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第三十九話

 その名を思い出すのに、時間はほとんどかからなかった。

 短いため、覚えやすく思い出しやすかったという事もあるが、その人物のあり方が不思議と強く心に残ったためである。邂逅からずっと、頭の隅でその存在を意識していたのは、きっと再会を願っていたからだった。

 それが叶った―――のだが。

 ヘルマンの心に広がったのは喜びではなかった。

 蠢くのは二つ。

 燃えさかる炎を近づけられたような焦燥。

 そして喉元に剣の切っ先を突きつけられたような、喉をひどく渇かせる恐怖だった。

 ヘルマンは自分の思いを訝った。

 少年が手にした弓は、ひょっとすると悪魔を殺したのかも知れないが、それは今、自分には向けられていない。物言わず佇んでいるだけで、敵意や殺意といったものを発してはいない。その瞳も、


 ―――あれは一体、何だ……?


 喉の渇きが一段と強くなる。

 黒い瞳。

 雨が降りしきる中、それを捉えるのは困難であるはずなのに、そこにある事が―――こちらを真っ直ぐに見つめている事が、確信を持って理解できる。それどころか鼻がぶつかりそうな程の至近距離から、じっと覗き込まれているような気さえした。

 息苦しい。

 敵意を向けられるよりも、殺意を向けられるよりも、その瞳で見つめられる事がひどく息苦しい。

 何を考えているのか。

 それが全く解らない、完全な黒。

 その瞳に見つめられ、見つめ返している内に、ヘルマンはそして、自分が少年から感じたのは恐怖ではなかった事を悟る。

 ――畏怖。

 身を震わせる恐怖ではなく、膝を折らせ、地に這わせるそれである。

 焦燥は明確な根拠があるものではなく、畏怖に誘発されただけの、本能的な感情でしかなかった。

 雨に濡れるヘルマンの額に、粘り気のある汗が混じる。

 ……飲まれかけている。

 兵士として鍛え上げられた冷静な思考が、それをはっきりと示唆する。その事実は彼の心を完全に落ち着かせるには至らなかったものの、取るべき行動を思い出させる事は出来た。

 

 駒として役割を果たせ――――。

 

 意識と無意識から同時に促され、ヘルマンはゆっくりと口を開いた。

「……君が悪魔に矢を放ったのか?」

 雨音に負けぬよう、腹から声を発した。

 まずは確認が必要。

 もし少年がやったのでなければ、別の何者かの存在を探らなければならなくなる。可能性はなくはない。白髪の悪魔――ヴィクトールとは異なる主に仕える魔界の者が、競争相手である彼を殺そうとしたとか。考えてみればそちらの方が、少年が殺したというよりもよほどありそうで、納得しやすい話だった。

 ヘルマンはしかし、返ってくるのは否定ではないだろうと、奇妙な確信を持って考えていた。

 そしてそれは正しかった。

「ああ。俺が矢を放った。その悪魔を殺すために」

 その声はどちらかと言えば軽く聞こえた。

 いや、それはきっとヘルマンが妙な期待を抱いていたからで、実際は軽くも重くもなかった。どうでも良さそうな、聞かれたから答えただけといった風な声だった。

 ヘルマンは問いを重ねる。

「どうやった……? 普通の矢じゃ、悪魔の肉体は貫けないぞ。先ほどの幻術もそうだ。君は魔導師か何かだったのか?」

「魔導師なんかじゃない。俺はただの人間だ。知り合いに魔法を使えるやつがいて、そいつの力を借りただけだ」

「―――それは誰だ?」

「教える必要はないだろ」

 その言葉もやはり、どうでも良さそうに聞こえた。

 ヘルマンは咄嗟に問い詰めかけ、しかしその疑問を取りあえず脇に置いた。彼の知らぬ魔導師の存在よりも、聞くべき事があったためだ。最も重要な問いであるそれを、彼は声にして少年にぶつけた。

「―――君は何故悪魔を殺した。何が目的で、ここにいる……?」

 空を駆ける雷光が、森を一瞬白く染め上げる。

 しばらくして轟音が響き渡り、空気がびりびりと震えた。

 雨音が激しさを増し、耳がほとんど用を為さなくなり始めた。故にヘルマンは会話を続けるべく。少年から答えを聞くべく、そちらに向かって近づこうとした。

 しかし、彼の足の裏が地面から離れるよりも、少年が口を開く方が幾分か早かった。


「イリスを手に入れるためだ―――そしてあんたを倒すために、俺はここにいる」


 何故だか。

 叫んだわけでもないその声は、少しも雨音にかき消されることもなく、ヘルマンの耳元まで確かに届いた。

 次の瞬間、ヘルマンの心の中に膨れあがったのは、舌をかみ切りたくなるほどの羞恥だった。

 それまで。ヘルマンにとって少年は、地上に生きる弱い人間であり、少女を助け育ててくれた恩義ある存在であり、そして成熟にはほど遠い子供でしかなかった。接触した時間は短かったが、彼はその短い時間の中で半ば無意識に、常に少年の心を慮り、可能な限り庇護しようとした。

