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第四十三話

 差し出された手。

 その先に見えるあの人の顔は、困ったように笑っている。

「立てるか―――ジン」

 正直、身体は痛みを放つばかりで、立つ気力などどこにもなく、泣かないようにするのが精一杯だった。

 だが。

「……うん」

 手を伸ばす。

 がさがさした大きい掌に、暖かく包み込まれた。力強く引っ張られ、そのまま抱き上げられる。すぐ近くに来たその顔は、少しだけ笑みが深まったように見えた。

「よし。それじゃ、帰るか」

「うん」

 片腕で抱き上げたまま、あの人は歩き出す。

 見える世界はいつもよりも高い。

 地面が遠ざかった代わりに、空がちょっとだけ近づいた。

 何となく手を伸ばしてみる。

 掴めたのは春の風だけ。

 夕焼けに染まるそこは、それでもまだまだ遠かった。

「どうした?」

「何でもない」

「そうか」

 立ち上がる意志も、その力も、決して自分の中には存在しなかった。

 手を伸ばしたのはただ、その手を握りたかったからだ。その手に握られたかったからだ。

 近くで。

 その温かさに包まれたかった。

 それだけ。

 本当に、それだけだった。



 渡された木の棒を何度か振るう。

 枝の先端が風を切り、ひゅんひゅんと音を立てた。何の意味もない行為。無意識に行うそれは、今から始まる稽古に対し、ほとんど興味がないことの現れだった。

 日課と呼ぶにはまだ足りないこの時間は、十日ほど前から始まった。

 いつものように夕飯を終え、その片付けをした後。カイは唐突にこう切り出した。

 ―――剣の使い方。戦い方を教える。

 そう言われても、こちらとしては首を傾げるしかなかった。狩りの仕方や、天候の読み方、薬草の探し方などを教えてもらったのは、もうだいぶ前の話だった。それらの授業が一通り終わった後、カイはこれだけ知っていれば十分だと、そう言って頭を撫でてくれた。知識を蓄える時間は終わったのだと、そう思っていたのだけど……。

 暖炉で燃える炎に横顔を照らされたカイは、今まで見た事のない表情を浮かべていた。

 元々、何を考えているか解りにくい人だった。

 頬はほとんど上下せず、笑うときも怒るときも、口の端や目元でしか感情を示さない。だけどその分、カイの黒い瞳はいつだって、時と共に色を変える空のように、言葉では言い表せない様々な光と影に満ちあふれていた。楽しそうなときは昼のようにきらきらと輝き、そうでない時は夜のように深かった。

 その時のカイは、というと。

 薄い表情はいつもと変わらない。怒っているわけでも、楽しんでいるわけでもないことは解る。それ以上は読み取れない。

 そしてその黒い二つの瞳の中には、こちらを真っ直ぐに見つめているはずなのに、遥か遠くを見据えているような、何とも言えない不思議な光が踊っていた。空に例えるのならば、そう。

 黄昏時。

 昼を夜へとつなぐ、儚く淡い、狭間の世界。

 沈む太陽に、そのほとんど金色に染め上られた無限の空。その彼方には夜の黒が見え隠れし、黄金を挟んだ反対側には、昼の蒼が歌っている。光と闇が混ざり合う、曖昧で不明瞭な時間。

 それはとても美しく、そしてどこかもの悲しい。

 カイはそんな瞳で、こちらを見ていた。


「俺はお前に何も強制しない。今までも、そしてこれからも」

「うん」

「だからやるかどうかは、ジン、お前が決めろ。お前は戦い方を教わりたいか」

「うーん、何と戦えば良いの? 兎? 猪? それとも狼?」

「いや。それもお前が決めるんだ。戦うべき相手も、お前が決めるんだ。戦うかどうかも、だ」

「良く解らないけど、それって役に立つの? 狩りとか、薬草の知識とかみたいに」

「役に立つかも知れないし、そうでないかも知れない。戦い方というのは、知識でもなければ技術でもないんだ。手段―――選択肢の一つだ。意志ある他者と向き合う時の、自分と向き合う時の、一つの形だ」

「全然解んない」

「難しい話に聞こえるだろうが、実はこれはとても単純な話だ」

「そうなの?」

「ああ、単純だ。早い話……与えられる以上のものを、己の手で掴み取ろうとするかどうか、だ」

「与えられるもの……」

「お前は今はまだ幼く、お前が手にしているもののほとんどは、俺に与えられたものばかりだ」

「……僕の弓は僕が作ったよ? 今日の夕飯の食材だって僕が―――」

「そうじゃない。そうじゃないんだ。ジン、一つお前に聞きたい」

「何?」

「お前は何か欲しいものがあるか。肉とか野菜とか、良く切れるナイフとかじゃないぞ。お前がお前の全てを失っても手に入れたいもの―――全てを失ってもまだ、手に入れるには足りないもの。そういうものを、お前は持っているか?」

「……ないけど」

「そういう顔をするな。それで良いんだ。早い内にそれを持ってしまえば、むしろ悪い―――とまではいかないが、良いとは決して言えないしな。一生を通して探し求めていくものだし、死ぬまで持てないものかも知れないからな」

