第四十二話
空気が、変わる。
突然雨が止んだと錯覚するような、劇的な変化だった。
ザァルは一瞬呼吸を止めた。
彼が止まる枝からは、ヘルマンは後ろ姿しか見えず、どのような表情をしているかは解らない。だがその顔が蒼白になっているだろう事は、声の質から明らかだった。
「答える必要はない」
その一言で、空気ごとヘルマンの問いを切り捨てたジンの顔は、ヘルマンとは対照的によく見えた。無表情。瞳だけが、あの不思議な光を放っている。
「……ならば肯定か否定かで良い」
ヘルマンの声は震えていた。
ザァルは一瞬、それが少年に対する怒りによるものだと考えた。しかしその震えにむしろ熱が欠片も存在しない事に気づき、己の勘違いを悟った。
その声は、どうしようもなく凍えていた。
「くどいな。俺はあんたとお喋りをしたいわけじゃ――」
ジンは微かに苛立ちを零した。剣の切っ先を僅かに揺らしたところを見ると、もしかしたら行動で示そうとしたのかも知れない。だが次の瞬間、その切っ先はぴくりと大きく震えた。
「隻腕」
色を失ったのは、今度はジンの方だった。
苛立ちをはぎ取られた少年の顔は、憐れなほどに引きつった。
「左腕だ。二の腕の辺りからない……そして左足を、引きずるようにして歩く。黒髪、黒目。人間の男―――カイ・アドゥーアライ」
ぞわぞわ、と。
足の長い真っ黒な蜘蛛が身体の中を這いずり回ったような、そんな気分をザァルは感じていた。
良く知った名前。
彼の周りでは知らない者の方が少ない名前である。
だが彼を含めたほとんどの者達は、その名前と漠然とした情報しか知らない。会った事もなければ、会った者と遭遇した事もない。本当に存在しているのかどうかすらあやふやな、しかし誰もがその名前を聞く度に不吉を感じる、得体の知れない人間の男。
〝放浪者〟
噂では白の惨劇を初めとする、天界魔界に伝わる人間界で起きた様々な出来事。男はそのほとんどに関係していると言われている。だが如何なる調査を試みても、その男に関する具体的な情報は何一つ得られなかった。隷王の出現以降、突出した人間に対し、強い緊張感を抱いている天主アーガス及び現魔王は、放浪者の顔を映した映像記録にすら莫大な懸賞金をかけているほどである。しかし、未だにその実態は謎のまま、緊張感だけが高まり続けている。それほどの人物だった。
ザァルは混乱していた。
何故このタイミングでその名が出てくるのか解らなかったからだ。彼はただ、強制睡眠の矢を受けたヘルマンの意識が混濁し、適当な言葉を呟いただけなのだと、そう考えた。
だが。
「――――なぜお前が、カイを知っている……」
ジンが囁きを投げた。
その唇は青白く、小刻みに震えている。
動揺と言うには生温い。
死人を思わせる、生気が欠片もない顔をしていた。
「やはり、直接習ったのか。だろうと思った……君の事が妙に頭に残っていたのは、あの男の影がちらついていたからか」
ヘルマンは淡々と、噛みしめるように呟いた。納得がいったという風に頷く。
自己完結したヘルマンに対し、生気を失ったまま、ジンは声を荒げた。
「なぜお前がカイを知っている!? 答えろ!」
叫びは、悲鳴に近かった。
今にも泣き出しそうに顔を歪め、必死で歯を食いしばっている。耐えているのか涙ではないかも知れない。涙よりももっと黒々とした、奈落の底を思わせる深い闇だ。ぐらぐらと揺れるその瞳からは、その一端が顔を出している。憎悪だの悲哀だの、ありとあらゆる暗く激しい感情が寄せ集められ、煮詰められ、それを抱えている当人すら何を感じているか解らない、気が触れるほどの痛みを伴った、闇の一部―――絶望の先兵だった。