 それは言い換えれば―――見下していたという事である。場合によっては、悪意を投げかけるよりも惨い仕打ちである。彼が少年にかけた言葉は厳しくはなかったが、優しくもなかった。それはただただ甘く、頭を撫でながら、聞き分けのない子供をあやすようなものだった。

 それを彼は今、自覚した。

 そして見下ろすのを止めた。

 目の前で自分を見据える少年が、自分と対等であることを、羞恥を噛みしめる苦い味と共に、静かに認識した。

 ヘルマンはゆっくりと瞬きをした後、眼前の少年を―――自身の敵を、真っ直ぐに見つめた。その名前を頭と心に焼き付けながら。


 ―――ジン。


     × × × × ×


 ここまでは、上出来だ……。


 鴉の身体を借りたザァルは、雨に濡れる背の高い木の枝から、距離を置いて対峙する二人をじっと見下ろしていた。

 賭だった。

 それも普通なら絶対に手を出さない類の。

 それを考案したのはザァルであるが、それがどれだけリスクの高いものであるか最も深く認識していたのもまた、彼である。だから彼は成功を祈りこそすれ、確信などは全くしていなかった。

 種明かしすれば、それはとても単純な計画だった。

 ザァルが望んだ結果は、ヘルマンとヴィクトールの衝突。

 しかしヴィクトールはありとあらゆる手段を用い、ヘルマンと遭遇しないように努める。ヘルマンはヴィクトールとの遭遇を願いつつも、それを成し遂げるのは困難であった。

 逃げようとする者と、追いかけようとする者。

 その性質を利用し、ザァルは計画を組み立てた。

 役者は二人。

 ヴィクトールになりすましたザァルと、ヘルマンになりすましたジン。魔法を使えば見た目だけなら、本物と変わらない姿になる事が出来る。

 ザァルは偶然を装いヘルマンの視界に入り、本物のヴィクトールの元へと誘い込む。ジンはヴィクトールの前に現れ、本物のヘルマンの元へと追い込む。

 それだけの事だった。

 ヘルマンには不可能であるヴィクトールの発見も、天人や悪魔の気配に敏感なザァルなら容易い。

 最重要な問題である『追い込み』と『誘い込み』のタイミング、そして衝突させる地点の指定も、特性とも言えるザァルの鋭敏な感覚が解決した。

 まずは通信魔法でジンに指示を送り、ヴィクトールがどこにいるかを教える。ただの人間でしかないジンはもちろん、通信を受信は出来ても、送信は出来ない。しかし悪魔の気配を察知できるザァルであれば、ヴィクトールがヘルマンに扮するジンに追い立てられている気配を、そしてどこに向かっているかも知ることが出来る。悪魔の気配に向かって走っていくだけで、ヘルマンとヴィクトールは正面からぶつかる事になる。

 ―――言ってしまえば、本当にそれだけの話だったんだがな……。

 蓋を開けてみれば確かに成功したが、実際は失敗の確率が遥かに高い、出たとこ勝負でしかなかった。

 どちらか一方が幻術を見破られれば終わりだったし、例えばヴィクトールが逃走ではなく交戦を選んでいれば、魔法を防ぐ術を持たないジンは一巻の終わりだった。

 そう。

 この計画で最も困難を要求されたのは、天人でも悪魔でもないただの人間、それも戦闘経験皆無の子供でしかない彼―――ジンだった。

 肉体的な弱さは元より、魔法で身体を加速させて逃げる悪魔を、しかも見通しの悪い暗い森の中で追跡しなければならなかったのだ。離れず、追いつきすぎず、適度な距離を保ちながら、逃げる悪魔にプレッシャーをかけ続ける……。

 ジンはやれると言ったが、正直ザァルは無理だろうと考えていた。魔法が使える自分にすら、まず間違いなく不可能だったからだ。何とか追跡は出来ても、恐怖と焦燥を与える事は出来ない。

 だが少年は、己の役割を果たして見せた。

 しかも追い込みを追えた後、大規模魔法を放とうとするヴィクトールを弓で狙撃するという離れ業も、実際に成し遂げて見せた。

 ―――あれも俺は無理だと思っていた……。

 相手にしなければならない二人の敵の内、ヴィクトールという高位の魔導師は、実際少年が勝てる相手ではなかった。

 無論、ヘルマンも勝機が欠片も見えない相手ではあるが、ヴィクトールよりはまだましだった。魔導師というのは魔法を使えない者にとっては、天敵と言っても良い存在である。こちらが放つ物理攻撃は容易く跳ね返され、しかし向こうの魔法攻撃を防ぐ術はない。奇襲をかけて一撃で仕留めでもしない限り、やり合えば死は確定していると言っても良い。

