第四十六話
ヘルマンに向かって歩きながら、問いを放つ。
「それで、薬はどこだ?」
「―――え、あ、ああ……私のベルトポーチにポーションが入っている。蓋が赤いやつだ……」
腰を下ろし、言われたとおりの場所を探れば、目的のものが見つかった。金属製の小瓶。赤い蓋を開けると、銀色に輝く液体が見えた。
「リカーズの秘薬か。さすがは聖務執行部隊といったところか。これなら確かに、大抵の傷は治るだろうな」
「それを早く彼に―――」
「解ってる」
小瓶の蓋を閉めて立ち上がり、ジンの元まで向かう。
傷を広げないように細心の注意を払いながら身体を仰向けにしてやると、その血まみれの顔が見えた。瞼は閉じられており、ひどい顔色と相まって、既に死んでいるようにも見える。だが。
その冷たい胸に手を当てる。
「―――彼は、生きてるか……?」
「ああ」
「そうか………そうか……」
微かだが、確かな鼓動が掌に伝わってくる。
生きている。
生きる意志が、ここにある。
ならばこの少年は死にはしない。
この少年が死ぬのは、この少年が諦めた時だけ。ジンを殺せるのはジンしかいないのだから。
ザァルは小さく頷いた。
ジンの頭を持ち上げ、己の膝に乗せる。その唇の隙間に小瓶の口を押しつけ、ゆっくりと液体を流し込んでいく。小瓶から銀色の滴が出てこなくなった頃、抱える少年の身体が熱を帯び始めた。するとぱっくりと開いていたその脇腹が、見ている間に塞がっていく。瞬きを何度かした時には、傷がどこにあったか解らないほどに、少年の身体は回復していた。
―――出血がひどいから、目を覚ますには時間がかかるだろう。移動するのも、しばらく待った方が良いな……。
だが、雨に濡れ続けるのも良くないか。
ザァルは片腕でジンの身体を抱えると、血の海から引き上げた。そして近くの木の元まで運んでいくと、木の幹に背をもたれかけるようにして、彼の身体を座らせた。ここなら雨はかからない。顔色がある程度元に戻るまで、ここで待機しておこう。
やることがなくなったザァルが、血と泥にまみれたジンの顔をコートから取り出した布で拭ってやっていると、
「お前は……彼の協力者の魔導師か?」
横たわったまま、首だけをこちらに向けたヘルマンが、静かにそう尋ねてきた。
ザァルは振り返らず、手を止めずに、返答を放つ。
「俺は協力者でも魔導師でもない。こいつが歩いていく姿を見たいだけの―――ただの物好きだ」
「―――おかしな話だな。お前は悪魔だろう。私達が来る前からこの森にいた、あの悪魔だろう? 目的はディプロスの確保のはずだ」
「最初はそうだったさ。主に言われてあのお嬢さんを連れ帰ろうとしただけの、ただの猟犬……いや、せいぜいが狐だな。あんた達と同じさ。ヘルマン・ヴァイルシュミット」
「最初は? 目的が変わったのか……? しかし主の命に逆らえば―――」
「呆気なく殺されるか。じゃなきゃ、あっちが飽きるまで拷問され続けるだろうな。おっかない話だ」
「それが解っていて、か。それほどの目的を――それほどのものを、この少年に見つけたのか?」
「そう思ったよ。だが、さっきそれが勘違いだったと解った」
「勘違い……?」
「ああ。俺はこいつの中に何かを見つけたんじゃなかったんだ。俺はこいつを通して―――自分の中にそれを見つけたんだ。あんたもそうだろう?」
ヘルマンは沈黙する。
沈黙は会話が終了したのかと思うほど長く続き、さざ波のように響く雨音だけが、彼らの周囲を満たした。
しかしそこに再び、ヘルマンの声が響く。
「―――お前は先ほど、少年を救うのは最悪の選択だと、裏切りだと、そう言ったな。それはどういう意味だ……?」
「教えてやる義理はないと思うんだがね」
「頼む。気になるんだ。お願いだから、話してくれないか」
切実なその声に、ザァルは思わず笑ってしまった。
ちらりと後ろを振り返り、そこに予想通りの必死な顔を見つけて、再び笑った。
「感情剥き出しの愚直な言葉だな。あんたらしくない。〝乾きの青〟とまで怖れられた、冷血無比の悪魔殺しとはとても思えない言葉だ」
「何とでも言え。教えてくれるのか、くれないのか」
「解った解った、話してやるよ。全く、強制睡眠をくらっても、身体以外はぴんぴんしてるなんてな。ある意味ヴィクトールよりもいかれてるぜ」
