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第四十四話

 木の根元に倒れ込んだまま、ぴくりとも動かない。

 胸が浅く上下しているところを見ると、どうやら死んではいないらしい。

 だが、それはもう終わっていた。

 瞼の隙間から僅かに見える瞳からも、地面に投げ出され、泥にまみれたその指先からも、意志と呼べるものは跡形もなく消えていた。それは既に抜け殻、二度と立ち上がる事はない。

 ヘルマンは虚しさを覚えていた。

 それは言葉に出来る類のものではなかった。何がとか、どうしてとか、そういった人間的な理性によって説明できるものではなかった。身体からは未だ熱も力も失われておらず、手にした剣からも一体感は損なわれていない。思考にだって鈍りはないし、心だってきっとそうだ。

 ならばこの虚ろはどこから生じているのか。

 ……いや。

 今、突然生じたわけではない。これはずっと前からあったものだ。どこか奥底で鎖につながれていたものが、滾る心の熱に誘われて、己を閉じ込める格子へと指を這わせただけ。眠りに落ちて久しい者が、夜中にはっと飛び起きた時のような、心臓を速める緊張感と、何とも言えない居心地の悪さ。

 そう言えば。

 確かあの時も……いや、自分を偽るのは止めよう。間違いなくあの時も、自分はこれを感じていた。一人荒野に立ち尽くし、囚人ががしゃがしゃと立てる恐ろしい鎖の音に、がたがたと子供のように震えていた。

 あの時。

 カイ・アドゥーアライ―――放浪者に部下を皆殺しにされ、自分もまた完膚無きまで敗北を喫し、剣を振るう事も逃げる事も出来ず、ただ死を覚悟していた時の事。それからの事だった………。



 男は足を止めていた。

 ついさっきまでは、どこにいるかも解らないほどの速さで動き回っていた殺戮者は、驚くほど静かな瞳で、こちらを真っ直ぐに見つめていた。

 ―――何を見ている……?

 こちらは既に瀕死。

 両足、利き腕の腱は切り裂かれ、ぎりぎりと頭を軋ませる痛みを抜きにしても、立っているのが精一杯で動くことは出来ない。まして戦う事など、その剣を防ぐ事など、出来るはずもなかった。

 如何なる状況でも感情を殺し、冷静な判断を下す事が可能なヘルマンであっても、力の差を推し量る事すら困難な敵を相手にして自暴自棄になっていたのか。彼はごく自然に、目の前の男へと疑問を投げかけていた。

「何を見ているんだ」

「お前だよ。ヘルマン・ヴァイルシュミット。天界最強の戦士を見ている」

 その最強をたった今、事も無げに打ち破った男が、そんな言葉を口にした。

 ヘルマンは口の端を歪めた。

「皮肉か? 放浪者が決着のついた相手を貶めるような、そんなご立派な性格をしているとは知らなかったな」

「お前は私について何か知っているのか?」

「放浪者。カイ・アドゥーアライ。隷王の意志を継ぐ者。行動の目的が全く解らない、凄腕の殺し屋だって事くらいは、知ってるよ」

「聖導府の連中にそう教えられた―――だけだろう。それは知っているとは言わない」

「だったらなんだ……私にとって重要な事実は一つ。部下を皆殺しにした男が、隊長である私をいつまでも殺さないクソ野郎って事だけだ――――」

 憎悪と怨嗟を足し合わせたような声で、ヘルマンは囁くように毒づいた。

 しかし男は声自体にはまるで関心を払っていないように、言葉の内容だけを事務的に確認した。

「死にたいのか。ヘルマン・ヴァイルシュミット。部下を殺され、自身ももう戦える身体ではないから、一刻も早く死にたいと、そう言うわけか?」

「貴様は――――!」

 何かがはじけ飛んだ音を聞いたような気がした。

 自分が身動きの取れるからではない事を忘れ、男に飛びかかろうとしたヘルマンは、当然のごとくバランスを崩し、地面に倒れ伏した。

 倍加された激痛が頭頂部から足先までを走り抜け、どこかへと引っ張り込まれるように、意識が急速に遠のいていく。

 乾いた地面ばかりを映す視界の中に、男の足が現れたのを見たような気がした。

「ヘルマン・ヴァイルシュミット……お前は殺さない。お前は聖導府の優秀な駒であるが、最も出来の悪い駒でもある。お前のような存在は、今後大きな役割を果たす事になる」

 ふざけるな、と。

 そう告げようとした彼の口からは、しかし掠れた空気しか漏れなかった。

 男の言葉だけが、鈍る頭の中に淡々と響く。

「……お前の中のお前を、早いとこ解放してやる事だ。そうすればまた歩き出せる…………」 

 意識が消えるその瞬間。

 しかし最後に耳にしたのは男の言葉ではなく、男の言葉を聞いてぴくりと跳ねた――――己の心臓の、その音だった。

 


