表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/58

第四十五話

 ザァルは走っていた。

 彼の耳に聞こえるのは、己の荒い息づかい、己の足が地面を蹴るどこか湿った大きな音、そして乱暴に身体を叩く、己の心臓の鼓動である。それらのどれからも、彼の焦りが我を忘れるほどのものである事がうかがい知れた。

 ―――まずい。

 彼の胸の内を端的に現した言葉がそれだった。

 何がまずいのか。

 もしそれを走る彼に尋ねる者があれば、彼はきっと憎悪に近い感情を剥き出しにして、こう叫んだことだろう。「あのガキが死にそうなんだよ馬鹿野郎!」と。あるいは問いすらを無視して、荒々しい一瞥をくれただけで、その者の前を通り過ぎるかも知れない。

 ザァルの頭の中に張り付いているのは、ヘルマンに打ちのめされ地に伏した、少年のその姿である。ぴくりとも動かない手足、霞んだ黒い瞳。それを目にした瞬間、ザァルは鴉から意識を引きはがし、元の身体に戻ると一目散に走り出していた。何か考えがあっての行動ではない。しかし無意識ではないその行動を支えていたのは、少年を殺されるわけにはいかないという、その一つの思いである。距離を置き、冷静に考えてみる機会があれば、ザァルは己のその感情を「地平に辿り着くかも知れないこいつに、死んでもらっては困る」とか、そういう風な言葉で表した事だろう。

 だがそれは、かなりの距離を置いて、の話である。

 それは例えるなら、かつて日記に記した己の過去を、長い時が過ぎてふと開き読んでみるようなものである。現在の自分と過去の自分は同一のものであるが、別人と言い換えても良いほどの断絶があり、もうあの時自分が何を考えていたのか解らない。それほどの距離を置いて始めて出来る、そういう分析である。

 詰まるところそれは、的外れも良いところだった。

 ザァルの顔を色濃く彩る様々な感情のどれもが、利己的なものではなかった。自分の事など考える余裕がなく、何もかもを放り出して一心に他者を思いやる、ひどく人間くさい顔である。ザァルは間違いなく否定するだろうが、その時の彼はただ―――少年を失いたくなかった。その漠然とした、しかしこれ以上ないというほどの強固な思いは、親が子に向けるような情によく似ていた。だが彼はその自覚をする余裕すらなく、胸の奥から湧き上がる激しい衝動に、頭も身体も半ば乗っ取られながら、ひたすらに少年とその敵の元へと、走り続けていた。

 そんなザァルが、痛みと熱しか感じられない二つの足を止めたのは、足音や心臓の鼓動といった、自分が立てる音以外のものが、彼の耳にすうっと入り込んできた、その瞬間だった。

 それは声だった。

「―――――俺はまだ、諦めてない……」

 聞き覚えのあるその声に、ザァルは無理矢理呼吸を殺し、出来るだけ物音を立てず、声のする方へと静かに近寄っていった。

 そして少年の、その姿を目にする。

「だから立ち上がれるんだ。そうだろう……?」

 微笑と。

 そして、ザァルが見惚れたその意志が、黒い瞳の中で力強く輝いていた。


     × × × × ×


「―――立ったところで。その身体で何が出来る」

 気づけば口を開いていた。

 他人の声かと思うほどに、喋った実感は薄かった。

 まるで傍観者だ。

 一歩引いたところから、己の背中を見つめているような、そんな錯覚。

 声を紡ぐのは空虚。自分ではない。

「無駄だ。それは……その先には何もないぞ」

 少年の笑みが深まるのを、確かに目にする。

 口は弧を描いたまま開かず、杖代わりに身体を支えていた剣を力ない動きで持ち上げ、切っ先をこちらに向けてきた。

 それは泥にまみれていた。

「……仮に君の身体が万全であったとしても、君と私では勝負にならない。現実的な話だ。あの男が使うのは片刃の薄く反った、短く軽い剣だった。君が手にしているような重い諸刃の長剣では、あれはどうしたって再現できない。君だってそれは解ってるだろう?」

