第四十五話
ザァルは走っていた。
彼の耳に聞こえるのは、己の荒い息づかい、己の足が地面を蹴るどこか湿った大きな音、そして乱暴に身体を叩く、己の心臓の鼓動である。それらのどれからも、彼の焦りが我を忘れるほどのものである事がうかがい知れた。
―――まずい。
彼の胸の内を端的に現した言葉がそれだった。
何がまずいのか。
もしそれを走る彼に尋ねる者があれば、彼はきっと憎悪に近い感情を剥き出しにして、こう叫んだことだろう。「あのガキが死にそうなんだよ馬鹿野郎!」と。あるいは問いすらを無視して、荒々しい一瞥をくれただけで、その者の前を通り過ぎるかも知れない。
ザァルの頭の中に張り付いているのは、ヘルマンに打ちのめされ地に伏した、少年のその姿である。ぴくりとも動かない手足、霞んだ黒い瞳。それを目にした瞬間、ザァルは鴉から意識を引きはがし、元の身体に戻ると一目散に走り出していた。何か考えがあっての行動ではない。しかし無意識ではないその行動を支えていたのは、少年を殺されるわけにはいかないという、その一つの思いである。距離を置き、冷静に考えてみる機会があれば、ザァルは己のその感情を「地平に辿り着くかも知れないこいつに、死んでもらっては困る」とか、そういう風な言葉で表した事だろう。
だがそれは、かなりの距離を置いて、の話である。
それは例えるなら、かつて日記に記した己の過去を、長い時が過ぎてふと開き読んでみるようなものである。現在の自分と過去の自分は同一のものであるが、別人と言い換えても良いほどの断絶があり、もうあの時自分が何を考えていたのか解らない。それほどの距離を置いて始めて出来る、そういう分析である。
詰まるところそれは、的外れも良いところだった。
ザァルの顔を色濃く彩る様々な感情のどれもが、利己的なものではなかった。自分の事など考える余裕がなく、何もかもを放り出して一心に他者を思いやる、ひどく人間くさい顔である。ザァルは間違いなく否定するだろうが、その時の彼はただ―――少年を失いたくなかった。その漠然とした、しかしこれ以上ないというほどの強固な思いは、親が子に向けるような情によく似ていた。だが彼はその自覚をする余裕すらなく、胸の奥から湧き上がる激しい衝動に、頭も身体も半ば乗っ取られながら、ひたすらに少年とその敵の元へと、走り続けていた。
そんなザァルが、痛みと熱しか感じられない二つの足を止めたのは、足音や心臓の鼓動といった、自分が立てる音以外のものが、彼の耳にすうっと入り込んできた、その瞬間だった。
それは声だった。
「―――――俺はまだ、諦めてない……」
聞き覚えのあるその声に、ザァルは無理矢理呼吸を殺し、出来るだけ物音を立てず、声のする方へと静かに近寄っていった。
そして少年の、その姿を目にする。
「だから立ち上がれるんだ。そうだろう……?」
微笑と。
そして、ザァルが見惚れたその意志が、黒い瞳の中で力強く輝いていた。
× × × × ×
「―――立ったところで。その身体で何が出来る」
気づけば口を開いていた。
他人の声かと思うほどに、喋った実感は薄かった。
まるで傍観者だ。
一歩引いたところから、己の背中を見つめているような、そんな錯覚。
声を紡ぐのは空虚。自分ではない。
「無駄だ。それは……その先には何もないぞ」
少年の笑みが深まるのを、確かに目にする。
口は弧を描いたまま開かず、杖代わりに身体を支えていた剣を力ない動きで持ち上げ、切っ先をこちらに向けてきた。
それは泥にまみれていた。
「……仮に君の身体が万全であったとしても、君と私では勝負にならない。現実的な話だ。あの男が使うのは片刃の薄く反った、短く軽い剣だった。君が手にしているような重い諸刃の長剣では、あれはどうしたって再現できない。君だってそれは解ってるだろう?」
早口にそう告げる。
見え隠れするのは焦燥と恐怖。
空虚は―――怯えていた。
「私は無駄な殺しはしたくない。君があの男の域まで達していないと解った以上、君がこちらに手を出さないと誓うなら、私も君には危害を加えない――――」
べちゃり。
そのべたついた響きは、少年が一歩を踏み出したその音だった。
べちゃり、べちゃり。
のろのろと、こちらに向けて歩いてくる。
それを目にし耳にして、身体がびくりと大きく震える。
「止まれ!」
放った制止の声は、泥まみれのその音に、呆気なく飲み込まれた。
少年は止まらない。
考えるそぶりすら見せない。
自分の言葉は何一つ、少年には届かない。そんな考えが頭をよぎり、そしてそれを打ち消すべく更に声を張り上げる。
「聞こえないのか!? それ以上近づけば、私は君を殺さなければならなくなるんだぞ! 私がその気になれば、君は間違いなく私に殺される! 死にたいのか君は!?」
叫びに覆い被さるようにして、誰かが耳元で囁いた。
――――死にたいのか。ヘルマン・ヴァイルシュミット。部下を殺され、自身ももう戦える身体ではないから、一刻も早く死にたいと、そう言うわけか………?
