他にはいない。あいつは正気だよ」

「……解らないな。彼女を見てもいないのに、どうしてそう言い切れる?」

 少年は女の問いに鼻を鳴らす。

「確かに今は――ここ最近は、あいつの顔を見ていないがな、俺はずっとあいつを見てきたんだよ。まあ、正直一緒にいる間は横目で見ているような感じだったけど。今の俺なら、それが解る。あいつはずっと、思い悩んでいた―――ずっと我慢していたんだ」

 少年はそう言って、その黒い瞳を遠くに向ける。僅かに虹色を帯びた夜空―――少女の頭上に広がるその空へと、視線を向けた。

 そして笑った。

「我慢するのを止めたんだ。自分をさらけ出しただけだ。だったら俺がやるべきなのは、馬鹿なことは止めろと、そう諭す事じゃない」

 視線が空から外れ、女を射貫く。

 自分に向けられたわけでもないのに、思わず背筋がぞっと震えた。

 高密度の意志。

 少年の放つそれは、如何なる剣よりも鋭く、如何なる盾よりも強靱だった。

「全部受け止めてやる。あいつの思いを全部吐き出させた上で、俺の思いをぶつけてやる。理性を取り戻させるだの、本能を静めるだの、生ぬるい事言ってんじゃねえよ。これは戦争だ。己と己をぶつけ合う、殺し合いだ」

 少年は立ち上がったわけではない。だが、見上げているその視線は、見下ろすものへと変化した。

「――――殺す覚悟も殺される覚悟もないやつが、口出しすんじゃねえよ。とっとと元いた場所に帰りやがれ」

 目の前に線が引かれたのを、確かに感じた。

 境界線。

 少年と自分達の間に生まれた――いや、いつからか存在したものが今浮き彫りにされただけなのだ。少年と自分の間に存在するそれは、透明な壁のようなものだ。無意識に越えることが出来ないだろう壁だ。壁は問いを放っている。

 ―――覚悟はあるか、と。

 その問いに頷く事が出来るものだけが、その壁を越えていける。少年の傍らに立ち、同じものを見つめることが出来る。ここからでは壁が邪魔をしてどうしても歪んでしまうそれを、真っ直ぐに見つめる事が出来る。

 境界線は――問いはもう一つ。胸の内にもある。

 果たして自分は少年と同じものを見たいのか、だ。ここからでは輪郭すらもあやふやなそれを、追い求めたいと本当に願っているのか。もしかしたらこの壁を越えれば、それ以外のものを追えなくなるかも知れない。その危険を理解した上で、一歩前に踏み出すことが出来るのか。

 ……解らない。

 感じられるのは原因不明の焦燥と、その問いに肯定も否定も返せない自分に対する苛立ち。自分の中を覗いてみれば、そこに何かがあるのは見えるのだが、それはひどく曖昧で、姿を捉える事が出来ない。

 焦りと苛立ちだけが色を増す。

 支配権を奪われた身体では、歯がみする事も拳を握りしめる事も出来ない。真っ直ぐなその黒い瞳を、物言わず睨みつけることしか、今の自分に出来る事はなかった。

「君の話は解ったが」

 女が、剣を振り下ろすように声を放つ。

「確かに私に君ほどの覚悟はないかも知れない。私はディプロスの情報は持っていても〝彼女〟の事は知らない。彼女を救おうという考えも、結局は私に与えられた使命でしかないからね―――だが」

 深い吐息が一つ。

 肺にたまった重い空気と共に吐き出されたのは、一体何だったのか。続く女の声には一本芯が通っていた。

「私は使命を重んじる。彼女を死なせるつもりはない。思いを受け止めると言う君がもし、彼女の命を脅かすような行動を取るのであれば――――――私は君を殺すよ」

 突然、少年の首筋に赤い線が生じた。

 斜めに薄く切り裂かれた肌から、ぷくりと血の滴が盛り上がる。すぐに滴は細い川となり、少年の首を滑り落ちていった。

「貴様―――」

 少年の傍らに立つ悪魔が、どす黒い感情をその身から溢れさせる。何か言おうとしたのか、あるいは攻撃を加えようとしたのか、身体をぴくりと動かした。が、少年が手を掲げてそれを制すると、悪魔は女を鋭く睨み付けるに留め、強ばっていた身体から力を抜いた。だがそれも僅か。むしろいつでも飛びかかれるように、獣が四肢を緩ませているようにも見える。

