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第四十九話

 呼吸を止め、後ろに大きく飛び退る。

 自分で動いたというよりも、後ろから引っ張れるような感覚。無意識の動作。身体を動かしたのは、一体何だったのか。

 虹色に染まった視界が、再び目の前の景色を映し出したとき、エドガーは一瞬馬鹿なことを考えた。

 ひょっとしたら、死んだ仲間達が自分を守ってくれたのかも知れない―――と。

 洞窟は消えていた。

 真っ黒な地面が身をさらし、その上をいくつもの虹色の炎が、チリチリと音を立てながら這いずり回っている。炎は口を開け、地上に存在するありとあらゆるものを飲み込んでいく。炎が通り過ぎた後には何も残らない。地面だけ……灰すらもない。それはまるで、貪欲な獣が膨れぬ腹を満たそうとしているような、おぞましい光景だった。

 獣か。

 だとすれば、あれがその主人に違いない。

 炎達の真ん中に立つ人影。

 虹色の瞳で全てを睥睨している少女。どこかで見た記憶がある顔立ち―――いや、間違いなく彼女であるはずなのだが、どうにもその認識は薄い。それはやはり、


「あはは、あははははっ! あははははは―――――」

 

 身の毛がよだつその哄笑が、その原因だろうか。

 ひどく、気分が悪い。

 足で踏まれ、頭を無理矢理下げさせられているような感覚。屈辱を感じる余裕はない。目を閉じ耳を塞いで、それが一刻も早く自分の元を去るのを、奴隷のように待ち望んでしまう。そんな恐怖―――そんな絶望で、その笑い声は構成されていた。

「―――あれがディプロス……? 可変神とは一体何なんだ……?」

 エドガーは顔を歪め、吐き捨てるように呟いた。

 こんな事態は全く想定していなかった。

 だが、想定するべき事態だった。

 彼ら聖務執行部隊が彼女を見つけられたのは、その力の片鱗を探知したからだ。指令書にも書いてあったではないか。


 ―――特性封印により、身体能力は人間レベルに固定されているが、それも絶対的な保証は出来ない。特性能力が使用される可能性あり―――


 封印……いやそもそも、特性能力とは何だ?

 魔法とは次元の違う、世界を変革する神々の力を意味しているのであれば、それは矛盾する能力だ。神々が力を扱えるのは、彼らが世界を支えている柱であるからだ。彼らが世界そのものであるから、力を行使できるのだ。だから天界の神にしろ、魔界の神にしろ、彼らはそれぞれの世界の外に出ることは出来ず、また外界に影響を与える事は出来ない。しかしディプロスは………。

 

 ―――そは無貌の神。

 神魔を滅し、世界に終焉をもたらすもの。

 そが炎は不滅を赦さじ。

 万物を等しく終わらせる。

 神にして神に非ず。

 魔にして魔に非ず。

 そは可変の神―――ディプロスなり―――


 予言。

 それが事実だとするならば、あの少女こそがそれだと言うのならばつまり―――神に匹敵するディプロスの力は、しかし神とは違って世界に依存しない。

 滅茶苦茶な話だ。

 その力を使用できる明確な根拠がない。

 魔力にしろ体力にしろ、力とはどこからか引き出すものだ。引き出してくる場所はそれぞれ異なるが、等しく言えるのは、そこにあるもの以上の力を用いる事は出来ないという事。当然の話だ。それは翼のない動物が空を飛ぼうとするような事だからだ。

 世界は無限ではなく、有限。

 だからこそ安定し、法則や秩序が存在するのだ。

 イレギュラーはありえない。もし発生したとすれば、イレギュラーが世界に押しつぶされるか、あるいは世界が崩壊するかのどちらか。

 だとすれば彼女が扱う力は、

「神の力じゃない……」

「ああ。私も同じ考えだ―――」

 あるはずのない返答が、すぐ近くから――背後から響いた。

 エドガーは血相を変える。動揺を滲ませたまま、しかし素早く身体を回転させ、その勢いを利用して剣を叩きつけた。

 だが、彼の剣は鞘から解き放たれた直後、虚空で停止する。右にも左にも動かない。武器や障壁に受け止められたというよりも、強靱な手でつかみ取られたような重さ。しかし周囲には声の主も、彼の剣を縫い止めた何かも見あたらない。闇だけが広がっている。

「良い反応だが、残念」

 再び姿なき声が響く。

 ぞっと背筋を凍らせたエドガーは、咄嗟に剣から手を離そうとした。しかし、その腕も―――それどころか身体そのものが動かず、声も出せない。

「君の身体の主導権を奪わせてもらった。だが、これは私の話を聞いてもらうためであって、君に傷つけるつもりではないんだ。信じられないかも知れないが、取りあえずはそう言っておくよ」

 どこか飄々とした声がそう告げてくる。

 エドガーは自分の置かれた状況から、相手が何者であるのかをやっと理解した。

 ―――魔導師……それも一流、いや超一流か!