 更に最悪な事に、よしんばこちらの攻撃が通ったとしても、ヴィクトールという悪魔は死ぬどころか怪我一つ負わない。身体のどこかにある存在の核を破壊しない限り、それを直接的に殺すことは出来ないのだ。ヴィクトールの核がどこにあるのかザァルは知らず、例え知っていたとしても、それを破壊するのはきっと無理だった事だろう。核に命の全てを依存する魔導師達は、当たり前の話だが、それを持てる全ての力を持って強力に保護しているのだ。一撃で破壊できるとは思えない。

 核を破壊する意外にもう一つ、直接的ではなく、間接的に悪魔を殺す方法があった。

 それは魔法の暴走である。

 核を有する魔導師達は、本来恐ろしく不安定な存在である。それは地上の法則をねじ曲げるものであり、世界に逆らっているとも言えるからだ。彼らは石や草木と違い、自然に存在する事は出来ない。魔力を持って、無理矢理その形を維持し続けている、幻想のような存在である。だから彼らは誰よりも魔力を操る術に長け、そして誰よりも魔力に操られている。

 もし彼らが、自分にぎりぎり扱えるだけの大規模な魔法を放とうとした時、その制御を少しでもしくじれば、彼らは暴走した魔力により、存在が崩壊する。それは肉体を持つ者達が、限界を超えて力を発しようとするのにも似ている。ただし、肉体の場合は限界突破した部位が破損するだけで済むが、魔導師達の場合は死に直結する。自分の手で自分の心臓を握りつぶすような行為であるからだ。

 ザァルはそれを狙った。

 正面からヘルマンにぶつかれば、ヴィクトールが勝利する事が出来る唯一の方法は、回避不能の大規模魔法を放つ事である。しかし広域から魔力玄素を集めれば、白の惨劇に巻き込まれてしまう。少量の魔力で構成でき、かつヘルマンを一撃で倒せるだけの破壊魔法。ザァルであれば、その難易度に卒倒しそうなほどの、制御が困難な術式。だが、ヴィクトールは生き残るためにそれを実行するしかない。ヴィクトールはザァルとは違って、魔界でも指折りの魔導師であり、そんな自分を誇りにしている。だからこそ、暴走の危険性もある魔法を放とうとする事は、かなりの確信を持って予測できた。

 結果としてヴィクトールは強力な魔法を編み上げた。そしてヘルマンに向けてそれを放とうとした寸前、少年の矢を額に受けて集中力を失い、魔法を暴走させ死亡した。

 ―――タイミングは俺が指示した。だが、撃てと言われて指を離すだけの、そんな簡単な話じゃない。矢を放つのが一秒早くても遅くても、暴走させるには至らなかった。緊張の中で迷わず矢を放ち、そしてそれを命中させたのは、賞賛を通り越してある種の恐怖すら覚える……。

 森で狩りをしながら生きているだけの少年。

 それにしては、少々―――いやかなり、その能力は高すぎる。まるで歴戦の兵士のような、そんな決断力と技術を併せ持っている。

 その内面。その在り方だけに注視してきたザァルは、始めて少年の外面に目を向けた。

 ―――剣は使えるかと聞いた時、少年は頷いた。自分を育てた男から習ったと、そう言っていた……。

 奇妙な話だ。

 森で暮らす少年に、剣の扱いなぞ教える必要は全くない。役に立つのは弓や罠の作り方。草木が邪魔で、剣は真っ当に振り回せない。大体、あの少年は剣の一本も持っていなかった。

 彼を育てた男とやらについて、時間がなかったため詳しく聞くことは出来なかったが、どうもに得体の知れない存在である。人里遠く離れた、しかも白の惨劇の傍らにあるこの森で、幼かっただろう彼を育てるとは。今いないのは死んだからか、それともどこかへ去ったからか。解らないが、少年が一人でこんな森に残されているのはまるで、


 ―――ディプロスが落ちてくるのを、待たされていたみたいじゃないか……。


 ぞわり、と。

 己の想像に心がざわつく。

 冗談にもならないその考えを、必死で否定するザァルの心はしかし、平静を取り戻す事は出来なかった。

 全てのピースがはまっていくような奇妙な感覚に、思わず悲鳴を上げそうになったその時、沈黙していたヘルマンの声が、彼が止まる木の枝まで届いた。


「―――解った。私は全力で君を倒すと、そう宣言しよう」

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