第五十話
「――――どういう、事だ?」
長い沈黙の後。隻腕の悪魔が、言葉を噛みしめるように、ゆっくりとそう尋ねた。
女を見つめるその顔は、不審を通り越して不機嫌が浮いている。だが鳶色のその瞳だけは冷静な光を帯びており、先の言葉が苛立ちによるものではなく、純粋な疑問である事が伺えた。
「言ったとおりさ。彼女の暴走を止めるんだよ」
対する女は軽い口調。
ここから見える横顔には、淡い笑みが浮いている。
「待て―――お前は、あれだな。俺たち魔界の者よりも、お前の隣の武官よりも、ディプロスに関する多くの情報を持ってるな?」
男は囁くように問いを放った。
しかし女が答える前から、男は己の言葉に確信を持っているようだった。
「多分な。だがまあ、君にはもう関係のない事だろう? 何しろ君は彼女から手を引くんだから」
「………」
「ん、何か言いたそうだね?」
「……一つ聞きたい」
男は緊張を和らげるように、己の唇を舌で舐めた。
「―――お前の行き先は天界か……?」
奇妙な問い。
いや、実はそれほど奇妙ではないのか。
天人と名乗った魔導師の女は、間違いなく天界から来たはずである。人間界に来るために必ず通らなければならない『門』は、聖導府により厳重に管理されているため、然るべき任を負った者か、あるいはそれなりの位の者しか通ることが出来ない。
然るべき任とはすなわち、今回の場合はディプロスの回収。秘密裏に、しかし最優先で、腕利きの武官達が門の前で送り出されるのを待っている。それ以外の、例えば人間界の定期調査隊などは、今回は任務を凍結されているはず。門を通れたという事は、女が彼ら執行部隊と同じ使命を受けているという事を、示しているはずなのだが。
しかし、女の行動は不自然な点が多い。
同じ使命を帯びているのであれば、精神支配などせずとも、己の立場を示してみせるだけで話を聞かせる事が出来る。だが女はそれをせず、まずこちらの情報のみを読み取った。それはまるで、与えられた使命が違う事を前提に調べているような、ひどく曲がりくねったやり方である。
加えて、女は所属はないと言った。隠蔽目的についた嘘であるとも考えられるが、どうにも女の言うことが正しいような気がしてならない。その理由はいくつかあったが、一番大きなものは、
「いいや。天界ではない。もちろん、魔界でもない」
この薄く笑う女からは、武官特有の乾いた気配が少しも感じられない点である。
良くも悪くも戦士というのは、必要になれば感情を切り離す傾向にある。それが生存確率を高め、任務遂行確率を高めるからであるが、それに慣れすぎると、自分では気づかぬうちに、心がどうしようもなく乾いていってしまう。気づいたときは手遅れで、そして潤いを取り戻そうという気にもならない―――そう言って隊長は、武官最強の男は少し寂しそうな顔で笑っていた。
この女は違う。
強力な魔導師であるくせに、少しも戦士として〝特化〟したところが見受けられない。それどころか、こんなにも穏やかに悪魔と会話する天人を、自分は今まで見た事がない。
毛色が全く違う。
その認識を強く持ったエドガーを、女は横目でちらりと見た。
「私の目的はこちらの彼と同じだ。彼女を逃がすんだよ。天界からも魔界からも手の届かない場所までね。それが私の目的だ」
それは非常に怪しい、疑わしい言葉だった。
何しろ天界に対する反逆行為である。それどころか、ディプロスが伝承に忠実であれば、世界を滅ぼす、その片棒を担ぐような話である。また、二世界の追っ手から逃げ続けるなどというのは荒唐無稽もいいとこで、正直頭を強く打ったとしか思えない。
だがそう思いつつもエドガーは、同時に妙に納得してしまっていた。
それは毛色の違いを実感していたからであり、自分の条理では計れない考えを持っていると思ったからである。
それに、頭を強く打ったのは彼自身にも言えたことだったからだ。
「―――――正気か」