「有名な男だよ。天界でも魔界でも、何らかの政務に携わっている者なら誰でも、情報通の一般人でも知っているだろうな」
「あの人は! カイは―――今どこにいるんだ……!」
「私も知らない。どこにいるのかも、どこにいたのかも。知る者はほとんどいない。私は一度会ったことがあるだけだ。それも二、三会話を交わしただけだ」
「会ったのか!? どこで!? あの人は何をしていた!?」
「極秘の任務中の事だから、詳しくは教えられないな」
「なっ―――――」
ジンは咄嗟にヘルマンに詰め寄ろうとした。
しかし、顔の前に突き出された剣の切っ先に、動きを止める。
瞳に怒りを滲ませた少年に、ヘルマンは冷たい声で囁いた。
「三年前だ。あの男は武官の精鋭部隊をあっという間に壊滅させた。教えられるのはそれくらいだ」
その顔は、やはりここからでは見えない。
見えないのだが。
「―――手も足も出なかった。武官最強と呼ばれたこの私が、だ。自惚れているつもりなどなかったがな。あれはさすがに、悔しかった………命すら奪われなかったのは、本当に……」
その瞳の奥に、ある一つの炎が揺らめいているだろう事は、ザァルには容易く理解できた。ヘルマンが放ったのはそういう声だった。
「子供か、弟子か。どちらでも良い。剣を受け継いだのであれば、それだけで十分だ――――この苦みを取り除くには足らないが、きっと少しは薄められるだろう」
ヘルマンの重心がゆっくりと沈む。
獣が四肢をたたみ、爆発的な力を貯めるような、そんな動きだった。
我を忘れていたジンは、それを見てやっと身体に緊張を戻した。剣を構え、呼吸を整えていく。しかしその心が平静を取り戻していない事は、その顔つきから明らかだった。身にまとう空気すら、焦燥に震えているようだった。
「私情により、君を倒させてもらう――――!」
復讐の炎が解き放たれた。
× × × × ×
その一撃は、音よりも早く届いた。
反射的に剣を掲げることは出来たが、受け止めるには至らなかった―――身体が浮き上がる。
後ろに吹き飛ばされる中、ごっ、と耳に響いたのは、無理矢理圧迫された肺が吐き出した、大量の空気。視界が刹那、真っ白に染まった。
地面はどこだ、と。
生まれて初めて頭に湧いたその問いは、しかし答えが出せぬまま、背筋を悪寒が走り抜けた。視界はまだ回復を遂げておらず、気配だけを頼りに首をぐいと捻る。
喉元に熱。
それから一瞬後れて、風が切り裂かれるその音を耳にした。足裏が何とか地面と再会を果たしたのと、視界に色が戻ったのは、ほぼ同時だった。
最初に目に入ったのは銀光。
瞳ではそれが剣であるかどうか判別がつかないほど、驚異的な速さで振り抜かれるそれは、風にたなびく千切れた帯のように見えた。銀の帯は下へと――こちらの左足へと落ちてくる。
手にした剣を地面に突き刺すようにしてそれを受け止めれば、獣が岩に食らいついたような、鈍い音が振動を伴って伝わってきた。剣を握った腕がびりびりと痺れ、反応が著しく低下する。
まずい。
というその呟きは、剣とは真逆――右から頭を襲ったその衝撃に、どこかへと霧散した。
ぱっと火花が散ったような感覚。
一瞬見失ったのは地面ではなく、むしろ己の意識そのものだった。闇のようなものの中から脱出出来たとき、身体は地面に転がっていた。
状況と痛みを思い出す。
後者は捨て置き、咄嗟に地面を転がる。
直後、すぐ側を垂直に何かが通り過ぎるのを感じた。