 早口にそう告げる。

 見え隠れするのは焦燥と恐怖。

 空虚は―――怯えていた。

「私は無駄な殺しはしたくない。君があの男の域まで達していないと解った以上、君がこちらに手を出さないと誓うなら、私も君には危害を加えない――――」

 べちゃり。

 そのべたついた響きは、少年が一歩を踏み出したその音だった。

 べちゃり、べちゃり。

 のろのろと、こちらに向けて歩いてくる。

 それを目にし耳にして、身体がびくりと大きく震える。

「止まれ!」

 放った制止の声は、泥まみれのその音に、呆気なく飲み込まれた。

 少年は止まらない。

 考えるそぶりすら見せない。

 自分の言葉は何一つ、少年には届かない。そんな考えが頭をよぎり、そしてそれを打ち消すべく更に声を張り上げる。

「聞こえないのか!? それ以上近づけば、私は君を殺さなければならなくなるんだぞ! 私がその気になれば、君は間違いなく私に殺される! 死にたいのか君は!?」

 叫びに覆い被さるようにして、誰かが耳元で囁いた。

 

 ――――死にたいのか。ヘルマン・ヴァイルシュミット。部下を殺され、自身ももう戦える身体ではないから、一刻も早く死にたいと、そう言うわけか………?


 がしゃがしゃ。

 がしゃがしゃ。

 重い鎖の音が、遠くから響く。

 ここから出せ。

 ここから出してくれ。

 私はまだ、戦える。戦いたいんだ……。

 声が反響し、心を掻き乱す。

 視界の隅にいたそれが、目をそらせないほどの位置まで――中心までやって来ている。

 恐怖と歓喜が爆発した。

「あああああああああああああああ」

 近くまで。

 驚くほど近くまで歩いてきていた少年を、剣を握った拳で力の限り殴りつける。少年は反射的に身をひねり、こちらの拳を躱そうとしたらしい。だがぼろぼろのその身体では完全に回避する事は出来ず、呆気なく吹き飛び、再び地面に転がった。

「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ………」

 肩で息をする。

 歯の根が合わずかちかちと音を立てる。

 寒い。

 ひどく寒かった。

 ―――違う。

 寒いわけじゃない。

 怖いだけだ。

 怯えが震えを引き起こし、寒さを錯覚させているだけだ。

 自分はただ、恐れているだけ。

 目の前の少年を。

 少年が―――立ち上がるのを。

「っ!」

 恐怖は現実となった。

 ぼろぼろの布きれのような、泥だらけの少年は、のそりと蠢き、先ほどよりも短い時間で、二つの足で立ち上がる。口の端から真っ赤な血を零しながら、こちらを見た。

 その黒い瞳から意志の光は消えていない。むしろ先ほどよりも、強く輝いていた。

 頼りなく震える切っ先が、静かにこちらに向けられる。

 ―――殺すしかない。

 空虚は悟る。

 狂乱の中で、それを決断する。

 逃避。

 盲目的に、それ以外の道を拒絶した。

 虚ろが広がり、ありとあらゆる全てのものが消えていく。

 熱も、痛みも、焦りも、恐怖も、孤独も、後悔も、夢も希望も何もかも。絶望すらも飲み込んだ。そして―――静かに動き出す。

 