隻腕の悪魔が、眼光を更に強め、言葉を突き刺した。
「自分が何を言ってるのか、本当に解ってるのか?」
「ああ。困難はそれこそ私の予想を軽く上回るだろうけどね、それを乗り越える覚悟はしているよ」
「怪しいものだ。第一、天界からも魔界からも手の届かない場所なんてないだろうが。隷王の園にでも行くつもりか?」
男の最後の台詞はもちろん冗談である。
男は否定を前提にそれを告げたのだし、エドガーもそれを理解していた。だがそれを向けられた女だけは、冗談だとは理解していなかったらしい。
「そっちは諦めたよ。だがまあ、似たようなところだ――――っと、話は後回しだ。そろそろ彼女の炎がここまでやってくる。さあ、君はもう行った方が良い。私はそこの少年を――――」
女は緊張感の欠片もない声でそう言いながら、男の後ろに目を閉じ横たわる少年へと、近づいていった。が、男が一歩前に出て女の歩みを止めた。
「どいてくれ。悪いようにはしないから」
しかし男は女の言葉を聞いていないかのように、鋭いを通り越した凄まじい瞳で、女をにらみ据えた。
「―――こいつには誰も指図をさせない。洗脳するつもりなら相手になるぞ」
鉄を思わせる、強靱な意志がそこにあった。
少年の身をかばうように立つ男の姿は、それこそ頑丈な鋼鉄製の盾だった。
女は困ったように首をひねり、小さく笑った。
「洗脳はしないさ。話を聞いてもらうだけだ。まあ、嫌だと言われて諦めるわけにはいかないだろうがね。ちゃんと彼には敬意を払うと約束するよ。君の主様にはね」
「勘違いするな、こいつは別に俺の主じゃ―――――」
顔を朱に染めた悪魔が、力一杯に否定を口にしようとしたその時。
「うるさいな………まだ夜じゃないか。静かにしろよ」
不機嫌を隠しもしないその声が、男の後ろから響いた。
× × × × ×
「ふうん。それで、俺は何をすれば良いんだ?」
決して軽くはない説明を聞いた後、ジンと名乗ったその少年が漏らした最初の一言がそれである。
ふうん……か。
リディスは己のことを、深く悩まない質だと理解していたし、それが他者からすればある種異質に感じるほどのものであることも、良く知っていた。知った上で治す必要もないと考えているため、彼女は何の不自由も感じていなかったのだが。
―――確かに〝これ〟は、少々やりづらいな………。
座ったままこちらを見上げる少年の黒い瞳を見返して、そう思った。
「あー……、そうだね。彼女は今、ディプロスたる所以でもある破壊衝動に自我を飲み込まれているんだが」
「それはつまり、本能と人格が別個に存在すると、そういう事か?」
ザァルと名乗ったその男が、間髪入れずに尋ねてくる。それに頷きを返し、言葉を続ける。
「ああ。でもそれは、存在するように仕組まれたと言った方が正しい。破壊衝動を精神から引き離し、厳重に鍵をかけた上で彼女の心の奥底に沈めたんだよ。これが封印の大まかな理論だ」
「馬鹿な。確かに似たような魔法は存在するが、相手は幼いとは言え神なんだぞ? 魔法が通じるはずはないし、天主だのその子供だかが封印したのであれば、人間界に落ちた時点で封印は解かれてるはずだ。神の力は外の世界では機能しないんだからな」
「ああ、そうだ。加えて、天界の神々は己の力で何度も封印を試みたが、一度も成功はしなかった。彼女は魔導師にも神々にも手に負える存在ではない」
「だったらどうやって………まさか」
その可能性に思い当たったのか、悪魔はさっと顔色を変えた。その瞳に畏怖と侮蔑の色が浮かぶ。
「―――隷王の遺物を使ったのか……!」
「ああ。そのようだ。虚無の蟒蛇しかり、天主はどのような手段を使ったのか、その手の道具を手に入れたらしい。隷王の力であれば、どの世界でも遺憾なくその効果を発揮するからね」
「協定を軽んじるとは……恥知らずめ―――!」
「全くだよ」