 

 虚無ではない。

 己が感じていたのは虚ろではないことを、あの時、悟らされた。

 初めからだ。

 生まれてからずっと、この身の内を満たすものなどありはしなかったのだ。

 それに気づいたのはいつだったか。

 解らないが、その道の始まりは覚えている。

 家を出て武官の道に進み、訓練所を出てしばらく経った頃からだった。

 最初、任されるのは小さな仕事ばかりだった。

 鍛えた剣を振るう機会など欠片もなく、自分でなくとも誰にでも出来る―――そこいらの幼い子供にだって出来そうな、そんな仕事ばかりやらされていた。そんな日々に嫌気がさし、武官を辞めて傭兵にでもなろうかと、そんな事を考えた事もあった。

 だが、結局自分は辞めなかった。

 劇的な変化が起きたわけではない。何となくだ。ただ何となく……自分にも出来る事があるのだと、そう思っただけだ。誰にでも出来る仕事。それを率先してやる者になりたいと、いつからかそう思っていた。そしてその思いを行動に変え、実行し続けるうちに、いつしか執行部隊の隊長を任されるまでになった。

 その道の中で、様々なものを見てきた。

 何度も絶望し、何度も希望を見つけ、そして緩やかに乾いていった。

 気づけば、向かい合う鏡の中には見知らぬ男がいた。鋭くもなく、鈍くもない、平坦なだけの乾いた瞳。全てが色褪せ、全てがやつれていた。それを見ているうちに、むしろ自分の記憶の中にある自分の姿の方こそが、別人だったのだと気づいた。

 人々に感謝の言葉を告げられただけで、顔に満面の笑みを浮かべ、手足が震えるほどの喜びと感動を噛みしめていた、あの日の自分は……もうそこにはなかった。遠くへ行ってしまった。遠くへ、置いてきてしまった。

 それをあの荒野で気づかされたのだ。

 あの日の自分にもう一度戻りたいと願っている自分に、あの時気づかされたのだ。

 ―――この空っぽの心を、人の温もりでいっぱいにしたい。

 そんな望みを、思い出さされた。

 思い出したくなかったものを、視界の端に見せつけられたのだ。

 荒野から帰還して以降。

 それは視界の中から一向に消えようとしなかった。だから出来るだけ真っ直ぐに見ないように努めながら、今までやってきた。

 だが。

 エドガーを見ているうちに、かつての自分とよく似た部下を見ているうちに、それはゆっくりと視界の中心へと寄ってきた。それに怯える自分、それに喜ぶ自分。完全に目の前に現れ、目を背けることが出来なくなったとき、自分の心は破綻するのだろうと、そう思った。だがそれも、今ではない遠い未来の話だろうとそう思い―――そう願っていた。

 ジン。

 遠く望むその瞳。

 弱さと強さを同時に感じさせる、その不思議な輝き。

 かつての自分と似た、しかしかつての自分よりも一歩遠くへと踏み出した少年。

 あの男と同じ剣を使う少年は、遠かったはずの未来を急激に現在へと引き寄せた。我を失うほどの恐怖と、そして歓喜を、その予感を投げて寄こした。

 逃げたかったのか。

 それともとどめをさして欲しかったのか。

 だがどちらも、あまり変わらない。

 ―――結局私は、敵である彼に縋り付こうとしただけなのかも知れない……。

 手にした剣。

 その歪な鏡の中から、じっとこちらを見つめ返してくる自分は、自嘲こそ浮かべているものの、まだ壊れてはいなかった。それがまた、鎖の音をがしゃがしゃと奏でる。

 ここから出せ。

 ここから出たいと、声にならぬ声でそう叫んでいる。

 だがそれも、着実に弱ってきている。

 待つだけで良い。

 こうして立ち尽くしているだけで、終わりを迎えることが出来るのだ。

 だから。

 だから………。


「―――――俺はまだ、諦めてない……」


 ぎょっと顔を上げる。

 いや、むしろ視線は下を向いた。

 木の根元に転がっていた少年が、両手を地面につき、のろのろと頼りない動きで立ち上がろうとしていた。

 それは―――最弱の存在に見えた。

 弱々しく、無防備で、慈悲も救いも希望もない世界の中では、とても生きていけないだろう、儚い意志に思えた。

 だが。

 意志はある。

 確かにそこにある。

 ぼろぼろの少年を突き動かし、その両足で地面を踏みしめさせた。

 黒い瞳が、こちらを。

 だが自分ではない誰かを見つめている事に、ヘルマンは気づいた。


「だから立ち上がれるんだ。そうだろう……?」


 少年はそう言って、小さく笑った。

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