 標的を見据え、

 剣を構え、

 重心を落とし、

 呼吸を止め、

 距離を詰め、

 突き出された剣を弾き、

 腰を沈め、

 腕を振るい―――――駆け抜けた。


 どさり、と。

 背後で重い音が響く。

 ゆっくりと時間をかけて、力なくそちらを振り返れば、うつぶせの少年が血の海に沈んでいた。

 動かない。

 動けない。

 少年の脇腹は半分近く切り裂かれていた。

 近寄ってみれば臓器もはみ出しているかも知れない。それほどの傷。致命傷。

 即死ではないだろうが、見ている間に死ぬだろう。既に意識がない可能性もある。いずれにせよ、完璧を期すなら近づいてとどめを刺した方が良い―――。


 ……あれ。殺す理由は何だったか。何だったか。


 思い出せない。

 解らないが、まあ良い。

 理由などいらない。

 そんなものなくとも、人は殺せる。今まで殺して来た。考える必要など無い。

 さあ。

 とどめを刺そう。

 首をはねて心臓を抉って、完全な死を与えよう。

 そうするべきだ。

 そうすれば、良いと思う。だから、そうしよう。

 一歩を踏み出す。

 二歩目を踏み出す。

 三歩目を踏み出す。

 ブーツが血の海に浸る。

 剣の届く距離。ならば事を為そう。

 腕を振りかぶり、その首へと――――――、


 べちゃっ……


 剣が手からこぼれ落ちる。

 どす黒く染まった地面の上に転がったそれを見ながら、疑問を頭に浮かべ。

 そしてその疑問も――――落下する。

 どさりという音を、身体に走った衝撃と共に耳にする。

 転倒の実感は薄かった。

 いつの間にか。そう思うほど唐突に、視界の半分を血まみれの地面が占めていた。倒れた少年がすぐ近くに見える。

 ―――攻撃された? でも……誰に……誰が……。

 思考が急速に鈍くなっていく。

 手足の感覚も曖昧になり、ひどく瞼が重い。大量に出血したような感覚。だがそれとは違って喪失感の類はない。何かが抜け落ちていくと言うよりも、むしろ何かに包まれていくよう……そう言えば、似たような感覚をごく最近……いや、ついさっき味わったような気がする。あれは確か―――。


 ―――強制睡眠………!


 はっと意識が一瞬戻る。

 鈍く重い腕を持ち上げ、首から順に身体に触れていく。胸から腰に行く途中、指先にその感触が現れた。

 傷口。

 先ほど矢が突き刺さったそこに。引き抜き捨てたはずのそこに、なぜが―――折れた矢が刺さっていた。

 確かな感触。

 幻術の類ではなく、疑いようのない現実。

 睡魔に支配される思考が、謎としか言えない状況に対し何らかの解を得るべく、必死で回転を始める。

 ―――矢を受けた……? 馬鹿な、そんなタイミングなどなかった……第一、元の傷がどれほど痛みを発していたとしても、矢が突き刺さればさすがに気づく。それにそもそも、折れた短い矢を弓で放つ事などは出来な………まさ、か。

 答えが突然、頭の中に浮上する。

 半ばでへし折れ、矢羽根を持たぬ矢。弓を用いて飛ばすことが出来ないそれが、深く突き刺さっているという事はつまり、別の手段で―――例えば手で握って突き刺したのだとしたら。

 あと少しで答えに辿り着きそうだったその時、すぐ近くで――傍らで、泥をかき混ぜるような、そんな音が聞こえた。

 視線を動かし、そしてそれを目撃する。

「――――――馬鹿な……」

 雷のような戦慄が、身体を走り抜けた。

 信じられない光景だった。

 眠気は一瞬で吹き飛んでいたが、実は自分は既に眠りに落ちていて、今目にしているものは全て夢なのかとも思った。

 だが、例えそれが幻覚だったとしても、それが理解の範疇を超えたものであるのは、間違いなかった。

 べちゃり、べちゃり。

 その音は、倒れる少年のその手の中から聞こえてきた。

 指が地面を引っ掻いている。

 己の血にまみれた少年の手は、必死で何かをなそうと動いている。時折力尽きたように動きを止めながら、しかししばらくすると再びまた動き出す。血の海の中で、弱々しくもがいている。何をしているか解らないほどの、小さな動きで、必死に足掻いている。だが、他の誰に解らなかったとしても、自分だけはそれを理解する事が出来る。当然だ、少年自身がさきほどそれを口にし、そして実践して見せたのだから……。

 

 ――――立ち上がるつもりなんだ、この少年は……!


