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第四十一話

 少年が鼻を鳴らす。

 それが――――戦闘の合図となった。

 ぞわっと音を立てたのは、少年の身体に弾かれた雨の音である。

 雨粒の軌道がでたらめに飛び散ったと思ったときには、少年は既に目の前で短剣を振り抜きかけていた。迫る死の予感にヘルマンはしかし慌てず、冷静に手首の動きだけで剣を振るった。

 ギリッと歯ぎしりのような音が響き、短剣が彼の剣に軌道を阻まれる―――と、その反動を利用した第二撃がヘルマンの足を急襲していた。

 ヘルマンは咄嗟に重心を後ろに転がした。

 身体が滑るように、ほんの僅か後退する。しかしそれで十分だった。

 膝のすぐ隣を短剣が通過するのを感じながら、剣を少年のがら空きの胸に打ち込む。が、その一閃は、雨粒をいくつか切り裂いただけに終わる。

 視界から消えた少年を、しかしヘルマンは気配として捉えていた。視線を素早く下に向けると、地面すれすれを這いつくばるようにした少年が、短剣を真っ直ぐに突き上げてくるところだった。

 首や胴体から離れたところを狙う軌道。

 その終点には剣の柄を握るヘルマンの指があった。

 少年の狙いに気づくのと、彼が剣を放したのはほぼ同時だった。

 白刃は剣の柄だけを突き上げる。

 その鈍い音を耳にしながら、ヘルマンは重心が浮き上がった少年の身体を開いた両手で掴み、己の後方に引きちぎるような勢いで放り投げた。

 落下してきた剣の柄を、勘だけでつかみ取ると、放り投げられて地面に転がる少年へと、手にした剣を振るおうと力を込め―――そして己の指に走った痛みに、腕を止めた。

 視界の隅で、剣を握る右手の人差し指と中指が、あり得ない方向に折れ曲がっていた。

 ―――投げられながらへし折ったのか……!

 その考察が、ヘルマンの顔を喜悦に歪ませる。

 ゆらりと地面から立ち上がった少年は、その輝く瞳で彼を見ると、口の端から零れる血を拭った。しかし上手いこと受け身を取ったのか、外傷はそれくらいで、手足からは少しも力が抜けていない。少年が短剣を再び構えたのを見て、ヘルマンは戦闘の続行に胸を躍らせた―――が、突然少年は身を翻すと、暗い森の中へと駆け込んでいってしまった。

 逃走―――のはずがない。誘っているのか……。

 だが、こちらには追う理由がない。

 森脱出の障害となる悪魔が死んだ以上、エドガーと少女の元へ戻り、彼らを引き連れて天界へと帰還する、何らかの方法を実行すれば良いだけなのだ。少年とは違って、ヘルマンには彼と戦う絶対的な理由は存在しないのだから。

 しかしそう考えるヘルマンの身体は既に、森に消えた少年を追って走り出していた。留まる理由の方がむしろ存在しないとでも言うように、一切の躊躇もなかった。事実、自分の足を止めるものを、彼は見つけることが出来なかった。

 戦いたい。

 その純粋すぎる思いを前にすれば、命よりも大事なはずの任務は、彼の行く手に降りしきる雨ほどの障害にすら、なり得なかった。

 ヘルマンは昂揚だけを胸に掲げ、木々の中へと飛び込んだ。



 雨音が幾分か和らぎ、聴覚が広がっていくような感覚を覚える。

 ヘルマンは静かに、すり足でゆっくりと歩いていく。

 腰を落とした彼は、剣を低く構えている。

 上下左右の奇襲に対抗するための形である。木々の枝葉が雨の大部分を遮ってくれるお陰で、視線も通るようになった。しかし同時に光も遮られ、森の中は気の早い夜が訪れているようでもあった。

 影が多い。

 視界の隅で動くものを見つけ、さっとそちらに剣の切っ先を向けるが、それは雨に叩かれ動いただけの、背の高い草だった。

 光の加減で、時折人のように動く草木の影たち。

 その中の一つが少年ではないかと、無意識に注意が引き寄せられる。

 ヘルマンは視線を平たく滑らせながら、五感を鋭く研ぎ澄ませた。

 ―――少女は彼を狩人と呼んでいた。悪魔を仕留めた一撃を考えても、気配を断つ術に秀でている……果たして私に発見は可能だろうか……。

 狩猟者に最適の空間。

 少年はヘルマンを目にする事が出来る場所で、息を潜めて様子をうかがっているはずだった。だが加減されたとは言え、以前して雨音が鼓膜を叩き続けている。呼吸や、身動きの時に発する様々な音を聞き取るのは困難で、耳は頼りにはなりそうもない。影が踊る暗がりでは、視覚はむしろ障害になり得る。その上気配すら感じられないとあっては、こちらから少年の姿を捉えるのはほとんど不可能に近かった。