主人から命を賜った後、リディスはすぐさまディプロスに関する情報を手当たり次第に集め出した。聖務執行部隊の隊員が知っている程度の情報はすぐに手に入ったが、しかしそれ以上の、ディプロスの根幹に関わるような情報は得ることが出来なかった。
そこで彼女は、聖導府の深奥―――公式には存在しない事になっている「研究室」と呼ばれているその場所に、危険を承知で侵入した。表沙汰に出来ない数々の情報、記録、物資などを補完するその部屋であれば、当然ディプロス関する情報も存在するだろうと考えたのだ。ため息どころか血を吐きたくなる数々の困難の末、彼女はいくつかの情報を手に入れる事が出来た。
それは封印の理論であり、ディプロスの力の具体的な方向性である。
「彼女の力は、あの炎を媒介にしている。馬鹿げた話だが、あの炎は触れたものを全て飲み込むらしい」
「飲み込む? 滅ぼすのではなくて?」
「ああ。存在値を変換するとか何とか……簡単に言えば、彼女はあの炎を使って何かを飲み干す度に、その力を増していくという事だ。つまり彼女は―――」
「神として現界する……」
彼女の言葉を奪った形の男は、ごくりと唾を飲み込んだ後、更に続けた。
「世界を取り込んで、柱へと変わっていく―――神の力を得るわけか。神の存在しない人間界に、神として君臨する……いや、もしその器に現界が存在しないのであれば………」
男の頬を、一粒の汗が流れた。
「人間界、天界、魔界。三世界の神となる事が出来る………?」
否定を期待しているような目つきで睨んでくる男に、しかしリディスは軽い頷きを返した。
「事実かどうかは知らないが、現時点での天界の―――天主の出した結論はそれだ」
「無貌とは……なるほどな。そう言うことかよ」
「誕生と共にその力の片鱗を見せた彼女に、天主はすぐさま固有時間凍結の法をかけた。だが初期段階でも彼女の炎は凄まじく、神の法すらも、ゆっくりとだが着実に飲み込んでいった。天主が何とかして虚無の蟒蛇を手に入れた時には、彼女は全ての障害を炎によって飲み干し、門をくぐって人間界へと逃げ延びていた」
「門をくぐった……? 情報では、ディプロスは生まれて以降、名前も言葉も教えられなかったはずだ。何の知識もないあの少女が、どうして門をくぐろうなどと思ったんだ?」
「それは天主も知らないらしい。気づいた時には牢はもぬけの殻どころか、牢そのものがなくなっていた、と」
悪魔の疑問は正しい。誰しもがその疑問を抱いている。逃走は本能的なものだったとしても、門をくぐるというのは、ひどく奇妙な話だ。まるでそこをくぐれば逃げ延びられると、誰かから教えられたような行動である。だが、滅亡そのものとも言えるディプロスを助けようと思う者など、主と自分くらいしかいない―――あり得ない話である
「ん……待てよ。門をくぐったと言ったな? ならばディプロスは当然、隷王の協定を遵守しているはずだな?」
期待のようなものが乗るその問いに、リディスは頷いた。
「そうだ。彼女は人間の肉体を得ている。肉体を得たが故に、その力も不完全なものとなった。もしここが天界か魔界であれば、既に我々も世界も滅んでいるよ。しかし彼女は門をくぐり、隷王の協定の中にある」
「隷王の協定は、人間界を頑丈に保護している。秩序を崩壊させるほどの魔力は集められないし、物質を虚無に返す事も出来ない……」
「その通り。力は大きく弱体化し、その標的の幅も絞られた。先ほど実際に目にした限りでは、どうやら無機物よりも有機物の方に、力は大きく作用するみたいだ。最も、はっきりと言い切れるわけではないけどね」
「実際に体感した俺から言わせて貰えば、あれはむしろ魔力を―――いや、生命力を個体から剥ぎ取る力のように感じたぜ?」
悪魔はそう言って、ぶらりと垂れ下がった外套の右袖を示して見せた。
「脇腹や肩の辺りまでは何とか再生できたが、腕はどんなに時間をかけても無理だった。何というかな、生命力の絶対量が削られたような感覚だ。事実、魔力は極端に減少した」