「ご託は良い。説明をしろ」
「いい大人がそんなにがっつくなよ。まあ、なんだ……俺はさっきのあんたらの戦闘を見てたんだがな。その時俺は―――こいつがあんたに勝つことは出来ないと思ったんだよ」
ザァルは腕を止め、綺麗になった少年の顔を見つめた。
その瞳は閉じられているが、瞼の裏で、あの不思議な光が輝いているのが見えるような気がした。
「何度も飛び出そうと思ったよ。俺ていどじゃあんたを止められるとは考えてなかったがな。理屈じゃなかったんだよな。なんか解んねえが、我を失うってやつか。まともに考える事は出来ない癖に、なぜだか妙にそれが正しい事のような気がしたんだよな。そうするべきだと、そうしたいと思っていた。確信があったんだ。俺という存在が、まさしくその行動の中にこそあるような、そんな確信があったんだ」
あの時の熱の残滓は、まだ胸の中に潜んでいる。鮮烈な光となって、頭の中に焼き付いている。時間が経った今でも、それが勘違いだったとは思えない。振り返ってなお輝いて見える光。過ぎ去っても寂しさを感じない熱が、そこに確かに潜んでいる。
気を抜けば溢れてしまいそうになるそれを抑えるように、ザァルは己の胸に手を当てた。
「―――だが、俺は動けなかった。動いてはいけないと思った。これはこいつの戦いで、俺がそれに口出しするのは結局、俺の自己満足に過ぎないんだと気づいたんだよ。気づかされたんだ、こいつに。俺に出来るのは、ただ見守る事だけなんだと、悟った。こいつが俺の事をどう考えているかは知らないが、俺は………こいつには誠実でありたいと思ったから」
「……死にかけているのを助けることすら、お前は不誠実に感じるのか……?」
「ああ。だからこいつが戦うのを、こいつが戦って死ぬのを、俺は見届けようと思った。だが俺は―――」
「お前は助けることを選択した」
ヘルマンの問いに、ザァルは静かに吐息を零した。
首を横に振る。
「情けない話だ。こいつに誠実でありたいと思う以上に―――誠実であろうとする自分以上に、こいつと共に歩く自分を、俺は望んだんだ。結局俺は、諦めが悪い惨めなやつだったって事だ」
「―――後悔、しているのか?」
その問いにも、ザァルは首を横に振る。
「いや。後悔はしていないさ。ただ、情けないだけだ。だから俺はきっと―――いや間違いなく、同じような状況が訪れれば、何度だって不誠実をはたらくさ。やっちまった後でため息をつきながらな、繰り返すんだろうよ」
「そうか……それは少しだが、解る気がするな」
「俺だってあんたに聞きたい事がある―――なぜあんたは、こいつを助ける気になった? 任務のためだか私情だか知らないが、あんたは間違いなくこいつを殺そうとしただろう? 実際こいつはあと少しで、本当にあと一歩で死ぬところだった。なぜだ、なぜ助けた?」
「なぜ……か」
ヘルマンは呟くと、視線をザァルから逸らし、雨が止みつつある黒色の空を見上げた。
その口元に苦笑が浮かぶのを、ザァルは目にした。
「良く解らんな。お前同様、言葉で正確に説明出来るようなものじゃないんだろう………殺す気だった。ついさっきまで、殺す気だった。実際に俺は殺す手順をほとんど完了していたし、何もしなければ彼は間違いなく死んだ事だろう」
「だがあんたは、気が変わった」
「ああ。本当に、良く解らんのだがな。何と言えば良いのかな。任務だの私情だのを抜きにしても……いや、それらと併せて考えても……何だ。殺すのが惜しくなった。あまり詳しくは聞くな。私自身、未だに良く解ってないんだ。頭も良い方じゃないしな」
「ふうん……」
納得したような、納得していないような顔をしたザァルは、ふと少年が右手に何か握っているのに気づいた。
気になったザァルは、何が入っているのか確かめてみることにした。しかし拳は驚くほど力強く握りしめられていて、簡単には開くことが出来ない。片手しか使えないザァルが中を改めるには、それなりの時間が必要だった。
血の混じる掌に、それを目にした時。
「―――は。大したもんだよ、お前は」
思わずにやりと笑っていた。
矢の破片。
鏃も矢羽根もない、棒の部分。しかもその一部である。
それを見ただけで、ザァルは少年が最後に取った行動を頭の中に思い描くことが出来た。