がしゃがしゃ。
がしゃがしゃ。
重い鎖の音が、遠くから響く。
ここから出せ。
ここから出してくれ。
私はまだ、戦える。戦いたいんだ……。
声が反響し、心を掻き乱す。
視界の隅にいたそれが、目をそらせないほどの位置まで――中心までやって来ている。
恐怖と歓喜が爆発した。
「あああああああああああああああ」
近くまで。
驚くほど近くまで歩いてきていた少年を、剣を握った拳で力の限り殴りつける。少年は反射的に身をひねり、こちらの拳を躱そうとしたらしい。だがぼろぼろのその身体では完全に回避する事は出来ず、呆気なく吹き飛び、再び地面に転がった。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ………」
肩で息をする。
歯の根が合わずかちかちと音を立てる。
寒い。
ひどく寒かった。
―――違う。
寒いわけじゃない。
怖いだけだ。
怯えが震えを引き起こし、寒さを錯覚させているだけだ。
自分はただ、恐れているだけ。
目の前の少年を。
少年が―――立ち上がるのを。
「っ!」
恐怖は現実となった。
ぼろぼろの布きれのような、泥だらけの少年は、のそりと蠢き、先ほどよりも短い時間で、二つの足で立ち上がる。口の端から真っ赤な血を零しながら、こちらを見た。
その黒い瞳から意志の光は消えていない。むしろ先ほどよりも、強く輝いていた。
頼りなく震える切っ先が、静かにこちらに向けられる。
―――殺すしかない。
空虚は悟る。
狂乱の中で、それを決断する。
逃避。
盲目的に、それ以外の道を拒絶した。
虚ろが広がり、ありとあらゆる全てのものが消えていく。
熱も、痛みも、焦りも、恐怖も、孤独も、後悔も、夢も希望も何もかも。絶望すらも飲み込んだ。そして―――静かに動き出す。
標的を見据え、
剣を構え、
重心を落とし、
呼吸を止め、
距離を詰め、
突き出された剣を弾き、
腰を沈め、
腕を振るい―――――駆け抜けた。
どさり、と。
背後で重い音が響く。
ゆっくりと時間をかけて、力なくそちらを振り返れば、うつぶせの少年が血の海に沈んでいた。
動かない。
動けない。
少年の脇腹は半分近く切り裂かれていた。
近寄ってみれば臓器もはみ出しているかも知れない。それほどの傷。致命傷。
即死ではないだろうが、見ている間に死ぬだろう。既に意識がない可能性もある。いずれにせよ、完璧を期すなら近づいてとどめを刺した方が良い―――。
……あれ。殺す理由は何だったか。何だったか。
思い出せない。
解らないが、まあ良い。
理由などいらない。
そんなものなくとも、人は殺せる。今まで殺して来た。考える必要など無い。
さあ。
とどめを刺そう。
首をはねて心臓を抉って、完全な死を与えよう。
そうするべきだ。
そうすれば、良いと思う。だから、そうしよう。
一歩を踏み出す。
二歩目を踏み出す。
三歩目を踏み出す。
ブーツが血の海に浸る。
剣の届く距離。ならば事を為そう。
腕を振りかぶり、その首へと――――――、
べちゃっ……
剣が手からこぼれ落ちる。
どす黒く染まった地面の上に転がったそれを見ながら、疑問を頭に浮かべ。
そしてその疑問も――――落下する。
どさりという音を、身体に走った衝撃と共に耳にする。
転倒の実感は薄かった。
いつの間にか。そう思うほど唐突に、視界の半分を血まみれの地面が占めていた。倒れた少年がすぐ近くに見える。
―――攻撃された? でも……誰に……誰が……。
思考が急速に鈍くなっていく。
手足の感覚も曖昧になり、ひどく瞼が重い。大量に出血したような感覚。だがそれとは違って喪失感の類はない。何かが抜け落ちていくと言うよりも、むしろ何かに包まれていくよう……そう言えば、似たような感覚をごく最近……いや、ついさっき味わったような気がする。あれは確か―――。
―――強制睡眠………!