「なるほど。それが正しいとするならば、炎に触れても消滅を避けられる方法は、いくつかあるな。無論、一時的なもので完全には防げないだろうが……」
思考を深めるべく、己の内側に入り込もうとするが、男はそれを許してはくれなかった。
「それだ。結局お前は、こいつを使って具体的に何をどうするつもりなんだ?」
その声に、いつの間にか目を瞑っていた黒髪の少年が目を開けた。眠たげにあくびをし、どこかめんどくさそうな顔でこちらを見上げる。
まさか今まで寝ていたんじゃないだろうなと、呆れと驚嘆の間の感情を抱いたリディスは、しかしそれを何とか飲み下し、少年を見つめて口を開いた。
「ま、まあ要するに、だ。彼女は今、本能のままに動いているようなものなんだ。こちらのエドガー君の記憶を少し見させてもらったところ、彼女は言葉を話し、しっかりとした人格を持っているようじゃないか。彼女の理性と呼べるものを浮上させ、本能を底に沈める作業をやりたいんだ。そのためには人格に語りかける作業が必要不可欠で、それは彼女に親しい者ほど効果が高い」
「それを俺がやれば良いんだな?」
「ああ。彼女の心を揺さぶって欲しい。彼女が少しでも理性を取り戻せば、私が何とかして本能の方を静める作業を行うから」
「そうか」
呆気なく頷いた少年に、思わず頭が落ちる。
その顔を見返すが、そこには悲愴な決意だの緊張感だのは全く見あたらない。お使いを頼まれた子供の方が、よっぽど真剣に感じられるほどである。一歩間違えば世界滅亡という話をしているのに、少年はどこまでも余裕で、ここにいる誰よりも落ち着いて見えた。
ひょっとして状況を理解していないのか?
いや、自分より長くこの森にいた以上、それはありえない。そうでなくとも戦闘に巻き込まれたのであれば、しゃべれない程に怯えていても良いくらいだ。年端もないこの少年が冷静でいられる理由がわからない。その瞳には、大きすぎる恐怖に狂ったような色は見あたらないし……。
得体の知れないものを眺めるように、リディスが少年を見つめていると、少年の隣に立つ隻腕の悪魔が声を放った。彼女にではなく、少年に向けてである。
「リスクで言えば、先の二つの戦闘よりも上だぞ。一瞬で無に帰る可能性も高い。それでもやるのか?」
男の瞳はというと、正直呆気にとられるほどに誠実だった。眼光は決して柔らかくはないが、そこには信頼と期待のようなものが込められており、少年に対する男の評価が良く解る。
―――この悪魔は、恐ろしいほどにこの少年を買っている………。
人間、それも幼い子供相手に見せるはずのないその表情に、リディスは内心深く首を傾げた。この少年は、一体何者なのだろうか、と。
ザァルとリディスの視線を全く気にとめていないように、少年は軽く頷いた。
「やるよ」
肯定。
素っ気なさ過ぎるその言葉に、しかし悪魔は嬉しそうに、にやりと笑った。
「そうこなくっちゃな」
まさしく水を得た魚。
男の顔は興奮を隠しきれないように輝き、その身体にも力が溢れているのが解る。見ればその左の指先は、小さく震えている。怯えであるはずがない。それは間違いなく歓喜の類だ。
ザァルを訝しげに眺めるリディスに、少年は無造作に声をかけた。
「おい、あんた」
「ん。何だね? ああ、大丈夫だ。とっておきの魔法で身体を保護するから、君はそれほど心配する必要はないよ」
それ以外に少年が聞きたい事はないだろうと思ったリディスは、そう返したのだが。
「いや、そうじゃない。それは別にどうでも良い」
「……どうでも良い?」
首を横に振る少年の言葉に、リディスは唖然とする。
しかし彼女は、次の少年の台詞を聞き、唖然を通り越して愕然とする事になった。
「その本能を静めるとかどうとか、全然やる必要はないから」
「――――――は?」
「俺が全部どうにかする……っていうか」
少年は苦笑のようなものを顔に浮かべ、続けた。
「―――あいつ自身にどうにかさせるよ」