 ヘルマンは足を止める。

 発見が不可能であれば、動くというのはむしろ危険を増やす。足を止め、襲いかかってきた少年を迎撃する。彼はそれを選択した。

 ……体術は中々のものだった。あれほど速く動けるものは、武官の中にもそう多くない。だが、あれは所詮速いだけだ―――。

 体裁きは荒い。

 反応も速く、決断力も高いらしいが、対人戦闘の経験はほとんどないのだろう。動きながら攻撃をかけ続ける事によって、何とか耐えている節がある。足を止めて全うに打ち合えば、こちらの一撃を受け止めることも出来ないはずだ。懐に入らせなければ、問題はない……。

 懸念があるとすれば、毒や呪いの類である。

 ヘルマンは先の戦闘で魔力のほとんどを消費していた。元々魔力が大きくない上に、悪魔の毒を無効化しなければならなかったため、既に空に近かったのだ。もし呪いや毒を浴びせられれば、今度はまともにくらってしまう。

 しかし、悪魔を殺した矢。そして短剣。

 そのどちらも、こちらの肌を傷つける程度の強化はされていたが、一撃で致命傷を負わせるような魔力付与はされていなかった。それに強力な効能を持った矢であれば、別に悪魔が大規模魔法を放とうとするあの瞬間でなくとも良かったはずだ。ヘルマンと戦っている間の悪魔は、敵である彼だけに集中していたため、ずっと隙だらけだったのだから。それをしなかったという事は、悪魔を破滅させるだけの能力を有していなかったという事だ。少年をサポートしているという魔導師の腕はあまり高くない。万が一戦闘に参加してきても、十分対処できる……。

 雨に濡れた身体は、驚くほどに熱い。

 頭の中はかつてないほどに澄み渡り、五感を通じて入ってくる情報が、一瞬の混雑もなく整頓され、処理されていく。

 ヘルマンに胸を叩くのは、恐怖ではなく期待だった。気を抜けばすぐさま笑い出してしまいそうな、甘く痺れる緊張感。

 彼の感覚は、時を置かずして最高潮に達した。

 草木の影に惑わされなくなり、聞く必要のない雨音は段々と遠のいていく。剣を握る右の手――その折れた二つの指は、痛みから解放され、当然のように力強く柄を握りしめている。

 五感は一つの形へと練り上げられていく。

 そこに経験と勘が加わった時、ヘルマンの世界は完成した。

 小さな世界。

 剣が届く彼の間合い。

 しかしそこにある全てのものを知覚する事が出来る。

 それはきっと錯覚だったのだろう。

 だがヘルマンはその時、それを事実として認識した。この間合いに置いて、自分に捉えられないものは存在しないと、彼はそう理解した。そして彼は次の瞬間―――死角から飛んできたはずのそれの姿を、完全に捉えていた。

 拳大の石。

 その色や形、肌触りなどが、気配を感じただけで頭の中にイメージされる。ヘルマンは何の違和感もなく己の超感覚を受け入れた。剣を上げる事もなく、足を動かすこともなく、身体を揺らすだけの動きで、飛んできた石を回避した。そして彼は、爆発的な勢いで森の中を走り始めた。

 石の軌道――実際に目にしたわけでも放物線の、その開始点を彼は目指していた。

 ―――投石は陽動。敵を誘い出し、自分はその側面か背後に回り込んで本命を放つ……その途中で叩く!

 ヘルマンは突然足を止め、進行方向と直角に――左に身体を回転させる。彼が方向転換に要した時間は、ほとんどゼロに近かった。走り続けたまま横に曲がったようにも見える、まるで出来の悪い幻術のような光景だった。

 先ほどの石は彼の背後、それも真っ直ぐではなく、僅かに右の方から斜めに飛んできた。

 こちらの背後に回り込むために、少年は彼から最も離れた、しかし出来るだけ短い距離を駆けるに違いなかった。背後から真っ直ぐ石を投石すれば、右から回り込むのも左から回り込むのも、距離は変わらない。だがどちらか一方に、少しだけ寄った場所から投げれば、話は違う。

 背後からの攻撃はどうしたって反応しにくい。何とか回避したとしても、投石の場合、それが後ろから飛んできたとしか解らない。方角があやふやになりやすい森の中であれば尚更だ。

 右か左か。相手の真後ろから一歩横に踏み出した地点から投擲する。すると真後ろから投げられたと勘違いした相手は、本来の投擲地点からずれた場所に敵がいると思い込む。すると投擲者は一歩踏み出した側に、広い安全スペースを確保する事が出来る。後ろに回り込むのも、より短い距離で済む―――が、それも全て、相手が石の軌道を確認できなかった時の話だ。

 石は僅かに右から飛んできた。

 視覚では捉えていないそれに、ヘルマンは確信を抱いている。故には彼は、少年が右に一歩踏み出して投げたのだと、そう理解していた。

 ―――狩人の知恵か。獣はともかく、人を狩った事はないんだろうな……!