 姿どころか、音や気配すらも絶つ幻術。

 超高速の魔法行使。

 それも、数ある魔法の中でも修得が最も困難と呼ばれている精神支配である。武官の中では一二を争う魔導師であるルチアやアルメルの、その更に上のレベルの術者に違いなかった。

 やり合っても勝ち目はない。

 それどころか、その相手に背後を取られ、あまつさえ精神支配まで受けているのだ。勝ち目どころか、相手に敵意があれば自分に未来は既に決定していた。おとなしく相手の言うことに従うしかない。

「ああ、良い判断だ、エドガー君。さすがはヘルマン・ヴァイルシュミットの部下と言ったところか」

 声は小さく笑った後、更に続けてきた。

「とにかく場所を変えよう。ここじゃ彼女の炎に巻き込まれる―――――よっ、と」

 腰の辺りを掴まれたと思ったときには、エドガーは空を飛んでいた。

 ―――飛翔の魔法。やはりとんでもない技量だ。これほど滑らかなものは見た事がない……。

 炎の中心で笑う少女と、森の木々を見下ろしながら、思わず胸の中で驚きの声を上げる。

「ああ。ちょっとしたコツを掴めば、実は割と簡単なんだよ。お、あれは残りの二つの点……ヒスコックの遺跡にいるのか。ちょうど良い……」

 その呟きと共に、身体が音もなく方向転換した。速度を上げて、どこかへと真っ直ぐに飛んでいく。

 遺跡とはあの少年がいたところだろうか。だとすれば、二つの点というのはひょっとして……。

 そんな事を考えているうちに、見覚えのある石柱群が木々の隙間から見え始めた。見つめている間にどんどん大きくなり、やがてそこに赤い人影を見つける。

 こちらを睨み据えるその顔に、全く見覚えがない事を知ると、エドガーは素早く気を引き締めた。

 自分と少年以外は皆、敵になるのだ。

 注意深く観察して、勝率を少しでも高めなければならない。

「ああ。私はおそらく、君の敵にはならないと思うよ?」

 気の抜けたその声に、エドガーは己の失策を悟る。

 ―――僕は馬鹿か……頭の中を読まれている時に重要な事を考えるとは……。

 己に呆れ、自嘲を浮かべようとしたが、支配されている彼の身体はぴくりとも動かなかった。

 結局彼は、胸の内で陰鬱なため息をつくのに留めた。


     × × × × ×


 武官の少年が着地するのを見ながら、ザァルは緊張を一段階引き上げた。

 ―――やつを連れてきたのは名のある魔導師に違いない……一体誰だ……?

 飛翔の魔法は修得はそれほど困難ではない。初心者に毛が生えたレベルの魔導師でも、空を飛び回る事が出来る。だが、修得は困難ではないからこそ、使用者の魔法の腕が露骨に解る術でもある。下手な者が使えば、飛行軌道はがたがたと揺れるし、飛び回るだけで騒々しい。上級者が使えば、その飛行はまるで魚が海の中を泳ぎ回るように優雅であり、音もほとんどしない。

 今目にしたものはと言うと、明らかに後者。それも今まで見た中では最高の飛翔だった。鳥の羽が舞い降りたような着地は、何をどうすればそのような事が出来るのか解らないほどだった。