 諦めていない。

 彼はまだ、諦めていないんだ。

 だから、立ち上がろうとしている。

 立ち上がるために、必死で足掻いている。

 戦うために。

 勝つために。

 少女を手に入れる、そのために。

 死の中ですら、足掻いている。立ち上がろうと、もがいている。

「はは――――ははははは、はは…………」

 笑いが零れた。

 笑わずにはいられなかった。

 自嘲。

 自分が情けなかった。

 目の前の少年に比べて、自分があまりにも情けなかった。

 たかだか状況に追い込まれた程度で全てを投げ出し、全てを受け入れた自分が、受け入れてしまった自分が、それを嘆くだけで満足していた自分が、前を見て歩く彼らを妬む自分が、その妬みからも逃げ出した自分が、ひどく―――ひどく情けなかった。

 悔しかった。

 そして何より、恨ましかった。

 それを持っている少年が、どうしようもないほど羨ましかった。

 ―――この少年のようになりたい。

 そう思う。

 強く強く、そう思う。

 だから。

 自嘲はこれで最後にしよう。

 嘆くのも妬むのも、逃げるのもこれで終わりにしよう。

 立ち上がって歩くんだ。

 無理だと解りきっていたとしても、例えこの想いすら失う羽目になっても、それを目指して歩いていこう。

 歩いていこう!

 欲しいから手を伸ばすんだ!

 それ以上の理由はいらない……必要なかったんだ!

「はははははははは!」

 自嘲じゃない。

 歓喜の声だ。喜びの詩だ。

 もうお前から目を逸らしはしない。

 さあ。

 私と共に地平を行こう。

 見果てぬ大地を駆け、遥か彼方を目指し歩いていこう。

 私はヘルマン・ヴァイルシュミット。

 精鋭部隊の隊長でも、最高の武官でも、一人の天人でもない。

 名も無き旅人の一人。

 それが私だ。

 それが私だ――――――!


 ―――べちゃ………………………。


 熱が一瞬冷める。

 はっと我に返ってそちらを見ると、少年の意志を体現していたその血まみれの手が、動きを止めていた。止まったまま動かない―――――。

 心が凍えたような、そんな気がした。

「おい――――おい………!」

 必死で呼びかけるが、少年は身動き一つしない。

 どす黒い沈黙だけが返ってくる。

 まるでもう、

「――――――くそっ!」

 頭に湧いた考えを吐き捨て、少年へと腕を伸ばそうとする。が、腕は少しだけ地面から離れることが出来ただけ、その身体に触れる事が出来ない。焦燥感だけが空転し、背筋を絶望がぞくぞくと震えさせる。

 自分の身体が役に多立たない事に気づいた瞬間、大声で叫んでいた。

「誰か! 誰かいないか! 誰か近くにいないか!」

 腹から息を絞り出す。

 雨に濡れる真っ黒な森に、当てのない呼びかけを必死で放ち続ける。

 喉が痛みを発し、血の味が口に広がり始めても、決して呼びかけを止めなかった。

「誰でも良い! 私が持ってる薬を彼に飲ませてくれるだけで良い! それだけで助かるんだ! 誰か、誰かそこにいないか――――――!」

 呼びかけだけが雨に吸い込まれる。

 他には何も聞こえてこない。

 何も……何も……。

 絶望に心の半分を飲まれ、それでも負けるものかと掠れた声で叫んだその時、耳が足音を拾い上げた。

「誰かそこにいるのか!? お願いだ! ここまで来てくれ! そして彼の命を救ってくれ――――!」

 足音が止まる。

 木々の隙間。

 闇が広がるそこから現れたのは、片腕のない一人の男。

 赤い外套を着たその男は、ゆっくりと口を開いた。

「……それは最悪の選択だ―――――」

 そう言って力なく首を横に振った。


「裏切りだよ、それは」


 男は静かに、涙を流し続けていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