「僕には良く解らないよ……カイはそれを持ってるの?」

「私か? ああ、そうだな―――私は持っていた。持っていると思っていた。だが時が過ぎ、それが錯覚だったのだと考え直した。それは偽物、模倣に過ぎなかったんだと思い………そして今また、それは真実だったんじゃないかと、そう思っている」

「うーん?」

「ああ、私の話は良いんだ。これはお前の話だ……ジン、お前は今、それを持っていない。そうだったな?」

「うん」

「お前はいつかそれを見つけるかも知れないし、見つけられないかも知れない。だが、もしそれを見つけ、それを叶えたいと願った時、お前は戦わなきゃならない。私が教えるのはその方法だ―――手の伸ばし方だ。だがな、手を伸ばすかどうかは、お前が決めるしかないんだ。他の誰も口出しは出来ない。それはお前だけのものだからだ。私が先ほど口にした問いは、それ自体ではない。だが、それに繋がる一歩に違いないんだ。だから、ジン――――深く考えても、適当に決めても良い。お前の答えを聞かせてくれ。お前の意志で、選んでくれ」

「カイ……?」

「お前は戦い方を教わりたいか――――?」 

 

 少し離れたところでこちらを見ているカイは、同じような棒きれを握っている。

 稽古が始まってまだ少ししか時間は経っていないのに、こちらの身体は既に傷だらけ、呼吸も荒く足下が定まらない。それより何より、悲鳴を上げているのは心の方だった。

 痛くて、苦しくて、きつい。

 弱音ばかりが騒ぎ立てる。

 何のためにやってるか解らず、だからこそ終わりが一向に見えてこない。

 一番きついのは、こちらをじっと見つめるカイのその目つきだ。

 何も見ていないような瞳。

 怒りが込められているわけでも、無視しているわけでもない。それはただ、こちらを周囲の景色の一部としか見なしていないようだった。

 それが悲しかった。

 泣きたいほどに、辛かった。

 ―――僕はここにいる。僕を見て。僕の名前を呼んで……。

 それだけしか考えられない。

 だから、身体がふわりと宙を舞い、地面に叩きつけられた時も、それだけしか考えていなかった。

 力が入らず、もう少しも動けない。

 それを頭で理解すれば安堵が心を満たした。

 待ち望んでいた稽古の終わりがきた事を、ただ喜んだだけだった。

「立てるか―――ジン」

 静かな声と、差し出される大きな手。

 動けない身体は、それでもそれに向かって腕を伸ばした。

「うん……」

 暖かさと力強さが、いつものように身体を抱き上げてくれる。

 それがただ嬉しくて、嬉しくて。

 さっきまで感じていた孤独は冗談のようにどこかへと吹き飛んでいた。

 地面が遠く、空も遠く。そしてカイは近かった。

 それだけで良かった。

 この人さえいれば良いと、そう思った。

 この人が喜ぶ顔を見たいと、それだけを願った。

 だから今も手を伸ばした。

 だからあの時も頷いた。

 本当は戦い方なんてどうでも良かったのに。

 本当はこの人さえいれば、他に何もいらなかったのに。他に何も欲しがらなかったのに。

 この人のそばにいられる事だけが、ただただ幸せだったのだから。

「稽古は―――戦うのは、嫌いか」

「……うん」

「そうか。お前は正直だな。まあ、その方が良い。命の取り合いに魅入られるよりはよっぽど。私だって、本当のところは好きじゃないんだ」

「そうなの……?」

「ああ。だが嫌いな事をやってでも、手に入れたいものがあるからな。私は剣を振るい、血を流し、血を流させる。嫌がるお前に無理矢理稽古をつける事だって出来る」

「手に入れたいもののために……?」

「そうだ。私はお前の幸せを望んでいるよ。お前が限りある人生を生き、そして生まれて良かったとそう思いながら死を受け入れる事を、誰よりも強く強く望んでいる。でもそれは、実は難しい事なんだ」

「難しい……」

「私達が生きる世界は、少し前に嵐が訪れたこの森と同じだ。私達は一枚の木の葉。荒れ狂う風に翻弄され、枝から切り離され、そして見知らぬ空をくるくると舞う。どこから来たのか、これからどこへ行くのか。それすらも解らずに、冷たい雨に打たれ続ける。そんな中で大地を見つけ、そこに根をおろそうとするのは、とても大変な事だ」

「うん」

「誰しもそれを望み、しかし全てがそれを叶える事は出来ない。ほんの一握りの者達だけが、根を下ろす事が出来る。だがな、ジン。彼らは選ばれたわけじゃないんだ。自分で選んだだけなんだ。望みを抱き、そして最後まで諦めなかった者が、辿り着いただけなんだ。だから本当は誰でも、根を下ろす事は出来るんだよ」

「……誰でも?」

「証明は出来ないが、私はこう信じてるよ――――人に選べない現実なんてない。不確かな未来を願う必要はないんだ。いつだって人は、望む現実を手に入れる事が出来るんだから。私達は……お前は、望むだけでどこまでだって歩いていけるんだ」

「うん……」

「ジン。お前がそれを見つけた時、お前は数え切れないほどの、様々な困難に出会うだろう。そしてその困難の中には、お前の膝を折るものもあるだろう。だがな、ジン。お前がそれを諦めない限り………」


「お前は何度だって立ち上がれるんだよ」 

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