 空気は張り詰めていた。

 音を鳴らすのも、身じろぎするのも躊躇われる、ちくちくと肌を刺す緊張が、自分の身体を―――その場の全ての者の身体を覆っているのが解った。

 しかし少年は、まるでそれを感じていないかのように、すいっと音もなく立ち上がった。

 血の跡の残る己の首を気にかけもせず、その黒い瞳で女を見た。

 怒りも怖れも。

 そこには映り込んでいなかった。

「お前は俺を殺せない」

「なぜ? 言っておくが、私がその気になればこの場の全ての者の命を奪う事が出来る。死に気づかぬほどの一瞬で、だ」

「だがお前はその気にはならない。確かに選択肢の一つとしては存在するだろうが、お前は自分の目的を達成する上で、それを選ぶ事は出来ない。お前自身が一番良く解っているからだ。自分がこの場で出来る事が、ほとんどないって事を……な」

 沈黙が訪れる。

 だがすぐに、それは元いた場所に帰っていった。辺りにたゆたっていた緊張を引き連れ、女の中へと帰って行った。

 はあ、と軽いため息が響く。

 それを漏らした女は、己の首の後ろを何度か指で掻いた後、その口を開いた。

「まあ………残念だが、それは正解だ。私はここじゃどう足掻いたって脇役だ。私の中には与えられたものしか入っていない。彼女を見る事も出来なければ、彼女に見てもらう事も出来ないのだからね……しかし、良く解ったな」

 賞賛を軽く含んだ女の言葉に、少年は軽く肩をすくめて見せた。

「あんたの言葉はどれもこれも、何かを伺ってばかりだったからな。誰にやらせるか探っていたんだろう?」

「なるほど……少々受動的過ぎたか。しかし君、任せろと胸を叩く以上、勝率は高いんだろうね?」

「さあな。出た結果が全てだろうよ」

「にべもないなあ……」

 女はやれやれと首を振り、右の人差し指をひゅんと動かした。

 一瞬で少年の首から血の跡が消える。その首筋にはもう、傷痕一つ見つけられなくなっていた。

「すまないね。ちょっと試したかったものだから」

「構わん」

 どうでも良さそうに答えた少年を見て、身構えていた悪魔も完全に緊張を解いた。ため息をついた後、笑みのようなものを浮かべて少年の横顔を見つめてた。

「ああ、そうだ」

 女が思い出したようにそう呟き、こちらを振り返った。

 そのどこかぼんやりした瞳に見つめられたと思った時には、身体が動くようになっていた。

 手を握ったり開いたりして、支配が解かれたのを確認していると、

「いや。長い間悪かったね。ともあれ、話は聞いたとおりだ」

 女が全く悪びれていない口調で、そう言ってくる。何も言わず見つめ返していると、女は小さく頷いた。

「君は彼女を救おうと考えていたようだが、どうする? 最初は君に力を貸してもらおうかと考えていたが、彼が協力してくれる……いや、私が彼に協力する以上、君が無理に何かをする必要はなくなった。我々が事を為すのを、どこか比較的安全な場所で待っていてくれても良いが」

 開きかけていた手が止まる。

 女の言葉はすなわち、お前の力は別に必要ないのだと、そういう意味である。お前より適当な人材が見つかったから、お前はもう要らないと、女はそう言っているのである。

 それは正しい。

 どうしようもないほど正しい。腹立たしいほどに正しい。

 女は自身を脇役だと評したが、こっちだってそれとほとんど変わらない。あの少女を望む場所に帰すと決めたが、自分は結局それだけだ。そこまででしかない。追っ手から逃がしてやろうとも考えたけれど、それも遥か先を見据えての事ではない。変化する状況を追いかけるだけで、状況を自ら突破し、作り替えようとは考えていない。能動的といえるものは、あの時洞窟で抱いたものが全て。少女を少年の元に運ぼうと考えているだけの自分は、脇役に他ならなかった。

「エドガー君。君はどうしたい?」

 思考は一瞬。

 開いた掌を握り込み、拳をつくる。

 それを見つめた後顔を上げ、己の答えを口にした。


     × × × × ×


 拳を見つめていたエドガーの頭の中に、唐突にリディスの声が響く。

『―――準備は整った。始めてくれ』

 合図。

 理解すると同時に身を起こす。腰から音もなく剣を引き抜き、そしてすぐさま駆けだした。

 藪から飛び出せばすぐに、虹色の炎が視界の中に現れる。炎は獲物の存在に気づいた獣のごとく蠢き、走るエドガーに向かって素早く這い寄ってきた。

 エドガーは炎との距離を冷静に測りながら、剣を高く振り上げた。

 ずん、と大地が震え、炎が周囲に飛び散る。

 地面に食い込んだ剣を引き抜きながら、エドガーは細切れになった炎が元に戻ろうと寄せ集まっているのを視界の端に捉えた。

 終わりなき戦いを咄嗟に頭に思い描いた彼は、しかし一抹の動揺も見せはしなかった。

 無言のまま、別の炎に向かって駆けだしたエドガーのその顔には、何かを見極めようとしているような、そんな意志が見受けられた。

 

 戦場の中で彼はただ、自分を見出そうとしていた。 

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