 ヘルマンは獰猛な笑みを暗闇に放ち、視線を素早く左右に滑らせた。そして、

 ……見つけた―――!

 木の陰に隠れた、短剣を手にした少年の姿を捉えた。

 歓喜は地を駆ける原動力に変える。

 身体を深く前に倒し、剣を横に尽きだしたヘルマンは、獣のような疾走を開始した。

 白髪の悪魔の時とは異なり、彼我の距離は驚くほどに短く感じられた。それは彼がこの戦闘を楽しんでいる事の現れであり、そしてこの時間がもっと長く続けばいいと、そう考えていたからに違いなかった。

 故に疾走の勢いを利用して剣を振り抜いた時、ヘルマンの心を襲ったのは、息を吐きたくなるような淡い色をした寂しさだった。しかし彼はその寂しさすらも剣に乗せ、少年の身体を胴から両断した。

 だが。


 ―――軽い!? これは……偽物か!


 剣が切ったのは、ちょうど少年ほどの大きさの、一本の木だった。少年が来ていた上着と、少年が手にしていた短剣を枝に括り付けられただけの、粗雑な代物だった。

 そして驚愕に満ちたヘルマンの耳に、どすっというその音が無造作に飛び込んできた。

 音の発信源は腹部。

 一本の矢が、深く突き刺さっている。

 矢が飛んできただろう方角を呆然と探れば、何とそれは彼の目の前。そこに立つ大樹の枝の上―――上着を脱いだ少年が、弓をこちらに向けて構えていた。

「ははっ!」

 思わず笑ってしまう。

 間髪入れず飛んできた第二矢を、剣ではたき落としながら大きく後ろへ飛び退った。

 ―――こちらの行動を読んでいたのか、それとも咄嗟に作戦を変えたのか。やってくれるじゃないか………!

 少年が枝から飛び降りてくる。

 その手に弓はなく、代わりに長剣が握れていた―――と、じっとこちらを見つめる少年の姿が、ぐにゃりと歪み始めた。

「――――っ!」

 浮遊する意識を、歯を食いしばって何とか保ち、刺さった矢を抜き捨てる。

 毒か。

 いや……これは、そうじゃない。この感覚はそう……。

「強制睡眠、か―――!」

 膝が砕けかけるのを必死で抑制し、ぶれる視界の中央に少年の姿を据える。その手に握られる剣がこちらに向けられるのを目にしたヘルマンは、咄嗟に左手の指を、先ほどまで矢が刺さっていたそこに素早くねじ込んでいた。

「あああ、あああああああああ!」

 全身を走り回った激痛が、眠気を一瞬で吹き飛ばす。

 感覚と頭からは靄が晴れた。

 だが身体は寝起きのように重く、指先などの末端はまるで手袋か何かのように曖昧なまま、硬い剣ではなく、雲でも握っているような気分だった。

 でも―――まだまだ戦える。

「これくらいでは私は倒せんぞ。さあ、次はどうする……?」

 無表情にこちらを見つめる少年に、そう言葉を投げかけた。

 確かに身体は鈍くなったが、感覚の冴えはまだ途切れていない。むしろ先ほどよりも鋭くなったような気さえする。ヘルマンは驚くほどに重い剣を、少年へと向けた。

 返答は、同じく剣を持って行われる。

 少年は左足を軽く後ろに引き、右手で握った剣を地面に向け、静止させる。何も握っていない左手はだらりと腰の横にぶらさがり、力のこもっていない指先は剣同様に地面を刺した。そして呼吸のリズムを、深く深く変えていく。どうやらその不自然な体勢が、何かの構えらしいが、

 ―――まさか、これは……!

 それを見たヘルマンは唖然とした顔をした。

 脳裏にちらついたのは、少年ではない別の男の姿。

 目の前のそれとよく似た形で剣を構える男の、その黒い瞳だった。

 記憶の中の瞳に囚われたヘルマンは、しかし―――いや、記憶を掘り起こしていたからこそ、剣を握る彼の手を無音で襲ってきたそれを、反射的に防いでいた。

 ギギと虫の鳴き声のような音が響く。

 弾かれた少年の剣は、すぐさま弧を描くように、腕の内側へと飛び込んできた。

 ヘルマンは後ろに飛び退り、余裕があるとは決して言えない動きで無理矢理回避する。

 僅かに切り裂かれた軽装鎧の下から、赤い血がにじみ出してくる。その痛みに、目の前のそれが現実である事を、ヘルマンはやっと理解した。

 少年と記憶の中の男の姿が、はっきりと重なった。


「その剣を――――君に教えたのは誰だ」


 ヘルマンの声は、どうしようもなく掠れていた。 

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