それが何であるか確かめる事などせず、下半身のバネだけで飛び起きると、奇跡的に手の中に残っていた剣を振り返りざまにそちらに叩きつけた。
剣は虚空だけを切り裂く。
反撃を予想して身体をすぐさま弛緩させるが、視線が捉えた男の姿は、こちらから離れたところに立っていた。
後退するほどの攻撃ではなかったはずだ、と。
一瞬疑問が生じるが、自分を見据える男のその表情を見て、後退の意味をすぐさま理解する。男の顔は―――ひどくつまらなそうだった。
「……あの男の話をしたのは失敗だったか。あまりにもお粗末だ―――貴族出身の新兵の訓練にかり出されたときも、これほどの気分にはならなかった。今の君は、あのへたれども以下だ」
言葉を吐き捨てた。
別段、それについては怒りは湧かない。
というよりも、男が何に対して幻滅しているのかが、良く解らない。男のそれは内心を吐露しただけのものに違いなく、こちらに向けて放たれたものではないのだろう。だからそう、次のその台詞を聞くまでは、心は静かなままだった。
「カイ・アドゥーアライも愚か者だな」
「なん、だと―――――」
何を思うよりも先に、言葉が口をついて出た。
男はこちらを見つめていながら、その言葉を聞いて始めてこちらの存在に気づいたとでも言うような、そんな表情を浮かべた。そして憎々しげに鼻を鳴らした。
「愚か者だよ。何を考えて君に剣を教えたかは知らんが、正直気が狂ったとしか思えん。やつが使う剣は本来形がないものだ。カイ・アドゥーアライという存在を、攻撃の意志で統一したような、ひどく抽象的で概念的なものだ。肉体、心、経験、そして理想。あの男が長い年月をかけて、自分のためだけに作り上げた戦闘理論だ。あの男にしか使えんものを、誰も使う事は出来ん。人に教える事など以ての外だ。君のそれは――――ただの物まね、偽物だよ」
噛みしめた歯がみしりと軋む。
その音が耳に届いた時には、身体は既に駆けだしていた。
『―――重心は身体の真ん中に置け。どんな時も決して偏らせてはいけない』
嘲るような瞳でこちらを見つめる男の首めがけて、剣を下から振り上げる。
『必要以上の力は込めるな。剣は切り裂くものだ。だが傷つけるのは目標だけ。他の何も切り裂くな。目標に当たる寸前、刃先だけを滑らせろ』
剣は速く、しかしゆったりと虚空を泳ぐ。
風と交わり、悲鳴を上げさせたりはしない。
男の首筋にぶつかる寸前、手元に引き戻すようにして剣を動かした。
「―――無駄だ」
男の剣が無造作にそれをはたき落とす。
こちらが何か行動を起こすよりも早く、返しの動作で放たれた白刃が、下から右の脇腹を狙ってくるのを剣の腹で反射的に防ぐ。
瞬間、眼前に何かが大きく広がった。
拳。
それを理解するのと殴り飛ばされたのは、ほとんど変わらないタイミングだった。
衝撃が頭を揺さぶる。
雷が身体を走り抜けたような感覚。
意識が砕け散り、何も解らなくなった。
しかし背中に生じた新しい衝撃が、強制的に意識の復旧を行う。猛烈な吐き気と耳鳴りを伴って、視界が回復を遂げる。ぐにゃりと歪む視界の中で、男がこちらを見下ろしていた。
―――俺は……倒れているのか……。
意識が戻ったばかりの頭の中で、その呟きが反響する。それを裏付けてくれるはずの目や肌の触覚は、ほとん機能していない。視覚は相変わらず色を垂れ流すだけで輪郭を保つには至らず、手足に至っては重いだけで、指先の感覚はあやふやだった。辛うじて耳だけは、他よりも早く回復を始める。耳鳴りの狭間に聞こえてきたのは、遠くから響く男の声だった。
『立てるか―――ジン』
閉ざした扉。
切り捨てたはずの過去に、一瞬で心を飲み尽くされた。