彼が手渡した強制睡眠の魔法を施した矢。ヘルマンに放ち、しかし引き抜かれたそれを、いつの間にか―――おそらくヘルマンに再び殴り飛ばされたあの時。咄嗟に身体を捻り、ヘルマンがそれを投げ捨てたその場所へと倒れ込むように、吹き飛ぶ軌道を無理矢理変更したのだ。そしてそれを何食わぬ顔で拾い上げ、気づかれぬように腕の中に隠し、距離を詰めてきたヘルマンに突き刺したのだ。
ひょっとするとあの時の笑みは、ヘルマンを動揺させるための演技だったのかも知れない。勝つ見込みを失い、気が狂ったと思わせたかったためなのかも知れない。
いずれにせよ、大したものだ。
どうかしてると言っても良いほど。
例え目論見が成功したとしても、下手すれば即死していたかも知れないのだ。実際、ヘルマンが心変わりをしなければ、間違いなく死んでいた。得られる最高の結果は、たかだか引き分け。負ける事はあっても勝つ事は出来ないのだ、全くどうにかしている。
―――だが、こいつは勝利した。
揺るぎない結果が、今ここにある。
得られるはずのない勝利を、無理矢理引き出したのだ。自分には――ヘルマンにだって、とても出来ない事だ。例えどれだけ速く剣が振るえても、例えどれだけ強力な魔法が放てても、この結果を――この現実を手に入れる事は出来ない。
それを成し得たのが彼。
ジンという、ただの人間でしかない一人の少年だった。
「大したもんだよ、本当に」
顔色がだいぶ良くなった少年の頭に、ぽんと手を乗せる。息を吐くと、ザァルは片腕で器用に少年を背負い、力強く立ち上がった。
「……行くのか」
ザァルを見上げるヘルマンの瞼は、かなり重くなってきているようだった。その瞳の奥に逃れようのない睡魔が揺らめいているのを見て、ザァルは自身の成果でもないのにどこか得意げになっている自分に気づき、思わず苦笑を浮かべていた。
「ああ。まだ一人、敵が残っているからな。正直俺は、もうディプロスなんざどうでも良いが、こいつが欲しいって言うからな。もう一頑張りしなきゃならん」
そう言って背負った少年を軽く示す。
ヘルマンは眠たげに何度か瞬きをした後、小さく笑みを浮かべた。
「……俺の部下は強いぞ。その少年と同じか、それ以上にな。せいぜい頑張る事だな……」
自信と信頼に満ちたその声に、ザァルは肩をすくめて答えた。
「まあ、相手が魔王でも天主でも、こいつなら何とかするさ。そういうやつだからな―――――それじゃあな」
背を向けて歩き出そうとしたところで、呼び止めるようにヘルマンが声をかけてくる。
「彼にまた会おうと、そう伝えてくれ」
ザァルは首だけで振り返り、嫌みな笑みを浮かべた。
「あんた、下手すりゃそのまま死ぬかもよ? ディプロス回収なんていう、失敗出来ない任務に失敗したんだ、投獄されて秘密裏に処刑なんて事も十分あり得るだろう?」
「私は死なんよ。死ぬつもりなどないからな」
鼻を鳴らすヘルマンの顔が、背中の少年にどこか似ている気がして、ザァルはやれやれと首を振った。
ひょっとすると、俺もこういう顔をしているのかも知れないな―――と。
「解ったよ。それじゃヘルマン・ヴァイルシュミット。またな」
「またな。名も知らぬ悪魔よ。次に会った時に名を聞かせてもらうとしよう」
「楽しみに待ってな」
「そうさせてもらおう……」
ザァルはヘルマンが瞳を閉じるのを待たず、首を前に戻して歩き出した。
それにしても静かだな、と。
足を止めず、顔を上に向けてみる。
木々の枝葉の隙間から見える空は、既に雨が止んでおり、隅の方ではいくつか星が輝いていた。
星が綺麗だと思ったのは、いつ以来だろうな。
そんならしくない事を考えながら、ずり落ちそうになった少年を引っ張り上げたその時。
―――夜空が一瞬、昼間のように明るく輝いた。
「な……何だ一体!?」
ザァルは思わず声を上げる。
彼の叫び声がかき消えるよりも早く、夜空は再び黒に戻る。
夜空に走った光が、一方向に吸い込まれてるようにして消えていくのを、ザァルは確かに目にしていた。
光が消えた方角。
その直線上に、彼らが目指す場所――武官の少年と、そしてディプロスの少女がいるだろうその洞窟が存在していた。
驚愕に顔を染め、足を止めたザァルの頭の中には、空を駆け抜けたその光が焼き付いていた。
虹色の、その光が。