はっと意識が一瞬戻る。
鈍く重い腕を持ち上げ、首から順に身体に触れていく。胸から腰に行く途中、指先にその感触が現れた。
傷口。
先ほど矢が突き刺さったそこに。引き抜き捨てたはずのそこに、なぜが―――折れた矢が刺さっていた。
確かな感触。
幻術の類ではなく、疑いようのない現実。
睡魔に支配される思考が、謎としか言えない状況に対し何らかの解を得るべく、必死で回転を始める。
―――矢を受けた……? 馬鹿な、そんなタイミングなどなかった……第一、元の傷がどれほど痛みを発していたとしても、矢が突き刺さればさすがに気づく。それにそもそも、折れた短い矢を弓で放つ事などは出来な………まさ、か。
答えが突然、頭の中に浮上する。
半ばでへし折れ、矢羽根を持たぬ矢。弓を用いて飛ばすことが出来ないそれが、深く突き刺さっているという事はつまり、別の手段で―――例えば手で握って突き刺したのだとしたら。
あと少しで答えに辿り着きそうだったその時、すぐ近くで――傍らで、泥をかき混ぜるような、そんな音が聞こえた。
視線を動かし、そしてそれを目撃する。
「――――――馬鹿な……」
雷のような戦慄が、身体を走り抜けた。
信じられない光景だった。
眠気は一瞬で吹き飛んでいたが、実は自分は既に眠りに落ちていて、今目にしているものは全て夢なのかとも思った。
だが、例えそれが幻覚だったとしても、それが理解の範疇を超えたものであるのは、間違いなかった。
べちゃり、べちゃり。
その音は、倒れる少年のその手の中から聞こえてきた。
指が地面を引っ掻いている。
己の血にまみれた少年の手は、必死で何かをなそうと動いている。時折力尽きたように動きを止めながら、しかししばらくすると再びまた動き出す。血の海の中で、弱々しくもがいている。何をしているか解らないほどの、小さな動きで、必死に足掻いている。だが、他の誰に解らなかったとしても、自分だけはそれを理解する事が出来る。当然だ、少年自身がさきほどそれを口にし、そして実践して見せたのだから……。
――――立ち上がるつもりなんだ、この少年は……!
諦めていない。
彼はまだ、諦めていないんだ。
だから、立ち上がろうとしている。
立ち上がるために、必死で足掻いている。
戦うために。
勝つために。
少女を手に入れる、そのために。
死の中ですら、足掻いている。立ち上がろうと、もがいている。
「はは――――ははははは、はは…………」
笑いが零れた。
笑わずにはいられなかった。
自嘲。
自分が情けなかった。
目の前の少年に比べて、自分があまりにも情けなかった。
たかだか状況に追い込まれた程度で全てを投げ出し、全てを受け入れた自分が、受け入れてしまった自分が、それを嘆くだけで満足していた自分が、前を見て歩く彼らを妬む自分が、その妬みからも逃げ出した自分が、ひどく―――ひどく情けなかった。
悔しかった。
そして何より、恨ましかった。
それを持っている少年が、どうしようもないほど羨ましかった。
―――この少年のようになりたい。
そう思う。
強く強く、そう思う。
だから。
自嘲はこれで最後にしよう。
嘆くのも妬むのも、逃げるのもこれで終わりにしよう。
立ち上がって歩くんだ。
無理だと解りきっていたとしても、例えこの想いすら失う羽目になっても、それを目指して歩いていこう。
歩いていこう!
欲しいから手を伸ばすんだ!
それ以上の理由はいらない……必要なかったんだ!
「はははははははは!」
自嘲じゃない。
歓喜の声だ。喜びの詩だ。
もうお前から目を逸らしはしない。
さあ。
私と共に地平を行こう。
見果てぬ大地を駆け、遥か彼方を目指し歩いていこう。
私はヘルマン・ヴァイルシュミット。
精鋭部隊の隊長でも、最高の武官でも、一人の天人でもない。
名も無き旅人の一人。
それが私だ。
それが私だ――――――!
―――べちゃ………………………。
熱が一瞬冷める。
はっと我に返ってそちらを見ると、少年の意志を体現していたその血まみれの手が、動きを止めていた。止まったまま動かない―――――。
心が凍えたような、そんな気がした。
「おい――――おい………!」
必死で呼びかけるが、少年は身動き一つしない。
どす黒い沈黙だけが返ってくる。
まるでもう、
「――――――くそっ!」
頭に湧いた考えを吐き捨て、少年へと腕を伸ばそうとする。が、腕は少しだけ地面から離れることが出来ただけ、その身体に触れる事が出来ない。焦燥感だけが空転し、背筋を絶望がぞくぞくと震えさせる。
自分の身体が役に多立たない事に気づいた瞬間、大声で叫んでいた。
「誰か! 誰かいないか! 誰か近くにいないか!」
腹から息を絞り出す。
雨に濡れる真っ黒な森に、当てのない呼びかけを必死で放ち続ける。
喉が痛みを発し、血の味が口に広がり始めても、決して呼びかけを止めなかった。
「誰でも良い! 私が持ってる薬を彼に飲ませてくれるだけで良い! それだけで助かるんだ! 誰か、誰かそこにいないか――――――!」
呼びかけだけが雨に吸い込まれる。
他には何も聞こえてこない。
何も……何も……。
絶望に心の半分を飲まれ、それでも負けるものかと掠れた声で叫んだその時、耳が足音を拾い上げた。
「誰かそこにいるのか!? お願いだ! ここまで来てくれ! そして彼の命を救ってくれ――――!」
足音が止まる。
木々の隙間。
闇が広がるそこから現れたのは、片腕のない一人の男。
赤い外套を着たその男は、ゆっくりと口を開いた。
「……それは最悪の選択だ―――――」
そう言って力なく首を横に振った。
「裏切りだよ、それは」
男は静かに、涙を流し続けていた。