 こちらに向かって歩いてくる少年武官。

 そしてその近くにいるはずの、姿の見えない魔導師。

 彼らに注意を向けながら、後ろに横たわるジンを守るようにして胸を開いた。

 先手を打つべく、口を開く。

「何の用だ? お前達の目標はここにはいないぞ」

 ザァルの問いに、少年は足を止めた。

 しかし口を開くかと思えばそうではない。こちらと同等か、あるいはそれ以上の緊張を孕んだ青い瞳で、じっと見つめてくるだけ。それに違和感を覚えたザァルは眉根を寄せた。

 答えが返ってきたのは、少年の隣の虚空からだった。

「奇妙な台詞だ。目標があるからここに来たのにな」

 苦笑混じりの女の声。

 ザァルが頭の中に思い浮かべたのは、執行部隊の二人の女武官だった。だが死亡した事を思い出すとすぐに打ち消した。

 思考を止めぬまま、ザァルは頭に血を上らせる―――演技をした。

「ふざけるな! こっちは言葉遊びをしているような余裕はないんだ! お前は何者だ、姿を現せ!」

 何も見えないそこに怒声を浴びせる。

 総じて悪魔というのはこの手の芝居が得意であり、ザァルもまたかなりの役者だった。血相を変えて泡を飛ばす彼は、如何にも焦りと怒りに支配されているように見えた。

 だが、返ってきた女の言葉は、ザァルの態度などまるで気にしていないかのように、淡々としたものだった。

「ふむ。そうか……それは別段問題ないな」

 声が闇に融けるのと同時、黒い布を剥いだように、突然暗がりに女の姿が現れた。

「ついでに名乗っておこう。私はリディス。リディス・メシュトールだ」

 金髪碧眼。

 天人の特徴を示すその女は実年齢は解らないが、人間で言えば二十代を過ぎたぐらいに見えた。透明な笑みを口元に浮かべ、どこか緊張感のない瞳でこちらを見ている。身にまとう空気もふわふわとしており、ザァルは思わず苛立ちを覚えていた。

「天人か。執行部隊じゃないみたいだが、どこの所属だ?」

 その服装をちらりと眺め、そう言い放つ。女が身に着けているのは、魔導師特有の動きやすそうな戦闘服ではあったが、執行部隊の軽装鎧とは異なっていた。焦げ茶色のそれは戦闘用であるはずなのにどこか品があり、その価値の高さが暗闇の中でも解る。簡素を重んじる天人武官が着る服とはとても思えなかった。

「天人だ。所属と呼べるものはない。部隊に配属されているというわけではないのでね。かくいう君は悪魔のようだが?」

 女が小首を傾げ、肩の辺りで切りそろえられた金髪が闇の中できらきらと揺れる。場違いなその仕草を見て、ザァルは苛立ちを更に膨らませた。

「だったら何だ? 俺はもうディプロスからは手を引いたぞ。この通り、右腕ももってかれちまったしな」

 だが、彼は冷静に演技を続ける。

 それは彼が感情を切り離して行動する術に長けていたからでもあるが、何より彼の背後で眠ったままの少年の身を守らなければならなかったからだ。だからこそ彼は、戦えば勝ち目のないだろうその女との戦闘を回避するべく、使命を放り出した短気な悪魔を演じていたのだ。

「ふうん?」

 女はその白く細い指を顎に当てた。

 ザァルは女が何を考えているか、その顔から読もうとした。しかしぼうっとしたようにも見える女の顔は、ある意味無表情よりも感情の読みにくかった。ザァルは内情を読むのを諦め、女の言葉を待った。

「ところで、後ろの少年は一体何者だ? 人間のように見えるが」

 女の瞳は彼の背後に向いていた。

 瞬間、ザァルは心臓に杭を打たれたような気分になった。しかし停止した思考を素早く回転させると、強ばりそうになった表情を何とか保ち、大仰に肩をすくめて見せた。

「この森の住人だ。ディプロスを拾った人物だよ」

 嘘はつかない。

 こちらの狙いを探るために、隣の少年武官からジンの話を聞いた上で質問してきた可能性もある。下手な嘘は命取り。事実を告げなければならない。だがそれも、必要最低限の事実で良い。

「ほう、彼女を……。眠っているみたいだが、顔色があまり良くないな。怪我でもしているのか?」

「ああ。俺とは別口の悪魔と、天人武官との戦闘に巻き込まれたらしい。何か使えそうな情報を持ってないかと思って連れてきてみたが、大したことは知らなかったな」

「そうか」

 女が納得したように頷くのを見て、ザァルは胸中で安堵のため息を漏らした。だが。

「ならばその少年には協力してもらおう。君はどこにでも行くと良い」

 その言葉に、呼吸を止めた。

 咄嗟に大声で捲し立てそうになったの堪え、自分の演じるべき役を思い出す。ちょっと気になるとでもいう風に、眉根を寄せる。

「協力? 一体何をするつもりなんだ?」

 まさか正直な答えが返ってくるとは考えていなかったが、否定であってもその口調、瞳の色から様々な情報を得ることが出来る。ザァルは耳と目の神経を活性化させ、如何なる変化も見逃すまいと、女の顔を見つめた。

 しかし、女が口にしたのはその〝まさか〟の方だった。

「彼女を―――暴走したディプロスを止めるのさ。彼には彼女の意識を引っ張り上げてもらうんだ」

 ザァルは沈黙したまま、頭の隅で静かに呟いた。


 この女。正気じゃないな―――と。

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